6.初めてと数え切れない程との金曜日










金曜の放課後、祥子はいつにもまして大きな溜息をついた。
その最たる理由が自分の目の前で好き勝手なことばかり言ってくる先輩達であるのだが、
不機嫌そうな祥子のことなどお構い無しにあれこれと聞いてくるのだ。

「どう?祐巳ちゃんとの賭けには勝てそう?」

「放っておいて下さい。お姉様、これは私と祐巳の問題です」

「あらつれない。相談ならいつでも乗ってあげるのに」

「結構です江利子様。私に相談することなんて何一つありません」

「そう?でもさ、祥子結構ヤバイんじゃない?見たところ祐巳ちゃんが優勢みたいだしさ。
 意地張らないで祐巳ちゃんに『姉にして下さい』って言っちゃえば?
 祥子が折れるなら祐巳ちゃん喜んでシンデレラをやると思うけど」

軽口を叩く聖を祥子はキッと睨みつける。そんな祥子に聖は楽しそうに首をすくめた。
そんなことは言われなくても分かっている。これは最早祥子の意地なのだ。
あの日、祐巳と初めて出会った日から数日。たった数日しか経っていない筈なのに、
自分の中で祐巳の存在が大きくなっているのを祥子は感じていた。小笠原祥子は福沢祐巳に確かに惹かれているのだ。

あの日、初めて出会ったばかりの祐巳を捕まえ、姉達にこの娘は妹だと嘘をついた。
無論、そんな嘘はすぐにばれてしまったのだが、祐巳はそんなメチャクチャな自分を『面白い』の一言で片付けた。
新鮮だった。近寄り難い、立場が違う等と下級生達から一線を引かれていた自分を、祐巳は
何の色眼鏡で見ることもせず、その場の自分を感じたままに評価した。私が薔薇の蕾であるにも関わらず、だ。
それどころか彼女は自分の意見を忌憚無く祥子にぶつけるのだ。それこそ歯に衣を全く着せず。
それが祥子は嬉しかった。時々はカチンと来るときもあるが、それは決して不快では無かったから。

祐巳が欲しい。妹として、自分の傍に欲しい。あの日、薔薇の館で咄嗟に妹だと言った時とは違い、
今なら心の底からそう思える。志摩子の時とは違う、心から湧き出る感情。自分は『福沢祐巳』が欲しいのだ。
無論、自分は祐巳の全てを知っている訳ではない。祐巳の言動に理解出来ないことなんてそれこそ数え切れない。
だが、それは姉妹となった後でゆっくりと深めていけば良い。今はただ、彼女を絶対に妹にしてみせる。
それが祥子の今の気持ちだった。
聖の言う通り、もし自分が折れたなら祐巳は喜んでシンデレラを代わりに演じてくれるだろう。
しかし、それではプライドが許さない。自分は祐巳の姉になるのではない。勝って祐巳を妹にするのだ。
負けず嫌いで結構。それに何もせずに手に入るほど福沢祐巳は安くない。そしてこの小笠原祥子自身もだ。

「でも、志摩子も祐巳ちゃんも遅いわね。今日は仮縫いの試着があるって言っておいたのに」

「由乃ちゃん、一年生の授業はもう終わってるんだよね」

「はい。私は志摩子さん達とはクラスは違いますが、一年生は全て同じだと思います」

そして、現在祥子が苛立っている理由のもう一つが、祐巳の遅刻である。
こういうことに人一倍厳しい祥子が怒るのも仕方のないことだろう。ましてや相手は自分の妹候補なのだ。
どうしようかという空気が漂っていたところに、扉の向こうから志摩子が現れた。

「申し訳ありません。遅くなりました」

「いえ、それはいいのだけど・・・祐巳ちゃんは?」

「あ・・・えっと・・・その・・・」

「何を躊躇っているの。いいから早く言いなさい」

困ったような表情を浮かべた志摩子に、祥子が少し苛立たしげに追求する。
祥子の追求に少し眉を顰める志摩子だが、言わない訳にもいかない為、ゆっくりと口を開いた。

「祐巳さんは今、保健室で眠っています」

志摩子の言葉に、山百合会のメンバーに驚きの声が上がる。
特に驚きを見せたのは他ならぬ祥子だった。祐巳が保健室で眠っている。つまり体調が悪いということだ。

「保健室って・・・祐巳ちゃん、どうかしたの?」

聖の言葉に、志摩子は言葉を返すことが出来なかった。
その瞬間、志摩子の言葉を待たずして祥子は椅子から立ち上がった。そして、扉の方へと歩いていく。

「何処へ行くの、祥子」

そのまま扉のノブに手をかける祥子に蓉子が声をかける。
だが、祥子は振り返ることも立ち止まることも無く蓉子へ言葉を返すだけだった。

「保健室へ行ってきます」

その瞬間、背後から『待ってください』と志摩子の声が聞こえたが、祥子は足を止めなかった。
部屋から祥子が出て行き、室内に残ったのは静寂だけだった。

「行っちゃったわね。祥子ったら、詳しい事情も聞かないで祐巳ちゃんのところへ行っちゃうなんて。
 本当、これじゃ賭けの結果なんて見えているのではなくて?」

「江利子、茶化さないで。妹にしたい娘が倒れたなんて聞いたら誰だってああもなるわ。
 それより志摩子、祐巳ちゃんは大丈夫なの?口にするのも躊躇うくらい症状が酷いの?」

蓉子の言葉に、志摩子はふるふると小さく首を振った。
首を傾げる全員に、志摩子はようやく覚悟を決めたかのように告げた。

「あの・・・祐巳さん、体調が悪くて保健室で眠っている訳ではないんです・・・
 今日の授業が終わった後で、私に『眠いから今日は保健室で寝てる』って言い残して、そのまま・・・
 えっと・・・祐巳さんの服のサイズは一応全部私が知ってますから、その、今日の参加は・・・」

「・・・ククク、あは、あはははははっ!!!」

顔を真っ赤にして困りきった表情を浮かべて説明する志摩子に、聖は堰を切ったように大笑いした。
そんな聖につられて江利子も楽しそうに笑っている。否、楽しそうというよりも満足そうと言った方がいいかもしれない。
令と由乃は志摩子の話が未だに信じられないのか、ぽかーんとした表情を浮かべている。
そして、蓉子は頭を抑えて呆れ果てるような表情を浮かべるしかなかった。

「いやー!!実に祐巳ちゃんらしいじゃない!結構結構、やっぱあの娘はそうじゃないとね!」

「結構、じゃないわよ・・・理由が理由過ぎて言葉も出ないわ・・・」

「フフ、いいじゃない。最初は『普通』過ぎて面白くない娘だと思ってたけど、なかなかどうして。
 日にちが経つにつれてあの娘はどんどん面白くなっていくわね。本当、紅薔薇は面白い人材を見つけたものね」

「嬉し過ぎて涙が出そうよ・・・祐巳ちゃん、どうやら聖と同じタイプだったみたいね」

「ありゃ?そりゃどういう意味?」

惚ける聖を睨むように見つめながら、蓉子は言葉を続けた。

「祐巳ちゃんは将来の薔薇としての素質気質は完璧だけど、悪い言い方をすれば中身に問題があるわ。
 山百合会という紐で縛り付けることは難しいということよ」

「うわあ、酷い言われようだね。でも、良いことじゃん。
 これって祐巳ちゃんが少しずつ私達に本当の自分を見せてきてるってことでしょ?
 あんな風に上辺だけの普通を着飾って接されるよりも私はよっぽど良いことだと思うけど」

「同感ね。その辺にありふれた唯の良い娘なんかより、私はもっと面白い娘が見たいわ。
 聖じゃないけれど、私も祐巳ちゃんに興味が沸いたわ。あの娘、知れば知るほど魅力的よ」

「あのね・・・祐巳ちゃんがもし祥子の妹になるとするでしょう?
 そうすればあの娘に振り回されるのは同じ学年の志摩子と由乃ちゃんなのよ?
 私と同じ気苦労を二人に合わせるつもり?」

「由乃ちゃんはともかく志摩子は気にしないでしょ。むしろ喜んでその気苦労を背負うと思うけどね。
 そうでしょ、志摩子」

聖の言葉に、志摩子は苦笑しながらも嬉しそうに頷いた。
その様子に蓉子は困ったように笑うしかなかった。成る程、どうやら志摩子は自分と同じらしい。
志摩子と祐巳、令と祥子、そして自分と聖。どうやら歴史は同じように繰り返す定めのようだ。

「全くもう・・・きっと今頃、保健室で祥子はカンカンに怒ってるわよ」

「妹を躾けるのも姉の仕事なんでしょ。ま、怒られたところで祐巳ちゃんが堪えるとは思えないけど。
 ・・・江利子、賭けない?祥子が今日、祐巳ちゃんを連れてこれるかどうか」

「いいわよ。勿論、先にどちらに賭けるか選ばせてもらえるのよね?」

「あちゃあ、やっぱこの賭けは無しにして。負けの決まってる賭けほど面白くないモノはないからさ」

「貴女達ね・・・人の妹で遊ばないで頂戴」

笑いあう聖と江利子に、蓉子は一人深い溜息をつくしかなかった。
どうか、保健室に他の生徒達がいませんように。流石に大声で祥子が祐巳を説教してるような光景を
他の生徒に見られるような事だけは避けたいと蓉子は考えていた。

















 ・・・

















「眠たい・・・だけ・・・?」

「そう。眠たいだけ」

保健室に辿り着いた祥子は、保健医から話を聞かされ思わず言葉を鸚鵡返ししてしまった。
その祥子の様子に、楽しそうに答える保健医だが、祥子にとっては笑い事ではない。
部屋を飛び出してまで辿り着いた保健室では、祐巳は気持ちよさそうにすやすやと眠っているだけだった。
そして、保健室にいた教諭に症状を聞いてみれば『眠たかっただけ』。祥子でなくともこうなると言うモノだ。

「実は祐巳ちゃんって入学した頃から毎週一回はここに来て寝てるのよね。
 それは朝一だったり昼休みだったり放課後だったりで来る時間はマチマチなんだけど、
 授業中じゃないし、ベッドは空いてるし、寝たいって言ってるだけだから断る理由もないからね」

「・・・普通、ただ眠たいだけの生徒に、保健室のベッドは、貸さないと、思うのですが・・・」

祥子は途切れ途切れに言葉を続ける。
握る拳が震えているところを見るに、どうやら祐巳に対する怒りが込み上げてきたらしい。
そんな祥子に保健医は『そうなんだけどね』と答え、祐巳のベッドの方へと歩いていく。
そして祥子も一緒に祐巳の方へと歩いていった。さっさと叩き起こして文句の一つでも言わないと気が済まない。
怒りのあまり、そんなことを考えていた祥子だったが、祐巳の顔を覗き込み、怒りが一気に冷めていってしまった。
――なんて可愛い寝顔なんだろう。それは本当に純粋無垢な子供のようで。何も知らない少女のようで。
シーツに包まりすやすやと眠る祐巳を見て、表情を和らげる祥子に、保健医は困ったように言葉を続けた。

「この寝顔を見せられるとね、起こす気にもならないでしょ。
 実際、暇な時間の時とかは話し相手になってくれたりしてくれるし、良い娘だからね。邪険にも出来ないのよ」

「本当・・・困った娘です」

ベッドの傍の椅子に座り、祥子は一つ溜息をついて、そして笑った。
この娘に出会ってから、どうも自分は振り回されっぱなしだ。だが、それは決して悪い気分ではない。
祐巳は人の心にいとも簡単に入り込んでくる。しかし、人の心を決して荒らすことはしない。傍で笑っているだけだ。
だからこそ、こんなにも惹かれてしまう。こんなにも欲しいと思ってしまう。
たった数日。たった数日の間で、自分は本当にこの娘に惚れ込んでしまったのだと痛感する。
もう他の誰かなんて考えられない。自分は絶対に祐巳を妹にしたい。祐巳じゃないと駄目なのだ。
ある意味、これも一目惚れと言うのだろうか。それともこの娘の魔力と言うべきだろうか。
だが、今は決して口にしない。それでは自分が負けたみたいで嫌だから。意地っ張りだとは自分でも分かっている。
祐巳に自分を認めさせてみせる。祐巳に妹になりたいと思わせてみせる。
最早、祥子の中にシンデレラの役のことなど消え去っていた。この勝負は自分と祐巳の『本当』の勝負なのだと。

「それじゃ、私は今から会議があるから祐巳ちゃんのことお願いね。
 お姉様がいてくれるなら、大丈夫でしょうし」

「分かりました。・・・ですが、私はまだ祐巳の姉という訳では」

「将来的には姉なんでしょう?祐巳ちゃん、楽しそうに言ってたわよ。近いうちに姉が出来るって。
 この娘があんなに楽しそうに他人の事を話してたのは、志摩子ちゃん以来かしらね。頑張ってね、紅薔薇の蕾」

そう言い残し、保健医は楽しそうに部屋から去っていった。
祐巳が嬉しそうに自分の事を話していた。ただ、それだけの事なのに、
人から聞かされるだけでこんなにも胸の中が暖かくなる。こんなことは今まで無かったのに。
もっと自分を見て欲しい。自分の事を知って欲しい。祥子はそっと祐巳の頬に手を触れた。
祐巳に触れるだけでこんなにも胸が高鳴る自分がいる。そして同時に安堵感に包まれる自分がいる。
先程まではあんなに怒っていたことが嘘のように。祐巳は自分にとって精神安定剤のようだ。
もう少し近くで祐巳を眺めていたい。今はこうして形だけしか出来ないけれど、いつかは心も共に。
祥子は祐巳に顔を近づけた。もっと祐巳を近くで眺めていたかったから。だから、そっと。

「祐巳・・・」

「はい、何でしょう?」

「っ!!?」

祥子が呼びかけた瞬間、祐巳は目をぱちりと開き、してやったりといった笑みを浮かべた。
驚きのあまり、思わず声が出そうになった祥子だが、必死に押し留め、祐巳から離れようとした。
しかし、それより早く祐巳が祥子の首に手を回し、祐巳の方へと引き寄せた。
祐巳の力に耐えられず、祥子は身体ごと祐巳のベットへと倒れこんでしまった。

「貴女っ、いつから起きてっ!!?」

「いや〜、実は祥子様が保健室に来た辺りから。
 このまま寝てたら怒られないで済むかな〜、なんて思って狸寝入りしてたんですが、
 そしたらなんとまあ、祥子様は怒らないし先生は出て行ったじゃないですか。折角気を利かせて頂いたんですよ?
 この祥子様と二人っきりの時を逃す手はないなあと思いまして」

「っっっ!!!祐巳っ!!貴女ねっ!!んぅっ!?」

それはまさに突然の事だった。大声をあげようとした祥子の唇を祐巳が奪ったのだ。
軽く触れるようなキスに、祥子は何が起こったのか全く理解出来ず、あうあうと言葉を発することが出来なかった。
そして、祥子から唇を離し、祐巳は唇を舐めてあっけらかんと笑った。それこそ祥子の反応を楽しんでいるかのように。

「あは、凄く良い反応ありがとうございます。でも、祥子様がいけないんですよ?
 あんな可愛い顔されちゃうと、誰だって我慢なんて出来ませんよ。ご馳走様でした」

「な、なななっ!!?」

「あれ、もしかして現状を把握出来てません?え〜と・・・私、ちゃんと祥子様に言った筈なんだけどなあ・・・
 私、言いましたよね。『祥子様を手に入れる』って。私、欲しいんですよ。祥子様が」

――瞬間、祥子の記憶に放課後の音楽室でのことが蘇る。
確かに祐巳は言った。だが、それは『姉として』では無かったのか。姉として自分を宝石と形容したのではなかったのか。
先ほどの接吻、今の祐巳の台詞。ならば、あの言葉の意味は文字通りの意味で。
思考が混乱している祥子に、祐巳は微笑んで告げる。そう、この妖艶な笑みの意味は唯一つで。

「私は祥子様のことが大好きですよ?それこそ、身も心も自分のモノにしてしまいたいくらい。
 ・・・あ、身は駄目だ。志摩子さんに怒られちゃう。そういう訳で祥子様、私は貴女の心を私のモノにしたいんですよ」

「し、志摩子って・・・もしかして貴女、志摩子と・・・」

「はい。学外では志摩子さんと交際させて頂いてますよ。あ、清く正しくは無いですけど。
 同性愛者、それが本当の福沢祐巳です。知って落胆しました?妹にすることを諦めますか?
 でも、たとえ妹にされずとも私は祥子様を諦めるつもりはありませんけどね。
 自慢じゃないですけど、今まで狙った人を逃したことがないんですよ、私」

呆然とする祥子を他所に、祐巳はうーんと一つ背伸びをして、
鞄を片手に『先に薔薇の館行ってますね』と告げて保健室から去っていった。
――同性愛者。それが本当の福沢祐巳。彼女は自分に姉ではなく女を求めているのだ。
祥子は驚いていた。無論、祐巳がそうであるという事実にもだが、
それを聞かされてもそんなに衝撃が大きくなかったことに。同性愛者を祐巳の他にも知っているからだろうか。
そして何より、祐巳が志摩子と付き合っているということ。そちらの方が祥子にとってはショックが大きかった。
その胸の痛みの理由を祥子が知ることになるのは、まだ数ヶ月も後のことになるのだった。














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