空を駆ける鳥 上 










「・・・これはまた、見事なまでに寝ちゃってるわね」

放課後、薔薇の館に入った由乃を待っていたのは、志摩子の膝の上に頭を置き、
まるで子猫のように身体を丸めて眠る祐巳の姿だった。椅子を三つならべて器用にベットとして使っている。
呆れて息を吐き、『疲れない?』と視線で尋ねる由乃に志摩子は微笑みを浮かべながら首を振る。
そう、とだけ由乃は返し、鞄を机の上に置き、自分もまた椅子に座って祐巳の寝顔を見つめる。
それは由乃にとって普段のエロ祐巳からは想像出来ないくらい純粋無垢な寝顔で、
祐巳にメロメロな祥子様には見せられないなあと勝手に胸の中で考えていた。色んな意味で危険そうだから。
眠っている祐巳の髪を、志摩子はまるで愛娘を愛おしむように優しく撫でる。
その志摩子の表情に、由乃は少なからず驚いた。――本当に、優しい顔。
以前のように周囲と一線を引いていた志摩子からは想像だに出来なかった、心を許した表情。

「志摩子さんって、本当に祐巳さんが好きなのね」

「?ええ、勿論大好きだけど・・・突然な質問ね」

「ん。まあ・・・なんとなく思ったことを口にしてみただけなんだけどね。
 志摩子さん、本当に変わったわね。けど、今の志摩子さんなら嫌いじゃないわよ」

「ふふ、それじゃまるで以前の私が嫌いだったみたい」

「あら、否定はしないわ。私、以前の志摩子さんは嫌いだったもの」

由乃の言葉に、志摩子は笑って『知ってたわ』と返した。
そして、由乃もそんな志摩子に笑い返した。――本当に志摩子さんは変わった。由乃はそう思う。
以前の志摩子なら、こんな風に由乃と冗談を言い合うなんてありえなかった。
常に他人と一線を引いて接する志摩子と、猫を被っていた由乃では、絶対に。

「貴女が変わったのは聖様とスールになったからだと思っていたんだけど・・・どうやら違うみたいね。
 志摩子さんを変えたのは、やっぱり祐巳さん?」

由乃の言葉に、志摩子は一度自分の膝枕の上で眠る少女に視線を落とした。
――福沢祐巳。半年前までは唯のクラスメイトで、会話もしたことなかった少女。
女の子のグループの輪の中で、いつも微笑んでいる、そんなイメージしか持っていなかった。
祥子様が薔薇のイメージだとするならば、彼女はタンポポ。それが志摩子の祐巳を知る前のイメージだった。
志摩子はそんな過去を振り返り、思わず苦笑を浮かべた。本当、その時の自分はとんだ勘違いをしていたものだ。

「もし由乃さんにとって、私が変わったように見えるのなら、それは間違いなく祐巳さんのおかげよ」

「でしょうね。まあ、分かりきってた質問だったけど。本当、我ながら愚問だったわ」

由乃は軽く手をひらひらとさせて志摩子に『ノロケは結構だから』と意思表示をする。
そんな由乃に、志摩子は微笑みながら『残念ね』とだけ返した。その言葉に、由乃は笑う。
祐巳と知り合って、志摩子が変わってから、由乃と志摩子は本当に仲が良くなった。
由乃は志摩子に言いたいことはハッキリ言うようになったし、志摩子は由乃の言葉を上手く返すようになった。
それも一番の理由は、やはり志摩子の膝の上で眠る少女のおかげなのだろうなと由乃は一人思っていた。

「そういえば、志摩子さんは祐巳さんと去年の四月に初めて同じクラスになったのよね?」

由乃の質問に『ええ』と志摩子は肯定の意を込めて返した。
志摩子は中等部から、祐巳は幼稚舎からリリアンに在籍しているが、同じクラスになったのは去年が初めてだった。

「それじゃ、祐巳さんと初めて知り合ったのは入学してから?」

「ええ。けれど、祐巳さんと初めてお話したのは九月だったわね」

志摩子の言葉に、由乃は驚いたような表情を浮かべた。
それもそうだろう。何だかんだ言って、実は志摩子と祐巳との付き合いは、由乃とたいして変わらないのだ。

「ちょっと意外。志摩子さんと祐巳さんって、入学式くらいからの付き合いだと思ってた。
 というか、そんなにベタベタしてるのに祐巳さんと知り合ったのが実は私達と一ヶ月くらいしか
 変わらないって事実が驚きだもの。・・・志摩子さん、実は私を騙そうとしてない?」

「嘘なんか言わないわ。私はお姉様とスールになった数日後に祐巳さんと初めてお話したんだもの」

志摩子の言葉に、由乃の心に久々に火がついた。好奇心という名の炎が。
こうなると由乃はもう止まらない。由乃は志摩子に微笑んでみせた。

「私、今凄く興味が沸いたわ。志摩子さんと祐巳さんの出会い。
 あの頃の志摩子さんが、どうして祐巳さんと知り合って、そしてそんな仲にまでなったのか。
 以前聞いたけど、その当時の祐巳さんも『普通の皮』を被ってたんでしょ?
 だから、祐巳さんが押し倒したって訳ではないでしょうし・・・もし良ければ教えて欲しいのだけど」

「良ければ・・・と言われても。由乃さん、私が『秘密』と言っても聞きだすつもりでしょう?」

志摩子の言葉に、由乃は満面の笑みを浮かべてみせる。分かってるじゃない、そう語っているような笑みを。
苦笑を浮かべた志摩子は、祐巳の頭を一撫でして、軽く息をついた。

「別に構わないわ。・・・と言っても、由乃さんの期待に応えられるような面白い話ではないのだけれど」

「何言ってるのよ。他ならぬこの祐巳さんの過去なのよ?
 この山百合会では志摩子さんだけが知っているここに来る前の祐巳さん。面白くない訳がないじゃない」

志摩子は軽く目を閉じて、考えを一つに集中させる。馳せるは祐巳との記憶。
――福沢祐巳との出会い。それはきっと、神様が私に下さった最初にして最後の機会。
藤堂志摩子が藤堂志摩子として、自分の存在意義をこの世界に認める事が許された、たった一つの。
そう。私があの日、祐巳さんに出会わなかったらきっと――





















 ・・・


















その日の出会いは、まさしく当時の志摩子にとっては偶然以外の何者でもなかった。
放課後、たまたま担任の教師に呼び止められ、職員室にダンボールに入った資料を持っていくように言われ、
そして一人じゃ大変だろうからとその担任の教師が別の女性徒にも声をかけた。それが福沢祐巳だった。

彼女の事はある程度は知っていた。クラスの中でも、特に目立つわけでもない普通の女の子。
気付けば周囲に溶け込んでいる、どこにでもいる普通の女の子。それが志摩子の福沢祐巳の印象だった。
お互い話したことがある訳ではなかったが、イメージは掴めるもので、まさしくそれが祐巳のクラスのキャラ位置だった。

『それじゃ、運ぼうか』

笑顔を浮かべたままの彼女の第一声は、それだった。
志摩子の事に少しも興味がないのか、さっさと面倒なことは終わらせようという祐巳の意思表示。
少し意外だった。自惚れでもなんでもなく、志摩子の事をもう少し尋ねてくるものだと思っていたからだ。
つい先日、白薔薇の妹になった志摩子は、クラス中の話題の中心だった。
だから、祐巳も他の娘と同じように志摩子の事を色々聞いてくるものだと思っていたから。

そういう訳で一瞬呆気に取られたものの、そのような思考はどうでも良い事だと考え、
志摩子は祐巳の言葉に同意して、ダンボールの片方を持って教室の外へと向かった。
職員室までの道で、祐巳が重い重いと何度も愚痴を零していたことを余談だが、付け加えておこう。
無事、目的地まで荷物を運び終えた祐巳は、志摩子を振り返ることもなく『それじゃ』と手をひらひらとさせて
その場を去っていった。その仕草を見て、志摩子は改めて一つの事実を認識した。
――福沢祐巳は、藤堂志摩子にこれっぽっちも興味を持っていない。
それは、志摩子が望む学園内での友人との付き合い方。いつでも自由に飛び立てる為の枷に捕われない生き方。
彼女は自分の望む付き合い方をしてくれた。それなのに、志摩子は少しだけ『寂しい』と感じてしまった。













その日から、志摩子は少しずつではあるが、福沢祐巳に興味を抱くようになった。
教室内で時々祐巳の姿を目で追う様になった。休み時間の祐巳、授業中の祐巳、体育の時間の祐巳。
そして、志摩子はある一つの事に気がつく。福沢祐巳は実は一度も他人の境界線に足を踏み入れていないということ。
クラスで友人と話している時も、体育の時間にペアの人と話している時も、どんな時も祐巳は他人と一線を引いている。
ただいつも微笑み、子供のように無邪気な笑顔を浮かべている普通の娘。その普通が祐巳の濃度を薄くさせる。
きっと、どのグループでも祐巳は『いてもいなくてもあまり変わらない女の子』なのだろう。
事実、祐巳は一つのグループに属しているというようなことが無い。仲の良いグループもある訳でもない。
けれど、どこにいっても受け入れられる。それが福沢祐巳の在り方なのだろう。
――嗚呼、なんて身体の軽いことか。あれこそがまさに自分の理想とする姿ではないか。
枷に捕われず、どこにも属さず、常にその身は自由で。興味は持たず、持たれず。
彼女が羨ましいと思った。だけど、同時に思うのだ。自分では絶対にああはなれないのだろうな、と。
そして同時に思うのだ。志摩子が祐巳を他人と一線を引いてると確信させる理由。
――どうして祐巳さんは、あんなにもつまらなそうに笑うのだろう、と。















そして、二度目の邂逅まではそれ程時間はかからなかった。
放課後になり、志摩子が山百合会へ向かう途中の中庭で、福沢祐巳はそこにいた。
無用心にもベンチの上で寝転がり、心地よさそうに眠っていた。その胸の中には、いつぞやの猫が眠っていた。
いくら九月も終わりとはいえ、このまま外に眠らせて置く訳にもいかないと考えた志摩子は、
祐巳を起こす為にベンチの方へと歩み寄っていった。そこで、志摩子は彼女の寝顔を見て動きを止めた。


――なんて綺麗なんだろう。


それは志摩子の心から沸きあがった率直な感想だった。
このような胸の高鳴りは初めてだった。聖と出会った時とはまた違う心の籠絡。
ただただ目の前の少女の寝顔のなんと美しいことか。
きっと、志摩子以外の人達がその寝顔を見たならば、『可愛らしい』で終わっていただろう。
だが、志摩子には祐巳の寝顔がどうしようもなく美しく感じられたのだ。まるで、普段の祐巳とは別人のように。

「・・・ん・・・誰?」

志摩子の接近に気付き、祐巳の胸の中で眠っていた猫が飛び起きて何処かへ行ってしまったせいだろうか。
祐巳はゆっくりと起き上がり、目を擦りながら志摩子の方へ視線を送った。
志摩子の姿を確認すると、祐巳はいつものクラスの中での『福沢祐巳』を表情に貼り付けて笑顔を浮かべる。

「どうしたの?放課後にこんな場所に来るなんて」

「あ・・・え、えっと・・・私、今から薔薇の館に向かう途中で・・・
 それで、祐巳さんがここで寝てるのが見えたから・・・もうすぐ日が落ちそうだし・・・」

「薔薇の館?・・・まあ、とりあえずあれだよね。
 このまま寝てると風邪引きそうだから心配してくれたってことだよね。うん、ありがとう」

ふぁ、と軽く欠伸をして祐巳は志摩子に微笑んでみせる。
だが、胸元に先ほどまであった暖かさが消えてしまっていることに気付いたのか、
祐巳は不思議そうな表情を浮かべて周囲をキョロキョロと見回した。

「あれえ?ランチったら何処に行ったのかな。さっきまで一緒に寝てたのに」

「ランチ?」

「え?ああ、えっと、これくらいの猫なんだけど」

志摩子がまだ残っていたことが意外だったのか、祐巳は少し驚いたままで志摩子にランチの特徴を伝える。
その特徴を聞くまでも無く、その猫とは先ほどまで祐巳の胸の中で眠っていた猫のことだろう。

「えっと、先ほどまで祐巳さんの胸の中で一緒に眠っていたのだけど、
 私が近づいてるのに気付いたのか、逃げてしまったわ。ごめんなさい」

「ん、別に謝らなくてもいいよ。ランチが人見知り激しいのは身をもって体験した事だしね。
 まあ、それを手懐ける作業が楽しくもあったりしたんだけど・・・そんなことはどうでもよくて。
 それよりえ〜と・・・貴女、確かクラスメイトの・・・ゴメン、名前なんだっけ。
 あ、顔は覚えてるんだよ?この前一緒に職員室まで荷物運んだ女の子だよね?」

祐巳のとんでもない言葉に、志摩子は思いっきり頭を鈍器で叩かれたような衝撃に襲われた。
確かに、目の前の少女は自分に興味を一切抱いていないことは薄々とは感じていた。
だが、まさか名前すら覚えていないとは。同じクラスになって半年も経つというのに、それは流石に
あんまりなのではないだろうか。少し、溜息をついて志摩子は自己紹介を始める。

「藤堂志摩子」

「あはは、ごめんね。私、実はクラスメイトの名前って数える程しか覚えてなくて。
 志摩子さん、だね。それじゃ、早速なんだけど志摩子さんに聞こうと思ってたことがあって」

――瞬間、志摩子の背筋でまるで蛇がのた打ち回るかのような寒気に襲われた。
祐巳の見せた微笑、それは確かにいつもの福沢祐巳のもの。誰が見てもその筈だ。
それなのに、志摩子にはその微笑が別物のように感じられたのだ。それはまるで蛇が獲物を値踏みしているかのようで。
表情を強張らせる志摩子に、祐巳はぽつりと告げた。それは、志摩子にとって驚き以外の何モノでもない言葉。

「最近、ずっと私の事観察してるよね?」

「っ!!?」

最早声すら上げることが出来なかった。
言葉こそ疑問系ではあるが、あれは明らかに確信した上での質問だ。
否、それどころか言葉一つの志摩子の反応を見て楽しんでいるようにすら感じられる。
志摩子の反応に満足したのか、祐巳は再び微笑んで言葉を続ける。

「ああ、別に咎めてる訳じゃないから安心して。ただ・・・気になったんだよね。
 私ってさ、何処からどう見ても普通の女の子に見えない?その編に溢れているただの普通の女子生徒。
 それなのに、志摩子さんは何故か私のことをずっと観察してる。私みたいな女の子なら他にも沢山いるのに。
 だから気になったの。理由、教えてくれるかな?」

祐巳の問いに、志摩子はどう答えるべきか悩んだ。
祐巳は志摩子に対して怒っている訳ではない。自分を観察していた理由を問いただしてきたのだ。
理由をストレートに言って良いものか志摩子は悩む。それは失礼なことかもしれないからだ。
否、ハッキリ言って失礼だろう。祐巳と初めて会った時に感じた祐巳の他人に対する希薄さ。
それが羨ましかったから、だなんて言える訳がない。自分が一体祐巳の何を解かっているというのか。
言い淀む志摩子に、祐巳は軽く息をついて口を開く。

「ん〜・・・まあ、無理にとは言わないよ。
 冷静に考えてみれば、今日初めて名前を聞いてきたような奴にそんなこと言えないよね。
 ごめんね、今までの事は無かったことにして。私も『貴女』のことは忘れるから」

祐巳は微笑みながら『それじゃあね』と告げて、ゴロンとベンチに寝転がった。
彼女の言葉に、志摩子は動揺する。『貴女』の事を忘れる。
それはつまり、祐巳の中で志摩子の存在が『どうでもいいモノ』に変わってしまうということ。
そのことに気付き、志摩子は心から恐怖に駆られた。理由は分からない。ただ、怖かった。
きっと数分もすれば、彼女はきっと志摩子の名前を本当に忘れてしまうだろう。彼女はきっと、そういうヒトだ。

『そう』とだけ彼女に返して薔薇の館に行ってしまえば良いではないか。
別に彼女と今まで仲が良かった訳ではない。自分の名前だって祐巳は今初めて知ったくらいなのだ。
なのに、どうしても足がその場所から動かない。ここで、彼女とのつながりを失ってしまえば、
二度と手に入らない、そんな気がしたから。だから、動けない。
――否。それ以前の問題だ。自分は何故福沢祐巳とのつながりを失うことを怖がっているのか。
絆は枷でしかない。いつでも飛び立てるように、身軽でいたいと願う自分。その想いに、この気持ちは反するものだ。
けれど、それ以上に。きっと自分は、目の前の少女のことを『もっと知りたい』と感じているのだ――

「祐巳さんが・・・羨ましかったから・・・」

「・・・羨ましい?」

志摩子の言葉に反応し、身体を起こした祐巳に志摩子は言葉を続ける。
視線は祐巳から逸らしたままで、ただ、己の心を曝け出すように。己の想いを曝け出すように。

「祐巳さんは、他人に対して常に一線を引いて接しているわ。クラスの中で、それは誰もが例外なくそうだった。
 それはとても身軽で・・・何も縛られる訳でもなくて・・・祐巳さんの背中に翼があるようで、凄く羨ましかったの。
 祐巳さんは、私と違って何処までも飛んでいける人なんだなって思ってたら、それで・・・」

「・・・どうして私が他人と一線を引いてるって解かったの?」

再び言いよどむ志摩子だが、祐巳の視線に押されて結局口を開いた。
それは、きっと祐巳にとって失礼なのは間違いない言葉。きっと怒られても決して文句の言えない言葉。

「・・・祐巳さん、いつもつまらなさそうに笑ってたから。
 あれは祐巳さんの本当の笑顔じゃないんじゃないかって・・・そう思って・・・」

志摩子の言葉にきょとんとした表情を浮かべる祐巳。二人の間を静けさが取り巻く。
やっぱり言うんじゃなかったと心の底から思った志摩子は、謝罪の為に頭を下げようとした。
しかし、その瞬間、志摩子の目の前で予想外の光景が映し出された。

「・・・・ふふ、ふふふ」

「え・・・」

「あははは、あはっ、あはははっ!!!」

突如、何かのタガが外れたように笑い始めた祐巳に、志摩子は困惑する。
それこそ、腹を抱えて笑う祐巳に、ただただ呆然と眺めているしか出来ない志摩子。
そして、一通り笑い終え、満足したのか祐巳は笑みを浮かべて志摩子に顔を向けた。
その表情を見て志摩子は言葉を失う。先ほどの寝顔のときに感じた美しさ、それが今の祐巳にはあった。
どこまでも真っ直ぐで、そしてどこまでも折れ曲がっている。矛盾につぐ矛盾で彩られた妖艶な笑み。
志摩子はその瞬間、ようやく理解した。これが、本当の福沢祐巳なのかと。

「貴女、名前は?」

「え・・・?」

先ほどと同じ質問に、志摩子は思わず声を漏らしてしまう。
自己紹介なら先ほどした筈なのに――その志摩子の考えが伝わったのか、祐巳は首を振って応える。

「もう一度聞かせて欲しいの。貴女の口から、貴女の名前を。
 上辺だけじゃなく、私のここに貴女の名前をしっかりと刻み込む為に」

そう言って祐巳は自分の胸をトントンと指差し、微笑む。
何故だろう。自分よりも身長の小さいこの少女が纏うとてもつもない威圧感。彼女の言葉に逆らえない。
否、逆らうつもりなど毛頭無かった。彼女の望みは自分の望み。ああ、自分は彼女に知ってもらいたいのだ。
自分の名前を、彼女に。

「藤堂志摩子・・・私の名前は、藤堂志摩子」

「志摩子さん・・・志摩子さんね。私、貴女に心から興味が沸いちゃった。
 今日は貴女と会えて良かったよ。正直、高等部になんて何も期待して無かったけど・・・ふふ」

祐巳はベンチから立ち上がり、志摩子の傍を通り過ぎて行った。
その時、志摩子は一歩も動くことが出来なかった。否、指一本動かすことすら出来なかった。
自分の動きなどどうでも良い。今はただ、祐巳の声が脳裏に響いて離れない。
彼女の声、言葉、吐息。そのどれをとっても志摩子の脳を溶かしていく。何だこれは。自分は一体どうしたというのか。
以前にもこのようなことを体験したことがある。それは姉の聖との邂逅の時。
だが、今はそれの何倍もの麻薬に身体が汚染されている気分だ。怖い。ただただ自分の心が熱されていることが。

「・・・あ、そうそう。最後に一つだけ」

志摩子の背後から、彼女の声が聞こえる。
振り返れない。今の志摩子は立っているだけで精一杯だったのだから。
だから、志摩子には見ることが出来なかった。確認することが出来なかった。

「誰にも属さない、空を自由に駆ける鳥はね、たった一匹で生きていく孤独に耐えられる強さがあるんだよ。
 さて、果たして志摩子さんにその覚悟はあるのかなあ・・・孤独に耐えられるだけの、ね」

――福沢祐巳が、一体どのような表情でその言葉を言っていたのかを見ることが、志摩子には。














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