天気が良いからとフィーナに誘われ、私は娘と二人で馬を遠乗りさせて城の近くにある草原へと訪れていた。
デルムッドやジャンヌも一緒にどうかと誘ったのだが、残念なことに二人とも今日は手が離せない用があるらしい。
よって今この場には私とフィーナの二人だけである。
今日はフィーナの言うとおり、気持ち良いくらいの晴天に恵まれていて
吹き抜ける春風も私の頬を優しく撫でていくように心地よい。部屋で仕事ばかりしていては味わえない感覚だろう。
私は感謝の意思を込めながら私の腿を枕に眠っている愛娘の髪を優しく撫でてあげる。
久々の遠乗りに疲れたのか、軽く触れてもフィーナは全く起きる様子も無い。
そんな娘を眺めながら私は軽く苦笑して、久方ぶりに思いを巡らせる。
この娘は小さい頃いつも私を枕にしてこんな風に眠っていたものだ。
少し前まではこんなに小さかった筈なのに、今ではこんなにも立派な女性となっている我が娘に
時の流れを感じさせられてしまう。
最近のこの娘のふとした表情がとてもあの方に似ていて親ながら何度か焦りもしたものだ。
あの方の娘であることを捨てたフィーナだけれど、やはり結局はあの方の娘なのだ。

「ラケシス様・・・」

フィーナの寝顔をかつて密かにお慕い申し上げた女性に重ね、気づけば誰にでもなく名前を呟く。
――ラケシス様。それがこの娘の本当の母の名前。
誰よりも美しく、誰よりも気高く、そして誰よりも優しかった女性。
視野の狭かった私の世界を広げてくれた女性。主君以外で私が槍を捧げた唯一の女性。
私の想いが叶わなかったことはフィーナの存在が示してくれる。
だけど今はそのことに少し感謝することが出来るようになった自分がいることも事実。
もし運命の歯車が一つでも重ならなければ私とこの娘の『今』は存在しえなかっただろう。
きっと娘よりも騎士である自分を優先する『らしいフィン』も在り得たのだろう。
しかし私が辿った道はたった一つ。その道を選んだことを今の私はとても誇らしく思う。
騎士としてではなく、人としての幸せを感じられる今の道を。だからこそラケシス様にはいくら感謝してもし足りない。
私はフィーナの頭を優しく撫でながら、自分自身の辿ってきた足跡に思いを馳せる。
私とラケシス様、二人の絡み合うことは無かった物語を・・・。




















貴女を想いたい
















思い出せば私とあの方が初めて出会ったのは、私がまだフィーナくらいの年頃だろうか。
ハイラインから出撃したエリオット軍を追い払い、
ラケシス様をお救いしたその日、私はキュアン様に特別任務を命じられたのだ。

「ご、護衛任務ですか?」

その任務内容はラケシス様の護衛任務であった。
私は呼ばれた部屋でラケシス様が目の前にいるにも関わらず素っ頓狂な声を上げてしまった。
動乱の状態にあるアグスティにおいてラケシス様に護衛をつけることは当然のことであったが
その当時は何故見習いの私なのかと驚きもしたものだ。
そんな私の考えを知ってか知らずか、キュアン様とエスリン様はいつも以上に笑顔を浮かべておられたこともよく覚えている。

「ああ、そうだ。彼女は私とシグルドの親友であるエルトシャンの妹であることは知っているだろう?
 そんな彼女を護衛無しでいさせる訳にはいかんだろ。これは命令だ。
 お前なら出来る!なんてったって私のフィンだからな!」

「やだ、もうキュアンったら!『私の』じゃなくて、『私たちの』フィンでしょう?」

「おお!!そうだねエスリン!!そんな訳で頼むぞフィン!
 それじゃ私たちはこれから任務で城下町を見回ってくるから何かあったら連絡するように!
 さあ行こうかエスリン!きっと今日は市場に色んな物が仕入れられてる筈だ!」

「そうね、早く行かないと売り切れちゃうわ!それじゃ、フィン、ラケシスのことよろしくね!」

そう言い残されて主君二人は意気揚々と外出なされた。私の主君夫妻は誰よりもマイペースな方々であられた。
部屋に残された私とラケシス様は言葉を失してしまい、ただただお二人が出て行くのを見守るばかりであった。

「・・・相変わらずお忙しいお二人ですわね」

突如として声を発せられたラケシス様の方を私は慌てて視線を戻した。
思えばラケシス様を直視したのはその時が初めてだった。
――とても美しい女性であられた。否、美しさだけならばエーディン様やアイラ様の方が良く似合われる表現だろう。
だが、当時の私にはそれ以外の言葉など見つからなかった。
美しさに合間見える可憐さ、そして獅子王の妹の名に恥じない気高さは『可愛い』などという表現は
失礼に当たるのではないかとさえ私に思わせたのだ。

「キュアン様もエスリン様もご多忙であられますから・・・申し訳ございません」

「どうして貴方が謝るの?・・・まあ、いいわ。私はラケシスよ。貴方はフィンで間違いない?」

「はい、レンスター槍騎士見習いのフィンと申します。
 これから先、護衛の任を受け賜りましたのでよろしくお願い致します」

私が跪いて再度頭を下げると、ラケシス様は何故か私の顔をジロジロと見つめてこられた。

「う〜ん・・・なるほどね・・・貴方が・・・」

「私がどうかしましたか?」

失礼かと思いつつも、私が思った疑問を口にするとラケシス様は『いえいえ、何でもないわ。気にしないで』とだけ仰られた。
そうですか、と私が立ち上がったところでラケシス様は突如満面の笑みを浮かべられた。そして――

「それじゃあよろしくね。ちなみに先に言っておくけど、私は貴方が気に入ってるわ。
 これから先何があっても私を守ってね。これは命令ではなくお願いよ。
 私は貴方には絶対に命令ではなくお願いしかしないからね」

そう、笑顔のままで仰られた。天使のような、本当に目に触れるのも憚られる様なそんな笑顔のままで。
最初私はラケシス様が仰った言葉の意味を深く考えようとはしなかった。『命令』と『お願い』と。
それが私とラケシス様の繋がりであることに気づけたのは大分後のことであった。
そして今更ながら言わせて貰えるならば、私はこの時に生まれて初めて恋というものをしていたのだと思う。
目の前の決して手が届かない、届けてはならない相手に身分違いの恋をしてしまったのだ。
余談ではあるけれど、後で話を聞いたところ、ラケシスはこの時よりも以前から私のことを知っておられたらしい。
以前レンスターにおられたグラーニェ様から私のことを何度か聞いていた、と教えて下さった。
グラーニェ様と言えば、エスリン様とキュアン様と一緒に私をよくからかっていた方なので、
どんなことを聞いていたのか内容を確かめることは怖くて出来なかったけれど。














それからは毎日のようにラケシス様の傍に私はいた。
ラケシス様の直属の部下であられたアルヴァ様達が城に戻られた理由もあるが、
何よりキュアン様に私は護衛の任を継続するように仰せられたのだ。
私が傍にいつまでもいてはラケシス様が気を悪くするのではと思い、
ラケシス様に許可を求めに行ったところ何故か怒られてしまったのも今は懐かしい記憶だ。
私が槍の訓練をキュアン様につけてもらうときはその横でラケシス様はエスリン様に剣や杖の訓練を受けておられた。
食事のときも多くはキュアン様達と一緒に。

――幸せだった。あの方の笑顔を傍で見られることが嬉しかった。
例え身分違いの恋だとしても、叶うことがない恋だとしても、私はあの方の傍にいることを許されていることが嬉しかった。
ラケシス様と出会い、私は初めて『騎士』としてのフィンではなく、人としての『フィン』を見つけた気がする。
ラケシス様の前でだけは、騎士ではなく、人としての喜びを抱けたのだから。
だが、そんな日々も長くは続かなかった。シルベールよりエルトシャン様がクロスナイツを率いて出撃なされたとの
報が入り、私達は出撃を余儀なくされ、今まさに戦いが始まろうとしていた。
エルトシャン様とシグルド様、そしてキュアン様が殺しあう。そのようなことがあってはならない、と
ラケシス様は必死にシグルド様を説得なされた。

「どうしてシグルド様がお兄様と戦わなければいけないのですか!?」

ラケシス様の悲痛な叫びがシグルド様の執務室に木霊する。
進軍の前夜、私はラケシス様と共にシグルド様の元へ訪れていた。その場には何故かキュアン様もおられた。

「ラケシス・・・私だって、エルトシャンと戦いたくなどないよ。彼と私は親友なのだ。止められるなら・・・」

シグルド様は大変つらそうな表情を浮かべられた。皆の前では決して見せない、本当のシグルド様の表情。

「ならば私に兄と話をさせて下さい!!きっと話せば兄だって分かって下さる筈です!!」

「それこそ馬鹿を言ってはいけない!
 エルトシャンの元へ辿り着くにはあのクロスナイツ達の中を抜けなければならないんだぞ?
 私達の主戦力は彼らと正面から戦わねばならない為、君に兵を回すことは出来ない。いくら何でも
 アグストリアの精鋭の騎士達相手に君を馬に乗せて単騎で切り抜けられるような騎士なんて・・・」

シグルド様の仰るとおりだった。エルトシャン様の率いるクロスナイツと言えば
アグストリアの騎士達の中でも優秀な者を選び抜いたエリート集団である。
そんな敵陣の中をラケシス様を守りながら駆け抜けるなど自殺行為にも等しい。
そしてラケシス様がエルトシャン様の説得をしている間、彼らの攻撃を一身に受けなければならないのだ。
自殺行為どころか最早自殺そのものとしか思えない行為。
馬鹿じゃない普通の人ならば絶対にそんなことをしないだろう。けれど・・・

「それならここにいますわ、シグルド様」

ラケシス様が視線を私の方へと向けた。
私はそれに応えるようにシグルド様の方へと一礼をする。

「フィン、か・・・しかし」

「フィンはトラキア半島一の槍の使い手と謳われるキュアン様からも認められてる程の騎士です。
 精鋭相手とは言え劣るとは思えません。
 むしろフィンの槍捌きならば分があると私は見ています。違いますか、キュアン様」

少し考え込むような素振りを見せた後、私とラケシス様の顔を見比べた後でキュアン様はふっと苦笑を浮かべられた。
きっと私とラケシス様の考えを見抜いているのだろう。そして今止めても後で絶対に命令違反を起こしても説得に行くことも。

「ああ、その通りだ。そいつは近い未来に私の右腕となる男。
 エルトシャン仕込のクロスナイツとはいえ引けをとる筈がない」

キュアン様の言葉にシグルド様は私の方を見る。
キュアン様の援護は凄く嬉しかったのだが、ランスリッターでもない平民の私にそれは言い過ぎだと思った。

「・・・フィン、君はいいのか?
 少数とはいえクロスナイツ隊を一人で相手にすることになるんだぞ?一歩間違えれば命を落としかねないんだ」

一歩間違えれば・・・否、たとえ間違えずとも命を落とすだろう。
恐らく次の戦場に出れば私は死ぬ。生きて帰ることなど出来はしないだろう。
けれど・・・ラケシス様が泣いておられた。ラケシス様が泣いて『助けて』と私を頼って下さった。
命令するでもなくただ、助けて、と。
ただ力になりたかった。ラケシス様には笑顔でいて欲しかった。
・・・ただ、それだけだった。その為に私は命を捨てる覚悟をした。私はきっと、誰よりも馬鹿だったのだ。

「シグルド様。ラケシス様は私に命令ではなくお願いをしているのです。
 命令ならば命を賭して嫌応無く任務に当たりましょう。それが例え勝ち目のない戦いであっても。
 しかしラケシス様はお願いなのです。ならば命を落としたり不可能といった頼みごとであるならば私は断っています。
 私の想いもまた、ラケシス様と同じであるのです」

「フィン・・・」

「どうかお願い致します。見習いの身分でこのようなことを言うのは失礼も承知でお願い致します。
 どうかラケシス様のお願いを聞き届けてあげて下さい。
 シグルド様やキュアン様がエルトシャン様と命を奪い合うようなことがあってはならないのです」

恥も臆面もなく私はシグルド様に土下座をした。
この場の誰もが驚いているようだが、その時の私には他に思いつく術はなかった。
少々考え込む素振りをみせられた後、シグルド様はキュアン様と顔を見合わせて苦笑された。

「・・・そうだな。分かった。ラケシス、危険は覚悟の上だね?」

「勿論です。しかし私の危険をもフィンが取り除いて下さると信じています」

「・・・フィン、ラケシスのことを頼むよ」

「はい、この槍に誓いまして」

その時、私は初めて主君を守ること以外に槍を誓った。
レンスターにおいて槍に主君、祖国以外に守りを誓うのは家族、そして愛する人だけであった。
今考えると私は臆面もなく主君の目の前で愛の告白をしたのだ。
だが、ラケシス様やシグルド様にはその意味を知らないので、
その場では唯一意味を知るキュアン様が一人笑いを堪えているだけであった。



















作戦を成功か失敗かで言うなれば、成功であった。
ラケシス様の説得に、エルトシャン様は耳を傾けられ
シグルド様達へ剣を収めてもう一度シャガール様を説得して下さると言ってクロスナイツを退却させて下さられた。
だが、その後もたらされた現実は我々にとって悲劇以外の何物でもなかった。

エルトシャン様がシャガール王に殺された。

エルトシャン様は誰よりも騎士であられた。
誰よりも純粋に主君に仕え、そして誰よりも騎士であり続け、そして死んでいった。
ラケシス様はエルトシャン様の亡骸を抱かれてその場で号泣された。その場にいた私達は何も言葉を発せなかった。
これが戦争なのか。これが現実なのか。
そして私はその時生まれて初めて騎士の在り方に疑問を抱いてしまった。
騎士とは愛する者を、愛する国を守るために戦う誇らしいモノである筈なのに。それなのにどうして。
どうして今エルトシャン様は誰よりも愛された妹君をこんなにも悲しませているのか。
これが騎士なのか。愛する人を悲しませ、親友と殺し合い、暴君に仕えるのが騎士なのか。
私は生涯を騎士で終える自分が怖くなった。
もし自分がキュアン様ではない、暴君に仕えていたら・・・そんな自分のIFを考えることが怖かった。
思えばこの時既に騎士フィンとしての在り方に綻びが生じてしまったのだろうか。






――そしてその日以来、ラケシス様は部屋に篭もり心を閉ざされた。

部屋から出ようともせず、誰とも会話することもなく、食事も満足に取らず、目の輝きも失われてしまわれた。
無理もないことだと思う。あれほどまでにお慕い申し上げておられた兄君に先立たれることがどんなに辛いことか、
幼い頃に家族を失った私には解かる。
しかし、このままでは絶対に駄目だと私は自分に言い聞かせ、何度も何度もラケシス様の部屋へと足を運んだ。
あの方が日に日に弱っていくことに耐えられなかったのだ。
何度も足を運んだけれど、ラケシス様は私と会話をして下さらなかった。
何を尋ねても、何を話しても、私の方を見ようともして下さらなかった。

そして何日も過ぎたある雨の日。それは私にとって生涯忘れられない一日となった。

「ラケシス様、起きていらっしゃいますか?フィンです。本日の食事をお持ちいたしました」

いつものように私はラケシス様の部屋に食事を運びに来たのだが、その日はいつもとは少し違っていた。
ラケシス様はベッドの上で両膝を胸の前で両腕で抱えて座られていた。
いつもならばシーツに潜られて私に顔も見せようとなさらなかったのに。

「要らない・・・」

小さく、呟くような声が部屋の中に響く。
この時私は数日振りにラケシス様の声を聴いたような気がした。

「・・・食欲が無くとも食べなければ死んでしまいます。お願いですから食事をおとり下さいませ」

「・・・別に死んだって構わないわ」

「ラケシス様!!そのようなことを・・・」

思わず怒鳴ってしまった私の方をラケシス様はキッと睨みつける。
その瞳にはまるで憎悪のような、憎しみのような、負の感情が確かに込められていた。
そのような感情をラケシス様からぶつけられるのは初めてのことで、驚きのあまり私は言葉の続きを継げなかった。

「だってそうじゃない!!!お兄様を殺したのは私なのよ!!!?
 あの時私が説得なんてしなければ少なくともお兄様が死ぬことはなかったわ!!
 お兄様を殺した私がどうして生きていられるのよ!!!どうして私だけ生きていられるのよ!!」

「違います!!エルトシャン様は決してラケシス様のせいではありません!!エルトシャン様は・・・」

「分かったような口利かないで!!何よ!!フィンはいつもいつもうるさいのよ!!
 いっつも私のこと分かった風に言って!!本当は私のこと少しも分かってないくせに!!
 貴方にとってエルト兄様が他人だからそんな風に言えるのよ!!!帰って!!部屋から出て行って!!」

涙を流されながらラケシス様がハッキリと告げられた言葉。それは拒絶の言葉。
その時私は自分が踏みしめている筈の床が崩壊しているような、そんな感覚に襲われた。
私では、ラケシス様を支えられないのか。
確かな拒絶。けれど、今この部屋から出て行くわけにはいかなかった。
ラケシス様の死などエルトシャン様がお望みになる筈はない。エルトシャン様の妹君を死なせてはならない。
『ここにいる為の理由付け』を自分の中で呟き、私はラケシス様の視線を真っ直ぐ受け止める。
ここで逃げては駄目だと分かっていたのに。今逃げては一生後悔すると分かっていたのに。

「しかし、ラケシス様・・・私は・・・」

いまだ反論する気配を見せた私の様子に、ラケシス様は手元の枕を私に投げつけた。
そして、頬に涙を伝わせながら私に告げた。それはラケシス様から私への最初で最後の『命令』。

「これはノディオンの姫としての『命令』よ!!!もう二度と私の前に顔を見せないで!!!」

剣で心臓を抉り取られるような言葉だった。ラケシス様は私に近づくなと『命令』されたのだ。
騎士である私にとってその言葉は何よりも重いものとなる。
そしてノディオンの姫としての――それはつまり、私は平民である故に口答えすら許されないのと同意。
もう私には何も出来なかった。ラケシス様を支えることも、お傍に控えることも、
影ながらお慕い申し上げることも、何一つ許されないのだ。

「・・・失礼、いたしました・・・」

やっとのことでその言葉だけを発し、私は逃げるようにラケシス様の部屋から出て行った。
そして何も考えることなく外へ。いつものように自分の部屋へと戻る為に。
宿舎の外は大雨だったけれど、そんなことは大して気にならなかった。考えることも出来なかった。
雨に打たれる自分がまるで他人事のようにさえ思えた。
――もし、私が騎士でなければラケシス様の命令に逆らうことが出来たのだろうか。
――もし、私が平民ではなければラケシス様をお慰めすることが許されたのだろうか。
情けなかった。自分の地位や身分を言い訳に逃げようとする自分が何よりも惨めで仕方がなかった。
自分を殺したいと思った。こんな自分を心から殺してしまいたいと思った。
こんな卑劣で矮小な情けない男がラケシス様を想うこと自体が不相応だったのだと。
そう言い聞かせ。自分に言い聞かせ。そうすることで、この時やはり私は逃げたのだ。














次の日に私はキュアン様に申し出てラケシス様護衛の任を解任させて頂いた。
勿論キュアン様に事情の説明を求められたが、私には答えることが出来なかった。
ただ、『申し訳ございません』としか言えなかった。
そんな私の態度にエスリン様は本気で怒られ、私の頬を力強く叩かれた。
そんなエスリン様を止めようとするキュアン様とシグルド様には大変迷惑をかけてしまったと思う。
数刻話し合いはしたものの、最後にはキュアン様は私の願いを聞き届けて下さった。
最後に一言『後悔はしないんだな?』と私に告げられた。既にしている人間がどうやって後悔など出来るのだろう。



その日の夜、私の部屋に珍しいお客様が現れた。ベオウルフ殿だった。

ベオウルフ殿とは一、二回ほど面識はあるが正直親しい間柄ではなかった。
それに、私は正直言ってベオウルフ殿の在り方に疑問を抱いていたのだ。
『自由騎士』。騎士とは主君に仕え、国の為に在る存在である。
しかしベオウルフ殿はご自信のことを自由騎士と仰った。それが私には全く理解できなかったのだ。
自由な騎士はもはや騎士ではない。金でホイホイと敵に寝返る騎士などあってはならない。
義によって成り立つ騎士にあるまじき在り方なのだ。

「おい、坊主。お嬢ちゃんの護衛の任務から逃げたんだって?」

ベオウルフ殿は私の部屋にノックもせずに入るなり、遠慮なく言葉を放つ。
どうしてこの方がそのことを知っているのか。私は思わず表情を険しくしてしまう。
しかし、ベオウルフ殿は私の顔を眺めた後、大きく溜息をついた。

「何だその顔は・・・ったく、どっちの兄貴が死んだのか分かんない様なツラしやがって。・・・まあいい。
 お前の後釜として俺がお嬢ちゃんの護衛の任務につくことになったからな。一応言っとくぜ」

彼の一言で全ての線が一本に繋がった。どおりでそのことを知っている訳である。
ラケシス様の新しい護衛の方。私が自分から辞めたのだから後釜の方が付かれるのは当然のことであった。
そんな当たり前のことが、その時の私には何よりも辛かった。

「そう・・・ですか・・・ラケシス様のこと、よろしくお願いします」

必死に表情を繕って私は頭を下げた。
ベオウルフ殿ならば、騎士や在り方に囚われないベオウルフ殿ならばきっとラケシス様の心を癒して下さるだろう。
私が頭を上げようとする刹那、ダンと背中に強い衝撃が走った。そして右肩への痛み。
一瞬何が起こったのか分からなかったが、ベオウルフ殿が私を壁に押し付けたのだ。

「な、何を・・・」

言葉を続けようとする私だったが、掴れた右肩の痛みで上手く言葉を発することが出来なかった。
それほどまでにベオウルフ殿は全力で私の肩を握られていたのだ。

「ムカつくんだよ。お前のそういう情けねーツラ見てるとよ。お前はお姫さん護るんじゃなかったのかよ!?え?
 それが今じゃこのザマかよ?それでも男かよ?女みてーに泣き寝入りしやがって。悲劇のヒーローぶってんじゃねえぞ!!」

遠慮なく私の胸を抉るベオウルフ殿の言葉に驚きと同時に不快感が込み上げてくる。
何故ベオウルフ殿に、他人に分かったようなことを言われねばならないのか。
私のことを少しも知らないくせに何のつもりなのか。
・・・笑えてくる。自分がこの時感じたことは先ほどのラケシス様の台詞に寸分違わず当てはまるのだから。

「貴方に・・・貴方に何が分かると言うのですか!?」

感情を吐露して私は激情のままに拳をベオウルフ殿へと走らせるがいとも簡単に避けられ、
逆に鳩尾に拳を突き立てられる。
あまりの衝撃に耐えられず、私はその場に方膝をついた。戦場で命のやり取りはしているものの、
これほどまでに全力で殴られたことなど久しくなかった。

「ああ弱虫なガキの考えなんざ何も分からねえよ。
 姫さんに何を言われたが知らないけどな、今のお前は格好悪いっつってんだよ。
 今ツライと思ってるのがお前だけだと思ってんのか?姫さんがお前以上に傷ついてるって考えないのか?
 甘ったれんな!!!」

胸倉を掴みベオウルフ殿は私を無理矢理立ち上がらせて言及する。
傷ついているのはラケシス様。そんなことは言われずとも分かっている。
そのつもりだった。貴方に言われなくとも分かっていると言いたかった。
けれど、言葉に出来なくて。ベオウルフ殿が言ってることに何一つ反論できなくて。
ああ、何ということはない。私はベオウルフ殿の言葉の全てを受け入れてしまってるのだ。
ラケシス様が傷ついてることなど分かっているが、それでも私は怖かった。
これ以上ラケシス様に拒まれることが怖かったのだ。だから逃げている。自分を正当化して逃げている。
だから私は黙っているのだ。卑怯者だ。臆病者だ。だから私は今もベオウルフ殿の目を真っ直ぐに見れないのだ。

「・・・ちっ、もういい。お前がそういうつもりなら俺はもう遠慮しねえ。
 お前なら、と思ったんだがな・・・どうやら俺の勘違いだったみてえだわ。
 これから先お前はもう二度とお姫様んところに近づくな。最後に一つだけ覚えとけ。
 女はな、安い同情や軽い憐憫ほど傷つくことはねーんだよ」

私を床に投げ捨て、ベオウルフ殿は私の部屋を後にした。
私には去っていったベオウルフ殿を追うことも出来ずにただその場で呆けることしか出来なかった。
だけど、これで良かったのだ。男としては臆病者だけれど、人としては最低だけれど、騎士としては最高の選択をしたのだ。
身分違いの恋も終わるだろう。ラケシス様もベオウルフ殿がきっと支えてあげられるだろう。
そして私は『騎士であるフィン』に戻るのだ。どうしてこれ以上の選択があるだろうか。
きっと私はこれから先は後悔の念と共に生きていくのだろう。情けない自分を押し殺して生きていくのだろう。
けれど、誰よりも『騎士』として生きていくのだろう。
ならばもう振り返ることなど必要ないではないか。ラケシス様と出会い人としてのフィンは生まれた。
そしてラケシス様と離れるならば人としてのフィンが死ぬのもまた道理なのだから。

全ては一時の夢。一夜の夢の中で、私は一人の妖精に恋をしたのだ。
その夢は何よりも楽しくて、そして幸せな時間だった。人と妖精が結ばれることなどないと分かっていても幸せだった。
だけど、もういい加減目覚めよう。明けない夜がないように覚めない夢などないのだから・・・











時間は驚くほどに流れるように過ぎていった。きっとそれ程に私にとっては空っぽな毎日が過ぎていったのだろう。
私はその時以来ラケシス様と一度たりとて会話をすることはなかった。
お互いが避けていたという理由もあるが、何よりもベオウルフ殿が顔を合わさないように配慮してくれたらしい。
数ヶ月の月日を経て、ラケシス様とベオウルフ殿はご結婚なされた。
二人を祝福する大勢の中に、私もまたその場にいた。このとき私は本当に久しぶりにラケシス様を見た気がする。
ドレス姿のラケシス様を拝観したとき、美しいと思った。けれど、それだけだった。
昔のような想いも、感情も、何一つ込み上げてこなかった。
そのとき私は確信した。『本当に人としてのフィンは、ラケシス様への想いは死んでしまったのだ』と。
ここにいるのは騎士でいようとする唯の人形なのだと。そのことが私は悲しかった。
その後の宴会の中で私は誰と共にする訳でもなくテラスで一人酒を酌もうとしたのだけれど、
友人のフュリー殿に気づかれ已む無く共に酒を酌み交わした記憶がある。
フュリー殿はキュアン様達を除き、唯一私の恋を知っていた人物であった。
きっとフュリー殿も私と同じ身分違いの恋をされているからこそ気づいたのだろう。
知り合ったのは何時だったか覚えていないが、フュリー殿と私は相談事が出来るような仲であった。
同じ槍使いとして訓練を共に出来たこともそのような仲になれた理由ではあるが、何よりも彼女は私に似ていると感じたからだ。
私と違い、フュリー殿の想いが通じ合えたのはフィーさんの存在が示してくれている。
フィーさんとの手合わせの最中にまさかフュリー殿と同じ槍捌きを見せられるとは流石に思わなかったが。
その後ラケシス様のご子息であるデルムッドが誕生するのはシレジアでのことであった。



そしてその後は少々空白の時間となる。
私はキュアン様達と共にレンスターに帰った為、それから数年間はラケシス様と再会することはなかった。
レンスターに帰還してすぐ私は騎士の称号を受勲された。見習い騎士から一気に上級騎士へ。
しかもランスリッターではなく、国王直属の近衛隊というとんでもない昇格であった。
その時は周りの人間に史上最年少の近衛隊だ、名誉極まりないことだと騒がれた。
私は驚き以外の感情が出せず、そんな私を見てガルフ王やキュアン様は笑われておられた。

その数ヶ月後、キュアン様とエスリン様はランスリッターを率いて幼いアルテナ様と共にシグルド様の援軍に向かわれた。
私も共にしたかったけれど、幼いリーフ様の世話を命じられ已む無く留まることにした。それが、悲劇の始まりでもあった。
その後レンスターに一つの悲報が届けられた。キュアン様とエスリン様がシグルド軍に合流する前に、
トラバント王率いるトラキア軍に襲われ戦死されたというものである。
私は泣いた。誰よりも尊敬し、誰よりも憧れた主君とその奥方の際にその場に居なかった自分を悔いた。
どうして共に戦えなかったのか、どうして無理にでも共に行かなかったのか。
私は呪った。二人の命を奪ったトラキアのトラバント王を。このような運命を定めた神を。
主君の傍で共に生死を共に出来なかった自分を。

そして悲劇は終わらなかった。
バーハラへ向かわれたシグルド様が反逆者扱いされ、非業の死を遂げたとの報が入ったのはそれより更に後のことであった。
シグルド軍に参加した人達は全て反逆者の汚名を被せられ生死不明、
生きている可能性は限りなく薄いと聞かされたとき私は体中を流れる血液が凍りつくような感覚に襲われた。
オイフェ殿が、シャナン様が、フュリー殿が、ベオウルフ殿が。私が戦いを共にした人々全てが命を落としたのだ。
どうして彼らが死ななければならないのか。
――そしてラケシス様が。あの方が亡くなったなど私は信じたくなかった。
受け入れたくなどなかった。もはや涙などとうに枯れ果てたと思っていたのに涙が止まらなかった。
主君も護れず、愛した女性も護れなかった男はどうやって生きていけばいいのだろうか。
そんな男に生きる価値などあるのだろうか。
私には最早、国やリーフ様、ガルフ王を護るといった『騎士である自分』を言い訳にするしか
生きる意味を見出すことなど出来はしなかった。



その時より更に数週間後、当時の私に奇跡というものが巡り合う。
レンスター城に一人の女性が私を訪ねてきたと兵からの報告が入り、
私は城門へと向かい、そこで信じられない方と再会する。
――ラケシス様であった。身なりはノディオンの姫だとは一目では分からないくらいボロボロであったけれど、
少しも美しさは損なわれていなかった。
恐らくバーハラの死線を多くの哀しみと共に潜り抜けてきたのだろう。
そしてここまで、レンスターまで必死に逃げ延びてきたのだ。それがどれだけ苦しかったのか、一目見るだけで理解できた。
私の顔を見るなり今までの緊張の糸が切れてしまったのか、ラケシス様は私に抱きついてお泣きになられた。
周りに人の目があったけれど、気づけば私はラケシス様を抱きしめていた。
嬉しかった。ラケシス様が生きておられたことが何よりも嬉しかった。
その後ラケシス様が落ち着かれるまで私は彼女と共にいた。ラケシス様の涙が止まるまでずっと傍で寄り添っていた。
言葉はなくても、そうしていなければならないと思ったから。
そして、ラケシス様は少しずつ語ってくださった。アルヴィス公から騙されたこと、シグルド様の最期、
どうやってここまで逃げてこられたか。・・・そして、夫であるベオウルフ殿が亡くなられたこと。
ベオウルフ殿はラケシス様を護る為に戦死なされた。
そしてラケシス様にレンスターへ落ち延びろと指示されたのもベオウルフ殿であったと教えられた。
私はこの時初めてベオウルフ殿の大きさを知った。彼は確かに騎士だった。愛する者を護る為に命を賭けたのだ。
これ以上誇り在る騎士がいるだろうか。自由騎士、彼は確かに騎士だったのだ。
その後ラケシス様はガルフ王と面会され、事情を説明された。ガルフ王もラケシス様がここに匿われるように
おっしゃられ、身分も全て隠してレンスターに滞在することになった。
・・・ただ、その時ガルフ王がラケシス様を私の妻だと勘違いされ、『フィンの屋敷に滞在するのだろう』などと言われ、
私は慌てて否定しようとしたのだけれどラケシス様は何故か了承して下さった。
どうして否定されなかったのか尋ねたところ、
ラケシス様は笑って『身分を隠すには事情を知っている人の傍の方が安心でしょう』とおっしゃられ、
私はその通りだと思い何も言えなかった。勿論後日ガルフ王に本当のことを伝えたのだけれど。
ラケシス様が私の屋敷に滞在することに反対の意は無かった。私は常に城にいるのだし、
ラケシス様に不遜を働くことなど一切無いと分かっていた。
しかし、ラケシス様が私の妻として身分を偽られることを私は強く反対した。
ラケシス様のような高貴なお方が私如きの妻であるなどと許されるはずも無い。
それにラケシス様には今は亡き愛された夫も存在する。その二人の絆を仮とはいえ私如きが踏み入れていい筈がない。
そのことでラケシス様と何度も話し合いをしたのだけれど、何故か少しも譲ってくださらなかった彼女に結局私は折れた。
意地っ張りな所は出会った頃より少しも変わられていないことに私は苦笑した。



そして私とラケシス様との仮初めの同棲生活が始まった。
当時グレイドやセルフィナ達によく『所帯を持ったんだ』等と冷やかされたものだ。
ラケシス様は身分を隠され、私の妻として家事に従事した。勿論私は必死に『そのようなことは侍女達にお任せください』と
何度も何度も懇願したのだけれど、これまた少しも聞き入れて下さらなかった。
それから毎日ラケシス様と共に過ごすようになった。
本来は私は兵の宿舎に寝泊りしてラケシス様に屋敷を渡すつもりであったのだけれど、
ある日私がワザと屋敷に帰ってこないことを知るとラケシス様は怒ってレンスター城まで訪ねてこられ、
私を引っ張って屋敷へと連れ帰って行った。そして私は手ひどく説教された。
どうも私がラケシス様に遠慮して屋敷に帰らない理由をグレイト、セルフィナ経由で知ったらしく、
『自分の屋敷なのに遠慮されるくらいなら私が出て行きます!』と怒られ、結局こちらも私が折れた形になった。

その日以来私は本当に妻を持ったかのような生活を送った。
ラケシス様と共に食事を取ったり、二人で買い物に行ったり、時には家事を共にしたり。
懐かしかった。まるで昔の私たちに戻ったようだった。
恋焦がれたラケシス様の傍にいることを許されていた、あの頃のようで。
嬉しかった。またラケシス様の傍にいられることが。ラケシス様の笑顔を見られることが。
もう二度と許されないと思っていた、それがこんな形で叶うなんて思いもしなかった。
――ああ、何と言うことはない。私は未だラケシス様に恋をしていたのだ。
だからこそ、彼女の傍にいられることが嬉しかったのだ。彼女の笑顔を望んでいるのだ。
ラケシス様への想いは『人としてのフィン』と共に死んだものだと思っていた。
けれど、生きていた。ラケシス様への想いは今もなお私の心を熱くさせた。
これが以前とは比べ物にならないくらい許されぬ恋だとは分かっていた。そして叶うことの無い恋だとも。
ラケシス様は王族であられることは変わりないが、それ以上に心の中に愛する夫、そして子供がいる。
だから私の恋は決して叶ってはいけないものだ。
けれど今はそんなことは気にならなかった。ただラケシス様を想うことが出来る、それだけで良かった。
傍にいることが出来る。、それだけで良かった。
ラケシス様が生きておられ、愛する女性の命を私が傍で護ることが出来る。それ以上の喜びがどこにあろうか。
想いが届かなくてもいい。けれど今度は逃げない。絶対にラケシス様を守り抜いてみせる。
槍への誓いが嘘ではなかったことを証明する為に。







私たちが同棲を始めて間もなく、ラケシス様がご懐妊されていることが分かった。
勿論ラケシス様とベオウルフ殿の子供である。
ラケシス様の口よりそのことを聞かされたとき、私はまるで実の子供が生まれるかのように喜んだ。
お二人の子供なのだ。喜ばない訳が無い。
そんな私にラケシス様は言い難そうにおっしゃられた。『私はこの子を産むことを許されるのか』と。
私は驚き、どうしてそんなことを言うのかと尋ねるとラケシス様は辛そうに事情を説明された。
仮とはいえ、私の妻であるラケシス様が子を産むことは即ち騎士フィンの子供だと事情を知らない人間は当然思うだろう。
本当の婚約相手でもないラケシス様がこれ以上私を束縛しても、勝手に私に迷惑をかけてもいいのだろうか。
それがラケシス様の考えであった。
悲痛な表情を浮かべるラケシス様に、私は伝えた。
『私の幸せはラケシス様の幸せです。貴女が子を成すならばそれを喜ばない筈がありません。
 私も貴女と共に生まれてくる子供の成長を傍で見守らせて欲しい』と。
その時のラケシス様の見せられた表情は今もなお忘れられない。
喜びながら頬を伝わせる涙は、それは本当に綺麗な涙であった。
翌年、皆が見守る中でラケシス様は女の子をご出産なされた。
名はナンナ。花のように可愛らしい娘になって幸せに生きて欲しいとラケシス様の願いが込められた名前であった。






それからの数年、私とラケシス様・・・否、私たちとナンナはあたかも本当の家族のように過ごした。
ナンナが生まれ、私はナンナの父親として娘の成長を実の父のように感じながら
ラケシス様と共に見守った。ナンナは日々本当に可愛らしく育っていった。
子供が生まれたことにより、ラケシス様と私は寝室を共にすることになった。
ナンナの父親代わりだからそれは当然なのだけれど、ラケシス様と同室故、数ヶ月の間、私は不眠症に悩まされることになった。
そんな日々が続いたある日、いつものように寝室でラケシス様とナンナと私の三人でベッドで寝ようとしていたときのことだった。

「フィン・・・どうしていつまでも私を怒らないの?」

ラケシス様はいつもとは少し違った様子で私に疑問を投げかけた。
部屋の明かりは消している為、表情は伺えないが、少し声が悲しそうな感じがした。

「何のことですか?ラケシス様が私に怒られるようなことなど何一つありませんよ」

ラケシス様のおっしゃる言葉に全く検討のつかない私はベッドで共に寝ているナンナの頭を撫でながら答えた。
しかしラケシス様はそんな私の返答に納得がいかなかったのか、『嘘よ』と一言だけおっしゃられた。

「だって私、ずっと昔に貴方に酷いこと沢山言っちゃったもの・・・
 お兄様が亡くなったばかりだったとはいえ、貴方を凄く傷つけたわ・・・
 それから私、ずっと謝ることが出来なくて・・・貴方と顔を合わせることも出来ずに・・・だから・・・」

ラケシス様がおっしゃられて私は初めて何のことをおっしゃっていたのか検討がついた。
それは私がラケシス様から逃げ出したあの日。
彼女の口からあの日のことが出るなんて考えてもいなかった。
きっと私だけが勝手にあの日後悔し続けていたものだと思っていたから。
ラケシス様にとってはただ護衛の騎士が変わっただけの日だとしか映っていないものだと思っていた。
彼女もまたあの日のことを気にしていてくれたことが少しだけ嬉しかった。

「・・・いいのですよ。あのときラケシス様がおっしゃられたことは全て正しかったのです。
 私は勝手に貴女の事を理解していたような気になっていました。
 その上に身分も弁えずに失礼なことばかり言ってしまいました・・・怒られるのは私の方です」

「違うっ・・・違うわっ!!私・・・私・・・あのときからずっと後悔した・・・
 貴方は私のことを思ってくれたのに、私は傷つけるようなことばかり言って・・・」

「・・・本当に違うのです。あの後、貴女の夫であるベオウルフ殿に私は怒られました。
 『今一番傷ついているのはラケシス様なのにどうして逃げようとするのか』と。
 本当にその通りなのです・・・私は自分が傷つきたくないが為に貴女から逃げ出したのです。
 貴女の言葉を逃げ道に使って、命令だからと愚かにも逃げたのです・・・
 そんな私にどうして貴女を怒る理由などあるのでしょうか・・・」

「そ、それにそれだけじゃないわ!!私、フィンに凄く迷惑かけてるわ・・・
 勝手にレンスターに来て、貴方に頼りっきりで・・・
 しかも貴方は結婚なんてしていないのに、私が勝手に束縛して・・・」

「束縛などではありませんよ。私は昔言った筈ですよ。ラケシス様の幸せが私の幸せであると。
 貴女に頼られることほど嬉しいものはありませんし、
 私は仮とはいえラケシス様の夫であることに、ナンナ様の父である自分に誇りを持っています。
 ラケシス様には感謝こそすれ怒る事など決してありえないのです。
 貴女は私に人として生きる意味を教えてくださったのですから」

言葉に偽りなど無い。全てが本心から出た言葉。私は本当にラケシス様と出会えてよかったと思う。
ラケシス様に出会わなければきっと私はからっぽのままだった。
ラケシス様と出会えて私のモノクロな世界は初めて色を持ったのだから。

「どうして・・・どうしてそんな風にいつもいつも優しいこと言うのよ・・・
 あの時、貴方の口から嫌いだって聞くことが出来たならちゃんと諦めだってついたのに・・・私、本当にバカみたい・・・」

「・・・これから先、貴女とナンナ様は私の全てを持って絶対に護ります。
 そんなことで私が貴女を傷つけた罪が許されるとも思いませんが、
 それでも私は貴女とナンナ様には幸せになってもらいたいのです。
 これは私の勝手な我侭なのだと分かっています・・・それでも、それでも私は・・・」

貴女の笑顔を誰よりも傍で見ていたい。そう願うことはいけないことなのだろうか。
異性として見られなくともいい、一人の騎士としてでもいい、それでも私は願うのだ。
誰よりも傍で、今度こそ貴方を護りたいと。
決して届かない想いでもいい。それでもラケシス様を傍で支えてあげたいと過去に彼女を傷つけた私が願うのは罪なのか。
否、罪でも構わない。ラケシス様を傷つけた罪、ラケシス様を私の妻だと勝手に虚偽した罪、全ての罪は
死して地獄の業火に焼かれ償おう。だから、今だけはラケシス様を護らせてほしい。

「・・・ありがとう、フィン・・・ごめんね、夜中に変なこと言っちゃって・・・でも、少しだけ・・・少しだけもしもの話をさせて。
 もし、あの時私の心が少しでも強ければ、貴方は私を・・・」

ラケシス様の言葉は途中で途切れ、言葉を聞き返すことも躊躇われた。
言葉の意味はよく掴めなかったけれど、一つだけ訂正したい。貴女はあの頃も充分心はお強かった。
強かったからこそ、エルトシャン様の死を真っ直ぐ受け止められたのだ。
逆に弱かったのは私なのだ。常に何かに理由をつけてラケシス様への想いから逃げていた。
そして失ってみて初めて自分の愚かしさに気づくのだ。後悔など後に立たないというのに。
ラケシス様の言葉を借りるならば、もしもの話をさせて欲しい。
もしも、あの時私の心が少しでも強ければ、私は貴女の笑顔をずっと傍で見ていられることが許されたのだろうか・・・












年月は過ぎ、ナンナが三つになったばかりの頃、ラケシス様は単身でイザークへデルムッドを迎えにいくと私に告げた。
イザークへ行くには魔のイード砂漠を越えねばならない為、私は強く反対した。
下手をすれば命を落としかねないものだと分かっていたからだ。
頼み込む私だったが、ラケシス様の決意は固く、少しも譲って下さらなかった。
長い話し合いの末、やはり私の方が折れた。
引止めしたいのは当然なのだけれど、
デルムッドが一人で寂しがってるかもしれないということを持ち出されれば私には何も言えなかった。
実の家族であるラケシス様に他人である私が家族を迎えに行くことに断固として反対するなど出来る筈がないのだ。
一つだけ『絶対に生きて帰ってくる』と約束してもらい、私は折れたのだ。
本当ならば一緒に行きたかった。けれど、私はレンスターの騎士でその頃には
現存するレンスター六将軍の一人となっており、国を出るなど出来るはずも無かった。
私にはラケシス様が無事に帰還されることをただ祈ることしか出来なかった。
ラケシス様がデルムッドと共に生きて帰ってくることを信じることしか。


――そして、出発の当日。
私はナンナと共に城門までラケシス様を見送りに来ていた。
今回のことはラケシス様の意により、ガルフ王達には言っていない為、この場には三人だけしかいない。

「本当に行かれるのですか・・・?」

ナンナを抱いたままで私は思わず言葉を漏らしてしまう。
ラケシス様は困ったような笑顔を浮かべて首を縦に振り、その意思が固いことを示された。

「ええ、ナンナは貴方がいるから安心してるけど、あの子は・・・デルムッドは一人だから。
 大丈夫よ。必ずデルムッドと一緒に帰ってくるから」

「おかあさま・・・どこかいっちゃうの?」

私の腕の中でナンナは不安そうな声を出した。
そうだ。今一番つらいのは私などではなくこの子なのだ。私がそんなな避けなくてどうする、と思わず自分を叱咤した。

「心配しないでナンナ。私はすぐに帰ってくるからいい子にして待ってて。ね?
 あんまりお父様に迷惑ばかりかけちゃ駄目よ?お父様のこと、大好きでしょ?」

「うん・・・おとうさま、だいすき」

「ナンナ・・・」

私の服をぎゅっと強く掴み、ナンナは寂しさを堪えるような仕草をみせた。
そんなナンナにラケシス様は『いい子ね』と頭を撫でてあげられた。
その際のラケシス様の表情は私に母親という存在を感じさせた。

「フィン、私が戻ってくるまでナンナのことよろしくね。仮にもお父様なんだからちゃんとナンナに愛情を沢山注いであげてね。
 リーフ様ばかりに構ってあげてたらナンナはきっと嫉妬しちゃうわよ。この娘は私の娘なんだからね」

苦笑しながら仰るラケシス様に、言葉の意味がよく分からなかった私だが首を縦に振った。
ただ、その言葉が何故か悲しく感じてしまったのは、
もしかしたらこの時ラケシス様はご自分がレンスターに戻れないことを悟っていらしたのかもしれない。
ナンナ様の視線を振り切るように馬に跨り、最後に一言だけラケシス様は私に告げられた。
その際の表情は私にとって一番脳裏に焼きついている。
笑ったラケシス様、怒ったラケシス様、喜んだラケシス様、泣いたラケシス様。
色々なラケシス様を見てきたけれど、この時のラケシス様が私にとっては一番忘れられないモノであった。
それは、笑顔だった。
――何故か、涙が出そうになるくらいの笑顔。笑っている筈なのに、笑顔を見ているのに、とても胸が苦しくなるような笑顔。

「・・・もし、無事に帰って来れたなら私は貴方に伝えたいことがあるわ。
 だから、待っていて。無事に帰ってきて、貴方の優しい笑顔を再び見られたら、
 きっと私は今度こそ素直になれる筈だから・・・」

そう告げられて、ラケシス様は出発された。ラケシス様の後姿が見えなくなるまで、
私とナンナはいつまでもいつまでもこの場に立ち尽くして見送っていた。
――その後、ラケシス様が戻ってくることはなかった。
風の噂でイード砂漠で消息を絶ったという情報が流れてくるその日まで、私がラケシス様の行方を知ることはなかった。
それが私と、花の様に愛らしく、そして強く気高き女性(ひと)との物語の終焉だった。
ナンナという宝を私に残されてラケシス様は旅立たれた。
あの方が死んだなどと思いたくはない。デルムッドやナンナを残して死ぬ筈が無い。
あの方は、二人の幸せを見届けるという最大の使命があるのだから。
だから私は仰られた通り、いつまでもお待ちしよう。ラケシス様が帰ってきて、
デルムッドやナンナを抱きしめるその日まで。そして、ナンナ――フィーナのことを頭を下げよう。
そして告げよう。貴女の子供達のおかげで、私は誰よりも幸せな人生であったと。
――私は誰よりも幸せな父であったのだと。














娘の頭を撫でながら、私は視線をフィーナの方へと向ける。
最近のフィーナは昔出会ったばかりの頃のラケシス様に本当に似ていると思う。
きっとこの娘も、いつの日か愛する男の元へ嫁ぐ日が来るのだろう。
その時がいつ来るのかは分からない。けれど、誰が相手であっても祝福してあげようと思う。
ラケシス様の娘が選んだ相手だ、きっと私が口出しするまでもなく素晴らしい人を連れてくるのだろう。
だからその時までは、私の元を離れるときが訪れるまでは私が傍で護ってあげようと思う。
ラケシス様は最後まで護れなかったけれど、この娘は護ってみせる。
この娘は私に多くの幸せを教えてくれた。きっとそれは私が一生を賭けても返しきれないものだ。
だから、せめてこの娘が望む限りは共にいようと願うのだ。
最愛の女性の娘であり、最愛の娘であるフィーナ。
お前と出会え、お前と共に生き、お前の父であり、本当に私は果報者だ。それだけは胸を張って言える。

「ん・・・・お父様」

ふと、フィーナが無意識に私の服を掴む仕草を見せ、私は懐かしさのあまり苦笑した。
この仕草はフィーナが小さい頃から見せる仕草だ。
姿は成長して大人の女性へと近づいているけれど、こういう癖は今も変わっていない。
そんな些細な発見に私は喜びを堪えきれない。
昔はアルテナ様に対するキュアン様のことを過保護だと思っていたが、何と言うことはない。
私はキュアン様よりも親馬鹿なのかもしれないなと最近よく痛感する。

「私はドコへも行かないよ。お前が望む限り、私はいつでもフィーナの傍にいるよ」

草原の風を受けながら、私は愛しい娘の温もりを感じ続けていた。

――ラケシス様、私はいつまでもお待ちしています。
この娘達と共にいつまでも貴女が帰還なされることを心待ちにしております。
帰ってきた暁には、私の親馬鹿話に付き合ってもらってもいいでしょう?
散々心配かけたのですから、それくらいしても罰は当たりません。
そして共に子供の幸せを夢見て朝まで語り明かしたいものです。
この娘達の暖かな風を貴女と共に感じたい。その日が来るのを夢見て、私はいつまでも――














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