10、5.白薔薇姉妹の教育










令に祐巳の教育を一任され、志摩子は祐巳を連れて由乃達のいる部屋の隣、資料室へと訪れていた。
向こうの部屋で仕事を教えずこちらに訪れた理由は、令の意図を志摩子はしっかりと把握していた為だ。
令は白薔薇姉妹と二人の一年生との距離を指導という形で詰めさせようとしている。
ならば、自分のするべきことは一つ。この一年生の心に不安を抱かせないように、
ゆっくりと心を開いていくこと。だからこそ、志摩子は二人っきりになれる場所へ移動をしたのだ。

「それでは祐巳さん、説明は以上だけど分からないことがあったら何でも訊いてね。
 私も隣で一緒に頑張るから」

志摩子の言葉に、祐巳は『分かりました』と笑顔で返事する。
それから数十分が過ぎただろうか。志摩子は自分が担当していた書類から一度目を離し、
隣で机上のプリントに集中している祐巳へと視線を向けた。

髪は肩より長いだろうか。真っ直ぐに伸ばした髪が、少しだけ少女を大人びているように思わせるが、
その少女の顔は愛嬌が溢れていて、綺麗と言うよりも可愛いという表現が似合うだろう。
だが、それ以上に志摩子は目の前の少女に別の感想を抱いてしまった。


――この少女は、危険だ。


それは勿論、祐巳が志摩子の命を危険に晒すという意味の危なさではない。
祐巳を初めて見たとき、志摩子は一瞬呼吸を忘れそうになった。
一年生とは思えない雰囲気を身に纏い、まるでマリア様に対峙した様な錯覚に襲われた。
そして、彼女が歳相応の笑みを浮かべた時に、絡め取られた心と身体はようやく解放された。

祐巳の空気、祐巳の存在感、祐巳の表情。その全てが志摩子の心を侵していく。
もしかしたら、自分は壊れてしまったのかもしれないと錯覚するほどに狂わされる感情。
彼女の雰囲気のなんと蠱惑的なことか。少しでも気を許してしまえば、どこまでも溺れてしまいそうな程に深い霧。
どうしてこの一年生の少女は、こんなにも私の心を掻き乱すのか。
会話らしい会話もしていないというのに、目の前の少女は恐ろしいくらいに自分の心に入り込んでくる。
志摩子を見つめる祐巳の視線が、笑顔が、その全てが志摩子を許容している。包み込もうとしている。
それはまるで、知り合う前から志摩子のことを理解しているように。それが、志摩子は何より怖かった。

志摩子は、乃梨子の存在に心から感謝した。
今、こうして平然を装えるのも、乃梨子という心の支えが存在していたからだ。
だからこそ、祐巳の空気に流されることもなく、こうして耐える事が出来たのだ。

この少女を妹にしたい等とは思わない。妹として望んだのは後にも先にも乃梨子だけ。
だが、もし仮に乃梨子よりも先にこの少女に出会っていたら。
もし、春先のように私が心に空白を空けた状態でこの福沢祐巳と出会っていたら。
何もせずとも、自分のことを理解している少女。自分の全てを包み込もうとする少女。
その先を想像し、志摩子は意味の無いIFの未来を夢想することを止めた。在り得ない。
そんな未来、決して存在などしたりしない。もしそのような未来があったとすれば、それは考えられない程の恐怖。


もし、そのような未来が存在したならば
その世界の藤堂志摩子はきっと完全に壊れてしまっているだろう。

祐巳の傍にいたい。祐巳を離したくない。祐巳と一つになりたい。

その世界の私は、きっと世界の全ての救いを、目の前の少女ただ一人に求めていただろう。


志摩子は軽く思考を振り払い、扉の向こうにいる少女に思いを馳せた。
ならば、私の友人は。島津由乃は、IFの世界の私のように、この少女に溺れてしまったのだろうか。
心に傷を負っていた由乃は、この少女に救いを求めてしまったのだろうか。
これが自分一人の勝手な妄想で終わればいい。志摩子はそう考え、視線を机に戻して再び筆を動かし始めた。












 ・・・











「それじゃ、祐巳さんとは入学式からの友達なんだ」

「はい、クラス発表のときに初めて話して、お友達になりました。
 お互いリリアン中等部からの繰り上がりだったのですが、過去に一度も同じクラスになったことはなくて」

薔薇の館から校舎へ続く道を、乃梨子と笙子は二人書類を抱えて並んで歩いていた。
現在、二人は各部活へのプリントの配布に回っていた。乃梨子の仕事を、笙子が手伝う形である。
同じ一年生ということもあってか、話題は尽きることはなかったのが、乃梨子にとって幸いだった。

「成る程。それと笙子さん、私も一年生なんだから敬語は必要ないよ。
 さっきから、笙子さん凄く言葉遣いに気をつけてるの分かるから」

「え・・・あ・・・で、ですが・・・」

笙子の様子に、乃梨子は軽く溜息をついた。
先程からそうなのだが、笙子はどうも自分に対し、上級生のように接するのだ。
言葉遣いもそうだが、何より笙子の態度。明らかに乃梨子に対し、怯えているのが丸分かりだった。

「・・・あのね、笙子さん。きっと貴女とはこれから先、山百合会で一緒になると思うの。
 笙子さんが薔薇になるかどうかは分からないけど、私とあの場所で長いこと顔を付き合わせる訳だよね。
 だったら、こんな風に堅い雰囲気のまま過ごしてもかなりツライと思わない?」

「乃梨子さん・・・」

「乃梨子でいいよ。私、中学校はリリアンじゃなかったから『さん』付けで呼ばれるのにあんまり慣れてないの。
 その代わり、私も貴女のことを笙子って呼んでいい?勿論、嫌なら止めるけど」

「い、いえっ!!全然構わないです!!えと、の、乃梨子・・・」

「うん、何?笙子」

お互いに名前を呼び合って、二人揃って笑みを浮かべた。
乃梨子は嬉しかった。いくら山百合会の人達が心許せるからといって、結局は上級生なのだ。
いくらクールな乃梨子でも、由乃と瞳子と志摩子、祥子と令の話し合う姿を見て、内心少しだけ羨ましかったのだから。

「うん、後は祐巳さんとも仲良くなりたいね。
 祐巳さんってどんな人?噂だけはよく聞くんだけど、実際会ったことはないから」

「えっと、凄く優しいかな。それと、何ていうか、不思議な人。
 きっと乃梨子も仲良くなれるよ。むしろ、後で祐巳さんからアプローチかけられるかも」

「それはちょっと怖いかなあ。祐巳さんから話しかけられたりしたら嫉妬した由乃様に怒られてしまいそう。
 なんか由乃様って、祐巳さんに関することになると沸点下がるみたいだし」

「ふふっ、そんな事言っちゃ駄目だよ。由乃様は祐巳様のことが凄く大好きなだけなんだから。
 あ、後で由乃様に文句言わないと。乃梨子は全然由乃様の言うような怖い人じゃなかったじゃないですかって」

あはは、と笑う笙子だが、ピタリと歩みを止めた乃梨子を見て、笙子もまた笑うのを止めた。
先程の笙子の台詞の中に乃梨子にとっては決して聞き逃せない内容があった。

「・・・笙子、今、何て言った?由乃様、貴女に私の事を何か言ってたの?」

「え、えっと・・・そんなこと言ったかな・・・私、覚えてな・・・ひっ!!」

言葉を言い終える前に、乃梨子は両手でガッシリと笙子の肩を掴みかかった。
先程とは完全に違う空気に、笙子はあわあわとうろたえるばかりだ。

「もしかして、さっきまで私に対する態度が変だったのはそのせい?
 何を言われたの?さあ、言ってよ。笙子は悪くないから、怒ったりしないから」

「ちょ、ちょっと待って乃梨子、こ、怖い・・・」

「笙子、私達は友達でしょ?」

笑顔でにじり寄る乃梨子に、笙子は為す術もなくただただ恐怖に震えるしかなかった。
笙子はただ心の中で由乃に謝るしかなかった。ごめんなさい、由乃様本当にごめんなさい、と。















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