4.傷痕










祐巳と由乃が再会を交わしてから、二人は放課後に中庭のベンチで会うようになった。
どちらがそう提案した訳でも、取り決めた訳でもない。けれど、二人にとってそれは放課後の日課となっていた。
由乃が山百合会、薔薇の一員ということもあり、そう長い時間一緒にいられる訳ではないが、
それでも由乃にとって、その短い時間は何よりも代え難い程に大切な、そして心安らぐ時間でもあった。
ただ二人で他愛も無い雑談に興じ、会話に花を咲かせる。時折、互いのことを訊ねあったりもした。
話せば話すほど、由乃は祐巳に惹かれていく自分を感じていた。祐巳の存在、その全てが愛おしい。
彼女の他の誰でもない、由乃だけに向けられた笑顔。言葉。由乃が渇望していた全てを彼女は惜しみなく与えてくれた。
飢え乾き、温かさを失っていた由乃には、それがたまらなく嬉しかった。今はただ祐巳に溺れてしまいたいと願った。
それ故に、由乃は今日も中庭に足を運ぶのだ。大切な人の存在を、身体でしっかりと感じ取る為に。



「ごきげんよう、祐巳さん。
 またランチに餌をあげてたの?」

「ごきげんよう、由乃さん。・・・はい、もうおしまい。もう餌は持ってないよ〜」

そうランチに言い聞かせる祐巳に、由乃は思わず笑ってしまう。
猫に話しかける祐巳の姿がどこかおかしくて、そして可愛らしくて。どうしても耐えられなかった。

「あ、また笑ってる。由乃さんって結構私を見て笑ってるよね。
 私笑われるようなことしてるつもりないんだけど」

「あら、いいじゃない。祐巳さんはそれだけ私にとって魅力的ってことよ。
 祐巳さんを見ると私、天使の笑みを零さずにはいられないらしいの」

「そんな意地悪そうに笑う人のどこが天使なの、もう。
 それにしても、今日は大丈夫なの?由乃さん、今日山百合会で大事な話し合いがあるんじゃないの?」

「あれ?どうして知ってるの?私、昨日教えたかしら?
 私、極力貴女の前では薔薇の話はしていないつもりなんだけど」

不思議そうな表情を浮かべる由乃に、祐巳は笑いながら『違うよ』と教える。
その間に、祐巳がようやく何も持っていないことに気付いたのか、ランチはアクビを一つして何処かへと駆けて行った。

「クラスの友達が言ってたの。その娘、美術部なんだけど、ちょっと部活で問題があったらしくて。
 それで昨日、私に薔薇様達に相談していいのかどうか訊ねてきたから、今なら大丈夫だよって教えてあげたの。
 今は行事が何も無いから薔薇様達の手が空いてるでしょう?だから、話し合いが今日あるんじゃないかなって」

祐巳の思い出しながら言葉を紡いでいく説明に、由乃は一瞬眉を顰める。
それは、彼女が意識してのことではなかった。だが、由乃はそんな表情を浮かべずにはいられない程に驚いたのだ。
どうしてこの少女は、こんなにも山百合会の内情に詳しいのだろうか、と。

「へえ・・・祐巳さんよく知ってるわね。私達の手が空いてるなんて、普通一年生が考えることじゃないわよ」

「え・・・あ!?その・・・
 えっと・・・えっと、ほら、私、薔薇の信奉者だから」

その場で取り繕ったような言い訳をする祐巳に、由乃は更に表情を険しくする。
いくら良い言い訳が思いつかなかったとはいえ、薔薇であることを嫌悪している自分の前で
それは無いのではないか。第一、そんな見え透いた嘘をつくこともどうなのか。
いくら年下相手に大人気ないとはいえ、由乃はイライラが加速していく自分を抑え切れなかった。
そんな由乃とは対照的に、言い終わった後、そのことに気付いたのか、祐巳は表情を曇らせていく。
それはまるで飼い主に怒られている柴犬の仔犬のようであった。

「あら、初耳。それは一体どちらの薔薇様かしら。お聞かせ願いたいわ、将来の薔薇候補様」

「由乃さん、意地悪だよ・・・そんなの、黄薔薇の蕾に決まってるじゃない」

「別に無理しなくてもいいのよ。そうね、そうよね。薔薇様達はみんな魅力的だからね。
 私みたいな、冬薔薇(ふゆそうび)なんて相手にするくらいなら他の薔薇に心惹かれるのは当然だもの」

「由乃さんっ!!」

急に声を上げた祐巳に、由乃は驚き、視線を向けた。
怒っていた。祐巳は、普段の様子からは想像出来ない程に、由乃に対して怒っていた。

「私、今凄く怒ってるよ。理由、分かるよね」

「・・・冬、薔薇」

由乃はポツリと先程自分の言った言葉を反芻する。
――冬薔薇。それは、このリリアン女学園の生徒達が由乃のことを陰で表現する言葉だった。
由乃は薔薇の蕾として生徒達にとって山百合会の中でも特別な存在だった。孤独な薔薇、それが学園での由乃だった。
クラスメイト達とも交わらず、あの山百合会でもそれは変わらず、ただ淡々と仕事をこなすだけの薔薇の蕾。
それはまるで、冬に咲く一輪の薔薇のようだった。寒空の下、殺風景な風景の中で、凛と独り強く美しく咲く薔薇。
他の薔薇とは離れ、独り凍てついた季節に咲く孤高の薔薇。それが由乃の黄薔薇の蕾とは別の名だった。

「前に私、言ったよ。由乃さんは他の何でもない、島津由乃さんだって。
 他の人が由乃さんをどう思ってるかなんて関係ない。私は由乃さんが好き。大好きだよ。
 それなのに、どうして由乃さんはそんな風に自分自身を傷つけるようなことを言うの」

「祐巳さん・・・、っ痛!」

突如、右手に軽い痛みが走り、由乃は自分の手の視線を送った。
そこには、いつの間にか、由乃の右手を祐巳が両手で包み込んでいた。否、握っていたという方が適切かもしれない。
それ程までに、祐巳の小さな手のひらからは考えられない力が由乃の手に加わっていた。
由乃は驚き、慌てて再び祐巳の顔へと視線を戻した。


そこに、彼女の知っている福沢祐巳は存在しなかった。


否、それは確かに福沢祐巳だったのだろう。他の第三者がいれば、何を当たり前なことをと言って笑ったかもしれない。
しかし、由乃は全身でそう感じてしまったのだ。『この目の前にいる少女は誰だ』と。
先程の祐巳からは考えられない程に混濁した瞳、そこには彼女の持つ特有の輝きが完全に失われていた。

「私、やだよ。大切な人がいなくなるなんて、絶対に嫌。
 私は由乃さんが大切なの。傷つかせたくなんてないの。もう二度と大切な人を失いたくないの。
 この世界で一人ぼっちだった私を助けてくれた由乃さんを失うなんて、絶対に嫌なの」

何を大袈裟な、と一笑に付すことも今の由乃には出来なかった。それ程までに祐巳の雰囲気が異様だった。
そして、由乃はようやく気付いた。今の彼女は、二度目に出会った時の祐巳だと。
息の詰まるような空気。肌に風が触れるだけで倒れそうになる衝動。今この瞬間も身動き一つ取れない。
それは、まるで聖マリア様と対峙してしまったようだ。
絶対的な存在。希望も絶望も皆平等に扱われた存在。自分には呼吸一つ、彼女の赦しを得て初めて行われるのだ。

「だから、自分で自分をそんな風に言わないで。私の大切な人を傷つけるなら、奪うのなら、いくら瞳子ちゃんでも許さない。
 そう・・・許さない。もう私は失ったんだから、これ以上私から何も奪わないで。私の大切なモノを取らないで。
 もう、何もしないまま大切な人を失うなんて嫌。絶対嫌。何もしないで失うくらいなら、いっそ・・・」

言葉が途切れ、祐巳の力が弱まった瞬間、由乃はありったけの力を込めて、彼女の手を振り払った。
そして、両手で祐巳の肩を掴み、声をあらん限り荒げて呼びかける。

「祐巳さん一体どうしたのよ!?大切な人を失うって何!?
 何を言ってるのかよく分からないけど、私はここにいるから!だから、しっかりして!!」

「・・・・え・・・・あ・・・・由乃、さん?」

「そうよ、私よ!!島津由乃よ!!」

「あ・・・あれ・・・私、どうして・・・」

まるで憑き物が落ちたかのようにキョトンとする祐巳に、由乃は思わず全力で叫びそうになった自分を抑える。
そして、慎重に言葉を選ぶ。もしかしたら、祐巳の心のデリケートな部分に何か触れてしまったのかもしれないからだ。

「その、祐巳さん。覚えて、ないの?」

「覚えてって、言われても・・・あ!そうだった!話の続きだよ!
 由乃さん、二度と自分のことを冬薔薇なんて言っちゃ駄目だからね!
 今度言ったら私、その、えっと・・・とにかくすっごくすっごく怒るからね!!」

――祐巳は、覚えていない。
由乃は祐巳に空返事をしながら、頭の中で先程の光景を反芻する。
先程の祐巳の変わり様は一体なんだったのだろうか。先程、彼女は確かに別人染みていた。
それは自分の気のせいだったのだろうか。
祐巳が怒るという非日常に、感覚が麻痺してしまっていただけなのだろうか。
・・・そうなのかもしれない。そもそも、祐巳が別人染みていたからといって何の問題があるのだろうか。
例え彼女が二重人格者であろうと多重人格者であろうと、友達と言ってくれたことに変わりはない。
そう、彼女の別の一面を見たからといって由乃には関係なかった。
祐巳がいれば、傍にいてくれればそれでいい。そう考え、由乃は祐巳に視線を向けた・・・のだが。

「・・・あの、由乃さん、ごめんね」

「え?」

怒られていたかと思えば、いきなり謝られ、由乃は思わず間抜けな声を出してしまった。
いざ会話を再会しようと振り向いた瞬間に謝られては、流石の由乃も出鼻をくじかれた形となってしまう。

「私・・・由乃さんに嘘ついてる。薔薇の館、山百合会に詳しいことには本当は理由があるの。
 でも、言えない。言えないんだ。だから、ごめんね・・・本当に、ごめん」

「・・・馬鹿ね、そんなの気にしてないわ」

「でも・・・」

不安そうな表情を一向に変えようとしない祐巳に、由乃は軽く溜息をついて呆れ果て、遂には笑ってしまう。
先程まで自分を大切にしろと説教した人間とは思えない程、彼女は小さくなっている。その姿が、おかしかった。
きっと、祐巳は怖がっているのだ。隠し事をして、自分は嫌われてしまうのではないかということに。
ならば自分のすべきことは唯一つ。彼女の、大切な友達の無駄な杞憂を優しく取り去ってあげるだけだ。

「言いたくないことの一つや二つあって当然よ。人間なのよ、無い方がおかしいわ。
 ・・・私達は友達じゃない。つらいときは支えてくれるんでしょ?一緒にいてくれるんでしょ?
 だったら、私も同じよ。貴女がどうしても一人で抱えきれなくなるまで、支えてあげる。傍に居てあげる。
 もし、どうしても一人じゃ無理だと思ったら私に言いなさい。その時は、誰を敵に回しても私が力になるから。
 それにね、貴女が言いたくないことが一つや二つあるからといって、私が貴女を嫌いになると思ってるの?
 ・・・それこそ、本気で怒るわよ。言っとくけど、私が怒ったら貴女の比なんかじゃないから」

ふふん、と楽しそうに笑う由乃に、祐巳は一瞬表情を忘れてしまったかのように魅入ってしまっていたが、
やがて、声を漏らして笑い出した。それは、福沢祐巳という少女に一番よく似合う、心からの笑顔だった。

「そうだね、由乃さん怒らせたら右に出る人はいないくらい怖いものね。
 ありがとう、由乃さん・・・私、由乃さんと出会えて、本当に良かった」

「何を大袈裟に言ってるのよ、もう・・・
 それに、元はと言えば私が自分を卑下したことから始まったんだしね。
 もう二度と、自分を蔑むような真似はしないわよ。・・・祐巳さんが悲しむの、嫌だしね。
 で〜も〜、更に元を糺せば祐巳さんが別の薔薇なんかに浮気したからだし」

「う、浮気なんかしてないってば〜!!
 あ、でも他の薔薇様の方が由乃さんより薔薇だなあって思ってるのは本当。
 少なくとも何かにつけて山百合会をサボろうとする由乃さんは薔薇様だってあんまり思えないよ。
 さっきは話を逸らされたけど、今日の山百合会の話し合いだって現に今ボイコットしてるもの」

「あ、言ったわね!一年生の癖に生意気っ!・・・まあ、サボってるのは否定しないけれど」

互いに見つめあい、そして笑いあう二人だが、空から一滴の雫が落ちてきたことに気付き、互いに空を見上げた。
いつの間にか空は暗く覆われ、再び一滴、また一滴と雨がゆっくりと降り始めていた。

「・・・雨、降ってきたね由乃さん」

「・・・はぁ、憂鬱ね。
 折角祐巳さんとお話出来る時間なのに、それを邪魔するなんて空気が読めないにも程があるわ。
 雲の癖に空気読めないなんてどういうことよ。きっとあの雲の前世は異性にモテなかった人間達の塊ね」

「由乃さん、無茶苦茶言ってるよ・・・」

「いーの!私は誰に対しても何に対しても思ったことは言うようにしているんだから。
 これじゃ、この場はお開きにするしかないか。そろそろ会議に参加しないと瞳子がキャンキャンうるさいし」

「あはは・・・瞳子様と仲悪いんだったっけ、由乃さん」

苦笑する祐巳の言葉に、由乃はふと違和感を感じた。
何故だか分からないが、まるで精密機械の歯車のギア比が噛み合わなかったような、
そのようなスッキリしない違和感が由乃にまとわりついていたが、気にせず祐巳との会話を続ける。

「悪いなんてもんじゃないわよ。もう天敵ね、天敵。ハッキリ言って出会った時から存在が気に食わなかったわ。
 志摩子さんとは互いに無干渉だからいいけど、あの馬鹿女は私に事ある事に噛み付いてくるのよ。
 何かにつけて薔薇としての威厳だ薔薇としての見本だ・・・ああもう!思い出すだけでイライラするっ!!」

「もう、由乃さんったら。ケンカばかりしちゃ駄目だよ。
 それじゃ、私は帰るね。また明日、この場所で。ごきげんよう」

「ええ、ごきげんよう。気をつけて帰るのよ」

何となく、大人に子供のケンカを諭されたようでバツの悪かった由乃だが、
去り際に大人ぶってみることで、体裁を少しでも繕ってみることにした。
だが、祐巳はそれに気付くこともなく、笑顔のままで学園内へと戻って行った。

「ふう・・・さて、と。私も怒られにいこうかな。全く憂鬱ね。何であんなのが紅薔薇の蕾なのかしら。
 瞳子も祐巳と同じように年下だったら良かったのよ。そうしたらクラスも一緒になることはないし、
 年上の私に逆らうこともないし、私だって瞳子ちゃんって呼んで馬鹿に出来・・・」

――瞳子ちゃん。その言葉を口にした瞬間、由乃は視線を校舎の方に向けた。
そこに、先程まで一緒に会話していた少女は既に無く、ポツポツと今にも本降りになりそうな雨が降っているだけだった。

「・・・瞳子、ちゃん?」

由乃は再び、その名前を反芻する。
別にその名前の人物が気になる訳ではない。むしろ吐き捨てたい程に口にするのも嫌な人物だ。
だが、その響きを自分で口にすることによって、先程感じた強烈な違和感の正体を見つけることが出来た。
祐巳が、瞳子の名を呼ぶときに『瞳子様』と言った瞬間に感じた違和感。
彼女は『最初に』瞳子の名前を口にしたとき、何と呼んだのか。


――私の大切な人を傷つけるなら、奪うのなら、いくら瞳子ちゃんでも許さない。


先程の祐巳の状態が異常過ぎたから気がつくことが出来なかった違和感。それを由乃は見つけてしまった。
何故、あそこで瞳子の名前が出てきたのか。どうして年下の祐巳が自分と同級生の瞳子を瞳子ちゃんと呼んだのか。
否、それよりも大事なことがある。

『私の大切な人を傷つけるなら、奪うのなら、いくら瞳子ちゃんでも許さない』

祐巳が、口にした言葉の意味。これは、どういう意味だ。瞳子と祐巳は知り合いなのか。
そしてそれ以上に、その言葉の内容が気にかかる。これは、どういうことだ。二人の間に過去、何かあったのか。

「祐巳さん・・・」

気にならないといえば嘘になる。しかし、由乃はこれ以上祐巳に対して詮索するつもりはなかった。
祐巳が話したくないのならば、聞くべきではないし、何より祐巳はあの時のことを覚えていないのだ。
きっと祐巳にとっては好ましいことではないのだろう。ならば、祐巳からは触れるべきではない。
自分のすべきことはそんな事ではない。自分のすべき事は先程祐巳に言ったばかりだ。
祐巳が、どうしても一人で抱えきれなくなるまで、支えてあげること。傍にいてあげること。
そして、祐巳が耐えられなくなった時、全てを敵に回してでも守ってあげること。
そう、全てを敵に回しても。それが例え、山百合会が敵であっても。
その時が来たら、祐巳が話してくれる筈だ。過去に何があったのか。その辛さを分けてくれる筈だ。






例え祐巳の過去に何があっても、私は変わらない。そう、私は変わらない。

私はあいつ等とは違う。少し環境や状況が変わったからといって掌返しをするような、あんな連中とは。











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