17.剥離










結局、泣き止んでも祐巳は由乃から離れようとはしなかった。
由乃はその状態のままで祐巳を帰宅させることは出来なかったし、させるつもりも毛頭無かった。
子供のように不安そうな祐巳の手を取り、由乃の家まで一緒に連れて帰ることにしたのだ。
両親が何というか不安はあったものの、それは杞憂に終わる。
祐巳を連れて帰って両親の第一声が『妹おめでとう』だったことに、由乃は我が親ながら呆れ返るしかなかった。
両親に可愛がられる祐巳を引きつれ、由乃は自分の部屋に入り、祐巳に今日は泊まる様に告げた。
由乃の言葉に祐巳はただ嬉しそうに頷くだけだった。
その祐巳の姿を見て、由乃は心を痛めた。この娘は本当に心細かったのだろう。

だからこそ、由乃は許せなかった。
祐巳がこうなった原因は十中八九志摩子のお使いだ。その間に間違いなく何かがあったに違いない。
あの祐巳がここまで心を乱すことなど、一体何があったというのか。由乃は原因を追求する決意を固めた。
祐巳に部屋で待ってるように伝え、由乃は電話へと急ぐ。コール先は勿論、祐巳の原因を知っているだろう人物。
白薔薇、藤堂志摩子以外に他ならない。

『もしもし、藤堂と申しますが』

「志摩子さん?私よ、島津由乃」

『由乃さん・・・?由乃さんが私に電話をするなんて、一体どうしたの?』

「どうしたの、じゃないわよ!!貴女一体祐巳さんに何させたのよ!?」

『祐巳さん?祐巳さんがどうかしたの?』

「どうかしてるからわざわざ私が貴女に電話なんかしてるんじゃない!!
 祐巳さん、貴女の頼んだお使いから帰ってきてから、今までずっと泣いてたのよ!?
 聞いても理由を教えてくれないし・・・貴女、理由知ってるんでしょ!?一体祐巳さんに何させたのよ!!」

由乃はあらん限りの声で受話器に叫ぶが、志摩子からの返答は返って来ない。
胸の中でイライラが有頂天に達しようとした時、ようやく志摩子の口から答えが返ってきた。

『・・・お姉様に会わせたのよ』

「お姉様・・・?志摩子さんの姉っていったら・・・佐藤聖様!?
 あ・・・のセクハラ薔薇――どうしてくれよう」

『ええ・・・お姉様が祐巳さんに興味を示していたから、良い機会だと思って私が引き会わせたの。
 ・・・ごめんなさい。まさかそんなことになってるなんて思わなかったの』

「っ!!ごめんで済んだら警察なんか要らないのよ!馬鹿っ!馬鹿馬鹿馬鹿っ!志摩子さんの大馬鹿っ!!
 もう二度と祐巳さんに余計なことしないで!祐巳さんを傷つけるような真似しないでよっ!!」

それは由乃の心からの叫びだった。
誰にも祐巳と自分の間に入って欲しくない。触れて欲しくない。祐巳と自分の絆を汚して欲しくない。
祐巳と自分の間には、何人たりとて踏み込んで欲しくない。それが例え誰であったとしても。

『・・・安心して。もう、しないから・・・私はもう、何も出来ないから。
 もう私では、祐巳さんを救うことが出来ないから・・・だから、由乃さん・・・祐巳さんの事、お願いね』

「はぁ!?ちょっと志摩子さん、何訳分かんないことっ・・・ちょっと志摩子さん!!!」

由乃は受話器に怒鳴るが、既に電話は切られていた。
志摩子は一体何を言っていたのだろう。由乃は全く理解出来なかったが、一つだけ分かったことがある。
祐巳を傷つけた人物。全ての原因は志摩子ではなく、その裏にいる佐藤聖その人だ。
再び受話器を取り、由乃は聖の携帯へと電話を切り替える。
卒業前に必要ないと言っていたのに無理矢理押し付けられた聖の携帯番号が、まさかこんな形で役に立つとは。
その番号の書かれた紙を捨てなかった自分に、由乃は心から賞賛を送りたいと思った。

『はい、もしもし。どちら様?』

「どちら様、じゃないわよ!!このセクハラ薔薇!セク薔薇!!」

『おおっと、この先輩相手なのにタメ口かつ特徴的な怒鳴り声は由乃ちゃんか。
 ひっさしぶり〜、元気してた?』

「おかげさまで元気過ぎて血圧が上がりそうよ!!
 それより聖様、貴女祐巳さんに何をしたのよ!!祐巳さんを泣かせたのは貴女でしょ!?
 祐巳さんは教えてくれないし、志摩子さんに聞いたら貴女に会わせたっていうし!」

『あちゃ〜・・・祐巳ちゃん泣いちゃったかあ。ゴメンゴメン、そんなつもりはなかったんだけどねえ。
 それより志摩子に連絡したっていったね。志摩子なんか由乃ちゃんに言ってなかった?』

「え?ああ・・・何か訳の分からないことを言ってたわ。
 私はもう祐巳さんに何もしないとか救うことは出来ないとか・・・」

それを聞いて、聖は受話器の向こうから『あ〜あ』とだけ答えた。
それはまるで、どこか由乃を責めているかのように聞こえ、由乃は益々苛立ちが募っていく。

「何よ、何があ〜あなのよ」

『別に〜。まあ、志摩子は頑張った方かな。
 最後の最後まで抗えたんだもん。本当、あの娘の祐巳ちゃんへの一途さには参っちゃうよね。
 それこそ私と出会った頃の志摩子が嘘みたい』

「はああ??」

聖の突拍子も無い言葉に由乃は理解出来ないといった感情をストレートに出す。
否、出すどころか思いっきり電話口に向かって言葉にしていた。それを聞き、聖は電話の向こうで苦笑する。

『あ、由乃ちゃん?志摩子が祐巳ちゃんにちょっかいを出してたっていう件はもう心配しなくていいよ。
 明日には変わってるからさ。志摩子も、祐巳ちゃんも、きっと何事もなかったかのように元通りだから』

「いや、だから人の話を・・・私が聞きたいのは貴女が祐巳さんに一体何を言ったのかを」

『何も言ってないよ。私はただ祐巳ちゃんの世界を揺らしただけ。
 そして、その水面の揺らめきに祐巳ちゃんは手を伸ばすことはなかった。それは君が祐巳ちゃんを救ったから』

次々と聖の口から発される言葉に、由乃はある不安を抱きそうになってしまう。
もしかして聖様は、自分と少し会わない間に頭がどうかされたのではないだろうかと。

『きっと電話の向こうでは由乃ちゃんはきっと怪訝そうな顔してるんだろうね。手に取るように分かるよ。
 でも、そんなノンビリしてていいのかなー。私はあんまり時間は残されてないと思うんだけどなー』

「・・・あの、聖様。もしかしてご卒業された後で、強く頭を打ったりとか・・・」

『相変わらず失礼だね、由乃ちゃんは。ま、そこが可愛いところでもあるんだけどさ。
 とにかく私は急いだ方がいいと思うよ。令に乃梨子ちゃん、そして志摩子。タイムリミットは確実に迫ってる。
 次に塗り替えられるのは瞳子ちゃんかもしれないし、由乃ちゃん、君かもしれないよ。
 世界は確実に変わってく。まあ・・・祐巳ちゃんがそれを救いだというのなら、私はそれでもいいんだけどさ』

「祐巳さん・・・?救い・・・?聖様、貴女さっきから一体何を」

『選びなよ、由乃ちゃん。祐巳ちゃんは恐らく選択を君に委ねてる。
 このままでいいと思うなら何もしなくてもいい。このまま祐巳ちゃんと一緒に優しい世界を作れば良い。
 現状維持を望むならば、君はただ祐巳ちゃんの望むままの君で在り続けるといい。それでこの世界は完成する』

一呼吸置き、聖は続ける。
それはまるで、これから先の事を言うべきかどうか躊躇っているようにすら感じられた。

『・・・けれど、もしそうじゃないなら。別の道を望んでいるというのなら自分の本心に従いなよ。
 本当は自分がどうしたいのか。一体何を求めているのか。自分の想いをそのまま行動に移せばいい。
 そうすれば、きっと祐巳ちゃんを救う為に力を貸してくれる筈だよ。君の中に眠るもう一人の島津由乃が、ね』

聖の言葉は何一つ理解出来るものではなかった。
それこそ酔っ払いの戯言とでも取れるような内容で、受け入れるということは不可能に近い。
聖の言葉はファンタジー以外の何モノでもない。下らな過ぎて、それこそ言葉が脳に入ってこない。

――だが。気付けば由乃は口を開いていた。

それは自然に発された言葉。
決して自分の意思で口にしようと思っていた訳ではない。だが、開こうとする己の口を止めることは出来なかった。
電話の先にいる佐藤聖。数ヶ月前まで自分をからかって遊んでいた佐藤聖。
その二つが、どうしても由乃の中で一つに結び付けることが、彼女にはどうしても出来なかったから。

「――貴女、誰?」

尋ねてしまった。
それこそ下らない質問だ。この声、このテンション。自分の知りうる人物で佐藤聖以外の誰がいようか。
しかし、由乃は尋ねずにはいられなかった。無論、このような質問にまともな答えなどは期待していない。
だが、今それを口にしなかったら、きっと自分は電話先の相手に流されてしまう。そんな気がしたから。

『あはは!変なことを言うなあ、由乃ちゃんは。
 私は聖。砂糖の精と書いて佐藤聖。それ以外の誰かの声に聞こえる?』

「・・・聞こえないわね」

『でしょ?ならそれでいいじゃない。たとえ私が別人だったところで、正直由乃ちゃんが困るわけでもないしさ。
 それより忘れないでね。タイムリミットは近づいてるよ。世界と共に祐巳ちゃんは少しずつ変わっていってるんだ。
 手遅れになる前に、私達はその時までに後二回だけ世界を揺らしてあげる。それが私達の精一杯だからね。
 その時に祐巳ちゃんをどうするのか、それを選ぶのは由乃ちゃん、君だよ。祐巳ちゃんは君に依存しているからね』

「・・・本当、聖様は一度ゆっくり休養された方がいいのでは?
 私、病院なら良い場所を知っているのだけれど」

『いやー、相変わらずきっついなー。病院は勘弁してよ、注射は嫌いなんだから。ま、話はそれだけだよ。
 願わくば、令や乃梨子ちゃん、志摩子の想いが無駄にならない結果になることを個人的には祈ってるよ。
 じゃーねー』

明るい口調で電話を切る聖に、由乃は何ら言葉を返す気力すら残っていなかった。
――馬鹿らしい。聖様も志摩子さんも本当、どうかしてる。由乃はそう思わずにはいられなかった。
祐巳さんを救うだとか、世界が変わるだとか、本当夢物語もいいとこ。馬鹿馬鹿し過ぎて泣きたくなる。
救うも何も祐巳さんが一体どうして救いを求めているというのか。一体何に求めているというのか。

祐巳がもし救いを求めているとしたら、それは自分が応えてやればいい。
山百合会に入り、そのせいで傷ついたのならば元の関係に戻すだけの事。手伝いを止めさせればいい。
祐巳を傷つけるモノ全てを、自分が取り除けば良い。祐巳が望むなら、自分だけが傍にいればそれでいい。
祐巳を傷つける人間も、祐巳を傷つける世界も、祐巳を非難する全ても、私が取り除いてみせる。


そう、祐巳を救いたいならそうすればいい。
そう、私は祐巳の親友。祐巳の世界を守る為ならば、彼女が望むことをする。それだけのこと。
それだけのことなのに。そうすればいいと思っている筈なのに。どうして――


「・・・どうして、私、泣いてるのよ・・・何で・・・」


――どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。こんなにも悲しくなるのだろう。
祐巳の為にと思う度に、胸の中でもう一人の自分が激しくのたうちまわるのだ。
嘘をついてる自分自身に憤っているように、押し殺した心の底で癇癪を起こしたように激しく暴れまわるのだ。
それは間違いだと。そのようなことを自分はしたい訳ではないのだと。

「祐巳さん・・・か・・・」

涙を拭い、由乃はそっと祐巳の名前を呟く。
その人は、自分を救ってくれた。自分を護ってくれた。ならば、自分は彼女に何が出来るのだろう。
彼女を傷つけないことと、彼女を救うこと。それは一体何が違うのだろう。
親友として彼女の望むままの島津由乃でいること。今、それを自信を持って自分は言えるだろうか。



『いい加減、言い訳ばかりして祐巳さんから逃げるのは止めなさいよ』

どこからか、そんな声が聞こえた気がした。















戻る

inserted by FC2 system