12.不理解(わ)からない
朝、教室に辿り着いた由乃は鞄を机に置き、普段は決して近寄ることは無い人物の机へと向かった。
その席には由乃の目的の人物が何をするでもなく、ただぼんやりと座っていた。
やがて、その少女――松平瞳子は由乃が近づいて来たことに気付くが、決して視線を合わせようとはしなかった。
それを由乃は全然気にする素振りもなく、その少女の逸らした視線の先に移動した。
「・・・話、あるんだけど。いいかしら」
「・・・教室で話しかけるのは協定違反ではなくて?」
「うるさいわね。今更そんなの知ったこっちゃないわよ。
四の五の言わないでさっさと着いて来なさい。貴女も教室で私と会話してるところなんか皆に見られたくないでしょ」
アゴでドアを差し、由乃は瞳子が席を立つ事も確認せずに廊下へと出て行く。
その背中を見つめながら、瞳子は軽く溜息をついて由乃の後に続いていった。
・・・
「・・・ホント、馬鹿じゃありませんの?
もうすぐ朝の朝礼が始まるというのに、こんなところまで瞳子を連れ出して」
「しょうがないでしょ。そもそも、貴女だって文句は言うけど引き返さなかったじゃない。
それに、大体私だって朝礼サボってまで貴女と話なんかしたくないわよ」
教室から抜け出した二人は、屋上に繋がる階段の上で互いを罵り合っていた。
現在、二人がこんな風に余裕でいられるほど時計の針は優しく時を刻んではくれない。もうすぐ完全に遅刻の時間だ。
由乃の言葉に、瞳子は今日で何度目か分からない溜息をつくのだった。
「それで、話とは何ですの。
瞳子をこのようなところにまで連れ回してくれたからには、さぞや大変なお話があるのでしょうね」
「はあ?ないわよ、そんなの」
「っっっ!!!貴女!!本気で瞳子を馬鹿にしてるんですの!?」
「だから、話があるとは言ったけど私があるとは言ってないじゃない。
話をしなきゃいけないのは瞳子、貴女でしょ」
由乃の言葉に、瞳子はぶつけようとしていた怒りの言葉を止める。
どうやら由乃がいつものように瞳子にケンカを売っているだけではないことに気付いたからだ。
「貴女、どうして山百合会を休んでる訳?いくら部活が忙しくても、一週間も無断欠席されては困るわね。
休むときはちゃんと理由を誰かに告げて休めって小学生のときに教えてもらわなかった?」
「それを今まで散々山百合会をサボっていた貴女に言われたくはありませんわね・・・」
「同感。別に私は貴女が休もうがどうでもいいんだけど・・・志摩子さんがね、いい加減心配してるのよ。
だから今休んでる理由を私に言いなさい。そしたら私が志摩子さんに伝えてあげるから」
「・・・別に、伝えてもらうような理由なんかありませんわ。
演劇部だって関係ありませんもの。少し個人的な用があるだけ・・・そう、それだけ」
「その個人的な用って、最近ずっと薔薇の館を休まれてる祥子様となんか関係ある訳?」
由乃の問いに、瞳子は揺れることも無く『別に』とだけ返す。
ふぅん、と由乃は呟きながら、瞳子に鋭い視線を送り続ける。瞳子の言葉の意味を吟味しているかのように。
やがて由乃は軽く息をつき、その身を階下へと翻した。それはまるで子供が玩具に飽きたかのように。
「・・・深く、追求しないんですのね」
「しないわよ。そんなに泣きそうな顔してるヤツを責め立てたってしょうがないじゃない。
瞳子が休んでる間は私達で上手くやるから、なんとかその用件をさっさと片付けなさいよ」
由乃の言葉に、瞳子は思わず瞳を見開いた。
その様子を見て、由乃は楽しそうに笑って瞳子に対し言葉を紡ぐ。
「貴女、自分では何一つ表情変えてないつもりなんでしょ。
確かに外見だけなら一見どこも変わってないわ、大したものよ。流石は女優志望ってところかしら」
「なら、どうして・・・」
隠すことも無く動揺する瞳子を前に、由乃は『馬鹿ね、そんなことも分からないの?』と言い放つ。
そして、下り始めていた階段を引き返すように瞳子の元へ近づき、笑顔を向ける。
「私、貴女が嫌いだもの。
嫌いで嫌いでしょうがないから、他の人が気付けないような変化まで分かっちゃうのよ。
だから、その仮面の下の情けない顔はさっさと終わりにして、いつもの口うるさい松平瞳子に戻りなさいよ」
『乃梨子ちゃんだけじゃ口喧嘩の相手には少し物足りないもの』と告げながら、由乃は人差し指で瞳子の唇をなぞった。
呆然と立ち尽くす瞳子に『じゃあね』と手を振って由乃は階下へと降りていく。
遠ざかろうとする由乃の肩を、気付けば瞳子は掴んでいた。
掴まれた肩に一度視線を送った後、由乃はゆっくりと視線を再び瞳子の方へと戻した。
「・・・何?今日から山百合会に参加してくれる訳?個人的な用はいいの?」
「・・・構いませんわ。どうせ、瞳子では何の力にもなれないことくらい最初から分かっていたことですから。
それに貴女、最近手伝いの娘を薔薇の館に連れてきているのでしょう。話は噂で聞いてますわよ。
ならば、いつまでも紅薔薇姉妹が不在というのは少し問題がありますものね」
「へえ、何だ。最近いつも泣きそうな顔してると思ったら少しはマシな顔も出来るじゃない。
サボってた事をさっさとお姉様や志摩子さんに謝ってきなさいよ。私の分は出世払いにしてあげるから」
「別に貴女に下げる頭はありませんわ。むしろ一年分のツケを瞳子に払って欲しいくらいだもの」
違いない、と由乃は楽しそうに笑い、今度こそ階下へと降りていった。
残された瞳子は、由乃が立ち去った後もその場に佇んでいた。
「・・・何よ。いつもいつも私のことを馬鹿にして。嫌い・・・私だって大嫌いよ。
何も分かってないくせに・・・私の気持ちなんか、少しも分かってないくせに。由乃さんなんか、大嫌い」
瞳子は制服の袖で目をゴシゴシと力を入れて擦った。
別に泣いてた訳ではない。涙が出ている訳でもない。ただ、そうする必要があった。
もし女優としての松平瞳子が泣いてなくても、仮面の下の松平瞳子が涙を流しているかもしれないから。
・・・
放課後の薔薇の館は、現在少し変わった住人達になっていた。
ニ、三年生の不在で、現在薔薇の館には乃梨子、祐巳、笙子の三人しかいなかった。
志摩子は急用があると乃梨子に告げ、令は剣道部。
由乃はまだ薔薇の館に現れていない為、ここには一年生トリオしか存在しなかったのだ。
「上級生がいないと、流石に何をしていいのか分からなくなっちゃうね」
「う〜ん、でも志摩子さんからは何も指示は貰ってないし・・・流石に私達だけで勝手に仕事する訳にも」
「まあ、今は由乃さんを待とうよ。
志摩子様が急用で来られないなら、今日の指示を出すのは間違いなく由乃さんだから」
笙子と乃梨子が二人揃って『どうしよう』と相談してる間に、祐巳が三人分の紅茶を持って間に入る。
祐巳から紅茶を受け取った二人は、カップを口に運んで笑顔を見せる。感想はどうやら聞くまでもないらしい。
「それにしても、本当に祐巳さんって紅茶入れるの上手だよね。
何かコツでもあるの?」
「コツっていうか・・・慣れかなあ。半年以上もやると、これくらいは流石にね」
「祐巳って家でも紅茶を自分で入れてたんだ。
私は山百合会に入って志摩子さんに一から習うまではしたこともなかったなあ」
乃梨子の言葉に、祐巳はそれが普通だよと笑って答える。
それじゃ、祐巳さんは普通じゃないのかなと考えながら笙子は不思議そうに祐巳の顔を眺めていた。
「そういえば笙子ちゃん、仕事の方は慣れてきた?
乃梨子ちゃんが指導係だから、多分何も問題ないと思うけど・・・」
「今のところ特には問題ないよ。乃梨子、凄く丁寧に教えてくれるから」
『そう』と祐巳は笑顔で返事をして、祐巳は紅茶を口に持っていく。
そして、ほうっと一息つく。どうやら今日の紅茶の出来は自分でも会心の出来だったらしい。
「その台詞は笙子と同じように指導されてる祐巳が言う台詞じゃないと思うけど・・・
祐巳の方こそ大丈夫なの?志摩子さんに迷惑かけてない?」
「う〜ん、どうかなあ・・・仕事面は大丈夫だとは思うけど、志摩子様に迷惑をかけてないかと問われると・・・」
あはは、と苦笑する祐巳に乃梨子は軽く溜息をついた。
自分の姉が目の前の少女に占領されてるとはいえ、本人がこうでは嫉妬の一つもする気が起きない。
それは自分にとって幸か不幸か。乃梨子は祐巳の顔を見ながらそんなことを考えていた。
やがて、会話を最中に誰かが階段を登ってくる音が聞こえ、三人は会話を止めて扉の方へと視線を送った。
そして扉が力強く開かれ、二人の女性徒が彼女達のいる部屋に入室した。
「ごめん、ちょっと遅れちゃったわね。文句を言うなら瞳子に言ってね。私は少しも悪くないから」
「どうして瞳子のせいになるんですの!?
元はと言えば貴女が先生に頼まれた用事なのに、瞳子を無理矢理付き合わせたからでしょう!?」
「だから、あんなの一人でやってたら一時間はかかってたでしょ。
私が手伝えって言ってるのに貴女が一人先に薔薇の館に向かおうとするからいけないんじゃない!
貴女がさっさと承諾してればもっと早くこの場所に来られたのよ!」
「手伝わなければ瞳子はもっと早く薔薇の館に行くことが出来ましたのよ!?
それが前提条件なのに貴女って人はどうして勝手なことばっかり!!」
「どっちが勝手なのよ!?このサボリ薔薇!!今まで分の残業代を寄越しなさいよ!!」
「なっ!?全部そのままお返ししますわよ!!それは全部貴女のことじゃない!!」
突如目の前で口論を始めた二人の蕾――島津由乃と松平瞳子を見て、一年生は全員固まってしまう。
そして、いち早く意識を取り戻した乃梨子は、慌てて二人の間に割って入る。
この場で、少なくとも固まってる笙子や祐巳では二人を止められる訳がないからだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい由乃様!瞳子様!
いきなり目の前で喧嘩をされても、笙子と祐巳が困ってます!だから少し落ち着いて下さい!」
二人の間に文字通り肩を入れて止めに入る乃梨子に、二人は口を噤んで互いを睨みあう。
久しぶりに乃梨子が見た二人の並んだ姿は、やはりいつも通りの険悪そうな二人だった。
「それと遅くなりましたが、ごきげんよう、由乃様、瞳子様。
ちょっとしたトラブルがありまして、挨拶が送れたことをお許し下さい」
じと目で二人を睨む乃梨子に、由乃と瞳子は気まずそうに視線を逸らした。
そして、由乃の逸らした視線の先に祐巳と笙子がぽけーっと固まっていたことに気付き、
由乃は二人の方へと近づいていった。
「ごきげんよう、祐巳さん。笙子ちゃん。本当にごめんなさいね、怖い思いをさせたみたいで。
でも、あんなのでも一応来年の薔薇様候補だから怖がらないであげてね」
「だからっ!!貴女に言われたくはないと何度言ったら!!」
茶化す由乃の言葉に、反応してしまう瞳子だが、彼女の視界に祐巳が映った瞬間言葉を止める。
祐巳は瞳子の視線から目を逸らそうとせず、ただじっと見つめていた。その表情は、何ら変わることなく。
そして、瞳子は視線を祐巳の横へとスライドさせる。その視線に、笙子はビクッと身体を震えさせる。
「・・・私は紅薔薇の蕾、松平瞳子。貴女達が噂のお手伝いの娘達ね。
二人ともお名前は?」
「え・・・あ、い、一年菊組、内藤笙子といいます」
先程の口論している姿を直視してしまったせいか、笙子はおっかなびっくりといった様子で瞳子に答える。
だが、瞳子は気にした様子も無く、視線を一人の女性徒から逸らそうともしない。
瞳子の質問に未だ答える素振りも無く、ただじっと虚空を見つめているかのように視線を瞳子に固めた少女に。
「・・・聞こえませんでしたの?貴女、お名前は?」
「・・・祐巳。福沢祐巳」
まるで幼い子供のような返答をする祐巳に、由乃は思わず視線を向ける。
そこには、姿こそいつもの祐巳とは変わらないが、何故だか違和感を覚える少女の姿があった。
いつものような強さが消え、それはまるで、震えている小動物のようにすら由乃には感じられた。
「貴女ね・・・まだ学校にも通っていない子供じゃないんですのよ?
相手に言葉を伝えるときはしっかり話しなさい。ほら、貴女のお名前は?」
再び同じ質問を繰り返す瞳子に、祐巳は再度沈黙を続けた。
そこで、由乃は気付く。祐巳は、震えていた。身体を震わせ、視線は机に落としている。
それこそ今にも子供のように泣き出してしまいそうな程に、顔は青ざめてしまっている。
その様子に先に気付いたのか、笙子は祐巳の顔を覗き込み、驚いた表情を浮かべている。
恐らく、数ヶ月の付き合いである笙子ですら、このような祐巳を見たのは初めてだったのだろう。
瞳子が再び言葉を発しようとした瞬間、由乃は祐巳を後ろから抱きしめた。
腕を祐巳の胸の前で交差させ、後ろから首に手を回して身体を包むように抱きかかえ、視線を瞳子の方へと向ける。
「そこまでよ。祐巳さんが怯えてるわ。
初めて会う下級生の娘に威圧するなんて何考えてるのよ貴女。失礼だわ」
「・・・別に威圧なんかしてませんわ。ごめんなさいね、祐巳さん。
そんなつもりは無かったのだけれど、どうやら怖がらせてしまったみたいね。謝るわ」
瞳子の言葉に、首をブルブルと振るだけで祐巳は未だに言葉を発そうとしない。
それどころか、由乃の腕をぎゅっと強く掴み、由乃から離れようとすらしないのだ。
「由乃様と瞳子様がいきなり口論なんかするからいけないんです。それで本当に上級生ですか。
祐巳や笙子を怖がらせないで下さい。次に同じことをしたら祥子様と令様に言いますから」
乃梨子の容赦ない言葉に由乃と瞳子はグッと口を噤んだ。
正論過ぎて乃梨子に何一つ反論が出来なかったのだ。
「・・・乃梨子ちゃんの言う通りだわ。今回は私達が悪い。そうでしょ瞳子」
「・・・ですわね。本当、これではどっちが上級生だか分かりませんわ」
バツが悪そうに席につく瞳子と由乃に、乃梨子は深い溜息をついた。
どうしてこんな時に限って志摩子さんはいないのだろう。もしかして自分は不幸を溜め込む性質なのか。
そんなことを思っていたとき、由乃が志摩子の不在に気付いたのか口を開く。
「そういえば志摩子さんは?頼まれた通り瞳子を引っ張ってきたんだけど」
「お姉様は今日は急用が入ったそうで来られません。
ですので、今日の仕事の指示を由乃様か瞳子様に伺いたいのですが」
「ええ〜・・・志摩子さん休みなの?志摩子さんが休みなら何も出来ないわよ。
という訳で今日の仕事は無し。のんびりしてましょ」
「・・・貴女、本当にどうして薔薇の蕾なのか疑いたくなりますわね。
乃梨子ちゃん、昨日までは何をしてたのか教えて頂戴」
由乃の意見を一蹴し、瞳子は乃梨子から昨日まで志摩子が指示して行っていた仕事の内容の説明を受ける。
その間、文句を言いながらも由乃は未だ腕の中にいる祐巳の状態を気にかけていた。
どうやら震えは収まったらしく、由乃に笑顔を向けて『ありがとう』と小さな声で告げてきた。
その笑顔に満足したのか、由乃は腕をそのままに頬を祐巳に摺り寄せる。
まるで猫のような仕草に、祐巳はくすぐったいような反応を見せるが、由乃にされるがままにしていた。
「それじゃ、今日はお二人の指導の続きを中心にしましょう。
それでは笙子さんは乃梨子さんから、祐巳さんは・・・って、貴女達、何をイチャついてますの」
「え?可愛い後輩とのスキンシップだけど。
何?瞳子もしたい訳?駄目よ、祐巳さんも笙子ちゃんも私専用なんだから。他を当たりなさい他を」
そういって隣の笙子まで引き寄せて最高の笑顔で瞳子に言った。
それが余りにいい笑顔過ぎた為、瞳子は怒りを通り越して呆れ顔を由乃に見せたが、由乃は一向に気にしなかった。
「・・・祐巳さんと笙子さんが貴女専用なのは分かりましたから、話を聞きなさい。
今日は祐巳さんの指導係だった志摩子さんが不在でしょう。ですから、祐巳さんの指導係は瞳子がしますわ」
「反対。志摩子さんがいないなら、祐巳さんの指導は今度こそ私がするわ。決定」
「貴女じゃ指導が務まらないから令様は志摩子さんと乃梨子ちゃんに任せたんでしょう?
・・・それに、瞳子はまだ祐巳さんや笙子さんのことを全然知らないもの。これはいい機会でしょう?」
瞳子の言葉に、由乃は反論を封じられてしまう。
令が二人の指導係を由乃以外にさせている理由を、瞳子は完全に見抜いているからだ。
ならば、瞳子と触れ合う為にも、ここは当然瞳子に指導係を任せるべきだろう。
だが、由乃は頷くことは出来なかった。
彼女の腕の中の少女は何故か瞳子に怯えている。理由は分からないが、確かに恐怖しているのだ。
乃梨子の言うように、口論してる姿に怖がっていたという可能性もあるかもしれないが、
由乃はその可能性を完全に否定していた。祐巳が他人の喧嘩などであのように震える筈が無いと理解していたからだ。
・・・いや、何かが違う。由乃は自分の中で歯車が上手く噛み合わないのを感じていた。
本当に、この少女は瞳子に怯えていたのだろうか。瞳子自身に恐怖していたのだろうか。
それなら山百合会の誘いなど断ればいい筈だ。手伝いをせずとも由乃との縁は切れたりしないのだから。
ならば、何か。目の前の少女は一体何に怯えているのか。それは、瞳子が関係することなのか。
由乃の脳裏に、先日志摩子から告げられた言葉が反芻される。
『本当に、祐巳さんのことを分かっているの?』
そんなの分かる筈がない。完全に互いの事を分かり合っている人間などいやしない。
友達でも、親友でも、兄弟でも、親子でも。互いの事を分かっているなど在り得ないのだ。
だが、志摩子が伝えたかったことは本当にそういうことなのだろうか。
文字通り、相手を理解しているかどうかだけを志摩子は尋ねたかったのか。
ならば、それは必要ない。分かる必要もない。互いが互いを求め合うなら、それでいい。
だが、拙い。
由乃は己の中で大きな警告音が鳴っているのを感じた。
この『不理解(わ)からない』は駄目だ。これはきっと、後で大変なことになる。そう何故か感じた。
祐巳に対する己の不理解。何だ。何処だ。一体何処が不具合の原因だ。一体祐巳の何が。
福沢祐巳は一体何に恐怖していた。瞳子?瞳子と喧嘩している私?瞳子と話している私?瞳子と■■する私?
探れ。一度は答えに近づいた筈だ。もう少し、もう少しで辿り着ける筈だ。目の前の少女の抱く違和感に――
「大丈夫だよ」
それは、とても小さな声。
だが、それは誰よりも由乃の耳に届く声。
由乃の視線の先には、いつものように笑っている少女があった。
「大丈夫だから。私、もう瞳子様を怖がったりしないから。だから大丈夫」
その言葉に、由乃は先程までの己の思考を完全に分断された。
祐巳が大丈夫と言っている。ならば、大丈夫なのだろう。この少女はそういう娘だ。
彼女の笑顔が、由乃の思考の全てを溶かす。祐巳が大丈夫だと言っているなら、自分のすべき事は彼女を信じるだけ――
「瞳子様、先程は見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。
大変迷惑をおかけしますが、本日はご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします」
そう言って、祐巳は軽く頭を下げた。
その姿は完全にいつもと同じ福沢祐巳だ。元気な祐巳。笑っている祐巳。いつもの祐巳。
由乃はその姿を見て、祐巳から離れて自分の席へと戻り、瞳子の話に耳を傾け直した。
由乃には、もう歯車の音は聞こえない。
歯車の異常音は油によって緩衝される。祐巳の笑顔、祐巳の姿、祐巳の声。
甘美な潤滑油は入り込む。由乃の心に歯車に。もう歯車の音は、聞こえない。
『不理解(わ)からない』が、分からない。