10.存在の意味










教室で祐巳に別れを告げ、由乃は一人薔薇の館に向かっていた。
普段は祐巳と一緒に薔薇の館へ向かうのだが、ここ数日は由乃一人で向かうことになっている。
その理由は祐巳が一年生と逢引しているからというものだが、由乃はそのことに文句を言うつもりは一切無い。
祐巳は任された仕事はキチンと終わらせているし、姉である祥子も祐巳の行動を容認している。許可を貰っているのだ。
そして何よりも思うのだ。彼女は何事にも絶対に縛られない。自分の思うままに生き、思うままに行動する。
欲しいモノは手に入れるし、好きなモノは素直に好きだという。したいことはするし、したくないことは一切しない。
誰よりも風の様に生きる少女。それが由乃の思う福沢祐巳という女の子の在り方だった。

話を戻そう。そんな祐巳だからこそ、山百合会を休むことに対し、由乃は何ら驚きを示すことは無いし何も言わない。
しかも、今回彼女が逢引している相手は場合によっては山百合会の一員となりうるかもしれないのだ。
まだ姿形も見えない自分や志摩子に比べて、祐巳のなんと妹候補を見つけることの早きことか。
もし、その娘が祐巳の妹になれば、結果的に見れば祐巳が休んでいることは後々の自分達にプラスに働くのだ。
まあ、例えその娘を妹にしなかったとしても・・・否、相手が一年生との逢引でなくても自分は何も言わなかっただろうが。
――本当、自分は祐巳さんに甘過ぎる。けれど、それもまたしょうがないのだ。
人生は何事も勝負事。あの日あの時、こんな破天荒な女の子なんかに惚れてしまった自分が悪いのだから。
そんなことを考えて、由乃は楽しそうな、しかしそれでいて何か色々と諦めたような笑みを浮かべた。

薔薇の館に辿り着いた由乃は、いつものように階段を上がって部屋に入ろうとした。
しかし、中から何か話し声が聞こえていることに気付いた。
それだけなら別段何も驚くことはないのだが、その声は少し珍しい人物の声だった。
いや、今のは少し語弊があるかもしれない。由乃にとって、人物自体はそんなに珍しくないのだ。
ただ、その人物が扉越しに聞こえるような声を発していること。それが由乃には驚きだった。

「失礼しまーす・・・」

由乃は何事かを確認すべく、静かに扉を開く。
室内をそっと覗くと、そこには先ほど聞こえた声の持ち主――藤堂志摩子が、硬い表情を浮かべて立ち尽くしていた。
無論、志摩子の視線の先には相手がいる。その人物は紅薔薇様、小笠原祥子だった。
志摩子の不満気な視線を全身に浴びながらも、祥子は動じることなく席に座って紅茶を飲んでいた。
この光景に由乃は少なからず驚いていた。このような光景を見るのは本当に久しぶりだったからだ。
祐巳がこの山百合会に入ったばかりの頃はそれこそ毎日のようにこの二人は対立していた。
二人が口論を始めては、先代の薔薇様達(というか蓉子様だけ)が止めに入っていた。
最近は何故かばったりと二人の争いは止まっていた、否、それどころか以前が嘘のように仲良くなっていたのだが、
今の光景はどうか。それこそ半年前に戻ったようではないか。
室内に入ることも無く、じっと二人の光景を見つめていた由乃だが、志摩子によって沈黙は終わりを告げた。

「・・・それでは、どうしても教えては下さらないのですね」

「だから、何度も言っているでしょう。私は祐巳じゃないのよ?
 一番あの娘の近くにいる貴女が分からないのに、私が分かる訳ないでしょう」

「・・・分かりました。それでは失礼します」

祥子に一礼し、志摩子は鞄を持って由乃の方へと、正確には扉の方へと歩き出した。
いつもとは明らかに違う雰囲気を纏っている志摩子に、由乃は思わず言葉を発することが出来なかった。
普段柔和な志摩子が一目で分かるほど、それほどまでに彼女は不機嫌そうに見えたのだ。
そんな由乃に気付いたのか、志摩子は祥子に向けていた表情を即座に崩し、いつものように微笑んで由乃に一礼する。
ただ、表面だけ繕ってはいるものの、内心までは繕えないらしい。
言葉を発さないまま、志摩子は由乃の隣を通り過ぎ、階下へと降りていった。
何が起こっているのかサッパリ理解出来ない由乃は、とりあえず机に鞄を置いて祥子へと声をかける。

「あの、祥子様?志摩子さん、どうしちゃったんですか?
 あんな風に機嫌の悪い志摩子さん、初めて・・・という訳ではないのですが、久々に見たのですが」

「気にしないで。子供が癇癪起こしてるだけだから。
 全くもう・・・祐巳の事になると途端に余裕が無くなるのはあの娘の悪い癖ね」

「はあ」

祥子の少し外れた回答にイマイチ納得出来ないといった表情を由乃は浮かべた。
とりあえず、このまま話を続けるのもあれだからと由乃は自分の分の紅茶を入れる為に流しの方へと歩いていく。

「志摩子さん、帰っちゃいましたけどいいんですか?」

「いいのよ。志摩子が今日用事があって帰ることは昼休みに直接聞かされていたのだから」

「ああ、昼休みは祥子様のところへ行っていたんですか。
 用があるって言ってたから何事かと思ってました」

「姉に会いに行くそうよ。色々と相談をしたいことがあるんですって。
 ・・・本当、祐巳の事になると手段を選ばないわねあの娘は」

後半部分は流しを使い始めた水音の為に聞こえなかったが、
どうやら志摩子は聖に会いに行っているということだけは由乃は分かった。
自分の分の紅茶を入れ終え、席に戻った由乃に祥子はそうそう、と思い出したように言葉を発した。

「由乃ちゃん、悪いのだけど今から祐巳にこのプリントを届けてくれないかしら。
 明日の朝だと少し遅すぎるのよ。本当は志摩子に頼むつもりだったのだけど、帰っちゃったでしょう?
 『私には』分からない場所でも、貴女なら分かるでしょう。だから頼むわね」

「えっと・・・あの、祥子様。それは全然構いませんが・・・
 あの、このようなことを言うのは少し気が引けるのですが、私まだ自分の分の紅茶を入れたばかり・・・」

由乃の言葉に、祥子は『何だ、そんなこと』とばかりに微笑を浮かべる。
それはまさしく最上級の微笑だった。その笑みを見て、由乃は心の底から思うのだ。

「ちょうど自分の分の紅茶がなくなったところなの。
 可愛い後輩が折角入れてくれた紅茶ですものね。冷めないうちにありがたく頂くわ」

ああ、この人はやっぱり祐巳さんの姉なのだ、と。
本当ならここは怒ってもいいところなのかもしれないが、由乃は何故か笑わずにいられなかった。
あの妹にしてこの姉あり。何とも良い姉妹ではないか。この二人には一生敵う気が由乃にはしなかった。















 ・・・
















慣れきっていた筈の一人を寂しいと感じるのは、それだけ満たされたモノが大きかったからなのか。
誰もいない空部室の中で、乃梨子は一人そんなことを考えながら溜息をついた。
先ほどまではいつものように、祐巳が一緒にいたのだが、今この部屋に彼女はいない。
何でも山百合会の一員としての仕事があるらしく、三十分ほど出かけてくると乃梨子に言い残し部屋から出て行ったのだ。
それが大体数分ほど前の話。たった数分前の話だというのに、まるでずっと一人だったような感覚。
きっと、それほどまでに満たされているということだろう。
彼女と、祐巳と一緒にいることが乃梨子にとってはとてつもなく何より充足した時間だということ。

「・・・でも、今更だけど、祐巳さんは山百合会の一員なんだよね」

乃梨子は小さく溜息をついた。
そう、彼女は山百合会の一員。普段ならばこの時間は薔薇の館で過ごしていなければならないのだ。
それなのに、彼女は自分の為に毎日の放課後をこの場所で使ってくれている。
その事が乃梨子の心に小さな棘として刺さっていた。今のままで、果たしていいのだろうか、と。

「そりゃ、私は嬉しいけど・・・でも」

このままで良い筈がないのだ。
彼女が居場所になってくれると言ってくれたこと、それは純粋に嬉しい。
だけど、このままでは彼女から与えられるだけの立場。自分は祐巳の負担になっているだけの存在だ。
この時間が永遠に続けばいいと思う。けれど、このままじゃ絶対に駄目だと思う。
ではどうすればいいのか、と言われても乃梨子には答えが出せなかった。
否、本当は一つの答えが見つかってはいるのだ。それは今日の昼休み、友人が言っていたあのシステム。

「・・・スール、か」

姉妹システム。もし彼女が祐巳の妹になれば、その問題は全て解決するだろう。
乃梨子は以前祐巳の傍に居られるし、祐巳も乃梨子と一緒にいて山百合会の仕事に影響を及ぼすことは無い。
きっと、二人にとっては最高の答えの形だろう。だが・・・

「・・・そんな話、祐巳さんに一度もされたことないんだよね」

祐巳は乃梨子に一度もスールの話をしなかった。
スールになってくれどころか、スールに関する話に一切触れなかったのだ。
ただ、この場所で彼女が話すのは自分の事や乃梨子の事、ただただ楽しいことばかり。
それはまるで楽しいことしか待っていないことを約束された夢の時間。だけど、奥底には何も触れない虚ろな時間。
例えるならメリーゴーランド。楽しい時間がグルグルと回り続ける。だけど、それはあくまで同じ場所で、だ。
先に進むことも、後ろに戻ることも無い。あるのは同じ場所で回り続ける楽しい時間だけ。
きっと、少し前の自分ならそれだけで満足していただろう。だが、人間は欲深い生物とはよく言った言葉だ。
触れれば、欲しくなる。更なるモノを求めようとする。自分が欲しいのは、もっと先にある答え。
与えられるだけでは満足出来ない。負担になるだけの存在では耐えられない。
だから求める。その為の答えを。形を。自分に全てを与えてくれたあの人に、一体何が出来るだろうと。

「祐巳さんは、私に一体何を求めてるのかな・・・」

彼女はただ与えてくれる。自分が欲しかったもの全てを何の見返りも無く次々に。
ならば彼女は自分に何を求めているのか。どうして自分の事を好きだと言ってくれたのか。
――逆に言えば。彼女は私に何かと求めてくれているのだろうか。自分は彼女にとって本当に必要なのか。
考えれば考えるほど迷い込んでいく思考の森に、乃梨子は苦悩する。
きっと、こんなことを考えるようになったのは自分が惹かれ過ぎたから。どうしようもないほどに好きになってしまったから。
自分は一体何をすべきなのだろう。そんなことを考えていた乃梨子だが、部屋の扉が突然開かれたことに気付いた。
祐巳が帰ってきたのだろうと思って視線をそちらに向けたが、そこにいたのは乃梨子の予想とは違う人物だった。

「へっ?・・・貴女は、この前ウチの教室に来た娘?どうしてここに?」

「黄薔薇の、蕾?」

そこにいた人物は福沢祐巳ではなく、黄薔薇の蕾、島津由乃だった。
驚いて声を発せない両者だが、いち早く自分を取り戻したのは由乃のほうだった。
じっと乃梨子の方を眺めて、何かを思い出したように声を上げる。

「・・・ああ、そっか。今、祐巳さんが放課後一緒に過ごしている娘は貴女だったわね。
 別段驚くこともないか。と、すると、祐巳さんを探してここに来たのは間違いじゃなかったってことね」

「え、あ、はい。祐巳さんは山百合会の用があるそうで・・・戻ってくるのにあと二十分はかかるかと」

「山百合会の?部活関係でも回ってるのかな・・・それじゃ、今から探しに行っても擦違いになる可能性があるわね。
 そうね・・・ここで一緒に待たせて貰っても構わないかしら?」

「へ?・・・あ、ど、どうぞ」

乃梨子の返事に、由乃は微笑を浮かべて『ありがとう』と返す。
無論、この部屋は乃梨子のモノではないのだが(と言っても、当然祐巳のモノでもないのだけれど)、
尋ねられて駄目だとは言えるわけも無く。乃梨子は座っていたソファーの端に詰め、由乃が座れるスペースを作った。
乃梨子の行動に気付いた由乃は、微笑んだままで乃梨子の隣に腰を下ろす。

どうしよう。乃梨子の内心はその一言に尽きた。
自分以外誰もいない部屋に、山百合会の一員、黄薔薇の蕾こと島津由乃と二人っきりなのだ。動揺しない訳が無い。
同じ山百合会とはいえ、祐巳や志摩子と違い、由乃と乃梨子は一切の面識がないのだから。
落ち着けと自分自身に語りかける乃梨子だが、隣から視線を感じてそちらの方に首を向けた。
そこには、真剣な眼差しで乃梨子の方をじっと見つめる島津由乃の姿があった。

「え、えっと・・・な、何か?」

「ん〜・・・貴女がいるならこのままプリントを渡しちゃって祐巳さんに、って考えていたんだけど、やっぱり止めたわ。
 志摩子さんはああ言ってたけど、やっぱり好奇心は止められないわね。私、貴女に興味があるのよ」

「・・・きょ、興味ですか?」

表情を強張らせる乃梨子に、由乃は軽く溜息をつく。
この反応を見るに、どうやら既に祐巳さんの洗礼は浴びてしまっているらしい。
そんなことを考えながら、由乃は気を取り直して話を続ける。

「・・・勿論変な意味じゃないわよ、祐巳さんじゃあるまいし。本当に純粋な好奇心という意味よ。
 貴女、二日前にウチの教室に来たでしょう。確か・・・二条乃梨子ちゃん、だったっけ?」

「はい、そうですが・・・えっと」

「由乃。祐巳さんと同じクラスで、あの現場を祐巳さんの次に近くで目撃してた島津由乃よ。
 山百合会の一員で、貴女は知ってるみたいだけど一応言っておくと黄薔薇の蕾。よろしくね、乃梨子ちゃん」

「は、はい。よろしくお願いします、由乃さん」

「成る程。静様の言う通り、やっぱり乃梨子ちゃんは外部受験組なのね」

乃梨子の一言に、由乃は苦笑を浮かべて返した。
その一言に乃梨子は驚きを隠せなかった。祐巳さんといい、この人といい、どうしてそのことを簡単に見抜くのか。
分からないといった表情を浮かべる乃梨子に、由乃は楽しそうな笑みを浮かべて答え合わせを行った。

「この学園ではね、上級生の事を『さん』付けではなく『さま』付けで呼ぶのよ。
 まあ、島津さんって呼ばなかっただけ頑張ったと思うけど、及第点ってところかしら。どう?納得いった?」

由乃の指摘に、乃梨子は成る程といった表情を浮かべた。
確かに乃梨子の周りの瞳子を初めとした女子は祐巳の事を祐巳様と言っていた。
それは彼女が山百合会だからではなく、先輩だからだったのかと乃梨子は一人納得する。
そして、乃梨子は先ほど由乃のことを『さん』付けして呼んだことを思い出し、慌てて頭を下げる。

「すみませんでした・・・知らなかったとはいえ、由乃様を『さん』付けで呼んだりなんかして」

「え?ああ、いいのよ。別にそんなつもりで言った訳じゃないから。
 それに祐巳さんの事も『さん』付けで呼んでいるんでしょう?だったら私の事も同じでいいわよ。
 まあ、他の生徒達の前ではちゃんと『さま』付けで呼んだ方が良いとは思うけど」

私に限らずね、と由乃は楽しそうに乃梨子に告げた。
はあ、と空返事をしながら、乃梨子はばれない程度に由乃を観察していた。
島津由乃さん。彼女は祐巳さん、志摩子さんと同じ二年生で薔薇の蕾。そして、二人の友人。
・・・否、志摩子さんにとってはただの友人ではなく、特別な意味を持つ人。彼女にとって、大切な人。
間近で見て、乃梨子は成る程と納得する。確かに、志摩子さんが惹かれるのも頷ける。
儚げな美しい外見と反比例するかのようなまでに意思の通った視線。そのアンバランスな美しさが彼女の特徴だろう。
もしかして、山百合会は綺麗な人じゃないと入れないのではなどと下らないことを考えていた乃梨子に、
由乃は再び声をかける。

「そうね・・・私は回りくどい言い方が苦手だから率直に尋ねるわ。
 乃梨子ちゃん、もしかしてもう祐巳さんにロザリオは貰った?」

由乃の言葉に乃梨子はビクンと自身の鼓動が大きく跳ね上がったような錯覚に襲われた。
ロザリオの享受。その意味は昼休みに瞳子に教えてもらっていた。それはつまり、祐巳と姉妹になったかということ。
押し黙る乃梨子の様子に、由乃は『あれ?』と首を傾げた。彼女の予想はどうやら外れたらしい。

「そっかあ・・・祐巳さん手が早いから既に渡してるのかと思ってたけど。
 まあ、どの道時間の問題っぽいわね。祐巳さんがこうまで乃梨子ちゃんに時間を割いてるんだもの。
 乃梨子ちゃん、相当祐巳さんに気に入られてるのね。全くもう、独り占めしてないで早く私達に紹介して欲しいのに」

「・・・そうなんでしょうか」

「当たり前でしょ。あの娘って、自分が興味無いものには十秒と視線を向けない性質だから。
 そういう訳で乃梨子ちゃん、貴女は堂々と胸を張りなさい。祐巳さんの友人代表で私が断言してあげる」

由乃の言葉に、乃梨子は思わず笑みを零してしまう。
先ほどまで少し気が滅入っていた自分なのに、いつの間にか笑っている。それは間違いなく目の前の少女のおかげだろう。
ロザリオを渡されていないということに気付いた瞬間、気まずい雰囲気に持っていくことなく
由乃は笑って乃梨子を励ましたのだ。これも由乃のもつ他人の心の機微を読み取る能力なのだろう。
由乃自身気付いてなかったりするが、実はこれは祐巳達との付き合いの間に生まれた副産物だったりする。
祐巳と志摩子、その二人と親友付合いする上で他人との空気調整をするのは他ならぬ彼女の役割だったからだ。

「・・・由乃さんは不思議な方ですね。
 いえ、由乃さんだけじゃないです。祐巳さんも志摩子さんもみんな不思議な方だと思います。
 皆さんと話していると、何故か心にいつも元気を分けて貰っている気がします」

「あの二人と一緒くたにされると個人的に異議を申し立てたいのだけど・・・まあいいわ。
 それより乃梨子ちゃん、貴女祐巳さんだけじゃなくて志摩子さんとも知り合いなの?」

由乃の言葉に、乃梨子は『はい』と肯定の意を示し、これまでの経緯を語り始めた。
初めて二人に出会った事、祐巳に惹かれていった自分の事、志摩子に背中を押してもらったこと、
そして祐巳に想いを告げたこと。初めて出会ったばかりの由乃相手なのに、乃梨子は話すことを躊躇わなかった。
何故なら乃梨子は感じていたからだ。由乃もまた、志摩子や祐巳と同じ、優しい人なのだと。
全てを語り終えた時、由乃は全て納得したとばかりに楽しそうに笑みを浮かべていた。

「成る程ね・・・あの時の貴女はそういう事情があった訳だ。
 でも乃梨子ちゃんも大変な人を好きになっちゃったものね。他の誰でもなく、祐巳さんだなんて。
 もう分かってると思うけれど、あの娘と付き合うのは色々と苦労するわよ」

「あはは・・・」

思いっきり自分の経験からくる忠告をする由乃に、乃梨子は苦笑を返すことしか出来なかった。
軽く一つ溜息をついて、由乃は『でも、そんな祐巳さんだからこそ好きになっちゃったんだけどね』と乃梨子には
聞こえないくらいの声で小さく呟いた。

「乃梨子ちゃんは祐巳さんの事が好きなのよね。勿論、先輩としてではなく、一人の女の子として」

「・・・はい」

「それを志摩子さんは知っているのよね?」

「?はい。私が祐巳さんに好意を持っていることを教えてくれたのは他ならぬ志摩子さんですから・・・」

乃梨子の言葉に、由乃は呆れたような表情を浮かべる。その相手は勿論、親友に対してだ。

「私としてはそこがイマイチ分からないのよね。
 私やお姉様、静様ならまだ分かるのよ。でも、他ならぬ志摩子さんでしょう?
 あの娘が貴女の力になる理由がイマイチよく分からないのよ。祐巳さんから協力要請を受けてた訳でもなし」

「えっと・・・それってどういうことですか?
 志摩子さんが私の力になってくれたことってそんなに変なことなんでしょうか」

思ったままの事を告げる乃梨子に、由乃は不思議そうな表情を浮かべる。
そして、そんな由乃を見て、乃梨子もまた分からないといった表情で見つめ返す。
歯車が上手くかみ合っていない。例えるなら、今の二人はそんな状態だった。

「う〜ん・・・別に変とは言わないわ。志摩子さんや祐巳さんの考えは時々私にも分からないところが多々あるし。
 だけど、もし私が志摩子さんの立場なら貴女には絶対協力してなかったし、力にもなってなかった。
 だってそうでしょう?私や他の山百合会の人間より、貴女はよっぽど祐巳さんに近い存在になる可能性があるもの。
 もし、志摩子さんと祐巳さんの関係に割って入る存在がいるとするならば、それは貴女でしょう?
 祐巳さんが私達を好きになることと、貴女を好きになることでは大きく意味は異なると少なくとも私はそう思ってる。
 だから私は志摩子さんに『祐巳さんに妹が出来てもいいの?』って聞いたんだけど・・・」

「志摩子さんと、祐巳さんの関係・・・?割って入る・・・?」

――おかしい。何かが、ずれている。
そうハッキリと感じ出した乃梨子だが、自分から由乃に追求することはしなかった。
否、出来なかったのだ。気持ち悪いまでにザワつく胸の鼓動が、ザラつくような感覚が乃梨子を縛り付ける為だ。
これ以上聞くなと。これ以上触れるなと。きっと、この先は知らなくてもいいこと。自分が知ろうとしなかったこと。

「貴女は祐巳さんが好き。その好きの意味は、間違いなく今の私達とは違う意味の『好き』なのよ。
 私達と志摩子さんは祐巳さんに対する『好き』の意味が違うからこうやっていられるの。
 けれど、貴女は違うでしょう?乃梨子ちゃんの祐巳さんに対する感情は、間違いなく志摩子さんと同じモノよ」

言われてみれば、最初から気付いていたのかもしれない。
あの日、志摩子さんから好きな人が存在すると教えてもらった日から。
・・・違う。恐らくはもっと前。そうだ、あの桜の木の下で。祐巳さんと出会った後に、志摩子さんに出会った日から。
本当は気付いていたのかもしれない。ただ、気付かない振りをしていたかったのかもしれない。
だから、話さなかった。祐巳さんの事を志摩子さんに相談するとき、自分の好きな人が祐巳さんだということを。
だから、決め付けた。志摩子さんの好きな人は、きっと黄薔薇の蕾だと。
一緒に下校する姿を見て、きっと私は安堵していた。ああ、違うんだと。志摩子さんの好きな人は違うんだと。
乃梨子の身体から震えが止まらなくなった。聞きたくない。聞きたくない。けれど、聞かなければならない。
今聞かなければ、自分はずっと知ることが出来なくなる。目を背け続けることになる。だから。

「だから、乃梨子ちゃんはこれからが大変よ。
 なんせ祐巳さんを志摩子さんから奪わなきゃいけないんだものね。
 昔、私も祥子様も・・・ううん、他の誰もが志摩子さんから奪えなかった『祐巳さんの恋人の座』をね」

――ああ、分かっていた。だってそうだろう。
好きな人の事を語る時の志摩子さんの微笑み。私が羨んだ、あの微笑。
あの微笑が誰に向けられているかなんて、きっと私は分かっていた。
志摩子さんのように笑いたかった。笑っていたかった。志摩子さんのようになりたかった。
だから、自分は望んだんだ。志摩子さんと同じ人を好きになることで――きっと、志摩子さんのように自分もなれると。

「まあ、それはまだ先の話だと思うけれど、乃梨子ちゃんなら・・・って、乃梨子ちゃん?」

震えが止まらない。恐怖が止まらない。
知っていた。知っていて、きっと自分は奪おうとした。志摩子さんから、大切な人を。
志摩子さんが優しい人だと知っていた。だから、話さなかった。自分の力になってもらえるように、祐巳さんの名を隠して。
そして、利用した。志摩子さんの優しさを利用して、祐巳さんに近づいた。
違う。そんなつもりじゃなかった。知らなかった。志摩子さんの好きな人が祐巳さんだなんて知らなかった。
違う。知っていた。知っていて利用した。そもそも自分は志摩子さんと祐巳さんが友人であることを知っていたではないか。
違う。それはただ志摩子さんに紹介してもらっては意味がないと考えたから。祐巳さんとは自分の力で会わないと。
違う。そんなものは全て上辺の理由。本当は気付いていた。出会った時に、志摩子さんと祐巳さんの関係を。

「ちょっと乃梨子ちゃん!?乃梨子ちゃん!?」

浮かれていた。祐巳さんに好きだと言って貰えた事で、浮かれていた。
だから、見ようとしなかった。答えの断片は足元に散らばっていたのに、私はそれを踏み躙った。
見なくて良いと。知らなくて良いと、自分の都合の良い事しか、視界に入れようとしなかった。
――あの時、自分の好きな人が祐巳さんだと聞かされた時、志摩子さんはどんな気持ちだったのだろう。
優しくしていた後輩に裏切られた時、心はどれだけ傷ついたことだろう。恩人に、一体自分は何をした。
考えたくない。考えたくない。考えれば考えるほど、自分が最低な人間だということに気付かされるから。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。こんなのは嫌だ。どうしてこうなった。こんなのは違う。違う。違う。
こんなのは私が求めた結果じゃない。私はただ、欲しかっただけなのに。自分の居場所が、ただ欲しかっただけなのに。

「落ち着いて乃梨子ちゃん!?一体何がどうなってるのよ!?」

居場所。そもそも、今の自分に居場所なんて存在するのか。
自分の事を好きだと言ってくれた祐巳さん。だけど、祐巳さんには恋人がいて。志摩子さんがいて。
ならばどうして自分の事を好きだと言ってくれたのだろう。どうしてキスしてくれたのだろう。どうして抱きしめてくれたのだろう。
同情?哀憐?慈愛?憐憫?そんなにか。そんなに自分は哀れだったのか。
思わず手を差し出したくなるほどに、同情を引くような存在だったのか。居場所がないと喚く子供だったのか。
一人で祐巳さんの事を好きだと盛り上がって。勝手に想いが通じたと喜んで。祐巳さんの居場所になるなどと言って。
だけど、現実には志摩子さんが祐巳さんの傍にいて。だったらこの身は一体何だろう。この想いは何だったのか。
自分は一体、祐巳さんにとって何の意味を持つ存在なのだろう。自分が祐巳さんの傍にいる意味なんて無いではないか。
笑いたくなる。馬鹿みたいだ。ああ、本当に馬鹿みたいだ。何て道化。
ピエロにとっては一世一代の大活劇のつもりで。けれど、台本のラストを読んでみれば滑稽な話で。
ああ、何てことはない。知ってしまえば何て単純明快なことか。全ては最初から決まっていたのだ。






私は祐巳さんにとって、ただの物語を盛り上げる為の脇役の一人に過ぎなかっただけ。

福沢祐巳と藤堂志摩子という二人の恋愛物語を面白くする為だけの、ただの脇役の一人に。







「・・・すいません、用を思い出しましたので失礼します」

机においてあった鞄を掴み、乃梨子は立ち上がった。
分かってしまえば、もうこの場所には居られなかったから。居る意味も、完全に失ってしまったから。

「えええ!?ちょ、ちょっと乃梨子ちゃん!?
 いきなりどうしたのよ・・・っていうか、祐巳さんを待ってるんじゃなかったの!?」

「・・・いいんです・・・もう、いいんです。待つ意味が、ありませんから・・・」

もう、構わない。それが乃梨子の心情を表した全てだった。
見失った。心の拠り所を全て。自分がこの学園で見つけたモノ、全て。
大切な人を踏み台にして手に入れた居場所は、どうしようもなく虚ろで空っぽで。
全てを知った上でその場所にふんぞり返ることが出来るほど、自分は強くはいられなくて。

扉を開き、廊下に出たところで、乃梨子の前には彼女が――福沢祐巳が立っていた。

「乃梨子ちゃん・・・?どうしたの、一体・・・」

明らかに様子がおかしい乃梨子に、祐巳は尋ねかける。
その言葉に、乃梨子は笑いそうになる。理由を尋ねられて、彼女に話せる訳がないではないか。
どうして己の好きな人に、自分の汚い部分を曝け出さねばならないのだろうか。こんなにも卑怯な、己の心を。

「乃梨子ちゃん・・・?」

「・・・私は」

祐巳の言葉を遮るように、乃梨子は呟く。
結局のところ、自分には無理なのだ。全てを知ってまで、祐巳さんの傍に居続けることが。
これ以上志摩子さんを裏切ってまで、祐巳さんの傍に居たくない。そこまでして、居る価値なんて自分には無い。
馬鹿みたいに駆け回って、泣いて、喚いて、縋りついて。泥に塗れてまで手に入れた故の終局。
だけど、一つだけ。最後に一つだけ言わせて欲しかった。尋ねさせて欲しかった。最後に教えて欲しかった。
答えなど求めない。ただ、口にさせて欲しかった。一体何の感情が自分をそうさせるのかは分からないが、ただ。
自分は。自分はこの少女にとって。生まれて初めて好きになったこの女の子にとって。

「私は・・・私は祐巳さんにとって、一体どういう存在だったんですか・・・」

そう告げて、乃梨子はその場から駆け出していた。
目には涙を溜めて、だけど泣くのは格好悪いから我慢して。視界が悪いことも気にせずに、廊下をただ真っ直ぐに。
そんな状態だったからかもしれない。彼女が祐巳の隣を通り過ぎる時、見間違えたのは。


そうだ。きっと見間違えたに違いない。
あの福沢祐巳が、まるで今にも泣き出しそうな――そんな彼女に似つかわしくない表情を浮かべていたように見えたのは。












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