14.ジョーカー










瞳子は心底苛立っていた。それはもう見事なまでに、それこそ表情にすら出るほどに。
だが彼女が何に苛立っているかを、周囲の人々は毛頭尋ねるつもりもなかった。
いや、尋ねる必要がないのだ。彼女を苛立たせている原因なんて、誰が見ても分かりきっていたからだ。

「動いちゃ駄目よ、笙子ちゃん。今が一番楽しいところなんだから」

「は、はい」

瞳子を苛立たせている原因。
それは仕事を放り出し、瞳子の目の前で後輩の髪を弄って遊んでいる島津由乃だった。
瞳子の苛立ちに最初に気付いた乃梨子が由乃に小さい声で指摘しても、由乃は一向に聞く耳を持たなかった。
笙子の髪を編み込んだり、結んでみたり、分けてみたりと由乃は笙子で先程からずっと遊んでいるのだ。
苛立ちが頂点に着ているのか、瞳子は握ったシャープペンを震えさせている。
それに気付いた志摩子がオロオロと由乃と瞳子を交互に見るが、由乃は一向に気に介さない。
そして、笙子の髪を優しく撫でてトドメの一言を放つのだ。

「ホント、笙子ちゃんの髪は柔らかくてふわふわしてて気持ち良くて最高ね。お持ち帰りしたいくらいだわ。
 ・・・どっかの性悪ドリルの髪質とは大違い」

「っ!!!!!」

堪忍袋の尾が切れるどころか、限界点を突破してしまった瞳子はガタンと音を大きく鳴らし、その場に立ち上がる。
そんな瞳子の様子を何ら気にすることなく、由乃は笙子の髪を弄り続けていた。

「由乃さん、貴女は一体この薔薇の館に何をしに来ているんですの!?」

「はあ?そんなの決まってるじゃないのよ。
 お姉様と、志摩子さんと、乃梨子ちゃんと、笙子ちゃんと、祐巳さんに会いに来てるのよ」

「その前に薔薇として他にするべきことがあるでしょう!?」

ワザとらしく瞳子の名前を入れず、挑発する由乃に瞳子は更に声を荒げてくってかかる。
瞳子の絶叫を真正面から受けてしまい、すくみ上がる笙子に由乃は
『怖くないから大丈夫よ』と子供をあやすようにして満面の笑みを向ける。それが更に瞳子の機嫌を悪化させた。

「すべきことって何よ。大体、私の分の仕事なら大半は昼休みに終わったじゃないの。
 どっかの誰かさんのおかげで終わっちゃったものね。しかもその仕事には誰かさんの分の仕事も入ってたものね。
 私の大切な昼休みの時間だったのに、締め切りが近いからって理由だけで私の昼休みを奪ったのよね。
 だったら、昼休みのロスタイムを私は今使用する権利があるわ。だから今は笙子ちゃんで遊ぶの」

「先に瞳子に仕事を手伝わせたのは貴女でしょうが!
 もう、遊ぶのだったら一人で外にでも行ってなさい!!
 貴女がそうやって笙子ちゃんを離さないから笙子ちゃんまで何も出来ないでいるのよ!?」

「それじゃ何もする必要ないわ。
 笙子ちゃんの分の仕事は私が後で手取り足取り教えてあげるもの。
 たまには指導係の乃梨子ちゃんにも休息は必要だわ」

「いや、別にそんなことは・・・んむう!?」

即座に否定しようとした乃梨子の口を手で塞ぎ、由乃は万事解決とばかりに瞳子に笑顔を向ける。
先程のやりとりに志摩子は由乃が瞳子に対して不機嫌である理由を納得した。
つまり、由乃は今日の昼休みに瞳子から急な仕事を任せられ、
そのせいで祐巳達と一緒に過ごせなかったことを根に持っているのだ。

「ほら、いい加減になさい!笙子ちゃんも由乃さんに一々付き合わないの!」

瞳子から無理矢理笙子を引き剥がされ、由乃はつまんないとばかりに不機嫌を前面に押し出した。
ちなみに由乃から引き剥がされ、席に座らせられた笙子は現在ヘアスタイルがツインテールとなっており、
ふわふわとしてやわらかな彼女の髪には少々ミスマッチに見えた。
ちなみに現在由乃がここまで不満を漏らすのにはもう一つ理由がある。それは福沢祐巳の不在だった。

「つまんないなあ・・・祐巳さんはいないし、瞳子はうるさいし、瞳子は鬱陶しいし、瞳子はうるさいし。
 志摩子さん、祐巳さんっていつ頃くらいに戻ってくるの?」

「ちょっと貴女!人に向かって鬱陶しいなんて失礼ですわよ!?
 あとうるさいって二回も言わなくても結構よ!!」

「・・・そうね、おそらくまだかかると思うわ。一時間はかからないと思うのだけれど」

そうかあ、と目の前で吼える瞳子を無視して、由乃は一人溜息をついた。
現在、福沢祐巳がこの場所にいない理由は志摩子が先程お使いを頼んだからだ。
志摩子の頼みを承諾した祐巳は一人薔薇の館を発ち、今に至るという訳だ。
由乃はその後に瞳子と二人で薔薇の館を訪れた為、二人は擦違いになってしまったのだ。
という訳で、今日は由乃はまだ一度も祐巳と会っていないことになる。
休日ならまだしも、学内で祐巳とこんなに会えない時間が長いのは、由乃にとって初めてのことだった。

「あーもー・・・祐巳さんどころか笙子ちゃんまで瞳子は私から取り上げるのね。
 二人がいないなら、私は一体誰を玩具にすればいいのよ・・・」

「誰も玩具にしなくともいいから、さっさと残った仕事を片付けてしまいなさい。
 大体、今は令様が部活で忙しいからその分貴女が頑張らなければならないのよ」

「令ちゃん、今日は遅れるだけで来るそうよ。だから別にいいじゃない」

「そんな訳ないでしょう!?」

再び始まった瞳子の説教に耳を貸さず、由乃は一つ小さなアクビをして首を軽く回した。
自由奔放な由乃を見て、笙子は何となく由乃様はまるで猫みたいだなあ等と、そんなどうでもいい感想を抱いたりした。
そして、由乃がその首を回した視線の先に、一人の少女の視線とぶつかり合った。白薔薇の蕾、二条乃梨子。

「・・・乃梨子ちゃん、ちょっとこっちに来なさい」

「嫌です」

誘いを一言で突っぱねられ、由乃は明らかに不満そうな表情を浮かべる。
その表情を見て何か確信を得たのか、乃梨子は無言で席から立ち上がり、そそくさと志摩子の後ろへと移動した。
二人の行動に全く理解が出来ない志摩子は、一人不思議そうな表情を浮かべていた。

「乃梨子ちゃん、前から思っていたのだけど貴女はもう少し姉離れをすべきだわ。
 いつもそんな風に志摩子さんとベッタリで果たして貴女はそれでいいのかしら?否。断じて否。
 来年には後輩が入ってくるのよ?再来年には志摩子さんはもういないのよ?
 そのいつか来るべき日に備えて、今から姉離れをすべきだと私は思うのよね」

「余計なお世話です。私達の事は結構ですから、由乃様こそ祐巳離れでもして下さい」

「嫌よ。私、祐巳さんがいないと生きていけないもん」

「だったら私だって嫌です。大体、由乃様と祐巳は姉妹でも何でもないじゃないですか。
 もし祐巳が由乃様の前に姉を連れてきたらどうするんですか?ちゃんと祐巳離れ出来るんですか?」

「愚問だわ。何の為に私がいつも昼休みに祐巳さんの教室に行ってると思うのよ。
 残念だけど祐巳さんと笙子ちゃんに悪い虫は一切近寄らせないわ」

「・・・貴女、本物の馬鹿ですわね」

「・・・祐巳も笙子もリリアンなのにスールを作れずに終わりそうね」

ふふんと自慢気に語る由乃に、瞳子も乃梨子も心底あきれ返った。
由乃の発言が冗談だと分かったなら笑って済ませられるのだが、彼女の目は思いっきり本気と書いてマジだった。
最早一年生達に祐巳と笙子は由乃のお手つきということを知らない生徒は居ない程に、
三人のことは噂で流れている為、確かに由乃のいうように祐巳達を妹にしようという人間はなかなかいないのかもしれない。

「話が逸れてるわよ。私は乃梨子ちゃんの問題を話しているの。
 さあ、今すぐ志摩子さんの傍から離れて私の傍に来なさい。ちゃんと愛を込めて遊んであげるから。
 実は乃梨子ちゃんの髪って前から興味あったのよね。凄くサラサラしてそうだし」

「馬鹿言わないで下さい。
 飢えたライオンが入ってる檻に自ら進んで身投げするような真似をどうして私がしなくてはいけないんですか。
 いいから由乃様は仕事の続きをしてて下さい」

「・・・あ、そうか。乃梨子ちゃんが来てくれないのなら私がいけばいいんじゃない」

「ちょっ!?だから来ないで下さいって!!きゃあああ!!志摩子さん、助けてっ!!触られるっ!!!」

「えっと・・・髪を触られるくらいなら別にいいんじゃないかしら」

「はーい、姉公認。それじゃ次は乃梨子ちゃんのヘアードレッサーの時間の始まりね」

「た、助けっ・・・瞳子様、瞳子様っ!!」

「・・・もう勝手にしてて頂戴。笙子ちゃんは私が面倒見てますわ。
 それと由乃さん、騒ぐなら別の場所でお願い出来るかしら。笙子ちゃんの邪魔になりますの」

「そうね、それはいけないわね。
 それじゃ乃梨子ちゃん、向こうの部屋でちょっと先輩との愛のコミュニケーションを取りましょうか」

「いやっ、密室は嫌ああああああ!!!」

嫌がる乃梨子に抱きつき、由乃は嬉々として隣の部屋へと移動する。
なお、いつの間に来ていたのか、その光景を入り口で呆然と眺めていた令は、志摩子に視線で尋ねる。『何事?』と。
そして、現状を全く理解出来ていない志摩子は令の視線にただただ首を傾げるだけだった。
















 ・・・

















志摩子からプリントを渡され、祐巳は校門の前でキョロキョロと周囲を見渡して人探しをしていた。
薔薇の館で、志摩子から頼まれた内容は、プリントをある人に渡して欲しいというものだった。
ただ、祐巳はその頼まれた用事に少々疑問があった。
第一に、祐巳はこのプリントを誰に渡すのかを祐巳は聞いていない。すなわち、知らないのだ。
その人物は誰かという質問に、志摩子は『向こうに祐巳さんの特徴を伝えてあるから分かると思う』と答えるだけだった。

祐巳は再度周囲を見渡すが、下校中の知らない生徒ばかりで、誰に渡せばいいのか全く検討がつかない。
結局、向こうが見つけてくれるまで待つしかないと考えた祐巳は、はふぅと軽く息をつき、手に持ったプリントを見つめる。
書かれている内容はそんな大したことではない。
次期イベントの開催日時が記されたこの学校の生徒なら誰もが貰うようなプリントだ。
つまり、これを渡す人物はリリアンの生徒ではないのかもしれない。そうなると祐巳にはお手上げだった。

プリントから目を離し、祐巳はこのプリントを渡した人物に思いを馳せる。
――藤堂志摩子。祐巳の、もう一人の親友『だった』少女。今はただの、リリアンの先輩。
祐巳は、志摩子が自分から距離を置いていることに気付いていた。
いや、距離を置いているのではない。時には明らかに祐巳を探るように凝視している時すらあった。
その度に、祐巳は泣きたくなった。祐巳の知っている藤堂志摩子はもういないのだとその度に痛感させられた。
だが、諦めるつもりは毛頭無かった。最初に会った時、由乃だって自分の知る島津由乃とは違っていた。
それが今では、祐巳と以前のように笑いあえるような仲にまでなれたではないか。以前と同じような、二人の姿に。
だから、時間をかければ何とかなる。きっと時間をかければ志摩子さんも。きっと、『元の』志摩子さんに戻る。
そう、少しずつ時間をかければいい。無くしたモノは戻らない。だから、新しく作ってしまえばいいのだから。

「ぎゃうっ!?」

――瞬間、祐巳は背後から誰かに思いっきり抱きしめられた。
考え事に没頭していた為、誰かが後ろにいることに祐巳は全く気付かなかったのだ。
急いで振り払おうと考えた祐巳だが、身体が全く動かないことに気付いた。
否、動かないのではない。動けないのだ。その身体を包む温かさを、失いたくなかったから。

「あはは、何それ。怪獣の赤ちゃん?」

そして、耳元から聞こえてくる懐かしい声。
その声は祐巳の心を酷く動揺させた。それは、もう二度と聞けないと思っていた声だったから。
それは、いつも祐巳の事を守ってくれていた人の声。それは、いつだって祐巳を元気にしてくれた人の言葉。

『愛しているよ、祐巳ちゃん。君とじゃれあっているのは、本当に幸せだった』

これは幻ではないのか。自分の寂しい心が生み出した都合のいい幻想ではないのか。
そっと自分の身体に回された手を取り、祐巳はその人の確かな体温(ぬくもり)を確認する。
祐巳はそっと後ろを向き、祐巳を抱きしめた人物の姿を確認する。それは、決して幻なんかじゃない。

「や。初めまして、かな。福沢祐巳ちゃん」

「聖・・・・さま・・・・どう、して・・・」

祐巳の視線の先には、彼女の思い出そのままの人物が楽しそうに笑みを浮かべて祐巳を見つめていた。
もう二度と会えないと思っていた元白薔薇――佐藤聖、その人が。
















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