24.祐巳の絆










マリア像の前に独り、祐巳はうずくまっていた。



一体何時からその場所にいたのだろう。一体どれほどの時を独りで過ごしたのだろう。
マリア像の前にいる少女を、誰もが気付かずに通り過ぎていく。彼女達には祐巳が見えないのだ。
それを彼女が望んだから。自分に課せられた罰だと。それは当然の事だと。
由乃は背筋の凍るような感覚に襲われた。もし、あの時自分が諦めていたら。この世界に身を委ねていたら。
――この少女は、永遠の時をこの場所で独り過ごしていたのかもしれないと。

けれど、間に合った。自分はこの場所に辿り着いた。
祐巳への想いが、自分をこの場所まで運んでくれた。みんなの想いが、背中を押してくれた。
今から自分が行うことは、祐巳との永遠の別離。もう二度と会えなくなってしまう救いの道。
嫌だ。そんなの嫌だ。私は祐巳さんがいたから頑張れた。変わることが出来た。そう叫びたい。
けれど、祐巳さんが一人でこんな風に傷つくのはもっと嫌だ。祐巳さんが救われないなんて絶対に許さない。
救ってみせると決めた。笑顔を取り戻すと決めた。ならば、強く前へ進め。虚勢を張ってでも突き進め。
これは悲しいことなんかじゃない。祐巳が救われるなら、自分にとってこんなに嬉しい事はないのだから。

「ようやく会えたわね、祐巳さん。本当、随分時間はかかっちゃったけれど・・・」

「・・・よしの、さん?どうして・・・」

由乃の声に、顔を上げ、祐巳は信じられないといった表情を浮かべていた。
久しぶりに見ることが出来た祐巳の顔に、由乃は思わず笑みを零した。

「・・・どうして、か。そんなの決まってるじゃない。私が祐巳さんと一緒に居たいから来たのよ。
 私がこの場所に居る理由に、それ以外の理由が必要かしら」

「嘘・・・だって、もうこの世界で私を知ってる人なんて・・・」

「現にここにいるじゃない。私は貴女を知っている。
 島津由乃は福沢祐巳を忘れたりなんかしない。ほら、それに私って結構忍耐がないからね。
 貴女のことが好きでたまらないから、ずっと顔が見れないことに耐えられなかったみたいなのよ」

由乃の言葉に、祐巳は感情の堰を壊してしまったかのように瞳から涙を零し始めた。
それは、祐巳がようやく感情の色を取り戻した証だった。

「どうしたの?祐巳さん、どうして泣いているの?」

「わたし・・・わたし、由乃さんに、そんな風に想ってもらえる資格なんて・・・ない・・・」

「・・・どうして、そんな風に思うの?」

「私・・・酷いことばかりしてきた・・・祥子様のこと、勝手に誤解して・・・嫌われたと思い込んで・・・
 勝手に自分の事を悲劇のヒロインみたいに思い込んで、沢山の人を傷つけた・・・
 私、由乃さんが知ってるような良い娘なんかじゃないんだよ・・・凄く酷い人間なの・・・
 それに私、本当はこの世界の人間じゃ・・・」

「知ってる。祐巳さんと祥子様に何があったのか、全部知ってる。
 祐巳さんがこの世界の人間じゃないことも、祐巳さんと祥子様が姉妹だということも、全部」

祐巳の言葉を遮るように由乃は告げた。
祐巳の表情は驚きに染められた。『どうして』、と。口を開けばそんな言葉が出てきそうな程に。

「そ、それだけじゃない!私は由乃さんに許されないことをしたんだよ!?
 この世界の由乃さんは別人だって分かってた!それなのに私は由乃さんに自分の知ってる由乃さんを押し付けた!
 今なら聖様の言っていた言葉の意味が分かる・・・それは絶対に許されないことだよ・・・
 私は由乃さんを見ていなかった・・・見ようとしていなかった・・・この世界の由乃さんの事を何も考えてなかった・・・
 私は由乃さんを助けようとした訳じゃない・・・ただ、自分に都合のいい由乃さんを作ろうとしただけだった。
 そんなの最低だよ・・・私は由乃さんの全てを否定しようとしたも同然なんだよ・・・」

そう。祐巳は由乃の中に自分の知っている『島津由乃』を見ていた。
だから、初めて会った時にあんなにも取り乱した。それは嬉しかったから。
世界に一人迷子になった自分に、由乃が声をかけてもらった時、由乃が助けに来てくれたのだと思った。
確かに最初はそうだったのだろう。だけど――

「今は、違うでしょう?」

「え・・・」

「確かに最初はそうだったかもしれない。祐巳さんは私の中にもう一人の島津由乃を見ていたのかもしれない。
 けれど、今は違うでしょう?私は私、他の誰でもない、貴女を心から大好きだと想う唯一人の島津由乃なの。
 そして、その大好きは決して親友に対するモノなんかじゃない。貴女を親友として好きだと言っている訳じゃない。
 もしかして、私の一世一代の告白を忘れちゃった?」

由乃の言葉に、祐巳は強く首を横に振った。
忘れる訳がない。忘れられる訳がない。あんな風に由乃に想われているなど、祐巳は思っていなかったのだから。

「教えて、祐巳さん。今も私は貴女の中では『親友の島津由乃』なの?」

「・・・そんな訳ないよ・・・そんな訳、ないじゃない・・・」

涙を流しながら、祐巳は必死に否定する。
分かっていた。感じていた。自分の中で、由乃の存在がどんどん変わっていったことを。
由乃さんは、私の知っている由乃さんとは違った。この世界の由乃さんは私に温もりを与えてくれた。
こんな私を好きだと言ってくれた。ずっと傍にいると言ってくれた。抱きしめてくれた。
由乃さんを想う気持ちが変わっていった。そのことに気付いたとき、とてつもない不安と恐怖に駆られた。
親友としてではなく、姉として由乃さんを求める自分。そして、祥子様の時と同じ事を繰り返すことを恐れる自分。
由乃さんの想いに触れる度に、自分はどうすればいいのか分からなくなっていった。
こんなに優しくされる資格なんて無い。けれど、その温もりを手放したくない。相反する二つの気持ち。
その感情のせめぎ合いの末に、自分は逃げた。由乃さんの気持ちから、逃げてしまった。
本当は、由乃さんの気持ちに応えたかった。自分も由乃さんの妹になりたいと願った。
けれど、もし姉妹になり、祥子様の時と同じ事を繰り返してしまえば、自分は正気でいられる自信がなかった。
嫌だ。嫌われたくない。捨てられたくない。由乃さんに嫌われてしまえば、私はどうやって生きていけばいい。
結局、自分は逃げたのだ。由乃さんの気持ちに甘え、自分の中で答えを出すことから。

「私・・・本当は由乃さんの妹になりたかった・・・この世界の由乃さんに自分が惹かれてることは分かってた・・・
 でも・・・でも怖かった!もし由乃さんと姉妹になって、お姉様と同じようなことになるのが怖かった!
 由乃さんに捨てられたら・・・私はもう、どこにも居場所がなくなっちゃうと思った・・・だから・・・」

「馬鹿ね・・・本当に、祐巳さんは馬鹿なんだから」

座り込んでいた祐巳を立たせ、由乃は祐巳を自分の腕の中へと引き寄せる。
ようやく捕まえた少女の身体は、とても小さく、とても儚いモノに感じられた。
震えている。怯えている。身体が冷たくなっている。当然だ。ずっと一人でいれば、誰だってこうなる筈だ。
ならば、分け与えてあげればいい。祐巳の震えは私が止めてあげればいい。
怯えは私が忘れさせてあげればいい。身体の温もりは私が与えてあげればいい。
足りないものは、私が補ってあげればいい。不安なものは、私が支えてあげればいい。
祐巳の心は私が守る。それが人を好きになるということなのだから。それが人を愛するということなのだから。

「祐巳さん、私は貴女が好き。世界中で誰よりも貴女が好き。
 だから、自分を責めないで。貴女は悪くない。貴女だけがそんなツライ思いをするなんて絶対に許せない。
 もし、祐巳さんが自分が悪いと思うなら、その罪を私に分けて頂戴。心の痛みを私に分けて頂戴。
 私は祐巳さんが笑ってないと嫌なの。誰よりも幸せになって欲しいの」

「っ・・・馬鹿は由乃さんだよ・・・そんなこと言われると、私駄目になっちゃうよ・・・
 いいのかな・・・私、酷いことばかりしてきたのに・・・許されても、いいのかな・・・」

「誰が祐巳さんの何を許すのよ。いい?この世界中で誰が祐巳さんを責めようとも私が味方になってあげる。
 誰が何を言ってきても私が絶対に祐巳さんを守ってあげる。世界を敵に回しても、絶対に祐巳さんを救ってあげる。
 もし祐巳さんが迷ったとしても、私が貴女を捕まえてみせる。必ず見つけ出してみせる。
 だから、もういい加減に自分を許してあげて。祐巳さんが泣いたままだと、私がキスの一つも出来ないじゃない」

「もう・・・何それ・・・・・・・――ありがとう、由乃さん」

笑った。その瞬間、祐巳は久しぶりに笑顔を浮かべた。
涙を目に浮かべたままだけど、確かに笑ってくれた。それは、由乃が大好きだった祐巳の向日葵のような笑顔。
その笑顔に、由乃はいつだって元気をもらっていた。彼女の笑顔があれば、何処へでも行ける気がした。
――ようやく、捕まえた。祐巳さんの、本当の笑顔を。
由乃も祐巳に微笑み返した。さあ、後は最後の仕上げだ。自分が祐巳にしてあげられる最後の贈り物。

「ねえ、祐巳さん。この場でもう一度、私の想いを伝えていいかしら。
 私、諦めが悪いほうだから。祐巳さんを未だに諦めることが出来ないのよ」

「由乃さん・・・」

祐巳を離し、由乃は彼女に向き直った。
きっとこれが、祐巳に送ることが出来る最後の想い。島津由乃の最後の心。
だから、最後だけは自分に我侭に。後で恨まれるかもしれないけれど、今伝えないときっと自分は後悔するだろうから。
祐巳に向けて、由乃は告げる。自分の心のままに、想いを彼女に。


「私は、親友じゃなくて祐巳さんの特別な人になりたい。貴女の一番になりたい。
 そして、これからはずっと貴女の傍にいたい。誰よりも傍で一緒に笑っていたい。
 だから祐巳さん・・・貴女に私の妹になってほしい」

「いいの・・・?私はまだ、由乃さんの傍にいてもいいの・・・?」

「いてほしいのよ。私は貴女の傍で、いつまでも貴女の笑顔を見ていたいの。
 さあ、返事を聞かせて。どんな答えでも、私はきっと後悔はしない筈だから」

そう。後悔なんてありえない。
自分は祐巳が好き。祐巳の傍にいたい。誰より傍で笑っていたい。自分の気持ちはしっかりと伝えることが出来た。
あとは祐巳の返事を聞くだけだ。それだけで、きっと島津由乃は満足出来る筈だから。満足して、別れられるから。
だから、聞かせて。祐巳さん、貴女の声を。貴女の想いを――

「お受けします。・・・私は、福沢祐巳は島津由乃様の妹になりたい・・・
 私も、由乃様の一番になりたいです・・・誰より傍で、由乃様の笑顔を見ていたいから・・・」

祐巳の言葉に、由乃は何も言わずに彼女を抱きしめた。
もう言葉なんて要らない。わざわざ口にする必要もない。
自分は祐巳の特別になることが出来た。その喜びは、決して言葉になんて表せないのだから。

「ありがとう、祐巳さん・・・ふふ、私も祐巳って呼んだ方がいいのかしら」

「あはは・・・ちょっと、慣れないね。私も由乃様って呼ぶの、恥ずかしかったよ・・・」

「あら、それじゃまるで私が年上としての尊厳が疑われてるみたいじゃない。
 一応、こっちの世界では私は祐巳さんの先輩なんだからね」

「ふふ、それじゃ今から練習しないと駄目だよね。私、由乃さんの妹になれたんだもの・・・
 由乃さん相手に敬語使う練習しないと、普通の生徒の前で絶対素で話しちゃいそう」

由乃は祐巳に微笑む。練習する必要なんて無い、そんな悲しいことを口にするのが嫌だったから。
だから笑った。最後の別れの時くらい、笑っていようと決めたから。そうじゃないと、祐巳さんが安心して帰れないから。

「それじゃ祐巳さん、受け取って頂戴。私と貴女の、スールの証を」

「え・・・そのロザリオは・・・」

由乃の取り出したロザリオを見て、祐巳は驚きを隠せなかった。
それは、祐巳と祥子の絆の証だったロザリオ。祐巳が、失ってしまっていた大切な絆。

「このロザリオが、祐巳さんにとってツライ過去だってことも分かってる。
 でも、祐巳さんはそれを乗り越えないといけない。そうじゃないと、これから先も笑っていられないでしょう?
 だから受け取って。これは祥子様との絆であると共に、私との絆でもあるのだから」

「・・・そうだね。お願い、由乃さん」

祐巳の言葉に頷き、由乃はそっと祐巳の首にロザリオをかけた。
在るべきモノは在るべき場所に。そのロザリオはようやく主の元へと戻ることが出来たのだ。
これで、自分と祐巳は姉妹になることが出来た。・・・悔いはない。さあ、フィナーレを迎えよう。

「え・・・」

瞬間、ロザリオから光が放たれた。
その光は世界を照らし、祐巳と由乃を除いた全ての景色を包み込んでいく。
何が起きたのか理解できずにいる祐巳に、由乃は微笑を浮かべた。お別れの時間だと、自分に言い聞かせて。

「何!?何が起こってるの!?」

「祐巳さん、私は貴女に会えて本当に幸せだったわ。
 貴女に会えなかったら、きっと私はこんな風に笑えなかった。幸せを感じることが出来なかった。
 世界が、こんなにも素晴らしいものだったなんて、絶対に理解出来なかった。だから、ありがとう。
 最後の最後になっちゃったけど、私は貴女の姉になることが出来て、本当に嬉しく思うわ」

「由乃さん・・・?何を言ってるの・・・」

「・・・もうすぐ、この世界は塗り替えられるわ。貴女のいない、祐巳さんのいない世界へと。
 このまま祐巳さんがこの場所にいたままだと、貴女は本当に一人ぼっちになっちゃう。
 だから、ここで私達はお別れ。祐巳さんは元の世界に戻らなくちゃいけないの」

由乃の言葉に、祐巳はようやく状況を理解した。
それはつまり、由乃との永遠の離別。自分の世界に戻ってしまえば、由乃とはもう二度と会えないということ。

「うそ・・・嘘でしょ・・・ねえ、冗談だよね・・・」

「祐巳さん、私は貴女が大好き。世界で誰よりも、貴女が大好き。
 だから、貴女の傍にいられて嬉しかった。本当に、嬉しかったの」

「嫌っ!!そんな言葉聞きたくない!!どうして!?どうしてなの由乃さん!!
 私、由乃さんの妹だよ!!妹は姉から離れちゃ駄目なんだよ!!
 やっと自分の気持ちに気付けたのに!由乃さんの妹になれたのにこんなのってないよ!!」

「うん・・・私も、折角祐巳さんの姉になれたのにね。残念・・・祥子様の悔しがる顔が見たかったんだけどなあ。
 だから、祐巳さん。最後に我侭な姉からのお願いを聞いて頂戴」

最後だから。貴女と一緒に過ごせる最後の時だから。だから――

「――笑っていて。私、貴女の笑顔が大好きだから。
 うん・・・私も頑張るから。最後まで、ずっと笑っているから、だから」

笑って――そう告げて、由乃は微笑んで見せた。そのつもりだった。
だが、由乃は頬に涙が伝わってくるのを感じた。温かい雫が一滴、また一滴と由乃の頬を伝っていく。
やだな・・・最後は笑っているって決めたのに。最後まで泣かないって決めてたのに。最後の最後で格好悪い。
でも、それでも最後くらいは無理矢理にでも笑っていよう。それが、私が祐巳に出来る最後の事だから。

「由乃さん、全然笑えてないよ・・・由乃さん、泣いてるよ・・・」

「失礼ね・・・そこは見てみぬ振りをするのが妹ってもんでしょうが。
 そういう祐巳さんこそ、泣いてばかりで全然笑ってないじゃない。それじゃ、私が成仏できないでしょ」

由乃の言葉に、祐巳は涙を拭き、笑ってみせた。
――なんて、綺麗な笑顔なんだろう。そうだ。自分はこの笑顔に惹きつけられたのだ。
どこまでも真っ直ぐで、どこまでも無垢な笑顔。ああ、これで自分は満足して別れを告げられる。
祐巳を包む光が強くなる。これで本当にお別れ。

「由乃さんっ!!!また、また会えるよね!!またいつか、絶対に会えるよね!!」

祐巳の声に、涙が止まらない。自分は今、本当に笑っているのだろうか。
本当はこの理不尽な別れに逆らいたい。泣いて縋って、祐巳と離れたくないと喚き散らしたい。
だけど、それじゃ祐巳が向こうに帰れないから。だから、笑え。最後まで、島津由乃らしく強情を貫いて。

「――また、会えるわ。だって私達、姉妹だもの。また、いつか」

由乃の言葉に、祐巳は笑った。そして、由乃も笑った。
涙でほとんど祐巳の顔なんか見えなかったけれど、それでも笑っていることだけは分かった。
――ありがとう。貴女に出会えて、本当に良かった。祐巳に出会えた奇跡に、感謝を。
また、会える。二人がそれを望む限り、いつかまた。二人の絆が離れぬ限り。








光は急速に収まってゆき、その場所には由乃と気を失い倒れた祐巳がいた。
――ああ、祐巳は向こうの世界に行ってしまったのだろう。だからこの祐巳は、きっとこちらの世界の祐巳。
その証に、首にかけられていたロザリオが失われていた。祐巳は無事に自分の世界へと戻ることが出来たのだろう。
倒れた祐巳の傍に座り、祐巳を抱きかかえて由乃は空を仰ぐ。

「これで・・・良かったのよね。私、祐巳さんを救うことが出来たのよね・・・」

もう、世界の塗り替えは始まっているだろう。祐巳というイレギュラーが消え、世界は元の形へと戻っていく。
そして、自分も消えるのだ。祐巳への想いという、この世界にあってはならない感情を抱いた自分も、
世界の波に流され、祐巳の事を忘れてただの島津由乃へと戻るのだ。
だが、それも悪くない。もう、自分は祐巳の想いを伝えた。祐巳の姉になることが出来た。祐巳を救うことが出来た。
だから、もう眠ろう。愛する祐巳を抱きしめたまま消えるなんて、少し柄じゃないけどこれ以上ない幸せだ。
さようなら、祐巳さん。本当に、貴女に出会えてよかった。もう、これで思い残すことなんて――






















『無い訳ないじゃない』











声が、聞こえた。












『貴女はまだ、やり残したことがあるでしょう。何勝手に諦めようとしてるのよ』









その声は、笙子との時に自分を後押ししてくれた声。









『貴女は約束したんでしょう。
 祐巳さんの特別な人になりたいって。祐巳さんの一番になりたいって。
 祐巳さんの傍にいたいんでしょう?誰よりも傍で一緒に笑っていたいんでしょう?
 それなのに諦めてどうするのよ!そんなことで諦めるなんて――』










――そうだ。こんなところで諦めてどうする。

仕方がない。しょうがない。そんなことで諦めるなんて――











『私らしくないでしょう!?』

島津由乃らしくないではないか――












聖は言った。
最後まで自分の想いに嘘はつくなと。自分がどうしたいのか、自分の心のままに最後まで貫けと。
このまま諦めるのが自分の想いに嘘をついてないと言えるのか。
このまま身を委ねるのが自分の心を最後まで貫いていると言えるのか。

――嫌。こんなところで諦めるなんて絶対に嫌。
私は祐巳さんの傍にいたい。誰より傍で笑っていたい。諦めない。諦めたくない。
祐巳さんの姉になれた。それだけで満足して終わるなんて絶対に嫌。
私はもっと祐巳さんと一緒にいたい。祐巳さんの姉として誰よりも傍にいたい。

『本当は自分がどうしたいのか。一体何を求めているのか。自分の想いをそのまま行動に移せばいい。
 そうすれば、きっと祐巳ちゃんを救う為に力を貸してくれる筈だよ。君の中に眠るもう一人の島津由乃が、ね』

だからお願い。力を貸して。
私はまだ、祐巳さんと別れる訳にはいかないのだから――!


















 ・・・



















瞬間、世界が再び光に包まれた。
学園も、マリア像も、胸の中に抱いていた祐巳さんも、全てが消えてしまった。
そして、目の前に一人の少女が立っていた。
その少女は、不機嫌そうに由乃の方を見つめていた。
――否、その表現は少しだけ不適切かもしれない。何故なら見つめていた少女も『島津由乃』その人だったからだ。

「本当・・・貴女って、いつも最後の最後で駄目駄目ね。それで本当に祐巳さんの姉が務まるのかしら」

「貴女は・・・私?・・・そう、つまり貴女は・・・」

「そう。私は貴女。もう一人の島津由乃・・・祐巳さんの親友で、祐巳さんの世界の島津由乃」

楽しそうに笑う『由乃』に、由乃はようやく理解した。
聖の言っていたもう一人の自分とは、やはり彼女のことだったのかと。

「それにしても・・・貴女のこと、ずっと見てたけど、祐巳さんが一人いないだけであんな風になるもんなの?
 自分のことながらビックリしたわよ。何あれ、メチャクチャ荒れてるじゃない」

「うるさいわね・・・放っておいてよ。それに私、荒れてはいたけど、貴女みたいに無鉄砲な行動ばかりしてないわ。
 何が黄薔薇革命よ。貴女リリアンの姉妹制度を無茶苦茶にするつもりだったわけ?」

何を、と互いににらみ合うが、このようなことをしてる場合ではないことに互いに気付く。
そして、由乃はもう一人の自分の方に視線を送り、説明を求めた。この場所に呼んだ訳を。

「理由も何もないわよ。貴女、決めたんでしょ。祐巳さんと生きていくって。約束したんでしょ。
 だったら約束の一つや二つ、最後までちゃんと押し通しなさいよ。勝手に諦めるなんて許さない。
 私の親友の姉になったんでしょう。だったら最後まで頑張りなさいよ」

「だから!そうしたいけれどしょうがないでしょ!?私は祐巳さんの世界の住人じゃないもの!!」

「だから、『私』がいるんでしょう?」

『由乃』はそっと近づき、由乃の額を自分の額と付け合せる。
そして、互いに手を絡ませあい、瞳を閉じる。それはまるで、鏡写しのような光景だった。

「貴女が祐巳さんを追いかける方法なんて簡単よ。私と一つになればいい。
 そうすれば祐巳さんと向こうの世界で一緒に過ごせるでしょう?」

「でも・・・そうすると貴女が・・・」

その言葉に、『由乃』は楽しそうに笑う。それは見当違いの考えだと。

「だから、一つになるのよ。貴女に身体を譲る訳じゃない。私が消える訳でも、貴女が消える訳でもない。
 私と貴女が溶け合って一つになるの。そうすれば、私も貴女も、祐巳さんの傍にいられる筈だから」

「・・・本当に、いいのね・・・」

「・・・本当はね、貴女に凄く感謝しているのよ。祐巳さんを救ってくれた貴女に。
 だから、私は貴女を誇りに思う。別世界の自分が、親友を助けてくれた。
 だったら、今度は私の番よ。私が貴女の力になってあげる。だから貴女は祐巳さんの力になってあげて」

鏡写しの島津由乃はやがて一つになる。
記憶も、想いも、全てが一つに混ざり合い、溶け合っていく。
それは、決して不快な感覚ではなった。むしろ、心地よさすら感じる。
二人の気持ちは一つ。それは親友の為に。それは妹の為に。それは大切な人の為に。
二人を包む光が分散されていく。さあ、会いに行こう。今度は二度とその手を離すことがないように――























 ・・・





















祐巳は一人、中庭のベンチに座って空を眺めていた。
夏に向かっているとはいえ、この場所は風が心地いい。まだまだここで時を過ごすには充分過ぎる程だ。
山百合会が始まるまで、まだ時間はある。放課後にこうやってノンビリするのが最近の祐巳の日課だった。

――結局、祐巳が目を覚ましたのは
あの日、祥子と別れてから一日しか経っていない朝だった。
今までのことは全て夢かと疑った。由乃との日々は、全て幻だったのかと思った。
けれど、机の中にしまっていた筈だったロザリオが、確かに祐巳の首にかかっていたのだ。
そう、あの日々は確かに現実だったのだ。それはきっと、マリア様が下さった贈り物。
あの世界で、祐巳はかけがえのないモノを手に入れたのだ。それは、確かな祐巳の絆。
その後、祐巳は祥子に会いに行き、己の気持ちの全てを打ち明けた。祥子も祐巳に事情を話したのだ。
そして、祥子と祐巳は擦違うことなくいられた。それも全て、もう一人の姉のおかげだった。

「今日は少し風が強いね、ランチ」

祐巳は膝の上で眠っている猫に話しかけて、楽しそうに微笑んだ。
こんな日だと、きっとお姉様は文句を言いそうだ。
『風が強過ぎるわよ!もっと私達が過ごしやすいよう気を使いなさいよ!』とでも言うだろうか。
あの人はどんな無茶苦茶なことでも平気で言うから。そんなところも、大好きなんだけれど。
――あの別れた時以来、祐巳はこうして思い出の場所にきては由乃の事を思い出していた。
最初のウチは、この世界の由乃の顔を見る度に、少し泣きそうになってしまったのだけれど、
今はもう大丈夫。私が笑っていないと、きっとお姉様は怒るだろうから、と。
また会える。お姉様は私に約束してくれた。また、いつか。そう私に言ってくれた。
お姉様はいつだって約束を守ってくれた。私を救ってくれた時も、そうだった。
だから、私は信じて待とう。お姉様が約束を果たしてくれるその日まで。お姉様と、再会できるその日まで。

「にゃっ」

「あれ、ランチ?」

突如、ランチが祐巳の膝の上から飛び起きて、どこかへと走り去ってしまった。
不思議そうにランチを見つめている祐巳だったが、その瞬間、背後から誰かの声が聞こえてきた。

「もう・・・少し風が強過ぎるわよ。もっと私達が過ごしやすいように少しは空気を読んで欲しいわね」

「え・・・」

思わず、祐巳は振り返った。驚きのあまり、声を漏らさずにはいられなかった。
振り返った視線の先には、由乃が微笑みを浮かべて立っていた。
だが、違う。由乃である筈のなのに、祐巳にはまるで別人のように感じられた。それはまるで・・・

「おねえ、さま・・・?」

それは、まるで自分を救ってくれたあの人のようで。
夢を見ているのかと思った。また、あの優しい夢を見ているのかと思った。
けれど、これは現実で。私は確かにここにいて。
呆然とする祐巳に、由乃は楽しそうに笑って口を開いた。

「フフ、ちょっと遅れちゃったけど・・・ただいま、祐巳さん。
 約束通り、また会えたわね」

瞬間、祐巳はベンチから立ち上がり駆け出していた。
そして、そのまま由乃へと抱きついた。その衝撃に、由乃は危うく後ろに倒れそうになる。
しっかりと祐巳を抱きとめ、由乃は祐巳に微笑を浮かべた。それは、誰よりも優しい微笑み。

「馬鹿っ!!お姉様の馬鹿っ!!もう二度と会えないかと思った!!
 不安だったんだから!!怖かったんだから!!馬鹿っ!!ばかあっ!!」

「ごめんね、祐巳さん。てっきり祐巳さんと同じ時間帯に戻れると思ってたんだけど、
 まさか半月もズれるなんて思わなかったのよ。けれど、私は確かにここにいるわ。
 もう私は貴女から離れないって約束したものね」

由乃の胸の中で号泣する祐巳を、由乃は強く抱きしめた。
もう二度と、その温もりを離さぬように。忘れえぬように。ただ強く。

「もう二度と、離さないで・・・私をお姉様の傍にいさせて・・・私、お姉様が大好きだから・・・だから」

そう。もうこの手は絶対に離したりしない。自分と祐巳は特別な絆で結ばれているから。

「勿論よ。私も祐巳さんが大好きだもの。
 これからはずっと一緒よ。それこそ、祐巳さんが迷惑だって思うくらいにね。
 それに私は――」

互いの想いがつながっている限り、二度とこの娘を手放したりしない。この笑顔を失わせたりしない。
この娘の――祐巳の笑っている傍が、私の居場所なのだから。

「私は――祐巳さんの姉なんだから!」

祐巳と一緒にどこまで歩いていくこと。それが私の願いなのだから――










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