3.心を揺らす火曜日










翌日、登校した祐巳を待っていたものは好奇の視線の嵐だった。
一体どこから伝わったのか、祐巳が祥子を振ったという噂が学園中に流れてしまっていたのだ。
実際、祐巳は祥子を振ったわけではないので、どうやらその噂を流した人間はあの場にいた人間ではないらしい。
大方、昨日の帰りに祥子と祐巳の会話を聞いた人間が文字通り受け止めてしまったのだろう。迷惑なことだ。

ただ、祐巳はそんな視線を少しも気にすることはなかった。
学園では常に『普通』の皮を何重にも着込んでいる為、クラスメイト達は噂をデマだと信じて疑わなかったし、
他のクラスの人間も祐巳を遠巻きに眺めるだけで話しかけたりすることはない。
祐巳はそんな光景を他人事のように眺めながら、一人楽しそうに心の中で笑っていた。
ああ、こんなにも大衆の目を集める宝石を自分のモノに出来るのかと思うと祐巳はニヤけずにはいられなかった。
午前中の授業を終え、再び祐巳を見ようと集った観衆を気にすることも無く、祐巳はいつものように
志摩子の手を取って教室の外へと出て行った。昼食はいつも志摩子と一緒に食べるのが祐巳の日課だった。

「どうぞ志摩子さん。今日はちょっといつも以上に張り切って作ってみたから」

人気の無い講堂の裏手で、祐巳は持ってきた二つの弁当箱のうち、一つを志摩子に手渡した。
それを志摩子は『ありがとう』とお礼を良いながら笑顔で受け取った。
毎日交代で弁当を作ること。それは祐巳と志摩子が二人で決めたことだった。

「でも、今日は教室に沢山人が集ってたわね。みんな祐巳さんを見に来ていたみたいだけど・・・
 祥子様との事がもう学校中に広まっちゃったのね」

「あは、みんな私がその福沢祐巳だなんて考えもしないだろうしね。私は誰が見ても『普通』の生徒だもん。
 みんな福沢祐巳が私だってことを知ったらどうなるのかなあ。祥子様のファンって多いんだよね。
 その娘達がみんな私に『どうしてあんな娘が』って視線を見せるんだ。ああ、考えるだけでゾクゾクしちゃうよね」

「ふふ、本当の祐巳さんがこんな人だって知ったらみんな驚いちゃう」

「あれ、志摩子さんは本当の私を知って見損なっちゃった?」

「真逆。私はそんな祐巳さんが大好きだもの。
 ただ、祐巳さんの秘密を知ってるのが私だけじゃなくなるのは少し寂しいわ」

「もう、本当に可愛いこと言ってくれるなあ志摩子さんは。ご飯食べるの後回しにして襲ってもいい?」

「とても心惹かれるお誘いなのだけど、学校では駄目よ祐巳さん。だから今は我慢しましょう」

「残念。なら、今はこれで我慢するよ」

志摩子を引き寄せ、祐巳は優しく志摩子と唇を重ね合わせる。
突然のキスに少し驚きはしたものの、志摩子は身体の力を抜いて祐巳に身を委ねる。
数秒は経ったところで祐巳は満足したのか、志摩子から唇を離して満面の笑みを浮かべた。

「ご馳走様でした・・・って、まだ昼ご飯は食べてないんだけどね」

「もう・・・祐巳さんったら」

「だって志摩子さんがいけないんだよ?そんな可愛いこと言うから。
 むしろ頑張ってキスだけに留めた自分を褒めてあげたいよ」

悪びれることも無く言ってのける祐巳に、志摩子は顔を真っ赤にして抗議する。
だが、それが本心からの抗議でないことは勿論互いに分かっていた。
祐巳と志摩子は学校でこそ友人の関係であるが、本当の二人の関係は恋人であるのだから。

「そうだ。私、志摩子さんに聞きたいことがあったんだよ」

「聞きたいこと?」

祐巳の言葉に、志摩子は『私に答えられることなら』と付け加えた上で応対する。
昨日、初めて知った志摩子と祥子の関係。それを祐巳は志摩子に尋ねることを今の今まですっかり忘れていたのだ。

「志摩子さん、祥子様からの姉妹のお誘いを断ったんだよね。
 その理由が少し聞かせて欲しいなあって。だって、祥子様って確かに中身は結構アレだけど、
 外見はピカ一だよ?手元におきたいって思わなかった?あんな宝石滅多に手に入らないよ?
 祥子様を捨てるなんて勿体無いの神様が出ちゃいそうだよ」

「えっと・・・外見や宝石がどうこうに関しては私にはよく分からないのだけど・・・
 祥子様はきっと私じゃ駄目だと思ったの。私は祥子様のこと好きだったけど、私じゃ祥子様に何も与えられないし、
 祥子様は私に何も与えられない。きっと私達は互いに求めるモノが違い過ぎると思ったの」

志摩子の言葉に、祐巳は『いや、さっぱり分からないけど』と突っ込みを入れる。
祐巳の言葉に志摩子は苦笑しながら『祥子様にも言われたわ』と答える。

「でも、祥子様を振って手に入れたのが白薔薇ってのがまた・・・志摩子さん、つくづく変な女に捕まるね。
 もしかしてそういう変わりモノが好きなの?」

「あら、私は変な女の子に捕まった記憶なんてないのだけど」

「いやいや、充分に捕まってるからね。今現在志摩子さんの目の前にいるのとか」

「ふふ、私は祐巳さんに出会えて本当に良かったと思ってるわ。
 だって、祐巳さんこそがきっと私の求めていた人なんだもの。祐巳さんは私の求めていた答えを全て教えてくれたわ。
 だから、本当に祐巳さんには感謝してる」

「・・・やっぱり襲っていい?」

「駄目」

微笑みながら答える志摩子に、祐巳は再び『残念』と首をすくめた。
だが、感謝してるのは祐巳も同じだった。志摩子は祐巳の全てを受け入れてくれた。
今まで本命を定めたことのなかった祐巳にとって、志摩子の存在は本当に大きなモノだったのだ。

「でも祐巳さん、お姉様の事を知ってるような口ぶりだけど、お姉様とお知り合いだったの?」

「違うよ。でも、分かる。あの人は私と同じ生き物だよ。
 だからちょっと驚いてるんだよね。どうしてあの人は志摩子さんに手を出してないのかなって。
 姉妹にするくらいだから、当然志摩子さんに好意を抱いてるとは思うんだけど・・・」

祐巳の疑問に、志摩子は顔を真っ赤にして苦笑を浮かべるしかなかった。
そう、祐巳と深い関係になるまで『そっち』の気が無かった志摩子は、『そのような』対象の初めての相手は祐巳だった。
志摩子の様子から、そのことは祐巳は確信していたし、志摩子もそのことを隠さず祐巳に伝えた。
だから祐巳は解せなかった。聖が自分と同じ『そっち』の人間だということは明白だ。同族は匂いで分かる。
ならば何故志摩子に手を出さなかったのか。不思議そうに首を傾げる祐巳に、志摩子は笑って告げた。

「きっと、私とお姉様は本質が同じだからだと思うわ。鏡に写る自分を見てるような気持ちだったのではないかしら。
 その・・・自分自身をそういう対象に見れないのと同じ理由じゃないかしら・・・」

「成る程。確かに自分の裸見ても面白くないよね。
 いや、志摩子さんくらい私も出るとこ出てたらそれなりに楽しかったんだろうけど」

祐巳のセクハラギリギリどころかどう考えてもアウトラインの発言に、
志摩子は顔を真っ赤にしたまま言葉を発することが出来なかった。
そんな志摩子を気にすることも無く、祐巳はとんとんと話を続けていく。

「まあ、そんな志摩子さんと白薔薇のおかげで祥子様とこうして知り合えたんだけどね。
 そういう訳で私は祥子様を手に入れるよ。身も心も全部私のモノにしてみせる。
 だけど、志摩子さんに勘違いして欲しくないのは私の本命はあくまで志摩子さん。
 他の人達はその・・・つまみ食い?ともかく、心に決めたのは志摩子さんだけだから」

「祐巳さん、まるで浮気の弁解をしてるみたい」

「まあ、事実そんな感じだからね。正直、高等部では『普通』で居続けるつもりだったんだけど・・・
 やっぱり、自分の欲望は抑えられないよ。綺麗な宝石は良き持ち主に愛でられてこそ価値があると思うんだ。
 そういう訳で志摩子さん、何とぞ私に許可を。勿論、志摩子さんが嫌だって言うなら私は祥子様を諦めるよ?
 志摩子さんを失ってまで執着するモノなんて私にはないし、一番大切なのは志摩子さんだから」

えへへ、と笑う祐巳に、志摩子は仕方がない人とばかりに微笑んだ。
そして、何より仕方の無いのは自分だと志摩子は思った。こんな祐巳だからこそ、自分は好きになったのだから。

「私は祐巳さんを止めないわ。だって、その方が祐巳さんは自分らしくて素敵だもの。
 それに、祐巳さんが祥子様の妹になったら、もっと一緒に居られるから私も嬉しいものね」

「わあ!志摩子さんありがとう!!だから志摩子さんって大好き!」

志摩子に抱きついて頬を摺り寄せる祐巳に、志摩子は嬉しそうに笑顔を見せた。
本当、祐巳を好きになってしまった自分を仕方ないと思う以上に褒めてあげたい気分だった。
こんなにも大好きだと思える祐巳と心を通じ合えた自分自身に。















 ・・・














放課後、掃除当番だった祐巳は一人音楽室に残り、のんびり時間を過ごしていた。
先程までは掃除日誌を書いていたのだが、それもすぐに終わり、やることがなくなった。
しかし、今帰宅すると祐巳と同じ帰宅部の人々のラッシュと時間が重なってしまう為、
少しの間、祐巳はこうやってノンビリと音楽室で時間を過ごしているという訳だ。

「この時間は志摩子さんは山百合会だもんなあ・・・
 こんなことなら部活の一つでも入って暇潰し出来る女の子の一人でも作ってれば良かったかな」

虫も殺さぬ顔して物凄いメチャクチャなことを一人祐巳は呟いた。
高等部に入学し、祐巳は部活に入ることはなかった。高等部の部活には、一つの部活に必ず一人と
言って良いほどに祐巳が昔手を出した女の子がいたからだ。同級生だけなら四人の手の指の数で
足りたかもしれないが、祐巳は中等部時代に先輩にも手を出していた。
高等部ではその娘達と関係を断ち、普通の女の子の皮を被っていくつもりだったので、
結局祐巳は帰宅部に落ち着いたのだった。
祐巳は時間潰しにと、音楽室に設置されているピアノの蓋を開ける。
そして、一呼吸置き、鍵盤に指を走らせる。彼女の作り出すメロディは空間に浸透し、どこまでも拡がっていく。
それは美しい旋律。自然に動く身体に、指に全てを委ね、音楽室という箱庭で一つの世界を創造していく。
曲はグノーのアヴェ・マリア。祐巳はこの曲に別段思い入れがある訳ではない。
ある休日に志摩子に祐巳がピアノを弾いてあげると言った時にリクエストを尋ねると、志摩子がこの曲を望んだのだ。
演奏を聴き終えた後に、志摩子が凄く嬉しそうな笑顔を浮かべていたことが祐巳の記憶に残っていた。
志摩子が望む限り、何度だって演奏してあげる。これは志摩子の為の曲。それが祐巳のアヴェ・マリアだった。
一体どれくらい演奏していたのだろうか。一通り弾き終えた後で演奏を終えると、背後から拍手が聞こえてきた。
その音に祐巳は不思議そうに振り返ると、そこには紅薔薇の蕾、小笠原祥子が微笑んで立っていた。

「祥子様?」

「とても素晴らしいピアノだったわ。優しく、そして心に残るアヴェ・マリアね」

祥子に褒められ、祐巳は『はあ』となあなあの返事をしながらピアノの蓋を閉める。
褒められたのは嬉しかったが、どうして祥子がここにいるのかという疑問のせいで祐巳は正直に喜べなかったのだ。

「ピアノはいつから?」

「えっと、小学部の一年からです。高等部に入るまでは続けていましたが、今は何も」

「そう、勿体無いわね。まあ、私も習い事を全て辞めたのだから人の事は言えないのだけれど。
 辞めた理由は聞いてもいいのかしら?」

「う〜ん・・・続ける理由が無くなった、じゃ駄目ですか?」

祥子に告げたように祐巳がピアノを辞めた理由は唯一つ。『これ以上続ける理由が無くなったから』だ。
元々、中等部に入る前に祐巳はピアノを辞めるつもりだったのだが、ピアノというステータスは
狙った女の子を手中に収める上で幾分か武器になることがあった。その為に祐巳は中等部の時まで続けたのだ。
しかし、高等部では『普通』を目指した為、ピアノを習う必要が無くなった。
別にピアノは嫌いではないが、理由も無く続けるほど好きでもなかったのが大きな理由だった。
祐巳の返答に、祥子は気にすることもなく『そう』とだけ答えた。

「ところで祥子様、こんなところにおいでになって一体どうされたんですか?
 放課後は山百合会にいらっしゃると思っていたのですが」

「そうよ。今から私は山百合会に行かないといけないの。
 だからここに来たんじゃない」

祥子の言葉に、祐巳は成る程と納得した。昨日の祥子との勝負の条件を思い出したからだ。
もし祥子が自分に勝った場合、彼女の代わりに祐巳はシンデレラを演じなければならない。
その為に自分を演劇の稽古に連れて行くつもりなのだろう。祐巳は楽しそうに笑みを浮かべる。

「無駄だと思いますけどね」

「それは私が負けると言ってるのかしら?」

「違いますよ。祥子様が負けるのではなく、私が勝つのですよ。
 私、欲しいものは絶対に手に入れなきゃ気が済まない人間なんです」

「世の中に絶対何ていうものはそう多くなくてよ?」

「多くなくとも存在はします。その数少ない絶対の一つがこの賭けにおける私の勝利なんです。
 私は祥子様に興味がありますし、手に入れたいと思っています。だから、私の勝利は絶対なんです」

にこにこと楽しそうに告げる祐巳に、祥子は少し戸惑う。
彼女の絶対の自信は一体どこからくるのか祥子には不思議でたまらなかった。
目の前の少女が自分の事を少なからず好意を抱いてくれているというのは分かる。
だが、それは純粋な好意などではないような気がした。

「・・・随分と自信がおありなのね。そうね、確かに私も貴女に興味があるわ。
 だからこそ、今でも貴女を妹にしたいと思っているし、こうして貴女の前に現れてる。
 けれど、それとこれとは話が別よ。私は貴女との賭けに勝つ。勝って貴女を妹にするわ」

「ふふ、それでこそ祥子様。だから、頑張って下さいね。
 祥子様が頑張れば頑張るほど、私も遣り甲斐があるというものです。
 貴女は私の大切な宝石。そんな簡単に手に入っては価値が下がってしまいますから」

微笑んだまま、祐巳はゆっくりと祥子の元へと近づいていく。
その微笑みは今まで祥子が見てきた祐巳の表情とは違い、どこまでも妖艶で。
彼女に魅入ってしまい、気付いた時には祐巳は祥子のすぐ近くまで辿り着いていた。
そして、彼女は軽く背伸びをして、祥子の耳元に囁きかけた。

「大好きな祥子様、どうか私を退屈させないで下さいね?」

「っ!?」

驚き、祐巳の方を振り返った祥子だが、そこにはいつものように
可愛らしい歳相応の少女の笑みを浮かべた祐巳がいるだけだった。

「さあ、行きましょう?私の未来のお姉様」

祐巳に促され、祥子は動揺を必死に抑えて『ええ』と返事するのが精一杯だった。
ただ、先程から胸の鼓動が激しく脈打ち、冷静さを取り戻せずにいた。
先程見た祐巳の妖艶な微笑み。それが未だに頭から離れなくて。














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