私――シャナンが最初に見た光景は絶望だった。




トラキア軍と交戦中、何故か敵軍が突然撤退していく姿を見た時、私は敵の城が落ちたのだろうとばかり思っていた。
スカサハやラクチェを初めとして多くの兵士が疲弊により追い詰められていた為、
その時ばかりは本当に安堵の息をついたことを覚えている。

生き残った者達を従え、ミーズに帰還したとき、私は何故か場の異常な空気を感じてしまった。
ある者は号泣し、ある者は嗚咽を漏らし、またある者は頭を垂れ、またある者は剣を投げ捨て。
その状況はとてもではないが勝利した軍のモノとは思えない程だった。
己の胸中に生じる嫌な胸騒ぎを抑えながら城内へ戻ったとき、私はそこで初めてこの惨状の理由を知ることが出来た。



フィンが、死んだ。



城内にはフィンの遺体が横たわり、そこには解放軍の面々を初めとして多くの人間が集っていた。
馬鹿な。フィンが死んだなんて認められるものか。
私は現実を目の当たりにしてもまだ信じることが出来なかった。こんな現実は認めないと。
何故お前が死ぬのか。お前はトラキア統一を見届けるまでは絶対に死んではならない男ではないか。
それをこんなところで死んでどうする。
残された家族達はどうする。お前はまだフィーナやジャンヌ、デルムッドと共に生きるのではなかったのか。
ふざけるな。私は認めない。絶対に認めない。
親友に何も言わずにお前は逝くというのか。お前も私達を置いて先に逝くのか。
アイラやシグルドのように、お前もまた次世代の礎となるのが運命だったとでもいうのか。

お前は馬鹿だ。家族として、人としての幸せを願いながら、最後は騎士として死ぬなど大馬鹿者以外の何者でもない。
お前は最後まで生きるべき男だったのだ。
いつも人のことばかり考えて、自分を蔑ろにして、それなのにいつも笑っていて・・・
そんな男が幸せな生を最後まで歩めないなどそんな馬鹿なことがあるか。
何か答えてくれ、フィン・・・頼む・・・私はまだ、お前にまだ何も別れの言葉を言っていないではないか・・・
















私――フィーが最初に捕らえた心情は絶無だった。




フィンさんの遺体の傍でただ嗚咽を漏らし続けるジャンヌさん。静かに涙を流すデルムッド。
少し前までは笑いあっていたのに。とても楽しそうにお話してたのに。
もう、二人の声はフィンさんに届かない。私も涙を止めることが出来なかった。


フィンさんが死んだ。その現実が未だに私は受け止めることが出来ない。


フィンさんが死ぬなんて考えたこと無かった。
誰よりも優しくて、そして誰よりも強い大陸一の蒼い槍騎士。フィンさんはずっと一緒に最後までいるんだって疑わなかった。
でも、これが戦争。どんな人でも、戦争の前には簡単に死んでしまう。
何て悲しいんだろう。何の前触れも無く、こんなにもあっけなく。
お母様を目の前で亡くした私とは違う。私は日に日に弱っていくお母様を見てきたし、一応心の準備は出来ていた。
お母様も私に最後の言葉を下さった。悔いは無いと。
けれど、フィンさんの死を二人は目の当たりにすることも出来なかった。
それはどんなに辛いことだろう。どんなに悲しいことだろう。
悲しい。とても悲しい。
そして私は、それ以上にボロボロになってしまったフィーナが悲しい。
フィーナは泣いていなかった。ただただ、フィンさんの亡骸の前で座っているだけ。表情は何も読み取れない。
――否、何も無いのだ。感情が、何一つ無い。
目の輝きは失せ、ただただ虚空を見つめるだけ。あんなに綺麗に、あんなに美しく笑ってたフィーナの面影は
今やもう何も見出せない。それはまるでただの蝋人形のようで。
フィンさんの命を奪ってしまったことは、同時にフィーナの命を奪ってしまったと同義なのかもしれない。
今のフィーナを私はきっと支えられない。私なんかでは彼女の心を埋められない。
フィーナの全ては、フィンさんの為に在ったのだから。
戦争が憎い。あんなにも温かかったフィンさん達の幸せを一瞬にして壊してしまう戦争が。
自分が憎い。あんなにもボロボロで壊れてしまいそうな親友に何も出来ない自分の無力さが。
教えてお母様・・・私はどうすればいいの。私はどうすればフィーナを支えられるの。教えてお母様・・・
















私――レヴィンが最初に感じた感情は憤怒だった。




馬鹿野郎と叫びたかった。こんなところで寝てる場合かと殴りたかった。
だが今の私ではそんなことは出来るわけも無い。私も、『レヴィン』もまたフィンと同じように『既に死んだ存在』なのだから。
今の私はレヴィンであってレヴィンではない。
だからこそ、踏みとどまることが出来た。もし私が昔のままなら即座にぶん殴っていただろう。
お前はこんなところでは死ぬべきではなかった。最後まで生きること、見届けることこそがお前の役割だったのだ。
シグルドが、キュアンが、フュリーが、ラケシスが、ベオウルフが、そして『俺』が見届けられなかった聖戦の結末を
お前は見届ける責務があったのだ。
分かっていたのだ。この戦場で、フィンは恐らく死ぬ、と。フィンにとってここがあの日のバーハラなのだと。
けれど、私は信じたかった。フィンが運命をも変えてみせることを。フィンの想いが運命にも勝ることを。
それが結果はどうだ。結局私はフィンを見殺しにしたのと同義ではないか。
私は軍師だ。この結果を大局的に見なければならない。
一人の騎士の犠牲によってトラキア軍を退かせたのだ。それは一体何人の命を救ったことか。
そう、一つの命で多くの命を守った。そして敵は追い詰められた。それは何と素晴らしい結果だろうか。
英雄フィンの死はきっと解放軍全ての士気向上にもつながるだろう。
そのように考えるのが軍師。私にそうすることが求められるならそうしよう。
これから先、私は更に冷酷な言葉を多くの人間に吐き、多くの人間に蔑まれる指揮を執るだろう。


だが、今だけは。今だけはフィンの死を追悼させて欲しい。
誰よりも優しく、誰よりも真っ直ぐだった槍騎士の最後の旅立ちに本当の安息があらんことを――


















私――私が最初に感じた感情は――


















壊れた少女、血で染められし戦乙女


















悪夢のような、否、悪夢でしかないあの日から数日。解放軍はトラキア軍相手に完全に優勢となっていた。
その背景には勿論、トラキア軍に対し帝国軍が裏切った・・・否、切り捨てたというモノもあるが、
この優勢という戦況をもたらした一番の理由は、一人の騎士の屍である。
騎士フィンの死。それは恐ろしいまでに解放軍の戦意高揚に効果を上げた。
大陸に名を轟かせる槍騎士の死に人々は大いに嘆き、トラキアに対し復讐の炎を燃やした。
中でもレンスター軍に対するフィンの死は余りに強烈だった。
フィンはレンスター軍にとってある種セリスよりも英雄的な存在であった。
今は亡きキュアンやエスリンから寵愛を受け、ガルフ王にその力を認められ、
平民の出でありながら若くしてレンスターが六将軍の長にまで上り詰めた勇者。
それでいて、他人には優しく、誰よりも思い遣りを持ち、常に民衆のことを気にかける精神。
これだけでもレンスターの民衆に慕われない謂れが無い。
そして戦場では常勝不敗。幾度の死闘を重ね、幾度の死線を乗り越え、
槍の腕で右に出る者はいないとまで謂われた天賦の才と不断の努力。
完璧なまでの英雄像。そう、あのような悲劇でキュアンを失ったこの国において、
フィンは決して失ってはならない最後の英雄だったのだ。


だが、またしても英雄の命はここで奪われた。他の誰でもなく、忌みじくも同じトラキアの手によって。
レンスター軍の兵達は嘆きに泣いた。一人余すことなく、末端の一兵まで涙を零した。
中には最期をフィンの共とすべく後を追った兵もいた。
悲しみと絶望の嵐の後に訪れたのは、果てしなき憎悪。トラキアに対する憤怒、殺意、復讐心。
最早誰一人レンスター兵にトラキアとの和平を願う人間はいなくなった。
事実、フィンの死後、戦場で活躍したのはレンスター兵達であった。
彼等はトラキア兵を殺すことに何の迷いも抱かなくなった。自分の死さえ厭わない程に。


その影響は、軍上層部にすら現れた。
劣勢に追いやられたトラキア軍に和平を求めるべきだという穏健派の意見が少数派となってしまったのだ。
穏健派のセリス、セティに対し、リーフ、アレス、シャナンが反対の意見を唱えたのだ。
数日前までは、交戦派はリーフのみであったのだが、その状況はフィンの死によって一変してしまった。
否、せざるを得なかったのだ。
まず穏健派であるセリスとセティの意見は『無駄な戦いは避けるべき、帝国の後ろ盾の無い今、勝敗は既に決した』と
いうものだが、それに真っ向からリーフは対立した。
もしそのような措置を取ればレンスターの民の悲しみはどうするのか。
ここは向こうが降伏を唱えるまでトラキア軍を叩くべきだというのがリーフの意見であった。
その意見の根幹はフィンの死から来る感情論でもあったが、アレスとシャナンはその意見に賛成の意を表した。
シャナンもアレスもリーフの言う通り、レンスター軍の感情の高揚は抑えられるものではないと判断したのだ。
下手に押さえつければ、セリスに対し兵達が反感を持ちかねない程にレンスターの民は怒り狂っている。
最悪内部分裂の可能性だってある程に。
その悲しみと怒りの感情が伝わってか、他の軍の兵達までもが『トラキア許すまじ』という意見に染まりつつあるのだ。
最早事態はレンスター軍だけのものでは無いのだ。


交戦派の三人の意見に口を噤んだのはセティだった。彼も穏健派とはいえ、人の子である。
フィンとの繋がりはセリスよりも深いものがあった。
小さい頃より、母親であるフュリーにフィンのことは聞かされていたし、実際に会話もした。
フィンの人柄はセティにとって非常に心許せるモノであり、尊敬すべきに足るものであった。
何よりも実妹のフィーのことを実の娘のように可愛がってくれていたことに心から感謝をした。
幼き頃より父の愛情を知らなかった妹に、その温かさを教えてくれた。
そんなフィンが死に、妹が声をあげて泣いたのだ。何度も何度も彼の胸の中で泣いていたのだ。
どうしてフィンさんは死ななければいけなかったのか、と。
――そう、この場で穏健派の立場を取るのは彼がマギ団の長ゆえであり、彼一個人としてでは無かった。
もし、彼が一個人ならば間違いなく交戦派に入っただろう。いわば事実上、穏健派はセリス一人なのだ。
いくら彼が解放軍のリーダーとはいえ、無理矢理考えを押し付けることは出来る筈も無い。
毎日のように軍会議が開かれるものの、結局話はまとまらず、次の日へ持ち越しとなるのだ。
それがトラキア軍に大きな動きが無いここ数日余り続いていた。














「嫌になるな・・・」

今日も軍会議が平行線に終わった後、残った会議室でシャナンは大きな溜息をついた。
現在、部屋の中にはシャナンの他にオイフェとレヴィンしかいない。
子供達の前では決して見せないシャナンの一面でもあった。

「会議が一向に進まないことがか?」

「それもあるが・・・私とて人の子だ。どうしてもセリスの言うことに耳を傾けるのが辛い」

「トラキアへの和平・・・ですな」

オイフェの言葉に軽く首を振って肯定を表す。
先ほどの軍会議でもセリスは必死で和平の道を唱えていた。向こうには最早戦う力は無いと。
最早トラキアにとっても帝国は同じ敵であり、戦争が回避できる術が少しでもあるのならそうすべきだと。

「セリスは聖君だ。確かに王の器であり、人間としてこれ程までに素晴らしいことはない。
 言い分も確かだ。回避できる戦争へ無駄に戦力を突っ込んでもしかたないし、何より無駄な犠牲者を出す必要も無い。
 確かに正論なのだ。・・・だが、それはあくまで聖人の考えであり、王の考えだ。人としての考えではない」

「親友であるフィンの死がお前の心と考えを翳ませるか」

「私だけではない。リーフを初め、解放軍兵の多くがそう思っているさ。
 理想論だけでは人の心の陰りは消せない。どんなに和平を唱えたところでフィンの死という事実は変わらない。
 同じ変わらないならばトラキア軍を相手にし、フィンの仇を討ちたいと願うのは当然だろう」

「そんなことをフィンが望むとお前は思っていないだろう?」

「無論だ。だからこそ嫌になる。理屈では分かっていても、己の理性が感情に追いつかない。
 会議でこそ口を挟むつもりは毛頭無い。
 だがこれから先、セリスの考えが折れたとき、喜びを感じている私がそこにいるのだろうな。
 戦争を終わらせたいと願いながらも、私はトラキアとの戦を少なからず望んでいる。
 今の私は軍部にいるべきではないのかもしれん」

「若いな。帝国軍に対するアイラ達への復讐心は時間が癒してくれたが、フィンの死はそうはいくまい。
 己の目で直視した現実の友の死は、そう簡単には消えてはくれんぞ。
 それこそ復讐の為ならば地獄の業火に身を委ねたくもなる」

「それは経験論ですか、レヴィン様」

「さあて、どうかな。案外適当に思いついたことを口に出してるだけかもしれんぞ」

軽く息を吐いてオイフェはレヴィンから視線を外し、窓の外へと送る。
外では軍隊の隊列を組む訓練が行われており、解放軍の騎馬隊が現在その練に励んでいるようだ。
騎士隊、弓騎士、斧騎士、多くの隊がその修練に励む中で、一つだけ突出して隊列を素早く組む隊が存在した。
槍騎士隊、ランスリッターである。
先陣に立つ騎士の合図を下に、攻めの形、守りの形が目まぐるしく、そして素早く変動していく様子は
見る者が見れば美しさすらも感じるだろう。

「ランスリッターは頭となる英雄を失ってもなお稼動しますか。
 誰かは分かりませんが、フィン殿の後釜も彼に劣らず大変優秀なようですな。
 隊列に一糸の乱れも無いどころか、洗練してさえ見える。フィン殿は良い将を育てられた」

「ほう・・・ランスリッターの将はフィンの育てた人間か。てっきりグレイド辺りが任を与えられたかと思ったが、違ったか」

シャナンの反応とは他所に、言葉を紡いだオイフェは視線をただただレヴィンの方へと送る。
その視線は、何か相手の反応を探っているかのような、そんな鋭い視線であった。

「グレイド殿は優秀であるが、あれほどまでに兵を動かせますまい。
 ・・・違いますな。あれ程までに『フィン殿と同じ動きで』、と言った方が適切でしょう。
 あそこまでフィン殿と同じ指揮をするとなると、その者はフィン殿をずっと見てきたに違いない。
 それも何年という歳月を一時も離れることも無く。
 そしてランスリッター達が誰も反対しない、むしろ兵達が望むような将なのでしょうな。違いますかな、レヴィン殿」

「何が言いたい、オイフェ」

「何が言いたいかは既に分かって頂けてるものとは思いますが。
 ・・・率直に言わせて頂きます。ランスリッターの将にフィーナを任命したのは貴方ですね、レヴィン様」

「なんだと!?」

オイフェの言葉に、シャナンは驚きの余り思わず叫んでしまう。
それもその筈で、ランスリッターとはレンスター六将軍の長というレンスターの言わば英雄が指揮するものだ。
それをいくらフィンの娘とはいえ、実戦経験も指揮経験も乏しいフィーナに任せるなどとは前代未聞だ。

「何故フィーナにランスリッターを任せるのだレヴィン!あの娘に一団を指揮するのはまだ早すぎる!
 いくらレヴィンとはいえ返答次第では許さんぞ!!」

激昂するシャナンを尻目に、レヴィンは大きく息を吐いて視線をオイフェの元へ送る。
どちらも表情は読めない程にポーカーフェイスを貼り付けていて、何の動揺も無い。
これが軍師同士の会話なのかと他人が見れば思うだろう。

「別に隠していたつもりは無い。別段聞かれもしなかったからな。
 まあ・・・彼女と同じように幼き頃からシグルドをずっと眺めていたお前なら気付いて当然か。
 それにシャナン、お前は一体何をそんなに怒ることがある?
 この件に関してはランスリッター全員を初め、レンスターの将全ての賛同も得ている。
 加えて言えば、このことを最初に望んだのはフィーナ自身だ。
 ならば私は軍師として、それが軍にとってプラスだと判断すれば受け入れるのも当然だろう?」

「プラスだと?槍の腕も将としても未熟な子供にレンスター最強の一兵団を与えることがか?
 それが無闇に兵を殺す道に繋がることを知らぬレヴィンではなかろう!?」

「未熟か?フィーナが本当に未熟だと、そう思うのか?」

「当たり前だ!!実際フィーナが戦場において何人の兵を殺せた!?部隊の長として幾つの作戦を遂行した!?
 レンスター軍と合流し、幾多の戦場を彼等と共に歩んできたが、
 私の知る限りそんな報告はただの一つもないではないか!!
 フィーナは確かにフィンの娘で他の兵よりも知を持っているかもしれん。
 しかし実際の戦闘でそんな付け焼刃が通用するか!!」

そう。シャナンの言うとおり、フィーナは戦場において武勲を立てたということは一度たりともなかった。
戦場では常にフィンの傍に立ち、彼女は常に副官として戦争に参加してきた。
フィンの作戦に意見や提案をする役目であり、実際に敵兵と殺しあう機会などそうそう無かった。
故に兵として倒した敵の数も、将として上げた武勲もフィーナは何一つ持ち合わせていないのだ。
それがシャナンのいうフィーナの未熟であった。
睨みつけるようにレヴィンを見つめるシャナンに、仕方が無いといわんばかりに軽く肩をすくめてレヴィンは口を開いた。

「トラキア軍が誇る竜騎士隊、
 それもアリオーン直属の精鋭近衛兵団を十人同時に屠った・・・と言えば考えは変わるか?」

「なっ・・・」

レヴィンの言葉に、シャナンは思わず絶句する。
――トラキア王族直属の精鋭近衛兵団。
トラキアの竜騎士の中においても選び抜かれたエリートによって構成された戦闘集団。
このトラキア半島において知らぬ者はいない程に恐れられている竜騎士達を、しかも十人も同時に倒したと。
そうレヴィンは言ったのだ。

「お前が事情を知らぬのも無理は無い。私を初め、現場に向かった者全員にセリスとリーフが口止めを命じたからな。
 当然だ。この事実を周囲の人間が知れば周りのフィーナを見る目がどうなるかは容易に知れよう。
 フィーナはフィンの死後、アリオーンの部下十名を惨殺したのだ。
 見事なものだ。ある者は死後も亡骸を粉砕され、竜は臓腑を暴かれ、大地は鮮血で染め上げられた。
 トラキアの槍達は小娘一人の手に余るほど安くは無い。それにも関わらず、だ。
 フィンの教えか、ヘズルの血か・・・まあ、そんなことはどうでもいい。
 一つだけ言える事は、今の『アレ』はお前よりも迷い無く人の命を刈り取ることが出来る存在だ」

「馬鹿な・・・信じられん。アリオーンの直属兵を一人でだと・・・?」

「信じられんなら後でセリスやリーフにでも無理矢理問いただせばいい。
 それにお前はフィーナの指揮官としての能力も疑っているようだが、フィーナは優秀だぞ。
 既に指揮官としての才も現在如何無く発揮されている。
 お前は不思議に思わんか?何故、トラキア軍が一向に動かないのか。
 トラキア軍が斥候の為の部隊も送ってこないなどおかしいとは思わんか?」

「成る程・・・そういうことですか」

「どういうことだ、オイフェ」

先ほどまで思案顔だったオイフェは、軽く溜息をつき、苦々しくレヴィンを見つめる。
常時、誰よりも冷静な彼がこのような表情を浮かべるのは酷く珍しい光景だった。

「簡単なことですよ。
 フィーナが少数のレンスター兵を率いて、トラキアの目とも言える斥候部隊を逆に強襲しているのでしょう。
 恐らく夜営地点を探り、逃げられる前に討ち伏せる。そうですな・・・
 恐らく参加者は斥候範囲の広さを考えてもフィーナだけではありますまい。
 フィーナと共に動いても何らおかしくない、もしくはフィーナに協力を惜しまない将兵達で固められているのでしょう。
 現に最近夜になってデルムッドやジャンヌを見ていませんからな」

どうですかな、と答えを待つオイフェにレヴィンはくっ、と笑みを堪える。
この笑みは楽しくて出たものでも、嬉しくて出たものでもない。
ただただ、余りに優秀な回答に驚きの余り溢れた笑みなのだろう。

「流石はシグルド軍が誇った名軍師だな。
 フィーナ率いる一部隊は既にトラキアの目たる斥候部隊を六つ壊滅させている。
 うち三人ものトラキアの名将の首をあげた。
 共につけている将はデルムッド、ジャンヌ、サラ、ミランダ、フィーだ。
 後は精鋭のランスリッターの中でもフィンに心から陶酔していた人間を選抜して選んだ。
 人の感情とは武器だ。例えそれが負の感情であろうともな。
 フィンの仇に燃える彼等にフィーナの冷徹な指示が加わればトラキアの斥候部隊など赤子同然だろうよ」

「レヴィン!!お前は人の感情を何だと思っているんだ!!!」

「何度も言わすな。人の感情は武器だと言った。心の中より溢れ出る想いは己を動かす原動力となる。
 例えそれが平和な世の中を作るという大儀でも、愛するものの仇を討ちたいという私怨でも、
 感情という純粋な刃の輝きは何ら変わらない。
 ならば私はこの解放軍の軍師としてどうするべきだ?子供達を思い遣り、
 『もう戦場に出なくてもいい』『敵討ちなんてやめろ』とでも言えというのか?違うだろう?
 私は軍師だ。軍師は常に冷静に、軍に対し有利な戦況をもたらすべきだ。
 例えそれが人の想いを利用することであっても、私はそれを躊躇わない。
 お前は何だ。子供のように駄々を捏ね、ただただ綺麗ごとを並べて平和を唱えるだけか?
 それが王の考えか、イザークの王シャナンよ」

熱を一切感じさせない冷酷な瞳に、シャナンは言葉を失ってしまう。
そして次に浮かんだ考えは目の前の男についてだった。この男は本当にあのレヴィンなのだろうか。
歌と平和と民を愛した、あの自由奔放な男なのだろうかと。
彼の考えはまるで人間味を感じさせない、ある種において真っ直ぐすぎる正論だった。
このような発言を、以前のレヴィンはしていただろうか。

「私は迷わん。この戦争に勝たない限り、平和な世は訪れないのだ。
 甘い考えを捨てろシャナン。貴様はもう大人の筈だ。甘い考えや理想はセリスたちのような若者に任せておけばいい。
 我等大人が考えるべきことは『如何に解放軍を正義と掲げ、人々に聖戦たる様を見せ付けてこの戦争に勝つか』だ。
 父フィンが亡き後ランスリッターを継ぎ、戦場を駆け抜ける戦女神の姿は
 人々に我等が正義たらんことを示すに相応しいだろう?
 英雄の死、娘の戦い。恐らく世論は我等の味方に周り、トラキアの民にも動揺が走るだろうさ。
 そうなれば民衆の抵抗も無くなり、トラキアは堕ちたも同然だ」

「その為にも友の死も・・・友の娘も利用するのか・・・
 ふん・・・これじゃどちらが悪か分からなくなる・・・」

「悪など私がいくらでも背負ってやるさ。我等が正義は子供達が示せばいい。
 これは『子供達の聖戦』なのだからな」

返す言葉を無くし、つい口にした皮肉ですら軽く返され、最早シャナンに発する言葉は残されていなかった。
フィンの死を最大限に利用するレヴィンは間違ってはいない。英雄の死には残された者達を導くそれだけの力があるのだ。
だが、それでも。それでもシャナンは納得が出来なかった。
フィンだけでなく、残された娘達をも利用するようなレヴィンの振る舞いが。

「しかし、このことはセリス様の耳に入れておりますまい。あの方がこのような策を認める筈がありませんからな」

「トラキアが落ちた後にでも追々話すさ。セリスは少々潔癖が過ぎる節があるからな・・・優しすぎるのだ。
 奴の優しさは財産だ。だが・・・その優しさは、今は不要なのだ。全てが清廉である必要は無い。
 まあ・・・仮にセリスにフィーナの部隊の事が知られたとて、さして問題は無いがな」

「どういうことだ?」

シャナンの疑問に、それこそ愚問だとばかりにレヴィンは溜息をつく。

「簡単なことさ。フィーナにとって赤の他人に等しいセリスに・・・否、相手が誰であっても彼女は止められんよ。
 それこそ首を刎ねでもせん限りな。
 愛する家族、愛する師、愛する騎士、愛する男。己の全てを同時に奪われ、
 羅刹に身を堕とした女を止めることなど・・・誰も出来はしないのさ」

レヴィンの言葉の意味を理解したシャナンとオイフェは、苦痛に耐えるように表情を顰めた。
我が身にも覚えのある感情。主君シグルドの、誰より傍で守ってくれた伯母アイラの命を
奪われた時に我が身を貫いた復讐心。地獄の業火に身を委ねるほどの憎悪。
その炎は決して他人には癒せなかったことを知っているからこそ、
二人は口を閉じることでしかレヴィンの言に反応することが出来なかったのだ。

















レヴィン達がフィーナの部隊のことで熱論している同時刻。
当のフィーナは問題の部隊の将を一室に集めて作戦会議を行っていた。
内容は今夜トラキア斥候部隊を殲滅する作戦についてである。

「それでは作戦の集合時間は今夜九つの鐘が鳴る時間です。各自集合には遅れないようにお願いします。
 では会議を終わりますが、何か質問がある方はいらっしゃいますか?」

フィーナが椅子に座っている面々をぐるりと見渡すが、誰からも声は上がらない。
ちなみにこの作戦会議に参加している将はフィーナの他にデルムッド、ジャンヌ、ミランダ、サラ、フィーの五人である。
それぞれの将が少数の兵を持ち、その上にフィーナが大将としてこの部隊は構成されていた。
指揮官はフィーナ、副官はジャンヌである。

「ではこれで会議を終わります。本日はお疲れ様でした」

「あ、フィーナ」

会議終了を告げる挨拶を終え、部屋から出て行こうとするフィーナに、デルムッドは声をかける。
兄に声をかけられ、部屋のドアノブを既に掴んでいたフィーナはそのまま上半身だけ振り返り、笑顔をデルムッドに向ける。

「何ですか、デルムッド兄様?私今からレヴィン様に報告書を提出に行かないといけないのですが・・・」

「あ・・・いや・・・その、なんだ。余り無理はしないようにな・・・」

しどろもどろなデルムッドの言にフィーナは『まあ、兄様ったら』と苦笑で返し、そのまま部屋を出て行った。
フィーナが出て行った会議室に残った五人の表情は、誰が見ても分かるほどに、陰りを帯びていた。

「笑ってるわね、あの娘」

あからさまに納得のいかなそうな表情を浮かべたまま、ミランダは言葉を投げかける。
その言葉にデルムッドは何も反応出来ずにいた。ジャンヌも応えない。
皆分かっているのだ。あの笑顔が作られた笑顔だということが。

「全然笑ってなんかいないよ・・・あの娘は・・・フィーナはあんな風に人形みたいに笑う娘じゃなかった・・・
 フィーナは太陽みたいに・・・凄く綺麗で・・・明るくて・・・優しく笑う娘だったよ・・・あんなのフィーナの笑顔じゃない・・・」

「フィー・・・」

みんなの本音を代弁するかのように、ぽろぽろと言葉をフィーは零す。
フィーナの笑顔は人形のよう。その言葉にその場の全員が何も言うことが出来ない。
会議をまとめるフィーナ。作戦意見を求めるフィーナ。先ほど笑いかけたフィーナ。
その全てが偽りの表情だと伝わっているから。
そんな空虚で人形のような親友の様子が、フィーにとって何よりも耐え難い光景だった。

「どうして!?どうしてフィーナはまだ戦うの!?もういいじゃない!!フィーナはもう・・・頑張ったじゃない・・・
 フィンさんはもう・・・いないのに・・・死んじゃったのに・・・なのに、どうしてあんな風に無理するの・・・」

「・・・それがフィーナに残された最後の『存在意義』だからよ」

悲しげなフィーの叫びに応えたのはジャンヌだった。
それはどういうことかと、視線を送ってくるサラとミランダにも聞こえる声で、ジャンヌは言葉を紡ぐ。

「あの娘が衰弱して本当に死ぬかもしれないような状態になったの、覚えてるでしょう・・・?
 お父様が死んで・・・食事も睡眠も取らなくなって・・・ただボーっとしてる日々が続いて・・・
 誰の声も届かない、そんな状態が続いてとうとう倒れてしまったフィーナを・・・」

ジャンヌの言う言葉に当然だとその場の全員が首を縦に振った。
フィンの死後、フィーナは文字通り抜け殻のような生活を送っていた。
食事も取らない。睡眠も取らない。ただただ時間を過ごすだけの日々。
父であり、愛する男であるフィンを失ったショックは彼女をズタボロに引き裂いた。
彼女は本当の意味で生きる意味を見失ったのだ。
誰が呼びかけても、声をかけても彼女は反応しなかった。ただただ虚空を眺めては時間を過ごす日々。
否、彼女にとって世界の時間は既に止まってしまっていたのかもしれない。
そのような生活を数日続けた頃、当然のようにフィーナは倒れた。このままでは死ぬと、軍医に伝えられる程に弱りきって。
言葉を続けようとすジャンヌを制止し、デルムッドは顔を上げる。これから先は俺が言うから、と。

「このままじゃ死を待つだけだと言われたとき、俺達は怖かったんだ・・・
 フィーナが無意識にも父上を追う為に死のうとしていることは分かっていた。俺達は父上を失い、フィーナまで失うのが怖かった。
 何としてもフィーナに生きて欲しかったんだ・・・だから俺達は・・・」

言葉を区切り、デルムッドは自嘲するように息を吐いて、己を罵倒するかのように言葉を発した。

「悪魔に魂を売ったんだ・・・」

彼の言葉に、ジャンヌは思わず顔を三人から背けてしまった。
それはまるで罪悪感に押しつぶされそうな、そんな怯えきった少女のような表情だった。

「意識が朦朧としてるフィーナに伝えたよ・・・
 『父上はトラキア軍と帝国軍に殺されたんだ。その恨みを晴らさずしてフィーナは死ぬのか。
  本当にそれでいいのか。父上を本当に想うなら、娘として復讐を果たしてからでも遅くはないのではないか。
  父上を殺したトラキア軍や帝国軍達がこの世に存在し続けることを認めるのか。
  フィーナは娘としてまだすべきことがあるだろう』ってね・・・」

「デルムッド・・・」

「酷い話だろう・・・?目の前の男はさ、妹の命を救う為ならトラキア兵は何人死んでも構わないって思ってるんだ・・・
 例えトラキアの民を犠牲にしても、一人の妹に生き延びて欲しいと。トラキア兵を殺すことが、
 妹の生きる一つの拠り所になるのならばと・・・
 はは・・・最低だ・・・何がセリス様を守る騎士だ・・・これじゃ、帝国軍の将兵達と何ら変わらない・・・
 いっそ俺も父上のように・・・」

「もう止めて!!!!」

ジャンヌの悲痛な叫び声がデルムッドの言葉を妨げる。
普段冷静な彼女がここまで心乱れたことが今まであっただろうか。

「もう・・・止めて、デルムッド・・・そんなに卑屈にならないで・・・
 お父様が死んで・・・フィーナが倒れて・・・貴方まで死んでしまったら・・・私・・・」

「・・・すまん、ジャンヌ」

涙を零して言葉を紡ぐジャンヌに、デルムッドは目を瞑って謝罪する。
そう。最早彼等の傍にフィンはいないのだ。
四人の中で繋がっていた家族の絆は何よりも変えがたいものだった筈なのに。
デルムッドは先ほど彼女を悲しめた自分の発言を悔い、自然唇を噛み締めた。

「・・・フィーナは、望んでいるのでしょう?トラキア兵達を進んで殺すことを・・・
 だったら、私達は手伝うだけよ・・・例え、これが本当の正義じゃないと分かっていても・・・あの娘が望むなら・・・ね」

ミランダの言葉に、サラは首を小さく縦に振る。
二人の言葉にジャンヌは驚きを隠せなかった。彼女達は間違ったこの道を共に歩むと言ってくれているのだ。

「何故ですかミランダ様、サラ様・・・どうして貴方達までフィーナに手を貸してくれるのですか・・・
 これが正しいことではないと・・・間違っていると・・・何の解決にもなりはしないと、分かっていながらどうして・・・」

「結局ね・・・フィンの死の原因は、私達にもあるのよ・・・
 私達がフィンの言うコトを聞かなければ・・・無理矢理にでも止めていれば、フィンは生きてたかもしれないのよ・・・
 騎士の誇りだとか、生き方だとか、アルテナ様のことだとか・・・
 そんなことは関係なかったのよ。フィンの命に代えられるものなんてない。
 それが分かっていたのに、私達はフィンに協力した・・・だったら、少しでも償いたいのよ・・・
 そうでもしないと、自分自身を殺したくなるから・・・」

最後は囁くような声で語り、拳を握り締めるミランダや目を瞑ったまま俯いているサラの様子を見て
、ジャンヌはようやく彼女の想いに気付いた。
――彼女達は私達と同じなのだ。とてつもない己への憎悪。それが彼女達の胸の中を支配している。
だからこそ、フィーナと行動を共にするのだろう。
最早贖う相手のフィンがこの世に存在しないから。ならば娘に尽くすより方法が無いから。
ジャンヌは視線をフィーの方へと移した。確かにミランダやサラはジャンヌと同じくフィンが死んだ現場にいたのだ。
だが目の前の少女は違う――。

「フィーは、無理しなくてもいいのよ・・・?
 これは絶対に『間違ってること』なの。平和を勝ち取る為という大義じゃない、個人的な私怨の為の殺し合いだもの・・・
 それに今までの作戦はセリス様を通していない、いわば軍規違反の戦闘なの。
 セリス様に事がばれたら最悪独房入りだってあるのよ?
 今ならまだ抜けても大丈夫な筈だし、貴女は穏健派の立場におられるセティ様の妹でしょう?
 このことがセティ様にばれたらタダでは済まない筈よ?
 貴女はこんな戦いに参加すべきではないわ・・・フィーナが生きる為に・・・
 一人の命の為に、何人もの命を犠牲にするような・・・・そんな馬鹿げた戦いを・・・」

会議場に沈黙が訪れる。その場の誰もがジャンヌの意に賛同しているからだ。
フィーはフィンの死に直接関わってはいない。フィンはアルテナを説得に向かい、そして死んだということも後日教えられた。
冷たい言い方をすれば部外者なのだ。
この場にいる全員は汚名を被ることを承知の上でフィーナと共にトラキア兵を殺すことを覚悟している。
だからこそ、ジャンヌは言ったのだ。貴女はまだ、戻れると。
このような狂気の戦いを忘れて、大義をかざす聖戦にのみ参加することを。
しかし、フィーは俯いたまま力強く首を横に振った。嫌だと。そんなのは嫌だと。
今更一人逃げることは出来ないと伝えるように強く、ただ強く。

「私は・・・私は決めたから・・・フィーナを支えるんだって・・・
 例え私じゃ無理でも・・・フィーナの傍にいてあげるんだって・・・だから・・・だから!」

言葉を上手く続けられないフィーをジャンヌは強く抱きしめた。泣いている。妹の親友が妹を想い泣いているのだ。
泣いている。この場にいる全ての人間が心の中で泣いている。どうしようもない現実と、どうすることも出来ない己の無力さに。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。何が間違っていたのだろう。一つの糸の解れは最悪の終局を生んでしまった。
一人の英雄の死は多くの悲劇を生み出した。これも運命だったというのなら、あまりに酷ではないか。
最早この場にいる誰もが、神の存在を疑わずにいられなかった。





















歌が、聞こえる。






闇に包まれた城の一室から一つの旋律が奏でられていた。
日も落ち、暗闇に包まれた霊安室で一人の少女は楽しそうに歌を口ずさんでいた。
それは幼き頃より父が子守唄代わりによく唄ってくれていた歌。
名前も知らない、レンスターのモノではない、どこかの国の民謡歌。
彼女はその歌が大好きだった。寂しいとき、よく父がこの歌を傍で歌ってくれた。
歌う前にいつも『下手で申し訳ないが』と照れる父の表情が大好きだった。
この歌を歌うと父が傍にいるような感じがした。
どんな寂しいときも、辛いときも、父がいないときはこの歌を歌っていれば平気だった。

だから平気。今も平気。

彼女はそう胸の中で何度も何度も反芻する。そう、それは少しだけの別れ。
決して二度と会えないわけじゃない。自分ももうすぐ父の元へ逝くのだから。ただ、その前にすべき事がある。
だから彼女は歌う。ほんの少しの別れだから、歌って自分を励ますのだと。
すべきことが全て終えたら、お父様に会いに行くからと。


――九つの鐘が闇の空に鳴り響く。


始まりを告げる鐘の音。
それは今の彼女にとってようやく『ありのままの自分』を曝け出せる時間を告げる音。

「ふふ・・・早く行かなきゃ・・・お父様、もう少しだけ待っていて下さいね・・・」

彼女はそういって隣に置いてあった棺を優しく一撫でし、霊安室を後にした。
その棺は彼女が愛した父のもの。その棺は彼女が愛した男のもの。今の彼女に許された、最後の居場所。























九つの鐘と共に始まった彼等の作戦は当然のように成功を収めていた。
広範囲に散らばらせた兵士の一人が、トラキア軍の夜営地点を発見し、すぐさまフィーナに報告。
フィーナは部隊を即座に展開させ、トラキア軍の逃げ道を塞いで襲撃した。
突然の襲撃に動揺したトラキア軍は成す術も無く全滅した。
だが、一つ誤算だったのは、その野営地点の他にもう一つ部隊が存在していたことだった。
その部隊は味方全滅の報を知るや、即座にフィーナの部隊を襲撃した。
だが、それも所詮精鋭を集められたフィーナ達の敵ではなかった。

「デルムッド隊は右翼方向の敵を迎撃、サラ隊はそのまま後方待機で用心の為に伏兵に備えて下さい。
 もうすぐフィーから敵の伏兵の位置が報告される筈です。その時ミランダ隊はサラ隊の支援へと回ってください」

フィーナの冷静な指示により、突然の襲撃にも瞬間的に対応したのだ。
こうなると状況はフィーナ達に完全に傾く。魔法隊率いるミランダとサラ隊を中心とした防衛、
デルムッド隊の突撃にトラキア軍はじわじわと追い詰められていた。

「フィーナ!!敵将、ディスラー率いる竜兵達がこちらに向かってきてるわ!!」

「数は」

副官のジャンヌの声に、フィーナは表情一つ変えずに尋ねる。
敵は竜騎であり、このような強攻策が取れることはトラキア軍の強みであったが、その分予見も出来る。
フィーナ達が慌てなかったのは、追い詰められたトラキア軍がこちらの頭を狙いに来るのは充分想像が出来たからだ。

「竜の数は五!守りの薄くなったこの隊に狙いを絞った少数精鋭部隊みたい!!」

「五騎・・・分かりました。お姉様達ランスリッターは下がって下さい。
 後方に下がった後、残党兵を殲滅しつつデルムッド兄様達に伝えて。この戦は終結したと」

「・・・分かったわ。死なないでね、フィーナ」

そういい残し、ジャンヌは兵を全て下げる。
普通ならば部隊長を一人残すなど考えられない策であるが、彼等にとっては常策であった。
彼等は分かっているのだ。この場に残っても何の役にも立ちはしないと。
フィーナにとって自分たちは足手まといなのだと。
ランスリッター全てが撤退した後、フィーナの前に報告通り五騎の竜兵が舞い降りる。
そのウチ、明らかに装飾が他の兵とは違う敵将が声を発した。おそらくこの人間が指揮官なのだろう。

「貴様が噂の戦乙女か・・・たった一人で我等誇り高き竜騎士を五騎も相手にするつもりか?
 我等が怨敵である騎士フィンの娘というからどれ程の者かと思えば・・・
 どうやらレンスターの蒼騎士は娘の教育をせぬまま死んだらしいな」

くくっ、と含み笑いを浮かべる敵将を前にしてもフィーナは声を発さずただただ馬上で沈黙を保っていた。
まるで興味がないように。目の前の男の存在を認めていないかのように。

「どうした?喋る言葉も出ないか?無理も無い、私は貴様が今まで倒してきた武将とは格が違うからな。
 我が名はディスラー。トラキア王トラバント様の片腕にして腹心。我が槍は無双、受けて生き延びた敵はおらぬ」

大層な名乗りを上げるディスラーだが、目の前の少女は一向に何の反応もしない。そのことが彼の癪に障ったらしい。
つまらなさそうに掲げた槍を収め、周囲の兵たちに合図を送る。

「・・・フン。所詮は戦の経験も浅き小娘か。私がわざわざ槍を振るうまでもあるまい。
 行け兵共。こいつを殺せばこの部隊は壊滅だ。さっさと殺して父親の後を追わせてやるがよかろうよ。
 無様に犬死にしたどこぞの蒼騎士のようにな。
 ・・・いや、殺す前に少し楽しむのもいいな。ククク、聖騎士フィンの娘をこの私が直々に犯してやるのもまた一興か・・・」

彼の言葉を受け、フィーナに向けて突進を始めた四騎の兵達。
だが、ディスラーの下衆びた笑いはその数瞬後に乾いた笑みへと変貌した。
少女の槍の一閃が竜兵を一騎なぎ払ったのだ。

「な・・・」

一番先陣を切って襲い掛かっていた竜の首が飛び、
その返り血によって全身が鮮血に染まった眼前の少女に、ディスラーは言葉を失った。
――何が起きた。少女は確かに槍を一閃しか振っていない筈だ。
ならば何故。ならば何故、『その竜に乗っていた兵の首まで飛んでいるのか』――。

「どうしたの・・・?誇り高き竜騎士さん。私を殺すんじゃないの・・・?
 遠慮しなくてもいいのよ?どうぞ私を殺して頂戴・・・?死ねばお父様の元へいけるものね・・・?」

「ひぃ・・!?」

恐怖の余り声にならない悲鳴をあげるディスラーを他所に、少女は更に槍を薙いでいく。
次に狙われた竜兵の末路は更に無残なものだった。
竜の首を刎ねた後、兵は両手を薙がれ、獲物を失った後に腹部を一突き。
それらは必殺の一撃ではなく、あからさまに『遊んでいる』のだ。
事実、二人目の兵が完全に絶命するのに時間を要したのだから。

「ほら・・・早く殺してよ・・・早く私を殺さないと・・・私が貴方達を殺しちゃうわよ?
 死にたくないよね・・・死にたくないよね・・・ほら・・・頑張らないと・・・」

鮮血に染まりながらも笑顔を浮かべるフィーナに、ディスラーは己の血が凍るような感覚に襲われた。
敵は明らかに楽しんでいる。この戦いを戦争などと微塵も思っていない。敵は狩人で、己は獲物――

「ば・・・化け物があああ!!!!!」

恐怖に絶えられず、飛び掛った残りの二騎もあっけない最期を迎える。
一人は胴体を真っ二つに裂かれ、一人は顔面に穴をあけられ。
絶命する兵士の様を見ながら、目の前の少女は心から楽しそうに笑うのだ。
トラキア軍の将として多くの戦場で戦果を上げてきたディスラーであったが、
己の身体が戦場で恐怖に負けるなど初めての経験だった。

「私に触れていいのはお父様だけ・・・私を抱きしめていいのはお父様だけ・・・でも、お父様はもう何処にもいないの・・・
 死んじゃった・・・死んじゃったの・・・温かかったお父様・・・優しかったお父様・・・お父様・・・お父様・・・」

「く、くそ!!!」

ゆっくりと馬を動かし近づいてくるフィーナに、ディスラーは竜を飛ばし、上空へと駆け上がる。
恐らくこのまま戦えば死ぬと。戦場での長年の経験からか、生物としての生存本能か。
いずれにせよ、体中の細胞が彼に撤退命令を下していた。
竜が上空に飛び上がると、ディスラーは方向を定めて疾走しようとした。しかし、それを眼前で許す程、目の前の戦姫は甘くはなかった。

「逃がさない・・・」

彼女の腕から投擲された手槍が竜の両翼を貫いたのだ。
大空を翔る翼を失った竜は地上へ叩きつけられ、絶命した。
ディスラーも竜がクッションとなり、一命は取りとめたものの、足が見事に折れてしまっている。
――それはつまり、彼の人生の終焉を意味する。
足がマズイ方向に曲がり、尻餅をついたままのディスラーに馬から降りた少女は一歩一歩近づいていく。

「ひ、ひぃぃぃ!!!?」

恐怖が限界を超えたのか、ディスラーは無様に這って逃げようとする。しかし、それも無駄なこと。
逃げようとする先に再び手槍が突き刺さったのだ。その槍には『次に動けば殺す』という無言のメッセージが込められていた。

「怖いよね・・・?死ぬのは怖いよね・・・?でもね・・・貴方達はお父様を殺したのでしょう・・・?
 だったら私は教えてあげないと・・・貴方達がお父様に与えた苦しみを、ちゃんと教えてあげないと・・・
 そうでしょう?殺したり、殺されたりするのが戦争の常ですものね・・・?
 お父様だけ一人で苦しむなんて・・・死ぬなんて不公平でしょう・・・?」

「た、たすけっ・・・」

声にならない悲鳴も、彼女にとっては雑音以外の何ものでもなかった。
彼女は笑ったままで視線をディスラーに向ける。黙れと。囀るなと。お前に残された運命は死んで償うことのみだと。

「だから私決めたの・・・お父様を殺した人達を許さないって・・・私がみんな殺してあげるって・・・
 お父様をその手で殺したアルテナ様も・・・アルテナ様に従うトラキア兵も・・・帝国兵も・・・みんなみんな殺してあげる・・・」

「あ・・・」

何かを言おうとしたとき、そこでトラキアの将、ディスラーの人生の幕は閉じた。
彼女の右腕に握られた勇者の槍が、彼の首を刎ね飛ばしたのだ。
死体から吹き出る鮮血を避けようともせずに、フィーナは全身で受け止める。

「みんな殺し終わったら・・・最後に私を殺すの・・・お父様を守れなかった、愛する人すら守れなかった私自身を・・・
 生きる価値なんてない無様な私自身をこの手で殺すの・・・
 そしてお父様のいない・・・こんな空っぽな世界からお別れするの・・・
 そうでしょう?お父様のいないこんな世界に私の居場所なんてある訳ないもの・・・
 英雄フィンと共に戦場を駆け抜けたこの槍に胸を貫かれて死ぬ・・・
 返り血で汚れきった身体を捨てて私はお父様に会いに行くの・・・それはとても素敵なことだと思わない?」

そう死体に尋ねかけたとき、フィーナは何かに気付いたように彼の死体から離れ、別の場所へと移動する。
そこにはディスラーの刎ね飛ばされた首があり、その表情は恐怖に張り付いていた。
その首を見て満足そうにフィーナは微笑む。

「ああ、ごめんなさい・・・貴方、もう喋れないのよね・・・
 ふふ・・・ふふふ・・・あはっ、あははっ、あはははははははは!!!!!!」

鮮血に染まった戦乙女の笑い声が漆黒の空に響き渡った。それは心から悦びに満ち溢れた狂気の叫び。
笑い声は止まらない。閉じ込めていた感情の奔流を発散させるように。まるでこの瞬間の為だけに生きているかのように。
そして彼女は泣くのだ。狂ったように笑うその目には涙が確かに流れている。
これが彼女に許された最後の『フィーナ』。最後の『少女』。













泣くことだけが、愛する全てを失った少女に許された、最後の感情なのだから。


















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