18.もう逃げない










翌日、由乃は脳内を誰かにグチャグチャに掻き乱されたのかと錯覚するほどに混乱していた。
朝、祐巳を起こして朝食を共に取り、時間割や着替えの理由で祐巳を自宅に戻らせたまでは良かった。
だが、彼女の言葉を聞く度に、話をする度に由乃は己の記憶を何度も疑わなければならなかった。

――祐巳に、昨日の一件の記憶が無い。

否、それは正確ではない。祐巳は、昨日自分が泣いていたことを忘れてしまっている。
彼女の記憶では由乃に誘われ、『お泊り会』として由乃の家に泊まったことになっている。
何度確認しても、彼女の口から昨日の取り乱したことに関することが出ることは無かった。
もしかして、ただ嫌な記憶として忘れたいだけなのだろうか。
取り乱した様子を由乃に見られるのが嫌だったから嘘をついてるのではないだろうか。
そう思うことも出来るのだが、由乃はそれは違うような気がした。祐巳はそんなことで嘘をつく人間ではない。
ならばどうして。その答えを出せずに、由乃は放課後まできてしまっていた。

由乃は今、瞳子と共に薔薇の館へ向かって歩み始めていた。
だが、隣でお喋りする瞳子の話も半分に、由乃は未だ祐巳のことで頭がいっぱいだった。
果たして、今のままでいいのだろうか。結局、聖からは祐巳が泣いてる理由をはぐらかされてしまった為、
直接尋ねずして原因を知る術は無い。しかし、それを無理に尋ねるのもどうなのだろう。
以前なら、『祐巳が話したくなれば話してくれる』という気持ちでいられたのに、今の由乃には
そのような割り切った考えは出来なくなってしまっていた。知りたい。祐巳が泣いてる理由を。
友達なら、親友であるならば待てばいい。辛いとき、祐巳はきっと自分を頼ってくれる筈だ。
だが、その考えに共感できない自分がいるのも事実。それでいいのかと自問する自分がいる。
今の由乃は、完全に見失っていた。今まで見えていた、祐巳との距離感が今は見えない。
自分が彼女にとってどの位置に立てばいい。どの位置まで許される。――自分はどの位置に立ちたいのか。
入り組んだ迷宮から抜け出せないままに、由乃は階段を上り、薔薇の館の扉を開く。

「ごきげんよう、由乃さん、瞳子さん」

二人が入ってきたことにいち早く気付いた志摩子がやんわりと挨拶をする。
そして、それに続き、仕事をしていた一年生たちも声を揃えて志摩子に続く。

「ごきげんよう。あら、仕事を先に始めてましたのね。ごめんなさいね、志摩子さん」

「全然構わないわ。私達が勝手に始めたことだから。
 本当、今年の一年生はみんな頑張り屋だから私も負けていられないわ」

「普段から頑張ってる志摩子さんがそれ以上頑張っちゃうと倒れちゃうよ。駄目だよ、無理しちゃ」

祐巳の言葉に乃梨子もウンウンと強く頷く。
そして、二人に志摩子はあらあらと苦笑を浮かべた。
傍から見れば、仲睦まじい上級生と下級生の会話だが、その会話に由乃は表情を凍らせた。
祐巳と志摩子の会話に、激しい違和感を覚えた。何かが違う。何かがズレている。そんな気がした。

「しま・・・じゃなくて、お姉様は頑張り過ぎなんです。
 私達はお姉様方の負担を少しでも減らす為に頑張ってる意味もあるんですから、今はのんびりしてて下さい」

「乃梨子、ごめんね・・・何か凄く気を使わせちゃったみたい」

「このくらい妹なら当然です」

「ふふ、ありがとう。祐巳さんもありがとう」

「どうしたしまして。親友の為の苦労ならこれくらい何とも無いからね。
 私達の頑張りで志摩子さんが楽になるのなら、むしろ嬉しいくらいだよ」

祐巳の言葉に由乃は己の血の気が引いていくのを感じた。
今、祐巳は志摩子に何と言った。志摩子との関係を、何と言った。
だが、由乃が口を開くより早く、隣にいた瞳子が反応した。眉をひそめ、祐巳に向かって言葉を紡ぐ。

「祐巳さん、貴女いつの間に志摩子さんとそんなに仲良くなりましたの?」

瞳子の言葉に、その場にいた由乃以外の人間は不思議そうな表情で瞳子を見つめていた。
当事者の志摩子と祐巳に至っては顔を見合わせて全く理解出来ていない状態だ。

「えっと・・・瞳子さん、ごめんなさい。言ってる意味がよく分からないのだけど・・・
 私と祐巳さんは何も変わってないと思うのだけど」

「・・・そうかしら。貴女達がそこまで仲が良いなんて瞳子は今日初めて知ったのだけど。
 そもそも祐巳さんの親友は由乃さんではなくて?」

瞳子の言葉に由乃は軽く身体を反応させる。
だが、視線を上にあげることは無い。由乃は恐怖していた。祐巳の口が開かれることを。
現状が全く把握できない。どうして祐巳は志摩子を親友などと言うのか。それは自分では無かったのか。
祐巳が志摩子とそこまで仲が良かったなど在り得ない。何故なら今まで二人は距離を取り合っていたのだ。
それがどうしてこんなことになっているのか。否、今はそんなことはどうでもいい。
親友が志摩子なら、今の自分は祐巳にとって一体何なのか。祐巳にとって島津由乃はどうなってしまうのか。

「えっと・・・瞳子様の仰る意味がよく分からないのですが、
 私は由乃さんも志摩子さんも、大事な親友だと思ってます」

照れながら言う祐巳を、志摩子が『ありがとう』と礼を言いながら優しく抱きしめる。
それを見て、乃梨子が軽く嫉妬し、祐巳は苦笑して乃梨子を宥める。それを見て、笙子は楽しそうに笑っている。
誰もが祐巳を愛し、愛される場所。彼女の本当の居場所。それがこの場所、山百合会なのだろう。

だが、その光景を由乃は一人呆然と眺めていた。
違う。自分が求めていたのはこんな光景じゃない。こんな居場所じゃない。
確かに由乃は祐巳の親友かもしれない。それは祐巳にとって大切な一人なのだろう。
だが、それは断じて唯一ではない。由乃の居場所には志摩子もいる。祐巳の理解者は自分だけではないのだ。
祐巳の傍に居られるのも、祐巳を理解してあげられるのも、自分だけだというのは思い上がりの他ならない。
自分と祐巳は二人だけの絆では在り得ない。親友は一人だけなんて、そんな筈は無いのだから。


その時、由乃の心の中で全てが一につながった。
自分は決して、祐巳の親友になりたかった訳ではない。複数存在する一で結ばれたかった訳ではない。

自分はただ、祐巳にとっての『唯一』になりたかったのだ。


気付いた瞬間、由乃はその場から駆け出していた。
何も言わずに部屋から出て行く由乃に驚き、その場にいた誰もが言葉を発することが出来なかった。
由乃が去り、静けさが残る部屋の中で、瞳子がポツリと呟いた。

「最低」

その呟きが何に向けられたものか、声が聞こえなかった皆には分かりようもなかった。


















 ・・・














学園の中庭のベンチで、由乃は何をするでもなく、ただその場に座っていた。
否、何をする気も起きなかったと言った方が正しいのかもしれない。
祐巳と自分の考えの擦違いが解かってしまったから。自分と祐巳は互いに求めるモノが違っていたのだ。
きっと、祐巳は今までの彼女と何一つ変わってないのだろう。
由乃の事を大切に思い、親友として接する。ただ、その同列の関係に志摩子が入っただけ。

変わってしまったのはきっと自分自身。祐巳の口から志摩子との絆を語られた時、由乃は明らかに拒絶した。
祐巳と志摩子の仲が良いことが嫌な訳ではなかった。ただ、自分と祐巳の絆は特別でありたかった。
志摩子と祐巳、由乃と祐巳の関係は親友。それは同列であり、並列の絆だ。祐巳にとってどちらが上かなんて存在しない。
きっと今まで通りの自分なら、そんなことは気にしなかったのだろう。
他の人とどんな関係でも、自分と祐巳が親友ならそれでいい。そう思えた筈だった。
だが、今の自分はそんな気持ちにはなれない。どうしようもなく祐巳を欲しているのだ。

祐巳と特別でありたい。祐巳の唯一でありたい。祐巳の絆、その全てになりたい。

気付いてしまった自分の感情を抑えることは出来ない。
もう島津由乃は福沢祐巳の求める親友にはなれない。自分はそれ以上を求めてしまっているのだから。

「・・・以前のままでいれば良かったのかしら。
 そうすれば、こんな気持ちに気付くこともなかったのかな・・・」

かつて、自分はここで祐巳と二人きりの時間を過ごしていた。
他愛も無い話に笑い、興じ、共に時間を過ごしていた日々。祐巳と二人だけの時間を楽しんでいた日々。
その時の由乃はそれが全てだった。祐巳がいれば、それでよかった。祐巳と二人だけの世界に住みたいとすら考えた。
そして、由乃は苦笑する。

「・・・なんだ、初めから答えは出ていたのね。
 私、出会った時から、祐巳さんを一人占めしていたんだ。
 だから色々言い訳してこんな誰にも見られないような場所で二人っきりで過ごしていたんだよね・・・」

「ご名答。由乃ちゃん、独占欲強いもんね」

急に声をかけられ、由乃が驚き振り向いた先にその人物――佐藤聖は笑って立っていた。
思考に耽っていた為、聖が傍まで近づいていることに、由乃は全く気付くことが出来なかったのだ。
笑いながら隣に座る聖に、由乃は独り言を聞かれていた悔しさに唇を噛み締める。

「・・・私服で高等部に入ってくるなんて、どういう神経してるのよ」

「えー、別にいいじゃん。私、一応ここのOGだし危ない人間じゃないよ」

「貴女は存在そのものが危ないのよ。この神出鬼没のセクハラ魔」

悪態をつく由乃に、聖はただ楽しそうに含み笑いを浮かべるだけだった。
暖簾に腕押しとでも感じたのか、由乃は軽く溜息をついて刃を収めた。

「言ったでしょ?世界も祐巳ちゃんも刻一刻と変わり始めてるって。
 ・・・変わるというか、戻っているというか。きっと祐巳ちゃんにとってトラウマとなってる部分だけが改変されて、
 この世界は完成を迎えるだろうね。祐巳ちゃんが望む、優しい世界に」

「・・・昨日に続いてまた妄想話?私、今そんな下らない話を聞きたい気分じゃないのだけど・・・」

「ちぇー、こっちだってまともに聞いてもらえるなんて思ってないけどさ。その対応は何気に酷くない?
 ま、それは別にいいや。どうやら自分の気持ちに気付いたみたいだしね。
 由乃ちゃん、その気持ちを忘れちゃ駄目だよ。その気持ちが本当の島津由乃の心だから。
 誰に変えられる訳でも、用意された訳でもない君のその想いがきっと道になると思うから」

聖の言葉に、由乃は頭を痛めて溜息をつくしか出来なかった。
相変わらず言ってる言葉がイマイチ要領をつかめないが、どうやら由乃を応援してくれているらしい。
その点だけ受け取って、後は流すことにしようと由乃は決めた。

「・・・それで、高等部までワザワザ来た理由がそんなことを言う為?」

「うんにゃ。本当は由乃ちゃんともう少しお喋りしていたかったんだけど、こう見えて聖様は色々忙しいの。
 今日の用件は昨日伝え忘れてたことを話しておこうとおもってね」

ベンチから立ち上がり、聖は中庭から去っていく。
そして、不思議そうに首を傾げる由乃の方を振り返り、笑顔で言葉を紡ぐ。

「タイムリミットは祥子だよ。祥子と祐巳ちゃんがこの世界で出会う時、全ては終わりを告げる。
 その時までに由乃ちゃんがどうするのか見せてもらうよ。きっと、君の行動で祐巳ちゃんは決めるだろうから。
 このまま優しい世界(こっち)で生きていくのか、それとも色々ある世界(向こう)で生きていくのかをね」

子供のように笑って、聖は由乃に手を振って去っていった。
由乃は深く溜息をついた。相変わらず訳の分からないことばかり言うだけ言って、肝心なことは煙に巻く。
聖の言葉の意味は全く分からないが、彼女は間違いなく祐巳について何か知っている。
そして、それは恐らく祐巳の心の傷に関するモノなのだろう。その上、それはとても大事なこと。
そうでなければ、ワザワザ自分にこうやって知らせる意味が無い。

「タイムリミット・・・か」

祐巳が祥子と出会う時、何が起こるのかは全く想像だに出来ない。
だが、最早祐巳と祥子の間で過去に何かがあったということは間違いない。由乃はそう確信した。
最初に祐巳が提示した山百合会を手伝う条件が『紅薔薇が戻るまで』だった。
すなわち、祐巳は祥子とは何かしらの理由があって会いたくないのだ。それ以外に考えられない。

きっと、聖は由乃の気持ちを見抜いている。だから、タイムリミットなんてものを教えてきたのだ。
無論、祥子と祐巳が出会うことで本当に何かが起こるのかもしれない。
だが、それ以上に聖は由乃を後押ししたのだ。時間制限という理由で、立ち止まろうとする由乃の背中を。
祐巳に対する気持ちを、直接ぶつけてしまうことを避けようとする臆病な自分を。


もはや、隠すことなど出来はしない。

島津由乃は、福沢祐巳を妹にしたいのだ。
スールという形で、祐巳との特別な絆を作りたいのだ。


だが、その気持ちの一方で怯える自分がいる。
怖い。祐巳に拒絶されることが。祐巳との今の関係を壊してしまうことが。
今、祐巳とつながっているのは親友としての自分がいるから。だから祐巳とはこうしていられる。
祐巳が自分に求めているのは親友としての島津由乃だということは分かっている。
だからこそ、怖いのだ。もし祐巳に妹を求めてしまえば、嫌われるかもしれない。
ならば今のままでいいではないか。そう何度も自分の弱い心が囁いてくる。今のままならば、祐巳と離れることもない。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。祐巳に嫌われるのは、何よりも怖い。
だけど、もう自分の気持ちは抑えられない。嘘で塗り固められた気持ちで祐巳とは向かい合えない。
誰でも良い。少しだけ勇気を貸して欲しい。そうすればきっと臆病な私は頑張れる筈だから。だから――

「由乃様っ!!」

「え・・・」

自分の名を呼ぶ声が聞こえ、由乃は視線をその方向へと向ける。
そこには、息を切らせて髪を振り乱した内藤笙子が、涙を眼に溜めて由乃の方を見つめていた。

「笙子、ちゃん?」

「よ、由乃様っ!!」

縺れる足も気にすることなく、笙子は由乃の元まで駆け抜けていく。
その様子は、とてもではないがリリアン女性徒として相応しいとはいえないが、由乃には何故かその姿が美しく思えた。
慌てて立ち上がり、由乃はその場で倒れそうになる笙子を抱きとめた。

「ど、どうしたの笙子ちゃん、そんなに慌てて・・・というか、泣きそうだし・・・
 もしかしてまた瞳子や乃梨子ちゃんに虐められたの!?」

由乃の言葉に笙子はブンブンと力強く首を振る。
困惑する由乃に、笙子は泣きながらぽつぽつと言葉を零していく。

「違うんです・・・由乃様が、いなくなって、みんなで探してたんですが・・・どこにも見つからなくて・・・
 それで私、怖くなって・・・薔薇の館から出て行かれた時の由乃様、凄く悲しそうな表情をされてて・・・
 由乃様がどこかに消えちゃったんじゃないかって、それで・・・」

「ちょ、ちょっと・・・もう、大袈裟ね。私が消える訳なんてないでしょ。
 私は何処にも行かないわ。笙子ちゃんや祐巳さんを放っておいて何処かに行ったりなんかしないわよ」

「ごめんなさい・・・私、どうかしてました。そんな訳ないのに・・・」

必死に泣き止もうとする笙子を、由乃は微笑みながら優しく抱きしめる。
――そうだ。自分は一体何を勘違いしていたのだろう。何を思い込んでいたのだろう。
祐巳に拒絶されたからといって、全てが終わる訳ではない。こんなにも自分を心配してくれる人だっているのだ。
確かに以前の自分は祐巳が全てだったのかもしれない。だが、今は違う筈だ。祐巳が世界を広げてくれたのだから。
今、自分がこの場に立っていられるのは祐巳だけの支えではない。自分は多くの人に支えられているのだ。
それに、一度振られたからって諦めるなんて島津由乃らしくない。
ましてや拒絶されるのが怖くて祐巳に気持ちをぶつけないなんて、それこそ私らしくないではないか。
祐巳がいる限り、自分が島津由乃である限り何度だってぶつかってみせる。自分の気持ちに正直になってみせる。

「・・・笙子ちゃん、ありがとう。私、貴女に会えて本当に良かった」

「え?ええっ?」

困惑する笙子を、由乃はとびっきりの笑顔を見せて思いっきり抱きしめる。
マリア様なんてこれっぽっちも信じてなかったけれど、今は少しだけ信じてあげてもいい気がした。
こんな良い娘を、私なんかと引き会わせてくれたマリア様の気まぐれに。
さあ、これ以上無い程に背中は強く押された。あとは真っ直ぐどこまでも走り抜けるだけ。


もう、逃げたりなんかしない。自分の気持ちに嘘はついたりなんかしない。

祐巳に自分の本当の想いを伝えよう。スールとして、二人の絆を特別なものにする為に。















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