7.志摩子










その光景を見て、白薔薇である藤堂志摩子とその妹である二条乃梨子は二人して我が目を疑った。
放課後、二人は一緒に薔薇の館に訪れ、皆が来るまでゆっくりしていようと部屋の扉を開いたところ、
そこに居る筈のない人物の姿を視界に捉えてしまったのがその理由である。

「・・・何よ、二人してそんなところで固まっちゃって。
 何?私がこんな早くにここに居るのがそんなにおかしいかしら?」

いつもなら、この時間には必ず空席となっている椅子に、その場所の主が座っていた。
その主――島津由乃に言葉を投げかけられ、志摩子は我に返り軽く首を横に振った。

「いえ、少し驚いただけだから。
 由乃さん、少し待ってて。今、紅茶を入れるから」

志摩子の言葉に、乃梨子が流し場へ動き出そうとした時、背後から制止の声が聞こえた。
乃梨子が何事かと振り返ると、由乃が椅子から立ち上がり、乃梨子の傍を通り過ぎて、流し場に立った。

「今日は私が入れるわ。二人は座ってて」

由乃から聞こえた台詞に、二人は再び目を丸くして顔を見合わせた。
出会って二ヶ月の乃梨子はおろか、一年は経つ志摩子ですら由乃の在り得ない行動に驚きを隠せなかった。
彼女が自主的にそのようなことを言ったのは、志摩子の記憶の限りでは、初めてのことではないだろうか。
呆然と立ち尽くす二人に由乃は視線だけ送り、『座らないの?』と言葉をかけて再び視線を作業へと戻す。
一体どうしたのだろうかと疑問が氷解しないままに、二人は自分の席へと座る。
そして、しばらくして由乃が三人分の紅茶を運んできた。
無言で差し出されるカップに、志摩子はゆっくりと口付ける。

「・・・美味しい」

「・・・そう、それは良かったわ」

志摩子の一言に、由乃は何故か決まりが悪そうに視線を窓の外へと向ける。
その様子を見て、志摩子はキョトンとして、乃梨子の方へ視線を送る。
乃梨子もまた、丁度カップに口をつけたところだった。

「美味しいです・・・ありがとうございます、由乃様」

「別に一々感想なんか言わなくてもいいわよ。
 そういう気分だっただけだから・・・そう、ただ私が紅茶を入れたかっただけだもの」

今までの由乃とは明らかに違う様子に、志摩子は益々分からないといった表情を浮かべる。
志摩子の知っている島津由乃という少女は、自分以上に他人との関わりを嫌う少女だ。
それこそ周りの全てから距離を置き、このように自分から他人に何かをするような女の子ではない。
だからこそ、志摩子は分からなかった。由乃が一体何を考えているのか。
思い悩む志摩子とは対照的に、妹である乃梨子はストレートだった。
彼女はもう一口紅茶を喉に通した後、由乃に向かって口を開いた。

「由乃様、今日は一体どうしたのですか?
 あの、失礼かと思いますが、今日の由乃様は・・・あの、少し普段と違う気がします」

「普段の私、ね・・・・やっぱりおかしいかしら、私がこんな風にするのって」

「あ・・・いえ、おかしいとかそういうのではなくて」

言葉に詰まる乃梨子に、別に構わないわよと笑って答える由乃。
その彼女の笑顔に、二人は一瞬呼吸をすることすら忘れてしまった。
それもその筈だった。二人が、島津由乃の笑顔を見たのは、これは初めてだったのだから。
その笑顔は普段彼女が見せる表情からは考えられないほどに、魅力的な笑顔だったのだ。

「何よ、また二人して固まって。
 いくら自分でも変なことしてると思っているとはいえ、その反応は少々傷つくのだけれど」

「い、いえ・・・ごめんなさい、少し自分の中で落ち着きが取り戻せていないだけなの。
 由乃さんがしてくれたことは、変なことでもなんでもないわ。むしろ、私達は嬉しかったもの」

そうでしょう、との志摩子の言葉に、乃梨子は同意するように首を縦に振る。
その反応に苦笑しながら、由乃は瞳を閉じ、自分のカップに口をつける。

「・・・私、知らなかったわ。紅茶なんて、どんな風に飲んだって変わらないと思ってた。
 味が同じなら、一人で飲もうがみんなで飲もうが一緒だって、ずっと思ってた」

由乃の独白とも言える言葉に、二人は耳を傾ける。
いつもの由乃とは明らかに違う様子に、言葉を発することすら出来なかったのだ。

「でも、違うのね。
 今、こうして志摩子さんや乃梨子ちゃんと一緒に飲む紅茶はとても温かいの。
 二人に紅茶を入れたこと、二人が美味しいって言ってくれたこと、ありがとうの言葉、その全てが嬉しかった。
 自分の為じゃない、人の為に何かをすることが、こんなにも心を温かくするなんて当たり前のことなのに。
 ・・・私、どうして忘れてたんだろう。私が求めていたことは、すぐ目の前にあったのに」

「由乃さん・・・」

「今日ね・・・教えられたわ。
 私と友達になりたいって言ってくれたクラスメイトがいた。
 私の事をもっと知りたいと言ってくれた下級生がいた。
 本当に馬鹿よね・・・私が求めていたモノなんて、少し意地を張るのを止めれば簡単に手に入れられるものだったの。
 それなのに私は逃げてばかりいた・・・目と耳を塞ぎ、勝手に壁を作って、自分から大切なモノを捨てていたの」

ゆっくりと目蓋を開き、二人を見つめる由乃の瞳は、二人が決して今まで見ることが出来なかったモノだった。
誰よりも強く、誰よりも孤独でいようとした島津由乃の姿は、もう何処にもいない。
彼女達の前にいるのは、自分の弱さの全てを曝け出した一人の少女、島津由乃だった。

「今更だとは思うし、許してくれとも思わない。私のしてきたことがどんなに馬鹿げたことかも分かってる。
 けれど、謝らせて。全てを敵と勝手に決め付けて、他人を拒絶することなんて、もう出来ない。
 私は知ってしまったの。人を信じること、人を好きになること、人から好かれること、その温もりを・・・
 だから、ごめんなさい・・・自分勝手だとは思うけれど、今まで散々勝手なコトをして、本当にごめんなさい」

椅子から立ち上がり、頭を深く下げる由乃。その光景を、乃梨子はただ呆然と見つめていた。
色々と考えることはあった。由乃の言葉の意味、由乃の想い、どうして由乃はこのように変わったのか。
だが、その全てを言葉にすることも行動にすることも出来ない。今の自分に、その資格は無いのだと思ったから。
そう、乃梨子はそう思っていた。この場で由乃に対し、行動を起こせるのは唯一人。

「・・・由乃さん、顔を上げて」

「志摩子さん・・・」

そう、由乃に対し、行動を起こせる資格を持つのはこの場に唯一人、姉の藤堂志摩子だけだ。
志摩子はそっと椅子から立ち上がり、由乃の傍まで歩いていく。
そして手をそっと由乃の頬まで上げ、由乃は全てを受け入れるように目を閉じる。
志摩子が由乃を叩く・・・そんな馬鹿な。そう考えたとき、乃梨子は志摩子を止めようと叫ぼうとした。その瞬間。

「・・・今まで凄く辛かったのね、由乃さん。
 ごめんなさい・・・私、一年も一緒にいたのに、貴女のことを何も知ろうとしなかった・・・」

「志摩子、さん・・・」

志摩子の手は、そっと由乃の頬に触れられいた。
それはまるで、由乃がそこにいるということを改めて確認するかのように、優しく存在を確かめるかのように。

「私はただ、由乃さんに拒絶されるのが怖かっただけなの。
 だから、距離を取っていた。距離を取れば、きっと私も由乃さんも苦しむことはないって、そう決め付けてた。
 けれど・・・それは私も逃げていただけなのね。こんな風に、由乃さんが苦しんでいたことも知らなかった。
 もし・・・由乃さんが言ってくれなかったら、私は取り返しのつかないことをするところだった・・・」

初めて出会った時、由乃は志摩子に言った。『お互い不干渉でいきましょう。貴女は私にそれを望んでいるのでしょう?』と。
その申し出は、当時の志摩子には有難い言葉だった。志摩子は人との繫がりをなるべく持ちたくは無かったから。
いつ自分が学園を去ってもいいように。その身体は、常に身軽でいたかったから。

「違うっ!!志摩子さんは何も悪くないじゃない!!
 全部、全部私がみんなに迷惑かけて!!酷いことばかり言って!!それでっ!!」

由乃と瞳子が口論するとき、志摩子は常に傍観者だった。
第三者の自分が二人の間に入るのもどうかと思ったし、何より由乃の言う通り不干渉を守ってきた。
そんなある日、瞳子が呆れたように志摩子に言った。『貴女は本当に由乃さんの事も瞳子の事もどうでもいいんですのね』と。

「いいえ、違わないわ。私は由乃さんの言葉に甘えて酷いことをしてきたの。
 そして、そのことを今の今まで謝ることも出来なかった・・・私は、由乃さんが思うような被害者になんてなれない」

彼女の言葉の意味を理解したのは、佐藤聖の妹になってから。
人と繋がりを持って初めて分かることがある。干渉しないということは、他人の存在すら認めないということ。
自分にとって干渉しないということは、その人間がいようがいまいが関係ないということ。
すなわち、藤堂志摩子にとって島津由乃は存在しなくても良いと思っている人間だということ。
そのことを知った時、志摩子は心が恐怖で震えた。自分がしてきた行動の意味に、押しつぶされそうになった。
ただ、傷つきたくなかった。重荷を背負いたくなかった。その為だけに自分は一体何を考えた。
同じ山百合会を担う人間に対し、不干渉でいようとする。そんな酷いことを自分は考えたのだ。

「・・・本当は、気付いてたのかもしれない。由乃さんが苦しんでいたこと、分かってたのかもしれない。
 でも私は耳を塞いで、聞こえない振りをして。由乃さんはそんなこと望んでないって決め付けて。
 瞳子さんの言う通り、私はどうでもいいって思ってたのね・・・私、由乃さんに何て謝ればいいの・・・」

それから志摩子は由乃に対するスタンスを変えた。
干渉はしない、けれど、なるべく接点を持とうと。瞳子とケンカしている時は、時々口を出すし、
その様子から決して目は背けない。由乃の行動を、しっかりとその目に焼き付ける為に。
だが、その行動すらも結局は由乃を助けようとする行為ですらなかった。
結局、それは自分が可愛かっただけだ。その行動を、ただただ今までの自分への免罪符にしていただけ。

「謝るっ・・・謝る必要なんか、ないのよっ・・・馬鹿!馬鹿馬鹿馬鹿!志摩子さんの馬鹿!!
 どうしてよ!どうしてそんなことばっかり言うのよ!謝ってるのは私じゃない!酷いことしたのは私じゃない!
 だったら怒ってよ!呆れてよ!蔑んでよ!笑ってやってよ!!
 こんな勝手なことばっかり言ってる馬鹿な女の言うことなんて聞いてないで、引っ叩くくらいしてよっ!!
 そうじゃないと・・・私、私どうすればいいかわかんないよぉ・・・うあああんっ!!!」

子供のように癇癪を起こして泣きじゃくる由乃を、志摩子は優しく抱きしめた。
初めて触れた由乃の身体は、志摩子が思っていたよりもずっと小さく、そしてか弱かった。
こんな小さな身体で、少女は独り戦い続けていたのだ。誰にも頼らず、誰とも触れず、誰とも交わることも無く。
少女は独り、頂の上で孤独に耐えていた。私達が目を背けたばかりに、彼女は誰も近寄れない場所までいってしまったのだ。
だから、今度は決して間違えてはいけない。彼女が差し伸ばした手を、今度は絶対に離してはいけない。

「これから・・・これからゆっくり頑張りましょう・・・?
 二人が間違いだったって気付いたんだもの。謝りあったんだもの。これからは、一緒に歩いていけるわ。
 私はもう逃げたりなんかしないから・・・だから由乃さん、もう泣かないで。
 私も乃梨子も、今はゆっくり由乃さんの入れてくれた紅茶をもう一度飲みたいわ。笑ってくれる、由乃さんの紅茶が」

「馬鹿っ・・・志摩子さんの、馬鹿ぁっ・・・」

子供をあやす様に優しく抱きしめる志摩子に、由乃は全てを委ねるように身を任せる。
その光景を、乃梨子は微笑んで見つめていた。初めて会うことが出来た先輩、島津由乃の本当の姿を優しく見つめて。
そして志摩子は思う。どうしてもっと早くにこうしてあげることが出来なかったのだろう。
どうしてもっと早くに自分の気持ちに素直になれなかったのだろう。
そうすれば、由乃がこんなにも苦しむこともなかったのかもしれないのに。もっと早くに笑い合えたかもしれないのに。
自分の気持ちに素直になっていれば。本当は、藤堂志摩子は、島津由乃とずっと『友達』になりたかったのだから――















 ・・・












由乃の姉、支倉令はその様子を扉越しに聞き続けていた。
背中を扉につけ、中の様子は伺えないが、由乃の泣き声が令の耳に聞こえてくる。

「由乃ったら、まるで子供みたいだね・・・ほんと、昔の由乃みたい・・・」

独り言を呟き、令はその視線を虚空に向ける。
今、由乃は解放されようとしている。自分がかけてしまった、彼女を壊してしまった呪縛から。

「もう、由乃には姉なんて必要ないね・・・フフ、最初から必要なんてしてなかったけれど。
 全部・・・福沢祐巳って娘のおかげかな。私に出来なかったことを、全部いとも簡単にやってくれたんだね・・・
 ・・・ごめんね、由乃・・・本当にごめん・・・私が、私がいなければこんなことにはならなかったのに・・・
 私が何も考えずにロザリオなんて渡さなければ・・・本当に、最低の姉だね・・・」

両目を閉じ、令は泣きたくなる自分自身を押さえつけた。
由乃の全てを壊した人間が、彼女の為に泣くなど許されない。そんな資格はないのだから。
今の由乃なら、きっと大丈夫。自分がいなくても、由乃は居場所を学園に見つけることが出来た。
黄薔薇の蕾などという偽りで固められた牢獄なんかではない、由乃が自由に大空を駆け回れる場所を。
ならば、最後くらいはちゃんとケジメをつけよう。由乃が、本当に自由を手に入れる為に。
令は決意を固め、その両目を開くと、そこにはいつの間にか見知った少女がいた。
その少女は蔑むような、冷酷な視線を令に向け、じっとその場に立っていた。

「逃げるんですの・・・?」

「・・・瞳子ちゃん」

部屋の向こうには聞こえない程度の声だが、その少女――瞳子の声は確実に令の心に突き刺さった。
令の反応を見ても、微動だにしない瞳子だが、言葉を止めるつもりもないらしい。

「させませんわよ・・・由乃さんは、どんな形であれ山百合会に入り、薔薇の一員として過ごしてきましたの。
 それは黄薔薇、貴女がしたことでしょう。今更、由乃さんからロザリオを返してもらうだなんて、ただの逃げですわ」

「で、でも・・・」

令の言葉を既に瞳子は聞いてすらいなかった。
瞳子の視線は令の後ろ。部屋の中から聞こえてくる泣き声を放つ張本人ただ一人に向けられていた。

「福沢祐巳・・・あの娘さえいなければ、こんなことにはならなかったのに・・・
 認めません・・・瞳子はこんなの認めませんわ・・・絶対に、認めてなんてあげないんだから・・・」

苛立たしげに奥歯を噛み締め、瞳子は胸の内で感情を押し殺した。
その苛立ちの理由を令は分かる訳もなく、彼女はただただ心を扉の向こうで泣きじゃくる少女に傾けていた。















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