8.黄薔薇の枷










「突然呼び出したりしてごめんね。
 差出人の名前が書かれていなかったから、驚いたでしょう?」

「そうですね、少しだけ驚いちゃいました。まさか黄薔薇様からのお誘いだったとは考えてませんでした。
 私が山百合会から呼び出しを受けるなら、恐らく紅薔薇様のお二人のどちらかだと思っていたので」

放課後の中庭に現れた少女――黄薔薇、支倉令に祐巳は軽く首を振って笑みを向ける。
祐巳がこの場所で彼女と待ち合わせをしていた理由は、一通の手紙にあった。
今朝、いつものように登校した祐巳の下駄箱の中に、
『放課後、中庭のベンチに来て欲しい』と書かれていた一通の手紙が入れられていたのだ。

「はは、それは期待に添えなくて申し訳ないね。
 うん、もし山百合会として祐巳さんを呼び出すなら祥子か瞳子ちゃんだったと思うんだけど、今日は別件なんだ。
 今日の用事は、私、支倉令としての個人的な用事なんだ」

「そうですか・・・あ、私のことはさん付けしなくても、呼び捨てで構いませんよ。
 私、二学年も年上の黄薔薇様に『さん』なんて呼ばれると、とても申し訳なくなってしまいます」

「そっか、それじゃ祐巳ちゃんでいいかな。
 ・・・うん、私もこっちの方が好ましいかな」

令は視線をベンチに向け、祐巳に座ろうかと目配せをする。
その意図を汲み、祐巳は笑顔のままで首を縦に振り、令が座った後に続き、ベンチに腰を下ろした。
最近は梅雨ということもあり、雨が多かったのだが、今日は見事な快晴で太陽光が二人を真っ直ぐに照らし出す。
その光を受け、祐巳は軽く一息ついた後で、令が祐巳のことをじっと観察していることに気付いた。

「あの、どうかしましたか?黄薔薇様」

「・・・祐巳ちゃんは不思議な娘だなって思ってたんだ。
 私とは初めて話すのに、緊張している素振りも見られない。こんなのだけど、一応私も薔薇だからね。
 私と二人で話すのは息苦しかったりしないかなって少し心配してたんだけど、どうやら杞憂みたいだ」

「ふふ、私って無駄に元気なことだけが数少ない取り柄ですから。ただ虚勢を張ってるだけですよ。
 こう見えても、実は緊張してるんですよ?もし黄薔薇様の前で変なこと言っちゃったらどうしようって」

祐巳の言葉に、令は『嘘ばっかり』と言って楽しそうに笑う。
その反応に、少しショックを受けたのか、祐巳はむー、と頬を膨らませる。
先程までひどく大人びて見えた一年生が、打って変わって子供のような表情を浮かべるので、
令はそれがまたおかしくてたまらなかった。

「もうっ、あんまり笑わないで下さいよ。
 何か本当に私が変な娘みたいじゃないですか」

「あははっ、ごめんごめん。
 本当、祐巳ちゃんは不思議な娘だよ・・・貴女と話していると、とても心が楽になる。
 きっと祐巳ちゃんは誰に対しても、そんな感じなんだろうね。誰に対しても、心に安心をくれるんだ。
 ・・・だから、由乃も祐巳ちゃんに救われたんだろうね」

令の呟きに、祐巳は表情を強張らせて視線を令に向ける。
そこには、先程までの薔薇様らしく笑う令ではなく、自虐的に嘲笑する令の姿があった。
祐巳の視線に気付いたのか、令は一度頭を振って、祐巳に口を開く。

「最近さ、由乃が変わったんだ。
 山百合会に積極的に参加するようになったし、他のみんなと自分から交わろうとするようになった。
 今までずっと他人との繫がりを忌み嫌ってた由乃が、今はみんなと一緒に頑張ってるんだ。
 由乃を変えたのは、福沢祐巳ちゃん・・・君でしょ?」

「・・・由乃さんは変わった訳ではありませんし、私が変えた訳でもありませんよ。
 ただ少しだけ、ちょっとだけ自分に嘘をつくのを止めただけです。私は、由乃さんの背中を軽く押しただけ。
 変える必要なんかなかったんです。だって、今の由乃さんの姿こそが、本当の由乃さんの姿なのですから。
 ・・・そうですよね、黄薔薇様」

「・・・まいったな。本当に祐巳ちゃんは、由乃のことを何でも知ってるんだね。
 本当・・・祐巳ちゃんには感謝しても感謝し足りない。由乃を助けてくれて、本当にありがとう・・・。
 これからもあの娘を、由乃を支えてくれる?あの娘、一度暴走したら止まらないから・・・」

勿論です、そう告げようとした時、祐巳は令の言葉に違和感を覚えた。
令の言葉に、おかしい言葉など何一つ無い。だが、祐巳は感じた。今ここで、その返事をしてはいけないと。
そして、祐巳の口から発された言葉は、令が望んだ言葉とは全く異なるものだった。

「・・・何をする、つもりですか」

「・・・何、って?」

「分かりません・・・ですが、黄薔薇様は先程から、まるでどこか遠くへ行ってしまうような発言ばかりされてます。
 それじゃまるで由乃さんを置いて何処かに行っちゃうみたいじゃないですか。どうしてそんなこと言うんですか」

祐巳の言葉に驚き、令は思わず祐巳を凝視した。
この少女は、一体どうしてこんなに鋭いのだろうか。他人に対する洞察力が異常すぎる。
令は今この瞬間、初めて彼女が一年生の間で薔薇候補に挙がっている理由を悟った。

「そうです・・・ずっと気になっていたんです。
 由乃さんが私と一緒にいるときに、少しも黄薔薇様のことを口にしないことがずっと不思議だったんです。
 以前なら由乃さんは口を開く度に黄薔薇様のことを自慢されていたのに、今は少しも話そうとしない。
 一体、由乃さんと黄薔薇様の間に何があったのですか?」

「そっか・・・祐巳ちゃん、昔の由乃を知ってるんだね。まだ私の事を好きでいてくれた頃の由乃を。
 ということは、由乃とは高等部以前からの友人だったのかな?
 そんな話は由乃から聞いたこと無かったけど・・・」

「え・・・あ!い、いえっ!えっと・・・そう!友達から聞いたんです!
 その・・・あの、友達が!同じクラスの友達が由乃さんと同じクラスだったらしくて、いつも令ちゃん令ちゃんと慕ってたと・・・」

「あははっ、いいよ。言えない事なら無理して聞くつもりはないからね。
 後ね、祐巳ちゃんは由乃より一つ年下なんだからそれは無理だからさ。
 これ以上突っ込むと今度はその友達が留年させられそう」

思わず苦笑してしまう令に、祐巳は返す言葉も無く俯いて顔を真っ赤にする。
軽く一息ついて、令は空を見上げてゆっくりと語りだした。

「・・・私ね、由乃からロザリオを返してもらおうと思うんだ」

令の一言に、祐巳の顔から表情が消えた。
その言葉は、祐巳にとって何よりも聞きたくない言葉だった。
理解出来ない。理解したくない。――今、目の前の黄薔薇は一体何と言ったのか。

「どう・・・して・・・・ですか。
 由乃さんのこと・・・嫌いに、なったんですか・・・」

途切れ途切れに尋ねる祐巳に、令は軽く首を振って否定する。

「まさか。由乃のことは大好きだよ。うん、きっと祐巳ちゃんにもその気持ちだけは負けないくらい大好き。
 好きだから・・・どうしようもないくらい大好きだから、ロザリオを返してもらうんだよ」

「黄薔薇様・・・どうして、どうしてそんなことを言うんですか・・・
 スールを一方的に解消される辛さは貴女が一番知ってる筈だと私は思っていました。
 その言葉の意味を・・・本当に理解しているのですか。黄薔薇様はさっきおっしゃったじゃないですか。
 由乃さんは今頑張ってるって・・・それなのに、どうしてそんな酷いことを・・・」

祐巳の言葉にも、令は視線を空から背けようとはしない。
それはまるで、祐巳と会話しているのではなく、天に向かって懺悔をしているようだった。

「・・・聞いてくれる?私の昔話。
 あまりに自分勝手で臆病だったせいで気付けば大切な少女の笑顔を奪っていた、誰よりも最低な姉の話を」

ようやく空から視線を外し、そっと尋ねかける令に祐巳は力強く首を縦に振った。
その答えが分かっていたのか、令はその様子に何も反応することなく、ゆっくりと語りだした。










 ・・・








令と由乃は、生まれた時からの付き合いだった。
従姉妹である二人は、それこそ幼い頃から実の姉妹のように育ってきた。
走り出したら止まらない由乃を、令が見守るといった、不思議な関係。
そんな優しい関係を二人は幼い頃からずっと築き上げてきた。
それは、リリアン女学園高等部に入っても、変わることはないとお互い信じて疑わなかった。

始まりは何だったのか。決定的な過ちは一体何だったのか。
それは由乃に話を聞かなければ分からないだろう。しかし、令には一つの確信があった。
二人の関係にズレが入ったのは、由乃のリリアン女学園高等部の入学式の日。
入学式を持病によって欠席し、眠っていた由乃に渡したスールの証、ロザリオ。
令は由乃が受け取ってくれるものと思っていたし、由乃もまた、そのつもりだった。
だが、由乃に渡されたロザリオは、他の生徒とは違う重みを持っていたのだ。

――黄薔薇の蕾の妹(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン・プティ・スール)。

そのロザリオを受け取るということは、由乃にとって、山百合会の一員となることが決定されるのだ。
当時、そのことを二人はあまり考えていなかった。令が山百合会の一員であることは由乃も知っていたし、
その令の手伝いが出来るなら、山百合会としてやっていくことも吝かではなかった。
だが、その薔薇の一員という称号が、由乃の世界の全てを変えてしまった。
気付けば、由乃の周囲に自分を『島津由乃』と扱ってくれる人間など、誰も存在しなかった。
誰もが彼女を『黄薔薇の蕾の妹』としてしか扱おうとしない。誰もが島津由乃から遠ざかる。
元来、人付き合い関して用心深い由乃の性格が、周囲の人間に対する嫌悪感に更に拍車をかけた。

だから由乃は、まず初めにクラスの人間に対し世界を閉ざした。

その時はまだ、由乃は確かに令に心を開いていた。
クラスの人間に対する愚痴を夜通し聞かされたり、令に対する信頼はまだ確実に存在していたのだ。
その時、由乃にはまだ山百合会という居場所があったのだから。
山百合会で唯一の一年生だった由乃を、山百合会の人々は誰もが可愛がっていた。
初めての孫ということもあり、由乃の存在は山百合会にとって明るい存在だったのだ。

だが、それも次第にゆっくりと失われていった。
由乃の持病。その為に、由乃はなかなか山百合会に参加出来ない日々を送っていた。
その影響は勿論、由乃だけには終わらなかった。由乃が休むと、令も山百合会を休むことになる。
ただでさえ、人数が少ないというのに、二人も抜けられては山百合会はかなり厳しい状態だった。
そのことを、由乃はとても気にしていた。自分の学園での唯一の居場所に迷惑をかけることが、由乃は何より嫌だった。
だから、由乃は令に度々自分の事はいいから山百合会に参加するように伝えた。
しかし、令はそれを突っぱねて、頑として由乃に付き添った。
その姿勢は、由乃が怒鳴ろうが癇癪起こそうが、決して変わることは無かった。


そこまで話を聞き、祐巳は我が耳を疑った。
『祐巳の世界の由乃と令』が『こちらの世界の二人』の話とは、少しズレが生じていたからだ。
祐巳は自分のいた世界で令と由乃のスールの契りから、祐巳と知り合うまでの話を聞いたことがある。
だが、その話の中では由乃はクラスで心を閉ざすことも無かったし、持病だってそんなに多発してはいなかった。
否、それは分かっていたことだ。この世界と祐巳の世界で由乃は明らかに違っていた。
向こうの由乃ならば猫を被ってやり過ごせた視線を、こちらの由乃は正面から反発してしまった。
・・・そう、それは分かっていたことなんだと祐巳は再確認した。この世界は『自分の世界』とは違うのだ。


由乃と令が山百合会を休む日々が続き、次第に学園内で噂が流れ始めた。
『黄薔薇の蕾の妹のせいで山百合会が大変なことになっている』と。
勿論、それは由乃の身体のせいだと誰もが分かっていたが、だから良いと言う訳ではない。
学園中の生徒の話の中には由乃は薔薇を辞退すべきなのではないかという話すら上がっていた。
当然と言えば当然の流れかもしれない。
客観的に見れば、由乃は山百合会の一員として仕事も出来ない、参加も出来ない、
挙句、令の足を引っ張っているという状況なのだ。そうならない方がおかしい状況だった。
そして、その状況を新聞部が目をつけ、大きく記事として取り上げたことも噂を加速させた。
その記事の内容はまるで由乃がワザと令を連れ出し、二人っきりになろうとしているのではという
下らない憶測のようなモノだった。それがまた更に由乃の居場所を孤立させた。

そして、気付けば由乃の居場所は学園の何処にも存在しなかった。

噂が大きく出回った日を境に、由乃はバッタリと学園を休むことになる。
令が理由を電話で尋ねても、由乃はおろか、その家族すら教えようとはしてくれなかった。
不安を覚え、令が由乃の家を訪ねても、由乃の家族が面会を拒んだ。令は由乃に会わせて貰えなかったのだ。

そして、由乃が休んだ日から三週間後、令は久しぶりに由乃に会うことになった。
だが、学園で再開した由乃を見て、令は愕然とした。由乃の表情から、笑顔というものが完全に無くなっていたのだ。
彼女が見せる表情は、常に何事もつまらなさそうにしているような、全てを諦めたような表情。
そして、それ以上に令は由乃の纏う空気に恐怖を抱いた。
それは、絶対の孤独。誰にも心を許すことは無い、近寄ることさえ良しとしないと令に感じさせるものだった。
戸惑ったものの、令は意を決して由乃に声をかけた。だが、返ってきた声は恐ろしいまでに冷たかった。

『何か御用でしょうか、お姉様』

その瞳に、令は映っていなかった。
彼女が行っているのは、『支倉令』という人間を認識し、
それに『黄薔薇の蕾の妹』として一番相応しい言葉を選び、機械的に発しただけ。
そのことを理解したとき、令は酷く恐怖した。そして、令と由乃の全てが音を立てて崩れていく感覚に襲われた。
そして、由乃が休んでいた三週間の間に、彼女が一人孤独に手術を受けていたことを知ったのは
親からの報告であり、由乃の口から直接聞かされることは無かった。

手術を終え、登校した日、由乃は山百合会に訪れることは無かった。
そのことを帰宅した後に直接尋ねると、由乃はつまらない質問に答えるように告げた。

『あの場所は、もう私の居場所ではありませんから』

その時、令は何も言葉を返すことが出来なかった。
由乃が休んでいた三週間という期間に、山百合会は大きな変化を迎えていた。
新しい一年生の加入・・・祥子の妹である松平瞳子、聖の妹候補である藤堂志摩子の存在だった。
他の二人の一年生、瞳子と志摩子は同級生達に人気があった。
華やかな瞳子、神秘的な志摩子。それはまさに薔薇になることを必然とされたような存在感。
紅薔薇の蕾の妹と白薔薇の蕾候補の登場に、学園中は二人の話で持ち切りとなっていて、
休み続けていた由乃の存在を気に止める者など数えるほどしか存在していなかった。

無論、由乃がそれだけの理由でそのような台詞を言ったわけではない。
由乃は、学園中の人間から山百合会での居場所を追われたのだ。彼女は山百合会に相応しくないと。
生徒達は由乃を完全に見限ったのだ。休みたいのならば好きなだけ休めばいいと。
由乃がいなくても、山百合会は機能する。残る二人の一年生がいるのだから。
長い間休んでいた由乃は最早、リリアンの生徒達にとっては所詮令の付属品でしかなかった。

何も言えない令に、由乃は初めて笑みを見せた。その笑みは令の心を酷く不安にさせる、凍てついた笑みだった。
そして、由乃は何でもないように告げた。それは、令にとって考えられない選択肢。

『何も私のことで悩む必要なんてありません。
 お姉様が一言私に言えばいいんです。ロザリオを返せ、と。
 そうすれば、お姉様はきっと楽になれます。それに・・・フフ、学園中が今、それを望んでいるのですから』

由乃は愉しんでいた。
苦悩する令を見てではない。今の自分自身の姿をただ滑稽そうに嘲笑っていたのだ。
その姿を見て、令は初めて自分のしてきたことの重さに気がついた。
由乃へのロザリオの享受、それが彼女の全てを壊してしまった。
普通の少女として笑って過ごせた日々、彼女の居場所。
その全てを、由乃と一緒に居たいという自分の独占欲が粉々に砕いてしまったのだと。

だが、令は由乃からロザリオを取り上げることはしなかった。
今、由乃から姉妹としての繫がりを失ってしまえば、由乃の居場所はこの学園の一体何処にあると言うのだろうか。
もし、自分との繋がりを失ってしまえば、彼女は消えていなくなってしまうのではないか。
在り得る筈もない恐怖に、令は心が潰されそうになったのだ。
だから、令は由乃に伝えた。『姉妹は止めないし、薔薇の館には好きな時にだけ来てくれればいいから』と。
その言葉に、由乃は呆れ果てるように令を見て、ただ『分かりました。お姉様がそう望むなら』とだけ答えた。

それからの日々は、最早語る必要もないかもしれない。
由乃は、リリアンの生徒の多くから疎まれ、本人もそれを受け入れた。
週に一、二回しか薔薇の館に顔を見せないことなんて茶飯事で、由乃は誰にも心許すことなく日々を過ごしてきた。
そして、令は由乃の休んだ分の負担を一身に背負った。
彼女がいない分、その分令が仕事を請け負った。時には剣道部を休むこともあった。
由乃の分の仕事を他の人に仕事を任せることも、令は決して良しとしなかった。
他の人に任せてしまうと、自分と由乃の絆が薄くなっていくような気がしたのだ。

そして、それから一年という空虚な時間だけが二人の間を過ぎていった。
上辺だけの、形だけの姉妹という名の絆に縛られた、支倉令と島津由乃の時間が。













 ・・・












「・・・本当はね、私は怖かったんだ。
 由乃が私の傍から消えるのが、どうしようもなく怖かった。由乃と一緒にいられなくなるのが、凄く怖かった。
 でも、本当に怖かったのはそれを理由にしてずっと由乃を傷つけてきた自分自身。
 由乃が傷つくことは分かってたのに、私はどうしても由乃と離れたくなかった・・・傷つくことを恐れた。
 本当に由乃のことを考えるなら、由乃の心が限界だと感じた時に行動に移すべきだったんだ。
 お姉さまにロザリオを突き返してでも山百合会から離れて、
 誰を敵に回してでもずっと由乃の傍にいるべきだったんだ・・・でも、私はそれすらも出来なかったんだよ・・・」

令は心の底から声を押し出すように呟いた。
それは懺悔。それは後悔。自分の大切な家族を守れなかった自分自身への呪詛。

「何が由乃を守る、だ・・・何が由乃の為に強くなる、だ・・・
 私は結局何も出来なかった。私は結局何も救えなかった。支えになることすら出来なかった。
 そんな私に、今の由乃の傍にいる資格なんて無いよ・・・こんな私に、姉の資格なんて、もう無い」

「・・・由乃さんとは、もうお話になられたんですか。
 今の由乃さんはその頃とは違っているのではないのですか」

祐巳の言葉に、令は軽く首を縦に振った。
令は少しだけ嬉しそうに、それでいて穏やかな声で祐巳に話す。

「由乃さ・・・凄く泣いてた。夜、由乃に呼び出されて、泣いて謝られたよ。
 今まで本当にごめんなさいって。ずっと酷いことばかりして、ごめんなさいって。
 これからは違うって。これからは私、絶対に自分自身の弱さなんかに負けたりしないって。
 ・・・違うのにね。本当に、酷いことばかりしてきたのは、他の誰でもない、私の方なのに」

「そう・・・ですか。由乃さんのその姿を見て・・・由乃さんの言葉を聞いて、
 それでも・・・それでも令様は由乃さんからロザリオを返してもらうと言うのですね」

「・・・そうだよ。今の由乃に、もう私は必要ないんだから。
 もう由乃は居場所を自分で見つけることが出来た。支えてくれる人も沢山いる。
 だったら・・・もう、私はそろそろ裁かれないと。由乃を傷つけた罪を忘れて、由乃の傍にいる資格なんてないよ・・・」

一つ息を吐き、祐巳はその場から立ち上がり令の前に立つ。
そして、令を真っ直ぐに見つめた。その視線はどこまでも真っ直ぐに、令だけを捕らえていた。

「だったら私は・・・もう一度、同じことを令様にお伝えしなければなりません。
 ・・・先に非礼をお詫びします。私、もう自分を抑えられそうにありませんから」

何を――そう言葉にしようとした令だが、それは叶うことは無かった。
令が言葉を発する前に、中庭に一つ乾いた音が響き渡ったからだ。

「え・・・」

「令様は、由乃さんのこと全然分かってない」

自身の頬に痛みが走ったことに、令はようやくその音の正体を知ることが出来た。
先程の乾いた音の正体は、祐巳が令の頬を平手打ちした音だったのだ。

「そんなことをして由乃さんが本当に喜ぶと思っているんですか。由乃さんの為だと思うんですか。
 由乃さんが令様に泣いて謝った意味を、強くなると誓った意味が分からないんですか。
 もしそうだとしたら・・・私、全力で令様のこと嫌いになります」

「祐巳ちゃん・・・」

「由乃さんは一度でも令様を責めましたか?一度でも令様のせいでこうなったんだと言いましたか?
 由乃さんは、誰のせいにもしませんでした。全ては自分が弱かったから、こうなったんだって。
 だから、自分のしてきたことをこれから取り返そうと頑張ってます。今を精一杯頑張ってるんです。
 過去を後悔したりせずに、未来を頑張って築き上げようとしているんです。
 みんなと一緒に笑いあう為に、必死で頑張ろうとしてるんです。
 それなのに、令様は・・・令様は、過去ばかり後悔するのですか。由乃さんを突き放すのですか。
 そうやって令様は自分のせいだと責め続けるだけで、由乃さんから逃げるのですか」

違う。そう叫びたかった。
そんなつもりじゃないと、祐巳に反論したかった。だが、令は言葉に出来ない。
祐巳の真っ直ぐな瞳が、令に反論を許さなかったのだ。

「もし、令様が由乃さんにロザリオを返せと言えば、きっと由乃さんは素直にロザリオを返すと思います。
 けれど、それは令様が嫌いだからじゃない。令様と離れたいからじゃない。令様が大好きだからです。
 大好きだから、由乃さんは今まで令様に迷惑をかけ続けた自分自身が許せないんです。
 だから・・・きっと、令様の言うコトを、由乃さんは全て実行してしまう。それが例えどんなに嫌なことでも。
 今・・・もし令様が姉妹を解消するならば、由乃さんは壊れてしまう・・・
 大切なモノを失って、全てを見失って、泣くことしか出来なくなってしまう・・・
 私、絶対に嫌です。由乃さんをあんな目に合わせたくなんてありません。
 大切な人が、自分の傍から離れていくなんて・・・あんな痛みは・・・もう二度と・・・」

俯き、視線を地面に落とした祐巳の身体を見て、令は言葉を失った。
震えていた。そこには、先程までの気丈な少女の姿は消え、親を失った子犬のように祐巳が震えていたのだ。

「どうすれば・・・どうすればいいの・・・
 私は・・・由乃の為に何が出来るの・・・分からない、分からないよ・・・」

「・・・令様は、本当はどうしたいのですか。
 由乃さんの為になんて、そんなことで自分に嘘をつかないで下さい。
 誰よりも由乃さんのことを大切に想っている令様なら、どうすればいいのかなんて・・・簡単に分かるはずですよ。
 大切な妹なんですよね・・・だったら、自分に素直になって下さい・・・それが、きっと正しい答えですから」

必死に震えを押さえ、祐巳は令に何とか優しく言葉を返した。
自分の望むこと。令が望むこと。そんなことは考えるまでもなく最初から決まっていた。

「私・・・一緒に居たいよ・・・これからも、由乃の傍を離れたくなんてないよ・・・
 由乃が頑張ってるなら・・・私だって一緒に頑張りたい・・・由乃を傍で支えてあげたいんだ・・・
 だって私、由乃のことが大好きなんだもの・・・由乃は私の、大切な妹なんだもの・・・」

ようやく聞くことが出来た令の本心からの言葉に、祐巳は笑顔を見せた。
祐巳はそっと令の手を両手で包み込み、その手を胸の傍まで引き寄せた。

「・・・その言葉を、由乃さんに全て伝えてあげて下さい。
 そうすれば、きっと令様は分かるはずですよ。由乃さんがどれだけ令様が大好きなのかということが。
 そして、その令様の望みが、そっくりそのまま由乃さんの望みだってことに気がつく筈ですから」

「いいのかな・・・私、本当に由乃の傍にいても、本当に・・・」

「令様ったら・・・もう、いい加減自信を持って下さい。
 もし幼い頃からずっと由乃さんを守ってきた令様が傍にいられないんだったら、
 知り合って一ヶ月にも満たない私なんか門前払いですよ。
 だから、信じてあげてください。由乃さんはきっと、令様を待ってますよ。大好きな『令ちゃん』を」

そう言って笑う祐巳に、令はようやく笑って答えてみせた。
祐巳ちゃんの通りなのかもしれない。令は心で一人呟いてみせる。
自分は先程まで由乃からロザリオを返してもらい、彼女の枷を外そうと考えていた。
しかし、それは本当に由乃の為なのか。それは単に自分が許してもらいたかっただけではないのか。
本当に、由乃の為に今自分が出来ること。それは全て、福沢祐巳の言う通りだ。
由乃は今、必死になって頑張っている。なら、自分がすべき事は由乃の傍でしっかりと彼女を支えてあげること。
贖罪などいくらでも方法はあるのだ。自分が犯した罪の意識は消えはしない。
きっと由乃も祐巳も、令のしてきたことは罪ではないと言うだろう。だが、自分自身で許すつもりは無い。
ならば、自分が出来ることは由乃の今を支えてあげること。逃げるのではなく、真正面から受け止めてあげること。
その答えに達したとき、令は自分の道を決めた。これからも自分は、由乃と共にあり続けると。

「・・・ありがとう、祐巳ちゃん。
 貴女にこうして教えてもらわなければ、私は恐らく一番最悪な方法で由乃を傷つけるところだった」

「いえ、そんなことはありません。
 きっと私が何も言わなくても、令様は由乃さんにとって最善の方法を見つけ出した筈ですよ。
 そんなにも、由乃さんのことを想われているのですから。由乃さんは本当に幸せ者です」

そうかなあ、と首を傾げる令に、祐巳はそうですよ、と嬉しそうに答えた。
その様子を見て、苦笑しながら令はゆっくりとベンチから立ち上がる。

「さて、と。そろそろ山百合会に行かないと由乃に怒られちゃうわね。
 その前に鏡で自分の顔もどうなってるのか見てみたいし」

令の言葉に思い出したのか、祐巳はみるみる顔を青くしていく。
彼女の視線の先、令の右頬は綺麗に赤く染まっていた。

「あ、ああ、ああああー!!!!すすすすす、すいませんでしたっ!!!!!
 本当、私、なんてことを!!?あわわわわわわ・・・・・!!!」

「ちょ、ちょっと落ち着いて祐巳ちゃん!!大丈夫、気にしてないから!!」

「でででででも!!!私、令様の頬にビンタなんて・・・」

「いいのよ。むしろ、おかげでようやく目が覚めたもの。感謝してるくらいだから。
 それにね、再確認出来たこともあるからね。私にとっては良いことばかりだよ」

「再確認、ですか?」

うん、と令は笑いながら祐巳を見つめていた。
そして、令は祐巳の手を握り、言葉を続けた。

「福沢祐巳さん、貴女は近い将来、きっと私達と一緒に山百合会を支えていくことになるわ。
 貴女が望む望まないに関わらず、きっと他の人達は貴女を望むはずよ。
 福沢祐巳が薔薇としてこのリリアンを引っ張っていく姿を」

令の言葉に、呆然とする祐巳。
その様子を見て、苦笑を浮かべながら令は握っていた手を離す。
そして、祐巳を安心させるように『勿論、その期待に応えるかどうかは貴女次第なのだけど』と優しく付け足した。

「それじゃ、私はそろそろ行くよ。
 ただ・・・願わくば、私は祐巳ちゃんには由乃の妹になってほしい。
 私は祐巳ちゃんが気に入ったし、きっと、由乃のことをそこまで考えてくれるのは、祐巳ちゃんだけだよ。
 だけど、山百合会に入ると祐巳ちゃんは大変そうだね。
 きっと祥子も、祐巳ちゃんみたいな娘が好きだから。祐巳ちゃんならみんなに気に入られちゃうよ」

そう言い残し、令は薔薇の館の方へと消えていった。
一人残された祐巳は、令が見えなくなるまで、その視線を令から逸らすことは無かった。
令が見えなくなり、祐巳はか細い声をそっと漏らした。
その呟きは、誰にも聞こえることはなかった。しかし、それはとても面白いことなのだろう。

何故なら、小さく呟いた張本人である祐巳は、その場で楽しそうに笑っていたのだから。
誰に見られることもなく、祐巳は声を押し殺してただただ笑っていた。












戻る

inserted by FC2 system