1.下心の月曜日










「お待ちなさい」

とある月曜日、マリア像の前で祐巳は背後から呼び止められた。
その声に聞き覚えがあった訳でもなく、人違いじゃないのかと思いつつも祐巳は『はい』と返事をしながら
声の聞こえた方へと振り返った。
そこにはまあ、文字通りリリアンの箱庭でいかにも純粋培養されましたという感じのお嬢様がいた。
だが、やはり記憶の何処を探しても彼女のことは思い出せず、この女性とは初めて話しているのだと一人納得した。
美しい黒髪にモデルのようにスラっとした肢体。恐らく先輩だろうか。同じ一年生にこのような女性は見たことがない。

「ごきげんよう。私に何か?」

「呼び止めたのは私で、呼び止められたのは貴女。間違いなくってよ」

彼女の言い方に、祐巳は少しだけ興味を引かれる。
『この人、なんだか面白い言い回しをするなあ』。それが祐巳の率直な感想であった。
そりゃ、呼び止めたのは貴女以外いないでしょうとも。だってこの場には私と貴女以外いないのだから。
そんな分かりきったことを堂々と言ってのける目の前の女性に、祐巳はある種の気持ちの良さを感じていた。

「持って」

「へ?」

その女性は祐巳の返答を待たず、自分の鞄を押し付ける。
何事かと把握する暇も無く、勢いに押された祐巳はその女性から鞄を受け取った。
すると、彼女は開いた両手を祐巳の首の後ろに回すではないか。
あまりに突然の事に、祐巳は言葉を発することが出来ずにいた。

「タイが、曲がっていてよ」

「・・・・え?」

彼女はそう言い、おもむろに祐巳のタイを直し始めたのだ。
最早一体何が起こっているのか完全に状況についていけていない祐巳だが、
その至近距離ゆえに、初めてその女性を直視することが出来た。
――綺麗な人。それが祐巳の素直な感想だった。
高校になり、なるべく『悪癖』を抑えるようになった祐巳だが、
彼女を見て久々に心の底から自分の欲望に火がつくのを感じてしまった。


この綺麗な人を、自分のモノにしてしまいたいと。


「身だしなみはいつもきちんとね。マリア様がいつも見ていらっしゃるわよ」

『ごきげんよう』。そう言い残し、祐巳から鞄を受け取ってその女性は校舎の方へと去っていった。
一体あれは誰だろう。祐巳は後姿を眺めながら、そんなことを考えていた。
そして、その姿が見えなくなった後で祐巳は楽しそうに笑顔を浮かべた。――久しぶりに手を出しちゃおうかな、と。

















 ・・・















「・・・という訳なんだけど、蔦子さんはその方が誰だか知らない?
 蔦子さんなら色んな人を写真に撮ってるから、そういう情報に強いと思うんだけど」

祐巳の言葉を聞いて、彼女の友人である武嶋蔦子は呆れたように軽く溜息をついた。
その彼女の様子に、祐巳は不思議そうに首を傾げる。

「・・・祐巳さんって、本当に自分の興味のある女の子以外は目に入らないのね」

「む、失礼な。最近はちゃんとクラスメイトの名前くらい言えるようになったよ」

そんな当たり前の事で胸を張られても、そう呟きながら蔦子は再度大きな溜息をついた。
今朝、祐巳が綺麗な女性にタイを直してもらった後、教室に辿り着いた祐巳は
真っ直ぐに蔦子の元まで行き、早速情報収集に取り掛かったのだ。
彼女の友人である武嶋蔦子は写真部であるため、顔が広く、人探しにはうってつけの人材だった。

「まあ、私も丁度そのことで話があったからいいんだけどね。
 実は祐巳さん、私はその光景を見てたのよね。祐巳さんがその方にタイを直される瞬間を」

「本当?周りには誰もいないと思ってたんだけど」

「そこはほら、私の腕の見せ所という訳」

カメラを片手に笑う蔦子に、祐巳は呆れるを通り越して、感心するしかなかった。
本当、この友人はそういう瞬間を決して逃さない。これも一種の才能なのかと思う。

「話を戻すわね。それで、その方なんだけど・・・紅薔薇の蕾、小笠原祥子様よ。
 いくら山百合会に無関心な祐巳さんでも、名前くらい聞いたことがあるでしょう?」

「えーっと・・・山百合会ってことは志摩子さんの所属してるヤツだよね。サークルみたいな」

「呆れた。祐巳さん、貴女本当に幼稚舎からのエスカレーターなの?」

「だって本当に興味なかったんだもん・・・」

山百合会。この学園における生徒会的な存在であるが、リリアン生徒ならば誰もが憧れる存在である。
しかし、祐巳は山百合会に全く興味を抱いてなかった。
志摩子の存在が無ければ、恐らく名前すら忘れていたであろう。そんな友人に蔦子は今日何度目かの溜息をつく。

「説明は省くけれど、とにかく凄い有名人なの。このリリアンでも一位二位を争いかねない程にね。
 加えて祥子様はかの小笠原財閥のご令嬢。まあ、流石に祐巳さんの『悪癖』の対象にするには
 ちょっと難しい相手だと私は思うわ」

「ちょっと蔦子さん、悪癖って何。私はただ、その祥子様って方のことが知りたいなって思っただけで・・・」

「嘘。だって祐巳さん、祥子様のことを尋ねに来た時、凄い楽しそうに笑ってたもの。
 それこそ、中等部の頃の祐巳さんを見ているようだったわ。高等部に入って『悪癖』は治ったんじゃなかったの?」

「もうっ、全然そんなのじゃないってば。私、祥子様をそんな風な目で見てないもん」

――実は大いに見てます、なんて流石に祐巳は言えるはずも無かった。
蔦子の言うように、祐巳には実は『悪癖』があった。それは『気に入った女の子は自分のモノにしたくなる』という悪癖。
今でこそ陰を潜めているものの、中等部時代は蔦子の言うようにそれこそ凄い状態だった。
祐巳が可愛がっていた女の子はそれこそ両手でも収まらない。四人集れば数える為の手が足りるといったところか。
気に入った女の子を見つければ、それこそ食虫植物のように獲物を絡めとり、ゆっくりと溶かしていく。
そして、何より祐巳が上手いのは距離感。祐巳が他の女の子と仲良くしていても、祐巳に惚れた女の子は怒らない。
依存しすぎず、され過ぎず。友人と恋人のハーフの距離を保ち、相手の心を完全に捕える。それが祐巳の才能だった。
そして、相手は完全に祐巳に心を委ねるものだから、祐巳が『そういう』女の子だという情報が外に全く出ない。
だから、祐巳のその悪癖を知っているのはその女の子達と事情通の蔦子を初めとした数人程度だろうか。
ちなみに蔦子と祐巳が友人となったのは、高等部に入ってからだ。それなのに、蔦子が祐巳の中等部の頃のことを
知っているのは、それだけ彼女にとって祐巳が興味対象であったからに他ならない。

しかし、中等部の頃からは考えられないくらい高等部の祐巳はその悪癖が見えなくなっていた。
中等部の頃にそのような関係だった女の子達とは普通の友人の距離に戻し、
自分も『普通の女の子』を着飾るようになっていた。その理由は本人曰く『普通もいいかな』とのこと。
素直で良い子なのに、気まぐれで何をしでかすか分からない。それが蔦子の祐巳に対する印象だった。
そういう訳で、高等部に入って祐巳のその悪癖は過去に一度しか発動していないのだ。高等部では今日で二度目となる。

「そういう訳で祥子様に会うには、山百合会と接点を持った方が早いと思うわ。
 まあ、祐巳さんには志摩子さんがいるからその点は問題ないと思うけれど」

「うーん、でも志摩子さんに頼るのもおかしくない?
 志摩子さんの友達として祥子様の前に出て『今朝、タイを直して頂きありがとうございました』って言って
 終わるのもなあ・・・もっとこう、私に関係したことで相手に興味を持たせられる方が・・・」

「・・・祥子様をそんな風な目で見てないって、私数十秒前に聞いた気がするのだけど」

やれやれと笑う蔦子に、祐巳はむ〜っと不満そうに見つめる。
そして、蔦子はそれじゃ私の提案と告げて祐巳に向けてカメラを掲げた。

「実は私、今朝その祐巳さんと祥子様のワンシーンをシャッターに収めてるのよね」

「やっぱり。まあ、蔦子さんがその場にいたって時点で何となく予想がついていたけど」

「褒め言葉として受け取っておくわ。それで、まだ現像こそしてないけれど、私はその写真を
 今年一番の出来だと確信しているの。それで、今日は昼休みを返上して現像するつもりよ。
 それで、私が祐巳さんに提案したいアイディアの話に移る訳なの。祥子様と接触する為の上手い理由を作る、ね」

蔦子の提案した意見はこうだ。その写真を、学園祭の写真部展示コーナーに飾る為の許可を
祥子様から頂きにいこうというもの。それなら、蔦子と祐巳の利害が一致し、祐巳もお礼以外の事情で
祥子と接触することが出来る。そして、許可が出たなら蔦子にとってお釣りが出るほどに素晴らしい条件だった。
全てを聞き終えたとき、祐巳はそれはもう楽しそうに微笑み、蔦子の手を握った。

「本当、だから蔦子さんって大好き。それはとても良いアイディアだよ」

「ありがとう。私もこういうフレンドリーな関係までなら大歓迎よ」

「あ、酷い。私、蔦子さんなら良いかなって思ってるのに」

「ごめんなさいね。私、カメラに全てを捧げてるから」

違いないと祐巳は笑う。彼女自身が言うように、本当にカメラ以外に興味が無いのだろう。
だからこそ、自分は友達になれたのかもしれないと祐巳は思う。好きなモノ以外に興味を示せない自分と。

「それじゃ、今日の放課後に薔薇の館に向かう方向でいいかしら」

「薔薇の館?」

「・・・あー、山百合会の方々がいらっしゃるところね。
 祐巳さん、本当に志摩子さんから何も聞いてないのね」

「だって、志摩子さんが話さないことなんて興味ないし。
 私に必要なことは志摩子さんは全部話してくれるもん」

そう言った後で、祐巳は丁度今教室に入ってきた志摩子に気付き、手を振って呼ぶ。
祐巳が呼んでいることに気付いた志摩子は、嬉しそうに微笑んで祐巳の元へと歩いていった。

「ごきげんよう、祐巳さん。蔦子さん」

「ごきげんよう、志摩子さん。今日は遅かったけど、何かあったの?」

「えっと・・・その、恥ずかしいのだけど、お弁当を作ってたら少し時間を忘れてしまってて・・・
 今日は私の番だからって、気付かないうちに浮かれてたみたい。祐巳さんの口に合うといいのだけど」

「もう、志摩子さんの作るものなら何でもおいしいよ。志摩子さん料理上手だもの。
 私、志摩子さんのお弁当大好きだよ。今日の昼休みが楽しみだなあ・・・早く来ないかな」

「ふふ、祐巳さんったら」

「・・・あの、二人とも、凄く申し訳ないんだけど、話し続けてもいいかしら」

二人だけの世界を作っていた祐巳と志摩子に、蔦子は呆れるように告げた。
――藤堂志摩子。祐巳のクラスメイトであり、祐巳が高等部に入って唯一『悪癖』を発生させた女性徒である。
高等部に入り、初めて同じクラスになった祐巳だったが、当初は志摩子に何の興味も抱いていなかった。
だが、彼女が時折見せる表情に次第に興味を抱くようになっていった。そして、彼女が丁度白薔薇の蕾と
なった九月頃だろうか。祐巳は本格的に彼女が『欲しい』と思うようになった。
今まで『普通の生徒』として我慢してきた分、その反動は大きなものだった。
志摩子の心に触れた祐巳は、友人と恋人という中間ラインの関係では物足りなくなってしまっていた。
だから、祐巳は深く志摩子を求めた。そして、祐巳は自分が志摩子の事を好きだということに初めて気付いた。
ある種、祐巳が人を好きになるのはこれが初めてだった。今まではただの己の欲求を解消していたに過ぎないが、
志摩子に関して祐巳は違った。彼女から貰うだけでなく、彼女に与えたいと思った。そのような気持ちは初めてだった。
互いに互いを必要とする存在。それが祐巳と志摩子の関係だった。
訪れたばかりの志摩子に、祐巳と蔦子は事情を説明する。その話を聞き、志摩子は嬉しそうに微笑んだ。

「それでは、祐巳さんは祥子様と接点を持ちたいのね」

「祐巳さんの考えとしてはズバリその通りなんだけど・・・けど、いいの志摩子さん。
 貴女という人がありながら祐巳さんは祥子様に興味がおありだそうだけど」

蔦子の言葉に、祐巳は『も〜、全然分かってない』と反論する。
その祐巳の言葉を理解しているように、志摩子は楽しそうに微笑む。

「あのね蔦子さん。私は祥子様に志摩子さんと同じ事を望んでる訳じゃないの。
 志摩子さんは私にとって唯一無二の人なの。上手く表現できないけど、志摩子さんと祥子様に求めるものは違うの」

「よく分からないけど・・・つまり本命と愛人?」

「その言い方凄くやだなあ・・・ともかく、私は祥子様をどうこうするつもりはないんだよ?
 ただ、こう・・・ちょっと興味があるっていうか。隙あればちょっとつまみ食いするくらいならいいかなっていうか」

「やっぱり手を出すんじゃない」

蔦子の突っ込みに『違うの〜!』と子供のように地団太を踏む祐巳。
そんな祐巳を楽しそうに宥めながら、志摩子は二人に話す。

「それじゃ、放課後は私が二人を薔薇の館に案内させて頂くわ。
 もし出来るなら、祐巳さんがこのまま祥子様の妹になって山百合会に参加してくれると嬉しいのだけど」

「う〜ん、正直興味ないからなあ・・・私、志摩子さんがいれば学園生活はそれでいいし。
 そもそも祥子様は外見が気に入っただけで、中身は全然知らないし。向こうも私の事知らないからね。
 でも、山百合会に入ると志摩子さんともっと一緒に居られる時間が増えるかもしれないね。・・・あ、それが狙い?」

祐巳の言葉に志摩子は少し照れながら微笑んだ。
笑いあう二人を見て、蔦子は今日何度目となるのか数えるのも億劫になった溜息をついた。














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