11.内包された甘い毒










祐巳と笙子が山百合会の手伝いを始めて三日。
その話は学園中にゆっくりと広がっていき、特に一年生の間で大きく広まっていた。
一年の間で噂が広まっている理由は何も祐巳が一年の間で薔薇候補として有名だったからだけではなかった。
祐巳と笙子に手伝いを頼んだのが、他ならぬ黄薔薇の蕾、島津由乃からだったというのが一番の理由だった。
手伝いに選ばれた二人と由乃の仲が良いのは、周知の事実で、
一年生達は今回、二人が選ばれたのは当然由乃の妹候補としてだと考えているのだ。
だからこそ、由乃に好感を抱く一年生達の間であっと言う間に噂が広まっていった。
話題の内容は勿論唯一つ。一体どちらが由乃の妹になるのか、だ。

「まあ、椿組に流れてる噂は大体そんな感じかな。
 私にすらあれこれ聞いてくるんだもの。当事者はもっと大変なんじゃない?」

「ふふ、私は大丈夫だよ。祐巳さんが守ってくれてるから」

「私は慣れてるから気にならないけど、笙子ちゃんを無理させたくないからね。
 客寄せパンダは僭越ながらこの子狸めが引き受けましょう」

「どこにそんな人見知りしない子狸がいるの。あとパンダなのか狸なのかよく分からないし・・・
 祐巳はちょっと落ち着きすぎだよ。普通、もう少し慌てたりとかしないかなあ」

「そっかなあ・・・由乃さんと友達になった時点で、私既にパンダに一回なったしなあ。
 学園の噂に上がるのはこれが二回目だし、そろそろ熊になってもいいくらいだよね」

「意味が分からないから。しかもパンダから熊って微妙にランクダウンしてる気がする」

「それに、祐巳さんが噂に上がるのは入学式の大遅刻も合わせると三回目ね。
 普段から薔薇候補の噂に上がってたことをカウントに入れるとちょっと数え切れないけど」

「ありゃ、それじゃ私は一体何になればいいのかな。もっと凄いパンダなんて思いつかないよ。
 ・・・そうだ、思い切って山百合会にパンダ薔薇ってのを作ってみるのはどうだろう」

「・・・あのさ、何か話題が完全に逸れてるよ。もうパンダはいいってば」

祐巳の意味不明な発言に乃梨子は一人溜息をつく。
現在、山百合会の一年生三人は志摩子に頼まれ、各種プリントのコピーの為に校舎内を歩いていた。
職員室に続く廊下を、三人で話しながら歩いていると、多くの人から声をかけられる。
その多くは一年生だったのだが、それも当然だろう。現在、渦中の人物である二人に、白薔薇の蕾なのだから。
もしかすると二年後、この三人が一年生達の代を背負う薔薇様達となるかもしれないのだ。
視線を集めるのは至極当たり前の事で、その視線を振り払って三人はコピー機を目指し歩いていた。

「でも、この前から思ってたんだけど、どうして祐巳は笙子や私の事をちゃんづけで呼ぶの?
 笙子の『祐巳さん』は分かるけど、私や笙子って祐巳さんと同い年なのに『ちゃん』はおかしくない?」

「あれ、もしかして乃梨子ちゃん、嫌だった?」

「・・・そういう訳じゃなくて。ただ、気になっただけ。
 何ていうか、この学校ってそういうところに凄く厳しいイメージだったんだけど、祐巳は私の事を
 最初から『乃梨子ちゃん』って呼んでたでしょう?あれ、何でかなって」

「ん〜・・・だって、乃梨子ちゃんは乃梨子ちゃんでしょ?」

「・・・・へ?」

「だから・・・上手く言葉に出来ないんだけど、乃梨子ちゃんは乃梨子ちゃんであって乃梨子ちゃんなんだよ。
 で、笙子ちゃんは笙子さんでも笙子でもなくて私から見ると笙子ちゃんなの。だから笙子ちゃん。
 でも、由乃さんは一応年上だから由乃様なんだけど本人が良いっていうから由乃さんって・・・」

「あー・・・待って。うん、ごめん。私の質問なかったことにしてくれないかな。
 多分、私が悪かったんだと思う。うん、私が悪かったんだよね、志摩子さん」

ブツブツと呟いて乃梨子は遠い彼方へ視線を向けた。
きっと彼女の脳内では、空の彼方で天使の格好ならぬ仏の格好をした志摩子が微笑みかけてるに違いない。
その様子を祐巳と笙子は二人して不思議そうな顔で見つめ合っていた。
そして、話もそのままに三人は職員室の前まで辿り着いた。

「あ、それじゃ私がコピーしてくるから二人は待ってて。
 もし一人で持ち切れなさそうな量だったら二人を呼ぶからね」

そう言い残し、祐巳は職員室の扉の向こうへと消えていった。
その後姿を見つめながら、乃梨子はふぅ、と軽く一息ついた。

「あのさ、笙子。私、頑張る」

「・・・えええ?」

「もし白薔薇の蕾が私じゃなくて志摩子さんだったら大変なことになってた気がする。
 天然三人じゃ絶対に話が終わらないもの。きっと未だにパンダの話題が続いてるよ。
 由乃様の役割が私ってのが気に入らないけど、しょうがないもん。私達の代は、私が頑張るから」

「・・・えっと、よく分からないけれど頑張って。私、乃梨子を応援するから」

最早突っ込む気力も無い乃梨子は斜め上方向にすっ飛んだ笙子の返答に『ありがとう』とだけ応える。
流石に目の前の天然少女に対して『他人事かよ!』と突っ込む程、
乃梨子はこういうことに慣れてない訳ではない。彼女の姉は、目の前の少女を遥かに上回る天然なのだから。

「そういえば笙子、結局噂の話に戻るけど、由乃様は貴女と祐巳のどっちを妹にするのかな。
 ・・・って、その対象の人間に聞く質問でもないよね。ごめん、忘れて」

「いいよ、全然気にしないから。私は勿論祐巳さんになって欲しい。
 私を含めて皆が期待してることだし、何より私じゃ由乃様とは釣り合わないもの」

笙子の言葉に、乃梨子は思いっきり怪訝な顔を浮かべた。
乃梨子の知る限りの由乃像ならば、笙子でも十分過ぎるほどにお釣りが来るようだ。

「そうかなあ・・・まあ笙子が由乃様をどんなに好きかは分かったよ。
 じゃあ質問を変えるね。・・・笙子は由乃様の妹になりたい?」

その問いに、笙子は即答しなかった。
少し考える素振りをみせ、笙子は笑顔を見せて乃梨子に告げた。

「私は、わらしべ長者だから」

笙子から告げられた返答に、乃梨子はよく分からないといった表情を浮かべるしかなかった。
それも仕方のないことなのだ。実際、彼女の言葉の意味が乃梨子には何一つ分からなかったのだから。

















 ・・・
















三人が薔薇の館を出て行った後、残った志摩子と由乃は二人で仕事を進めていた。
各部活から集めたプリントを整理する作業を二人で行い、なんとか一区切りつくところまで終了した。
そんな訳で現在、二人は他に誰もいない薔薇の館でノンビリとお茶を飲んでたりする。

「それにしても、瞳子は今日も来ない、か。
 学校には来てるくせに、放課後休む理由を未だに何も言ってこないってのは、少し気になるわね」

「本当・・・どうしたものかしら。
 由乃さん、明日クラスで瞳子さんにお休みしている理由を尋ねてきてもらえないかしら?
 もしかしたら、部活関係が忙しくて私達に伝える暇が見つけられないのかもしれないし」

「ええ〜・・・志摩子さん、知ってるでしょ。私と瞳子が薔薇の館以外で話さない取り決めしてるって。
 その時、志摩子さん傍で見てたじゃない」

由乃の言葉に、志摩子はそういえばそんなこともあったなあ、と記憶を一年前に馳せる。
当時、由乃と瞳子が初めて会話した時に由乃がいきなり瞳子に向かって言った言葉がその原因だった。

『他人に対していつも仮面を被って接するような人間と仲良くなんかなる必要ないでしょ?』

それを発端に、二人は自分の歳も忘れたような大喧嘩を始めたのだ。
互いの姉達の尽力もあって、二人の同意で決められた取り決めが『薔薇の館以外で互いに一切干渉しないこと』。
この決まりがあったからこそ、二人はリリアン女学園で共存出来たといっても過言ではないかもしれない。

「でも、その決まりも時効じゃないかしら。
 だって、今の由乃さんは昔の由乃さんとは違うでしょう?」

「・・・まあ、ね。
 分かったわよ。明日瞳子にしっかり山百合会に参加するように伝えとくから」

「えっと・・・お休みしてる理由を尋ねるだけでいいんだけど・・・」

志摩子の言葉は、もう由乃の耳には届いていないらしい。
それに気付き、志摩子は一つ大きな溜息をつく。やはり、由乃と瞳子の間に自分は入れないらしい。

「それにしても、さっきのコピーの件なんだけど。
 あの場では何も言わなかったけど、一年生を三人も向かわせる必要があったのかしら」

「今はそれでいいと思うわ。何事もまずは慣れる事が大事だもの。
 どんな仕事でも、祐巳さんと笙子さんにはその目で確かめてもらうのが早いと思ったから」

「まあ、そう言われるとそうなんだけど。
 うーん・・・何か志摩子さんって薔薇として威厳が出てきた?」

「そんなことないわ。・・・もし由乃さんの目にそう見えるのなら、それはきっと乃梨子のおかげね。
 あの娘が私を見てくれるんだもの。だったら頑張らなくちゃ」

「はいはい、ご馳走様ご馳走様。本当に白薔薇姉妹はお熱いことで。
 妹のいない私には一生分からない気持ちね」

笑って茶化す由乃の言葉に、志摩子は表情を変える。
志摩子が尋ねるべきかどうか迷った質問。それを今、果たして口にするべきなのだろうか。
数瞬迷ったが、志摩子は結局口にすることにした。今を逃せば、その機会は当分先になってしまう気がしたから。

「・・・由乃さんは、妹を作らないの?」

「は・・・?何よ、突然ね・・・」

「突然、かしら?私はそうは思わないけど・・・
 だって、今この山百合会には貴女が連れてきた姉のいない一年生が二人もいるのよ。
 この質問が今まで出なかったのがおかしいくらいよ」

志摩子の言葉に、由乃は少し困ったような表情を浮かべて頬をかく素振りをみせる。
正直、この話題には由乃は誰にも触れて欲しくはなかった。
それがたとえ、いつかは避けて通れないと分かってる質問だとしても。

「あ〜・・・つまり、あれだ。志摩子さんは私に祐巳さんか笙子ちゃんを妹にしろって言いたい訳だ」

「違うわ。別に二人をどうしろと言ってる訳ではないの。
 私が聞きたいのは、『貴女がこれから先に妹を作るつもりがあるのか無いのか』なのよ」

「それって同じことじゃないの?私にはそう思えるんだけど」

「同じに聞こえるというのなら、由乃さんは二人『だけ』をその対象として見てるということよ。
 私は貴女の妹の対象を二人に限定なんて最初からしてないもの」

志摩子の言葉に、由乃は内心軽く舌打ちをした。
どうも、先程から志摩子の言葉が由乃の神経を逆撫でする。言葉の端々が気に入らない。
そのせいか、由乃は嫌な感覚を思い出す。それは、祐巳と出会う前の自分が溺れていた負の感情。

「・・・悪いけど、その話題はまた今度にしましょう。
 そうね、皆が居る時にでもして頂戴。二人だと、どうも言葉の全てを真に受けてしまいそう」

「・・・由乃さんは妹を作るべきだわ。誰でもいい、なんて無責任なことは言わない。
 貴女の心を支えてくれる人に、ちゃんとロザリオを渡して妹に迎え入れるの」

「ハッ・・・何を言い出すかと思えば。そろそろお節介にも程があるんじゃない?
 もう止めて。私、志摩子さんとようやく友達になれたのに、こういうことで仲違いしたくない」

「友達だから言わなきゃならないことだってあるわ。・・・私は貴女からもう逃げないって決めたもの。
 話を続けるわね。妹を作って・・・祐巳さんから、少し距離を置くべきだわ」

志摩子の口から祐巳の名前が出た瞬間、由乃はその場に立ち上がり、机越しに志摩子に掴みかかった。
その目は先程までの優しい表情をしていた由乃のものではなく、明らかに怒りの感情が読み取れるものだ。

「・・・何でそこで祐巳さんが出てくるのよ。祐巳さんは何にも関係ないじゃない」

「この三日間、貴女と祐巳さんを見てきて分かった。貴女は祐巳さんに依存し過ぎている。頼り過ぎているの。
 それはとても美しいことで・・・そして、大変恐ろしいことよ」

瞳を閉じて語る志摩子の言葉が、全て気に食わなかった。
どうしてそんなにも全てを見透かしたようなことを言うのか。何様のつもりなのか。

「関係ないくせに・・・何も関係ないくせに、私と祐巳のことに口出ししないで・・・!!
 それに私の心はもう十二分に祐巳に支えてもらってる!何も知らないくせに知った風なこと言わないでよ!
 私と祐巳は互いを分かり合ってる!それこそ姉妹なんか必要ない!私に妹なんか要らない!!」

「本当に・・・?」

「何ですって・・・?」

「本当に、祐巳さんのことを分かっているの?」

志摩子の言葉が、由乃の胸を深く抉り込む。
分かっている筈だ。出会った頃から祐巳の全てを理解し、理解してもらってる筈だ。
祐巳は由乃の心の傷を理解してくれた。心の傷を癒してくれた。心の傷を埋めてくれた。
しかし、そこで由乃の思考は途切れることになる。
自分は沢山のものを祐巳に与えられた。祐巳に沢山のモノを救ってもらった。
だが、自分は。自分自身は。

――島津由乃は、福沢祐巳の一体何を理解しているというのだろう。

考えれば考えるほど、由乃は自分が祐巳について何も知らないことに気付いた。
一年生であること。
周囲に薔薇候補として期待されているということ。
そのようなことを知っていても、果たして他の人間と一体何が違うというのだろう。

「わ、私は・・・私は・・・違う・・・違う違う違う違う!!!」

「・・・初めて祐巳さんにお会いしたとき、私は呼吸することすら出来なかったわ。
 それはまるで、聖マリア様にお会いしたかと錯覚する程に、自分自身が彼女に溺れそうになった。
 祐巳さんは、凄く良い娘よ。とても明るいし、優しく、強い娘。でも・・・私はそれだけじゃない気がするの・・・
 きっと祐巳さんはもっと心の奥に・・・」

「やめてよぉっ!!!!!」

志摩子の言葉を遮り、由乃は錯乱したかのように絶叫し、机を力の限り込めて叩いた。
その衝撃で、机の上のプリントが何枚か床へと散らばり、由乃は震える自分の身体を強く抱きしめた。

「お願いだから・・・もうやめて・・・もう許して・・・そんなの、聞きたくない・・・聞きたくないの・・・
 祐巳は、祐巳よ・・・私にとって祐巳は祐巳であればそれでいいのに・・・どうしてそんなことを言うの・・・」

その光景に、志摩子は恐怖した。
目の前の少女は、祐巳に溺れているのではない。救いを求めている訳でもない。
由乃を構成する要素そのものに祐巳が絡み付いてしまっているのだ。
志摩子は勘違いをしていたのだ。島津由乃は完全に立ち直った訳でも、福沢祐巳に救われた訳でもない。
ただ、由乃が失っていた心のパーツを祐巳が与えただけに過ぎないのだ。
きっと、目の前の少女は福沢祐巳という少女を失ってしまえばその全てが容易く崩壊してしまうだろう。

志摩子は由乃の傍により、そっと由乃を抱きとめる。
だが、少女の震えは止まらない。それは、志摩子では決して埋められない心の傷痕だった。

「ごめんなさい・・・私が今言ったことは全部忘れて頂戴。
 私では、役者不足なのね・・・逃げ続けてきた私では、大切な友達の心の傷一つ癒すことも出来ないのね・・・」

胸の中でただただ震えるだけの少女を強く抱きしめながら、志摩子は福沢祐巳という少女を畏れた。

こんなにも、危険なのか。
こんなにも、恐ろしいものなのか。
福沢祐巳という、少女が内包する甘い毒は、こんなにも人の心に入り込んでしまうというのか。
今の状態がずっと続くのならば、構わない。だが、もし祐巳が由乃の元から去っていくようなことがあったら。
否、それ以前にもし祐巳が山百合会を去るようなことがあったなら、その時、島津由乃は一体どうするのか。
もしかしたら、島津由乃という友人の行動は全て福沢祐巳の掌の上なのかもしれない。
ただの一年生に対し、その考えを志摩子はどうしても否定できなかった。

ただの仲睦まじい二人だと思えばいい。
ただのつながりの深い二人だと思えばいい。
きっと、時間が経てば二人は誰もが羨む姉妹になる。そう考えてしまえばいい。
なのに、どうしても志摩子にはその考えに至る事が出来ないのだ。
福沢祐巳の笑顔、その内包する甘い毒に一瞬とはいえ触れてしまった志摩子には。















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