空を駆ける鳥 下 










次の日、志摩子の予想と反して福沢祐巳は何のアクションも起こさなかった。
先日の志摩子が見た祐巳が幻だったかのように、祐巳は教室でいつものように普通の女の子として振舞っていた。
学生生活と言う名の日常に溶け込み、他の女子生徒達に混じって雑談に花を咲かす。
その光景が、何故か志摩子の胸の中に小さな靄を生じさせた。そんな偽った彼女を見たくはなかった。
昨日志摩子が触れた祐巳はまさしく抜き身の刀。どこまでも美しく、在るだけで他を圧倒する威圧感。
祐巳の在り方は志摩子の憧れだった。だからこそ、志摩子は今の祐巳の様子が納得いかないのだろう。
その背中にどこまでも飛び立てる翼を持ちながら、獣と偽って地上で暮らそうとする彼女の姿が。
そのような思考に陥っている自分に気付き、志摩子は一つ大きな溜息をつく。
――らしくない。祐巳さんがどう振舞おうが、自分には関係ないではないか。それこそ祐巳さんに失礼に当たる。
人の在り様をどうこう言えるほど、自分は偉くは無いし、何より、それこそ祐巳さんの勝手だ。
どうしてこんな思考を覚えたのだろう。他人にこのような気持ちを抱くなど、今まで無かったのに。
己の思考を軽く振り払い、志摩子は再び溜息をついた。そして、再び祐巳の方に視線を送る。
クラスメイトに微笑む彼女は、志摩子の目には相変わらずつまらなそうに思えた。




「ごきげんよう、志摩子さん」

全ての授業を終え、薔薇の館に向かおうとする志摩子だが、背後から誰かに呼び止められた。
――否。誰かなど表現する必要も無い。志摩子の耳に未だ残っている昨日の声と同じ人物。
もしかしたら、自分は切望していたのかもしれない。彼女に声をかけて欲しかったと。
だからこそ、彼女の声がこんなにもハッキリと認識できるのではないだろうか。そう、彼女――福沢祐巳の声が。

「祐巳さん・・・」

「ちゃんと名前、覚えてたでしょ?」

いきなりそんなことを言って、笑う祐巳。それはまるで子供が親に自慢するような、そんな風に見えた。
だが、志摩子は祐巳の言葉に微笑み返す。何のことは無い、嬉しかったからだ。彼女が声をかけてくれたことが。

「ええ、ありがとう。忘れられていたらどうしようかと思ったわ」

「あ、酷いな〜。私、昨日ちゃんと言ったよ?志摩子さんに興味が沸いたって。
 それで思ったんだよね。志摩子さんのこと、もっと知る為に何をすべきかって。
 だ・か・ら」

瞬間、祐巳は志摩子の手を掴み、教室の外へと駆け出した。
何が起こったのか全く分からず、引っ張られるままの志摩子に祐巳は笑って告げる。

「今日は時間の許す限り志摩子さんを攫っちゃうことにしましたっ」

何て無茶苦茶な。あまりのストレートな言葉に、志摩子は文句の一つも言うことが出来ず、
ただただ祐巳に引っ張られるがままに廊下を駆け抜けた。
途中、擦違う多くの生徒達に不思議そうな目で見られ、志摩子は思わず顔を俯かせる。
当然だ。リリアンの生徒が、このようにはしたなく廊下を駆け抜けるなど、あってはならないことだ。
ましてや自分は仮にも山百合会の一員なのだから。普通なら即刻止まらなければならないだろう。・・・だが。
目の前の少女を見ていると、そんなことは気にならなくなってしまう。
廊下を駆ける彼女はとても自由で。周囲の目にも校則にも何も縛られていない、己の望むままの行動を行うだけ。
彼女のなんと眩いことか。自分が出来ない事を彼女は平然とやってのけるのだから。

ある教室の前で、祐巳の足はようやく止まった。
そして、志摩子の手を握ったままで、遠慮なくその教室の扉を開ける。
それは、今は使われていない空き教室で、椅子や机が不規則にバラバラと置かれていた。
教室に入ると、祐巳はようやく志摩子の手を離し、投げ出された机の一つに腰掛けた。そして、志摩子に微笑む。

「手を振り払うことだって出来たのに、最後まで私に付き合ってくれたってことは
 今日は私と一緒に放課後を過ごしてくれると考えていいのかな?」

「・・・ええ。私も祐巳さんと色々お話したかったから」

志摩子の言葉に、『そっか』と祐巳は呟いた。
――祐巳と話をしたかった。それは志摩子の偽らざる本音だった。
彼女の在り方は志摩子にとって理想の姿だった。自分の遠き理想に辿り着いた少女が目の前にいる。
だからこそ知りたかった。彼女の事が。少しでも多く、彼女の事が。

「それは嬉しい言葉だね。それじゃ、先に誘った側でもあるし、私から何でも質問に答えてあげる。
 あるんでしょう?私に色々聞きたいことが。それこそ羨ましいと思うくらいに、切望していることが」

本当の表情――妖艶に笑う祐巳の言葉に、志摩子は一瞬驚きを見せるものの、すぐに落ち着きを取り戻した。
彼女は、福沢祐巳はそれくらい見抜いてくる。自分の定規では測れない、そういう存在なのだ。
だからこそ驚く必要は無い。質問があることを見抜かれたくらい、驚くに値することではないのだから。

「・・・今の祐巳さんが、本当の祐巳さんなの?」

「志摩子さんって顔に似合わず、物凄いコトを平然と言うんだね。
 駄目だよ?そんな訳の分からない質問を他人に言っちゃ。他の人は気を悪くするかもしれないよ?
 『本当の自分って何?』とか『他人に一体自分の何が分かるんだ』とか、ね」

ククッ、と笑いながら言ってのける祐巳から、志摩子は視線を一向に逸らそうとしない。
そんな志摩子の視線に根負けしたのか、祐巳は軽く肩をすくめさせて息をつく。無論、笑みは崩そうともしない。

「YESでありNOでもある、というのが答えかな。どっちも福沢祐巳に変わりはないでしょ?
 そうだね・・・強いて言うなら、クラスでの私は『高等部の福沢祐巳』ってのはどうかなあ。
 そういえば私の弟が持ってる漫画にそんな設定の話があったなあ。二重人格みたいで面白くないかな?」

「祐巳さん、お願いだから真面目に答えて」

「真面目だよ。だって、そうでしょう?志摩子さんのその質問には何の意味も無いんだよ?
 だったら、私も真面目に意味の無い答えを返すしかないじゃない。
 一人の人間はどこまでも一人の人間でしかない。それに本当、偽りを求めるなんてそれこそ変だよ。
 今、志摩子さんが見ているのも福沢祐巳。クラスで見ているのも福沢祐巳。どっちも福沢祐巳なんだから」

祐巳の言葉に志摩子は強く首を振る。
違う。そんな答えが欲しかったのではない。クラスでの祐巳と今の祐巳は明らかに『違う』のだ。
祐巳は志摩子を眺めながら、しょうがないなあと呟いて言葉を続ける。

「りんごと一緒だよ、志摩子さん。
 志摩子さんが言ってるのはりんごが皮を剥いているかどうか、その違いに過ぎないんだよ。
 皮を剥いてなければ、人はそのりんごを『赤い』って言うよね。でも剥いてれば『赤い』とは言わない。
 でも、結局それは何ですか?って聞かれたら、答えは『りんご』だもん。
 大体そんな遠回しに聞こうとするからいけないんだよ。もっとしっかり足を踏み出さなきゃ。
 人を傷つけまい、自分が傷つくまいという考えが先走るから、そんな抽象的な言葉しか出ないんだよ」

愉悦。志摩子が感じた祐巳のあるがままの感情。彼女は楽しんでいる。
笑みを絶やすことなく方膝を立てて机に座る祐巳が、志摩子にはそう思えて仕方が無かった。
一息あけて、祐巳は志摩子に言葉を投げかける。

「まあ良いけど。志摩子さんの言いたい事は一応伝わったしね。
 うん、志摩子さん風に言うならこれが本当の私ってことになるんだろうね。
 学園内では『普通の女の子』で通してるし、クラスメイトに聞いてもそう私を表現すると思うよ。
 志摩子さんの目に映った、日常に溶け込んで、つまらなさそうに笑ってる女性徒。それが福沢祐巳。
 そして本当の私は実はこんなにも性悪なのでした。どう?志摩子さんの期待に応えられたかな?」

「・・・では、どうしてそんな風に振舞っているの?
 今、祐巳さんが言ってることが本当だとしたら、どうしてそんな・・・」

「志摩子さんはオシャレをするのにイチイチ深い理由を探す人?
 街に出かけるときに黒を基調とした服を着るのか、それとも白を基調にした服を着るのか。
 私にとってはその程度の問題だと思うけれど。それって重要なことかなあ」

「重要よ。祐巳さんがありのままの姿を見せてくれないと、他の人は本当の祐巳さんが分からない」

「分かるよ。他の人にとって本当の福沢祐巳の姿は『普通の女の子』だよ。
 十人に聞けば十人がそう答えると思うよ」

「違うわっ!それは祐巳さんがそうなるように振舞っていたから!」

声を荒げる志摩子に、祐巳は笑みを絶やすことなく浮かべ続ける。
そして、やれやれと言わんばかりに口を開いた。

「志摩子さん、どうして怒ってるの?」

「え・・・」

「結局のところ、私が他人に対してどんな『福沢祐巳』を見せていようと、貴女には関係ないことだよね。
 それなのに、志摩子さんは普段の私を必死に否定しようとしてる。それって変なことだよ。
 まるで普段の私を否定・・・違うね、今の私を必死に肯定しようとしてるみたい」

祐巳の言葉に、志摩子は大きく動揺した。
そうだ。自分は何故こんなにも必死に反論をしているのだろう。おかしな話だ。
結局のところ、祐巳がどんな風に振舞っていようが、志摩子は口出しする権利などありはしないのだ。
他人の生き方に干渉するなど、それこそお門違いも甚だしい。祐巳が『普通』を着飾っていようと、何も言えないのだ。
けれど、志摩子の胸の中はそのような論理を受け入れることなど出来なかった。
認めたくなかった。この少女が、自分から日常に埋没し、嘘で塗り固められて過ごすことが。
どこまでも飛び立てる自由な翼を背中に持つ彼女が、自分の理想が自分から檻と枷の中で過ごそうとする。
――ああ、何てことはない。志摩子は嫌だったのだ。彼女がまるで、志摩子の理想を否定しているようで。

「・・・私は嫌。祐巳さんが、そんな風に自分から枷を付けるような姿なんて、見たくない」

「自分の中の他人像を人に押し付けるのはよくないよね。
 ましてやそれが昨日初めてお互いの自己紹介をしたばかりのクラスメイトとあっては」

「押し付けてなんかいないわ。本当のことを言ってるだけだもの。
 祐巳さんはどこまでも飛んでいける翼を持っている。お願いだからそれを否定しないで」

「何だかもう言ってることがメチャクチャだよ、志摩子さん」

苦笑する祐巳だが、言葉の最後に『でも』と付け加え、志摩子の顔を覗き込むように見つめた。
その表情は、先ほどの人をからかうような笑みとは明らかに違っていた。

「正直言うと、志摩子さんのその言葉が全部嬉しいよ。
 今まで私の事をそこまで知ろうとした人なんていなかったもの。・・・そう、いつだってそうだった」

困ったように笑う祐巳に、志摩子は言葉を失った。
先ほどまでは愉悦に浸るように妖艶に笑っていたかと思えば、子供のように笑う。
そして今度は今にも泣きそうな、そんなどうしようもない保護欲に掻き立てられるような表情すら見せる。
志摩子は分からなくなる。自分は先ほど、祐巳の本当の姿について追求した。
そして、昨日見た彼女の姿。あのどこまでも美しく在る祐巳こそがそうだと信じて疑わなかった。
だが、今の祐巳の表情を見てその考えに再び疑問を抱くことになる。一体どれが本当の彼女なのか。
志摩子はふと先ほどの祐巳が言った言葉を思い出す。
『真面目だよ。だって、そうでしょう?志摩子さんのその質問には何の意味も無いんだよ?』
意味は無い。ああ、確かにそうなのかもしれない。何故なら、志摩子の見た全てが『本当の福沢祐巳』なのだから。
二人の間を包む静寂を破るように、祐巳は顔を上げて笑う。そして、志摩子に告げる。

「そうだね、志摩子さんの前では『普通』を着飾るのは止めるって約束するよ。
 ただ、クラスの中ではあのままでいいでしょ?私がこういう人間だって知ったら、唐突過ぎてみんな困っちゃうから」

「え、ええ・・・でも祐巳さん、本当にどうしてみんなの前で『普通』を着飾ろうと思ったの?」

「別に理由なんかないよ。本当にただの気まぐれだもん。
 ・・・そうだね。無理矢理にでも理由をつけるとするなら、私は見つけたかったんだろうね。
 高等部で新しい何かを見つけられるかもしれないって・・・そっか。うん、私、多分期待してたんだ」

自嘲染みた苦笑を浮かべながら、祐巳は机の上から飛び降りる。
目の前の少女が一体何を求めていたのか、それは分からない。だけど、志摩子はその結果を知ってしまった。
彼女の見せる表情から痛いほどに伝わってくる。きっと、彼女は見つけることが出来なかったのだ。

「それは、今から見つけることは出来ないの?」

「どうだろうね。大体、その何かが何なのかすら自分でも分かってないもの。
 結局、この半年はどうしようもなかったなあ。全部空っぽ。中身なんて全然無かった。
 けれど、無駄だったとは思わないよ。その空っぽの毎日だって、私にとってかけがえのない日常だもん。
 まあ、これといってやることなかったからランチとも仲良くなれたんだけどね。猫は人類の宝だよ、可愛いは正義」

そう言っておどける祐巳に、志摩子は軽く溜息をついた。人が真面目に話してるのに、本当にこの人は。
そして志摩子は思い出した。祐巳の言うあの猫。それは自分の姉である聖が餌をやっていた猫だった。
あの時の光景が志摩子の脳裏にフラッシュバックする。あの時自分は野良猫に餌を上げることに反発した。
温もりを知ってしまえば、野生に戻れなくなると。その猫は人の温かみを忘れないと。
あの時、聖は困ったような表情を浮かべていた。だが、志摩子の言葉に反論をすることはなかった。
それはきっと、聖と志摩子が同じ生き物だからだ。だから、志摩子の言い分が分かる。
ならば、目の前の少女は。この少女は同じ質問をすればどういう答えを返してくれるのだろう。
気付けば志摩子は口を開いていた。祐巳の機嫌を損ねてしまうかもしれないと、分かっていても、聞かずにいられなかった。

「祐巳さんは、あの猫を可愛がってるのね」

「え?ああ、ランチの事ね。可愛がるも何も、思いっきり溺愛しちゃってるよ。餌もあげるし、グルーミングだってするよ。
 高等部に入ってから、誰にも手を出してないからね。溺愛する対象が猫以外いない寂しい身なのですよ」

祐巳の言葉の意味はよく分からなかったが、祐巳があの猫のことを可愛がっていることはよく分かった。
だからこそ、聞かせて欲しかった。あの時、聖にはかわされてしまった質問の答えを。

「餌をあげて、どうするの」

「どうもしないよ。何?もしかして志摩子さんって猫が駄目な人?」

「違うわ。祐巳さんが餌を与えたら、その猫にとってそれが普通になってしまう。
 そうしたら自然界で生きていけなくなるのよ」

「それで?」

何が問題、とでも言うように祐巳は軽く首を傾げる。
その仕草に、志摩子は思わず少し声を荒げてしまった。

「夏休みは?冬休みはどうするの?
 祐巳さんはずっと十年も二十年もその猫の面倒を見続ける訳じゃないでしょ?
 一時の同情で助けるのは、かえって残酷ではないの?」

志摩子の言葉に祐巳は驚いたような表情を一瞬浮かべる。
そして、すぐにその表情を打ち消し、祐巳は微笑み、志摩子にそっと両の掌を差し出した。
差し出された両手を志摩子は首を少し傾げながらも見てみる。
そこには殆ど消えかかっているが、小さな傷痕がいくつか残っていた。

「これさ、ランチに引っかかれた時の傷なんだよね。
 あの子、野良だから最初は私の事も凄く警戒しててね。やっぱり引っかかれたり噛まれたりしたんだよ。
 だけどまあ、私が余りに何度も何度も来るものだから、多分ランチも諦めたんだろうね。
 今ではもうすっかり私に対して何の警戒心も抱かなくなっちゃった」

「祐巳さん、それは私の質問とは・・・」

「志摩子さん」

声を遮られ、志摩子は思わず口をつぐんだ。
彼女の言葉にそれほどの重さがあったから。今はただ、聞くときなのだと。
そして、祐巳は再び口を開いた。

「志摩子さんはランチの温もりを知らないでしょ」

「ランチの、温もり?」

「そ。ランチの温もり。あの子は抱きしめるとね、とっても暖かいんだよ。
 フワフワのモコモコとは言わないけど、私を幸せにしてくれるくらいの温もりを分けてくれるんだ。
 だけど、志摩子さんはきっとランチの温もりを一生知ることなく終わる。何故だか分かる?」

「それは、私がその猫に触ろうとしないから・・・」

志摩子の答えに祐巳は軽く首を振る。そして、キッパリと言い切った。

「触ろうとしないんじゃない。志摩子さんは傷つくことを怖がってるから。だから絶対にランチに触れない。
 自分が傷つくコトが嫌だから、相手に傷つけさせるコトが嫌だから、絶対にランチに触ることなんて出来ない」

――眩暈がした。彼女の言葉が、祐巳の言葉が志摩子の胸に突き刺さる。
彼女は猫の話をしているだけなのに、志摩子は心の底から動揺した。
それは余りに志摩子の内部に関わる言葉だったから。祐巳の言葉が、何一つ否定できないから。

「志摩子さんは臆病だよ。どうしようもなく優しいから、どうしようもなく臆病になっちゃってる。
 今の事だってそう。結局のところ、志摩子さんはランチのことを考え過ぎて、何も出来ないだけだもん。
 志摩子さんの言葉は正論だよ。スジは間違いなく通ってる。格好良い優等生みたいな答えだよ。
 でもね、それはあくまで志摩子さんの心の弱さからくる回答だよ。ランチを自分と重ねて見てるだけ」

臆病。確かに自分は臆病だ。いつ自分は学園を去ってもおかしくない。
だからこそ、皆と距離を置いておこうとしたのだから。姉や山百合会とのつながりだって同じだ。

「私ならそんなことは絶対に考えない。私はランチと仲良くなりたいと思った。だから行動したの。
 引っかかれようが、噛まれようが、そんなことは気にしなかった。だって、私は傷つくことが全然怖くないもの。
 それに志摩子さんはランチが一人で生きていけなくなるって言ってたけど、それこそ間違ってるよ。
 春からずっと私はランチに餌をあげてたし、夏休みは一度も会ってない。だけど、こうして今生きている。
 ランチはね、私だけに依存している訳じゃないんだよ。ランチはそんなに弱い子じゃないもの」

軽く息をついて、祐巳は告げる。
その言葉の刃は、志摩子の心に纏っていた鎧を、簡単に貫いてしまった。

「――他人はね、誰もが誰も志摩子さんのように弱くはないんだよ。
 たとえその先に別れがあるとしても、それを乗り越えて強くなることが出来るんだから。
 だから志摩子さん、一体何が志摩子さんの心の枷となっているかは私には分からない。
 一体何が志摩子さんをそこまで弱くさせているのかも私には分からない。
 それでも志摩子さんは逃げちゃ駄目だと私は思うよ。一人で強くいられないなら誰かを頼ったっていいじゃない。
 傷ついてみなよ。怖がらずに志摩子さんの心を誰かに開いてみなよ。きっと、受け入れて貰える筈だよ。
 志摩子さんが本当に目指すべきなのは大空なんかじゃないでしょう?こんな風に誰もいない寒空なんかじゃなくてね」

そう言って笑いながら祐巳は両手を広げた。
――涙。気付けば志摩子は自分の瞳から涙を流していることに気付いた。
少女の言葉に傷ついた訳ではない。むしろ嬉しくすらある。これほどまでに志摩子の内面に入ってくれたのだから。
半壊し、放置された机や椅子の中心で両手を広げる少女が志摩子には青い空を
どこまでも自由に飛んでいく鳥のように思えて。同時に理解した。自分の理想は、決して届いてはならぬ領域だと。
自分はただ逃げていただけなのかもしれない。寺の娘でありながらカトリックへの想いを募らせているというコトを
他人に知られる事に。

「こんな私でも・・・いいのかしら・・・受け入れてもらえるのかしら・・・」

「そんな志摩子さんだから、だよ。あと、志摩子さんが弱いって散々言っちゃったけど、それって褒め言葉だからね。
 私、弱い女の子が大好きなの。弱いということは人の痛みを知ってるってことだもん。
 人の痛みを知らない強い人間よりも、人の痛みを知ってる弱い人間の方が魅力的だよ。
 だから、志摩子さんは遠慮なく他の人に心を許すと良いよ。これが祐巳さんからのアドバイス。
 今日無理矢理付き合わせちゃった事と、泣かせちゃった事のお詫びね。あと、私の事の口止め料かな。
 昨日今日と志摩子さんの日常に無理矢理割り込んじゃったことへの謝罪だよ」

指を口に近づけて微笑む祐巳に、志摩子は祐巳の言っている言葉を理解する。
――祐巳は志摩子の元から遠くへ行ってしまおうとしている。だからこその先ほどの言葉だろう。
駄目だ。祐巳さんを手放してはいけない。志摩子は瞳を軽く拭って視線を祐巳へと向ける。
他の誰かが自分の事を受け入れてくれると彼女は言った。だが、他の誰かでは駄目なのだ。
自分の弱さに気付かせてくれた彼女だからこそ、知ってもらいたい。彼女だからこそ話したい。
ああ、自分は本当になんて弱い人間なのだろう。情けない話だが、自分は今こんなにも心を動かされている。
彼女なら、福沢祐巳ならば私の心の弱さも変えてくれるのではないかと。

「その人は・・・祐巳さんでは駄目なの・・・?」

「へ?私?」

志摩子の問いに、思わず素で返してしまう祐巳だったが、
志摩子の表情を見て祐巳もまた真剣な表情へと変わる。そして、少し悩んだ後に祐巳は苦笑を浮かべた。

「私じゃ駄目だよ。私じゃきっと志摩子さんの為にならないからね。
 志摩子さんは凄く美人で性格も良いから、本当に残念だよ」

「どうして・・・私ではやはり祐巳さんの負担になるから?」

志摩子の言葉に祐巳は軽く首を振る。そして笑った。
それはどこまでも自嘲的な笑みだった。

「本音を言うとね、私は志摩子さんと一緒に歩いてみたいんだ。
 『私のこと』に気付いてくれたのは志摩子さんが初めてだったし、
 私なら志摩子さんの全てを受け止めてあげる自信もある。だけど、ね・・・」

祐巳は志摩子に近づき、そっと志摩子の額に自分の額を合わせる。
目と目が合わさり、吐息が重なり合う距離で祐巳は呟いた。それはまるで自分に言い聞かせるかのように。

「私、三年前から完全に壊れちゃってるんだ。
 だからきっと志摩子さんの傍にいると我慢できなくなっちゃう」

そう言って困ったように笑う祐巳。
そっと離れようとする祐巳の手を、志摩子は握り締めた。

「志摩子さん・・・?」

彼女の言葉の意味は分からない。祐巳さんが何を伝えようとしているのかなんて自分には。
だけど、この手は離せない。離してしまうと、自分はもう二度と立てなくなってしまう。
彼女は自分の心の傷を理解してくれる。そんな先ほどまでの打算なんか今はどうでもよかった。
祐巳さんは自分にとって絶対に失ってはならない人だ。出会ってたった二日。だけど、日数なんか今は関係ない。
これから先、藤堂志摩子の人生に転機がいくつあるのか何て分からない。だけど、一つだけ分かることがある。
この転機こそが、きっと自分の人生で一番の大きな分かれ道。そして自分は祐巳さんの手を掴んだ。
一緒にいたいと。もっと彼女と一緒にいたいと。だからこの手は離さない。絶対に何があろうとも。

「・・・後悔、しない?私はきっと取り返しのつかないことをするよ。
 志摩子さんの心の枷を解放してあげる代わりに、志摩子さんにとって掛け替えのないモノを奪うかもしれない」

祐巳の言葉に、志摩子は力強く頷いた。
理由など無い。ただ、彼女になら良いと思えるのだ。他ならぬ祐巳になら、自分の何を奪ってもらっても構わない。
その思考に至り、志摩子はようやく自分の感情を理解する。ああ、何てことはない。自分は祐巳に憧れていたのではない。
今、私の前で微笑んでいる少女に惹き付けられた。この少女の傍にいたいと願ったのだ。

「全くもう・・・どうなっても知らないからね?
 ・・・ありがとう、志摩子さん」

そっと自分の身体を抱きしめてくれる少女に、藤堂志摩子は生まれて初めての恋をしたのだ。



















 ・・・
















全てを話し終えた時、志摩子の瞳には唯一のオーディエンスがニヤニヤと笑っている様子で映し出された。
志摩子は軽く溜息をついて、その聞き手――由乃に口を開いた。

「由乃さん、言いたいことがあるなら遠慮なく言って頂けると嬉しいのだけど」

「そうね、色々あるんだけどまずは祐巳さんに『ありがとう』と言っておくわ。
 志摩子さんの『私他人とは絶対距離を置きます』病を治してくれたんだから」

「・・・そのことはあまり言わないで頂戴。
 もし祐巳さんに会えなかったら、私は今もあんな簡単なことで悩んでいたのかもしれないのだから」

顔を赤らめて言う志摩子に、由乃は更に愉しそうな笑みを浮かべる。
ただ、その内容を続けるのは流石に可哀想だったので、話題を逸らしてあげることにするのだが。

「それにしても志摩子さんがお寺の娘だったとはね。流石に話の途中で驚いたわよ」

「そうね・・・あの頃の私はそのことでずっと悩んでいたわ。
 私の夢はシスターになることだったから、お寺の娘が許されるのかってずっと考えていた。
 果たして私はリリアンに通う資格なんてあるのかって・・・だから、私は誰とも深いつながりを持ちたくなかったの。
 そうすれば、もし私がリリアンを去ることになっても重荷にならず、どこまでも身軽でいられる筈だと信じてたから。
 ・・・でも、違ったの。そんなのはただ逃げていただけだった。その事実を知られるのが怖かっただけなんだって」

「志摩子さんはイチイチ真面目過ぎるのよ。寺の娘だろうが神社の娘だろうがなりたい物になればいいのよ。
 自分が望んだ夢なんだから、周りの目や自分の境遇なんて関係ないわ」

「ふふ、由乃さんならそう言ってくれると思ったわ。でも、由乃さんのそういうところが好きよ」

「ありがと。でも祐巳さんの前でそういうこと言うのは止めてね。
 祐巳さんのことだから『それじゃあ今夜は三人でお泊り会しよう!!』って流れに持っていこうとするだろうし」

「あら?私は全然構わないのだけど」

「私が構うのよっ!!前回を忘れたかっ!!」

色々あったらしく、由乃は顔を真っ赤にして机をバンバンと叩く。
そんな騒音を生じさせてもなお祐巳は志摩子の膝でスースーと眠りこけているのだから、ある意味凄い。
志摩子が唇に指を押し当て、『静かに』のジェスチャーをすると由乃はようやく怒りを納めた。

「それにしてもシスター、ね。それじゃ大学はそっち方面を目指しているの?」

由乃の言葉に、志摩子は一瞬何を言ってるのかワカラナイといった表情を浮かべるが、
納得がいったのか、クスクスと笑いながら首を振って否定した。

「どうして?シスターになる為には、修道院に入るか、そっち系の大学に行くしかないんじゃないの?」

「由乃さん、私はさっきこう言ったのよ。私の夢はシスターになること『だった』からって。
 今はもう望んでいないし、それに私、もうシスターにはなれないから」

「へ?どうしてシスターになれないのよ。シスターの条件って・・・・・ああ、ごめん、何も言わなくて言いから。
 確かに祐巳さんは掛け替えのないモノを奪っちゃってるわね・・・本当にこのエロ娘は」

顔を真っ赤にしながらも由乃は眠っている祐巳にぶつぶつと愚痴を零す。
そして、ふと気になったのか由乃は視線を志摩子に戻して口を開く。

「それなら志摩子さんの今の将来の夢って何?
 シスターを諦めるくらい、別の大きな夢を見つけることは出来たの?」

由乃の言葉に、志摩子は視線を自分の膝の上へと向ける。
そこで眠っている少女の言葉を思い出し、志摩子は自然と微笑みを零した。
夢ならある。以前と同じくらい・・・否、以前よりももっと掛け替えのないくらい大きな夢が。

「言っておくけど祐巳さんのお嫁さんとか言わないでよ。
 ・・・そりゃまあ、私だって出来るならそれが良いんだけど・・・同性同士だし・・・」

「それも捨て難いのだけど、私はちゃんと見つけたわ。私の大切な夢を、ね」

「へえ・・・それって何?」

「ふふ、秘密」

「えええ〜!?ここまできてそれはないんじゃない?
 ちょっと、今日は教えてくれるまで帰さないからね!」

憤る由乃に志摩子は苦笑する。言える訳がないではないか。
それは志摩子以外の人間に言っても仕方の無い夢。彼女だけが価値を宿す大きな大きな夢。





祐巳の手を初めて掴んだあの日、志摩子と祐巳は一つの会話を交わした。

それはきっと祐巳にとって他愛も無い話だったかもしれない。きっと祐巳は覚えていないだろう。
だけど、志摩子は今も色褪せることなくその言葉を思い出せる。祐巳がくれた一つの約束。

『志摩子さんってさ、確か昨日私の事を羨ましいって言ってたよね。
 空を自由に飛びまわれる翼を持ってる私が、みたいなことを』

『ええ・・・だけど、私には強さが無かったから。一人で大空に飛び立つような心の強さが無かった。
 だから、祐巳さんが羨ましかったの。祐巳さんの言う通り、私は孤独には耐えられない。
 今だからこそ分かるのだけど、きっと私は祐巳さんの世界が知りたかったのだと思うわ。
 祐巳さんが見てる世界を同じ高さから見てみたかった。だから、あんなに拘っていたのだと思う』

『ん〜・・・志摩子さんの言ってることがイマイチよく分からないけど。
 ・・・そうだ!私の背中には翼があるんだよね?大空を飛び立てるような翼が。そして志摩子さんには無い。
 だから飛べない』

『ええ、そうだけど・・・祐巳さん?』

『だったら私が志摩子さんの手を引っ張って空に飛べばいいんじゃない!
 そうしたら、志摩子さんも大空に飛び立てるし、孤独じゃないでしょ?
 どんなに寒い空でも私達が暖めあえばきっと平気だよ!我ながらナイスアイディアじゃないかな?』

その時の少女の顔は今も忘れられない。本当に良いことを思いついたと言わんばかりの無邪気な笑顔で。
過程の話なのに、さも当たり前のように話をする祐巳が楽しくて。彼女の言葉が嬉しくて。
だから、笑った。彼女も笑った。子供のように二人笑いながら言葉を交わした。

『それじゃ、いつの日か連れてってくれる?私も祐巳さんのいる青空へ。
 今度は逃げ場所としてなんかではなく、自分の意思で・・・』

『勿論だよ。志摩子さん、私の手を離さないでしっかり握っててよ。
 私がいつか必ず志摩子さんを連れて行くから。孤独な寒空なんかじゃなく、
 志摩子さんに似合う春風の舞う空へとね』

祐巳の言葉を思い出し、志摩子は再び微笑んだ。
そして、自分の膝の上で眠る少女の手を自分の手で優しく包みこんだ。
その志摩子の手はよくよく見れば猫の爪あとのような引っかき傷だらけで。だけど、その自分の傷も志摩子は誇らしく思える。
これは自分が踏み出した証。他人を傷つけることからも、傷つくことからも逃げていた自分との決別の証拠。
いつか自分の手の傷も、眠っている少女の手のように消える日がくるのだろう。その時は笑おう。心から喜びを込めて。
そしてランチを抱きしめよう。その温もりを知る為に。傷ついた先にある暖かさを確かめる為に。

志摩子は心にそっと誓いながら、祐巳の手をぎゅっと握った。
――勿論、この手を絶対に離したりなんかしない。本当の意味で生きるという意味を教えてくれた少女。
いつの日か、その少女の見ている景色を傍で一緒に眺める為に。いつか求めた青い空へと飛び立つ為に。
祐巳さんと二人、あの空を駆ける鳥のように、いつかきっと。






















 END













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