16.世界の迷子










本日の山百合会の活動を終え、薔薇の館は静けさに包まれていた。
先程まで人で溢れていたこの場所は、今や由乃と瞳子の二人しか残っていなかった。
最初、祐巳が志摩子のお使いから帰ってくるまで全員で待っていようと考えていたのだが、
笙子が『それをすると祐巳さんは凄く嫌がると思う』という提案により、由乃だけが残ることになった。
そして、瞳子も帰宅の準備を終え、薔薇の館から出ようというところである。

「それでは先に帰りますけど、本当に構わないんですのね」

「はいはい、ちゃんと鍵閉めはやっておくから心配しないでよ」

瞳子の言葉に、由乃は手をひらひらとさせて適当に返答する。
その様子に瞳子は少しムッとしたものの、いつものことなので取り立てて口にすることもなかった。

「志摩子さんは祐巳ちゃんに遅くなるようならそのまま帰って構わないと言っていたのでしょう?
 鞄をこちらに置いている訳ではないですし、待っていても無駄かもしれませんわよ」

「それならそれで別に構わないわよ。
 私は祐巳さんがこの場所に戻ってきたときに他に誰もいなかった、なんて状況になるのが嫌なの。
 そんなの寂しすぎるじゃない」

「それもそうだけど・・・それなら、瞳子だって少しくらいなら一緒に待ってあげてもよろしくてよ」

「別に必要ない・・・って、昔の私なら突っぱねたんでしょうね。
 いいわ、祐巳さんが来るまで話し相手にでもなってて頂戴。どうせ他にやることないし」

由乃からの予想外の返答に瞳子は目を丸くしながらも、自分の席へと戻っていく。
そんな瞳子を見て、由乃は楽しそうに、そして瞳子をからかうように微笑んでいた。

「・・・何がそんなに面白いんですの?」

「別に。ただ、変わっちゃったなって思っただけ。
 ・・・私、貴女のこと大嫌いだった。島津由乃は松平瞳子が大嫌い。それこそ傍にいるのも嫌だった」

「なっ!?貴女はそうまでして瞳子にケンカを売りたいんですの!?」

力強く机を叩く瞳子に、由乃は違う違うと苦笑して答える。
その様子に、瞳子は不満げな表情を浮かべながらも由乃の言葉の続きを待つことにした。

「顔を合わせたらいっつも私に文句ばかり言うし、思ったことをストレートに言ってくるし。
 皆が私を無視してるのに、貴女だけはいつもいつも私に向かってキャンキャン吼えてたのよね。
 やれ薔薇がどうだとか、やれ会議に参加がどうだとか」

「それは瞳子だけではなく、お姉様も貴女に言っていたと思いますけど」

「祥子様は違うわ。あの人は私を何も見てなかったもの。
 ただ、一人の生徒がルールを破ってたから、それを注意してただけ。そこに島津由乃は何も存在していなかった。
 ・・・私の言ってること、あの方の妹である瞳子なら分かるでしょ?」

瞳子は軽く息をついて由乃の言葉に反応しなかった。
それは、彼女にとって最大限の肯定の意だったのだろう。小笠原祥子は、興味のある人間以外に無頓着だから。

「祥子様はそんな風だから、正直どうでもよかったのよ。自己満足の為の注意ならいくらでもすればいい。
 けれど、貴女はそうじゃなかった。貴女はいつも真っ直ぐ私にありのままの感情をぶつけてきたわ。
 ・・・そう、いつだって貴女だけはそうだった。ホント、貴女の事なんて大嫌いだった筈なのにね」

「由乃さん、貴女」

「・・・勘違いしないでよ。私は別に貴女の事を好きだなんて言ってない。
 ただ、その・・・前よりは、ちょっとマシに思えるようになっただけなんだから」

視線を逸らし、髪を弄りながら呟く由乃に、思わず瞳子は苦笑する。
本当、どうしてこんなにも自分の天敵である少女は意地っ張りなんだろう。
どんなに彼女を取り巻く環境が変わっても、それだけは自分と出会った時から少しも変わっていない。

「本当、貴女らしい言い方ですこと。いい加減、他人に対して素直になってみるのもいいのではなくて?」

「冗談。人の前で何重にも仮面被って接する貴女に言われたくないわよ。
 瞳子こそありのままの自分をいい加減に曝け出したら?」

互いに皮肉りあう二人だが、その言葉には以前のような重さは無い。
それは、第三者が見れば友人同士が茶化しあう様子にしか映らないだろう。

「・・・でも、少し安心しましたわ。貴女はまだちゃんと瞳子の知ってる島津由乃ですのね」

「は?」

「別に何でもありませんわ。ただ、瞳子の杞憂に終わってくれて良かったと思ってるだけ。
 福沢祐巳ちゃんが現れてからの貴女は、まるで別人になっていくかのように見えましたから。
 少し不安でしたのよ・・・貴女が、祐巳ちゃんに別人に作り変えられたのではないかと」

瞳子の言葉に、由乃はただただ首を傾げる。
確かに自分を変えてくれたのは、救ってくれたのは祐巳だ。それには何の間違いも無い。
だが、目の前の瞳子は祐巳が『由乃を作り変える』と表現した。『由乃を変えた』ではなく。

「よく分からないけど、祐巳さんが私を変えてくれたのは確かよ。
 あの娘がいなければ、今の私はきっと無かった。祐巳さんがいたから私は頑張れたのよ」

「そうですわね・・・それは、認めますわ。祐巳ちゃんは貴女を大切に想っている、それは間違いない・・・だけど」

「だけど?」

瞳子の表情が曇り、由乃は思うままに疑問を投げかけるが瞳子は答えない。
ただ、軽く首を振って自分の考えを振り払うような仕草を見せるだけだった。

「・・・いえ、何でもありませんわ。きっと考え過ぎてるだけだもの。
 貴女の妹候補なのでしょう?祐巳ちゃんは本当に良い娘ですものね。笙子ちゃん共々大切にしてあげなさいな」

「妹候補かどうかは分かんないけど、言われなくても大事にするわよ。
 ちなみに言っておくけど、祐巳さんも笙子ちゃんも渡さないわよ。自分の妹候補は自分で見つけなさいよね」

「あら?そんなこと誰が決めましたの?
 もしかしたら祐巳ちゃんも笙子ちゃんも貴女に愛想を尽かして瞳子に惚れこむ可能性もありますのよ。
 互いの了承があれば姉妹になることに何も問題は無い筈だけど」

「大いにあるわよ。私は二人の保護者なの。
 あの娘達の姉妹になりたいのなら、まずは私の同意を得ないといけないのよ」

「貴女ね・・・婚姻とスールを一緒にしないで頂戴」

そう言って、瞳子はその場から立ち上がった。
不思議そうな表情を浮かべる由乃に、瞳子は笑って言葉を紡ぐ。

「帰りますのよ。貴女と祐巳ちゃんの話を聞いていると、悩んでる瞳子が馬鹿みたいに思えてきましたし」

「何?貴女柄にもなくまた悩んでる訳?
 それってやっぱり最近全然ここに来ない祥子様関係?」

「・・・柄にもなくは余計よ。
 そうね・・・まだ、諦めるには早過ぎる。瞳子だって妹ですもの。何かしらきっとお姉様の力になれる筈だわ」

「あのね、勝手に悩んで勝手に自己解決しないでよ。
 別に貴女の悩みなんかどうでもいいけど、そこまで言われちゃ気になるじゃない」

「あら、気にしてくれますの?瞳子の悩みを」

「馬鹿瞳子。いいからさっさと帰れ」

由乃の手を振って追い出すような仕草に苦笑し、瞳子は部屋の扉を開く。
そして、部屋から出て行く前に、由乃の方を一度振り返った。

「先に言っておきますけど、瞳子だって由乃さんのことは好きじゃありませんわよ。
 そう、初めて会った時から、貴女のことなんてこれっぽっちも好きじゃありませんでしたもの。
 ・・・ただ、貴女よりも幾分早く少しはマシに思えるようになっていただけですわ」

そう言って笑みを浮かべ、『ごきげんよう』と一礼して部屋から去っていった。
残された由乃は呆気に取られながらも、それは先程自分が言った言葉だということに気付いた。

「・・ったく、他人に対して素直になる必要があるのはどっちだっつーのよ」

悪態をつきながらも、由乃は笑っている自分がいることに気付いた。
何だかんだ言って、やはり瞳子といる自分は、誰よりも島津由乃らしくいられるのだろう。
自分にはこれくらいが丁度いい。瞳子と口論して、周囲がそれを見て冷や冷やするような、そんな関係が。

「・・・本当、祐巳さん遅いなあ。もう帰っちゃったのかなあ」

一旦時計を見て、由乃は軽く溜息をついて机に伏せる。
もう少しして来なかったら帰ろう。そう考えていた時だった。
下の階段から誰かが上がってくる音が聞こえてきた。由乃は軽く安堵の息をつき、扉の前まで歩いていく。
由乃は自分の胸が高鳴るのを感じた。それもその筈で、今日はまだ一度も祐巳と由乃は顔を合わせていないのだ。
溢れ出る嬉しさを押さえ、由乃は祐巳が扉を開くのを待った。
そして、扉が開かれると同時に由乃は目の前に立っていた少女に抱きつこうとした。だが――

「お帰り祐巳さんっ!!もう、どこまで行ってたのよ!私、待っていた・・・の・・・よ・・・・祐巳さん?」

「・・・由乃・・・さん」

由乃はその足を止めた。否、止めざるを得なかったのだ。
目の前に立っていた少女は、由乃の知っているいつもの福沢祐巳とは明らかに違っていたのだから。
それはまるで、飼い主に捨てられたばかりの子犬のような孤独を纏っていた。世界に独り。ただ、独り。
由乃はこんな祐巳を見たことがある。それは初めて出会った時、由乃に縋りついて泣きじゃくった少女。
それから時は流れ、再会した時の祐巳からはそのイメージは一切消えていた。むしろ、皆無だといってもいい程に。
しかし、今由乃の目の前に立つ少女はまさしく世界の迷子。
それはまるで、世界に独り取り残されてしまったような、誰も味方を失ってしまったような孤独な少女だった。

「祐巳さん、どうしたの・・・?何かあったの?」

「・・・っ!!」

由乃が言葉を発した瞬間、祐巳は由乃の胸に飛び込んだ。
突然のことに驚いた由乃だが、胸の中で祐巳が泣いていることに気付き、更に動揺を隠せずにいた。
一体志摩子のお使いの間に何があったというのか。否、もしくはそれ以前か。
しかし、今日一日会うことが出来なかった由乃には、その理由を見つけることすら出来なかった。

「・・・ないで・・・」

「え・・・?」

「お願いだから・・・私を捨てないで・・・やだよ・・・由乃さんにまで捨てられたら、私もう居場所がないよ・・・
 何でもするから・・・だから、私を捨てないで・・・もうやだ・・・独りは嫌だよ・・・誰かに捨てられるのはもう嫌・・・」

子供のように嗚咽を漏らす祐巳を由乃はぎゅっと抱きしめる。
祐巳の様子は異常だ。こんなにも取り乱した祐巳を見て、由乃は何もせずにいるなど出来はしない。
今はとにかく祐巳を安心させる為に、由乃はただ力の限り抱きしめる。

「馬鹿言わないの!何があったかは知らないけれど、私が祐巳さんを捨てるわけ無いでしょう!?
 私は何があっても絶対に貴女の傍にいるから!だから安心なさい!貴女は私の・・・」

――私の、何なのだろう?
由乃はそこから先の言葉を続けることが出来なかった。
大切な人。そう、由乃は祐巳に対して常にそんな風に表現していた。
だが、果たしてそれは正解なのだろうか。大切な人なんていう言葉で祐巳との関係を薄めていいのだろうか。
そう考えた瞬間、由乃の中で眠っていた泥が心の中でのた打ち回った。

もっと祐巳と深くつながりたい。もっと祐巳の傍にいたい。もっと祐巳を自分のモノにしたい。

目の前で泣いている少女と、もっと深い絆で結ばれたい。もっと確かなカタチを作りたい。――そう、妹として祐巳を。

己の思考が辿り着いた答えに、由乃は必死に振り払う。
違う。そのような欲望は求めてなどいない。祐巳とは親友。大切な親友であればいい。
自分の勝手な欲望で、目の前の少女を振り回していい筈がない。
少女が自分に望んでいるのは、親友としての島津由乃。彼女がそう思うなら、それ以上は必要ない。

「・・・祐巳さんは、私の大切な親友でしょう?親友は、決して見捨てたりしないんだから」

その言葉に、祐巳は由乃を抱きしめる力を強めた。
決して由乃を失わない為に、由乃の温もりを失わない為に。その想いを感じ、由乃は祐巳を優しく包み込む。
――これでいい。祐巳は親友。それ以上の関係なんて、決して求めたりしない。
祐巳が親友としての島津由乃を求めるなら、自分はそれを叶えるだけだ。
私は祐巳を決して傷つけたりなんかしない。祐巳は私の全て。だから、さっきの私は気の迷い。


島津由乃は決して祐巳に求めたりしない。――妹としての、福沢祐巳なんて決して。















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