12.私が求めたモノ、私が欲したモノ
運命と言うものがあるのなら、どうやら徹底的に自分の事を打ちのめしたいらしいなと乃梨子は軽く自嘲した。
「・・・乃梨子?」
「・・・志摩子さん」
校門を潜り抜けた乃梨子が出会った人物は、彼女にとって今二番目に会いたくない人物だった。
一つ会釈をして、乃梨子は何も言わずに志摩子の隣を通り過ぎようとした。
このまま黙って帰ってしまおう。口を開けば、きっと言わなくていいことを言ってしまう。
会話をしてしまえば、きっと自分はどん底まで落ちてしまう。
今、志摩子さんと触れ合ってしまえばきっと、志摩子さんを傷つける言葉を平気で放ってしまいそうだったから。
そんな最低な自分にはなりたくない。これでいいんだと決め付け、乃梨子は顔を俯けたままで志摩子の横を抜ける。
その瞬間。
「・・・それでいいの?」
背後から聞こえた声に、乃梨子の足がはたと止まる。
それでいいのか、とは一体どういうことか。その場に足を止めた乃梨子に、志摩子は声を止めなかった。
「この時間に帰ろうとしているということは、祐巳さんと何かあったのではないの?
・・・祐巳さんと最近、放課後の時間を一緒に過ごしてる一年生とは貴女のことでしょう。
いつもなら、この時間はまだ祐巳さんは薔薇の館に戻っていないもの」
彼女の言葉に、身体がドクンと一際大きく鼓動する。
何故そんなにも彼女は勘が良いのだろう。どうしてそこまで自分の事を読み取ることが出来るのか。
・・・違う。それこそ自惚れも良いところだ。彼女がそのことに察しが良いことにおかしいことなど一つも無いのだ。
何故なら、私が一緒に過ごしてきた相手が、彼女の・・・志摩子さんの恋人なのだから。
黙ったままの乃梨子を肯定とみなしたのか、志摩子は息をついて言葉を続ける。
「祐巳さんは貴女の居場所なのでしょう?やっと手に入れた居場所なのでしょう?
そんな簡単に手放してしまって、本当に良いの?祐巳さんのことが、大好きなのでしょう?」
「――っ!!」
志摩子の言葉に、乃梨子は思わず振り返ってしまった。
リリアンに在籍していながら仏像趣味。そんな私の場合、神様と仏様、一体どちらに祈ればいいのだろう。
もう今ならどちらでも良い。どちらでも良いから助けて欲しかった。
きっと今なら、助けてくれた方を死ぬまで信仰する自信がある。私を止めてくれた方を、心から。
志摩子さんは全然悪くないのに。悪いのは私なのに。それは分かってる。分かっているけど止められなかった。
志摩子さんの優しさが。言葉が。温もりが、その全てが今の私にとっては恨めしかった。
酷い女だと自分でも思う。志摩子さんが自分の為に言ってくれていると分かっているのに、感情を抑えられないのだ。
大好きな志摩子さん。大好きだった志摩子さん。ごめんなさい。ごめんなさい。
謝るから。何度でも謝るから。だから許して。こんな私を、許して下さい。こんな醜い私をどうか許して。
逆恨みだということは分かっている。無様だということも分かっている。蔑まれるべき感情だとも分かっている。
だけど、抑えられなかった。だから、何度でも私は謝ろう。ごめんなさい。志摩子さん。ごめんなさい。ごめんなさい。
「その居場所を・・・その居場所を私から奪ったのは一体誰だと思ってるのよ!!!」
「乃梨子・・・」
「しょうがないじゃない!!どんなに好きでも祐巳さんには志摩子さんがいて!!
私の居場所なんか本当はどこにも無くて!!祐巳さんの心には私なんて何処にも存在してなくて!!」
感情の奔流が止まらなかった。堰を切ったように溢れ出した言葉は、どこまでも浅ましくて。
どこまでも醜く、そしてどこまでも無様で。志摩子はただ瞳を閉じ、黙したままで乃梨子の想いを受け止めていた。
「志摩子さんに分かる訳ないじゃない!!私の気持ちなんて、志摩子さんには分からない!!
祐巳さんに愛されてる志摩子さんなんかに・・・祐巳さんの恋人という居場所を手に入れた志摩子さんなんかに!!」
「・・・」
「私が祐巳さんの事を好きだと言った時、笑ってたんでしょ!?
その想いは無駄だって!!届かない想いだって!!笑ってたんでしょ!!
そんなに面白かった!?そんなに滑稽だった!?馬鹿みたいに一人浮かれてる私はそんなにっ!!」
乃梨子の言葉を正面から受け止めていた志摩子はそっと両の瞳を開いた。
そして、乃梨子の心に問いかけるようにそっと言葉を発した。
「・・・乃梨子、それは貴女の本心ではないでしょう?」
「な・・・」
口を閉ざした乃梨子に、志摩子は再び優しく問いかける。
その瞳はどこまでも乃梨子だけを映していて。ただ、真っ直ぐに。どこまでも一人の少女だけを。
「乃梨子、貴女は本当にそんな風に思っているの?」
――初めて出会った時、乃梨子は羨ましいと思った。
彼女の浮かべる柔らかな笑顔を見て、自分もああなりたいと。ああいう風でありたいと。
最初はただ、彼女の容姿に惹かれただけだと思っていた。西洋人形のような、美しい姿。
一人の女の子として、あれだけ綺麗な人を見て羨まずにはいられないだろうと。
けれど、それは違っていて。彼女は、志摩子さんはどこまでも自分に優しくて。
「そんな風に・・・」
話せば話すほど、自分は志摩子さんの内面に惹かれていたということに気付かされて。
祐巳さんの事を相談した時、志摩子さんはまるで自分の事のように真剣になってくれて。
泣いてる自分を優しく抱きしめてくれて。不安がる自分をそっと励ましてくれて。
「そんな風に・・・」
今日の昼休み、自分の頭を優しく撫でてくれた志摩子さん。
自分が祐巳さんの事を好きだと、その時知ったのに、何も言わずに未だに応援してくれている。
志摩子さんの大切な人の事が好きだと言っている最低な私に、志摩子さんは未だに優しくしてくれる。
それは、決して自分が恋人だからという優越感からくるものなんかじゃなくて。
志摩子さんは、本当にお人好しだから。きっと、目の前の一年生の力にならずにはいられなくて。
それこそ、自分と恋人の大切な時間を横から奪っていった私相手でも、それは例外じゃなくて。
馬鹿だ。志摩子さんは大馬鹿だ。そんなことしても、何の特にもならないのに。
それでもまだ、志摩子さんは私の事ばかり心配して。本当に、志摩子さんは馬鹿だ。本当に――
「そんな風に・・・本当に思える訳・・・ないよ・・・」
先ほど、我慢していたという理由もあったのかもしれない。
乃梨子の瞳から溢れ出した涙は、止める術を忘れたかのように彼女の頬を濡らしていった。
そうだ。最初からそんな風に思える訳がないのだ。
だって私は、二条乃梨子は藤堂志摩子のことが大好きなのだから。あの日、彼女の前で涙を流した日からずっと。
「乃梨子・・・」
「苦しいよ・・・胸が、苦しいよ志摩子さん・・・もう、どうすればいいのか自分でも分からないよ・・・
祐巳さんの事が・・・祐巳さんの事がどうしようもないくらい好きなの。離れたくないよ・・・
でも・・・でも、嫌だ・・・志摩子さんから、祐巳さんを奪いたくなんて無い・・・そんなこと、絶対嫌だよ・・・」
志摩子さんから、祐巳さんを奪ってまで傍に居るなんて、絶対に嫌だ。
そんなことをしても、きっと自分は後悔する。けれど、このまま祐巳さんの傍から離れても、きっと後悔する。
それに何より、何より一番ツライのは・・・
「祐巳さんの気持ちが見えない・・・祐巳さんが私に何を求めているのか、分からない・・・
どうして祐巳さんは私に何も話してくれないの・・・どうして何も求めてくれないの・・・
私、こんな事全然望んでなかった!!こんな結果なんて知りたくなかった!!」
祐巳は乃梨子に何も語らなかった。
志摩子という恋人の存在も、山百合会の事も、スールの事も何も乃梨子に語ろうとはしなかった。
ただ、彼女は乃梨子に甘いものを与え続けただけ。傷つけぬように、壊さぬように延々と。
それがきっと、乃梨子の心をこんなにも不安定にしているのだろう。
与えられるだけの愛情に、一体どれだけの価値があるというのだろう。
一方通行の想いに、一体どれだけの気持ちが解かりあえるというのだろう。
確かに乃梨子は祐巳に居場所を貰った。しかし、それは所詮言葉通りの単なる居場所に過ぎない。
祐巳は求めなかった。触れられることを拒み、乃梨子に笑顔だけを向け続け、傍で優しく見つめているだけ。
それは果たして、乃梨子にとって本当に求めていた居場所だったのだろうか。
そんな問いの答えなど、とうに出ているではないか。彼女は今、泣いている。それが全ての答えなのだから。
「・・・ごめんなさい、乃梨子」
「え・・・」
「この結果は、乃梨子のせいなんかじゃないわ。
私と祐巳さん・・・私達が、自分の事ばかりしか考えていなかったから起こってしまったことよ。
私達が自分勝手過ぎたから、こんなにも貴女を傷つけてしまった・・・本当に、ごめんなさい」
泣いている乃梨子をそっと抱きしめ、志摩子は罪を懺悔するかのように乃梨子に告げた。
どうして、志摩子さんは謝っているのだろう。悪いのは全部私なのに。
志摩子さんは被害者だ。見ず知らずの最低な一年生に、祐巳さんとの大切な時間を奪われただけ。それだけなのに。
そう考えている乃梨子に、志摩子は彼女を抱きしめたまま言葉を続ける。
「・・・私はきっと、自分自身を貴女に重ね過ぎた。
自分が上手くいったから、私に似ている貴女も居場所を手に入れたらと勝手に決め付けた。
そんな訳、ないのに・・・同じ人間なんて、何処にもいる訳がないのに。
私は無責任に貴女をこんな結果へと押しやってしまったわ・・・」
「ち、違っ・・・志摩子さんは悪くな・・・」
「全部解かったような口を利いて、貴女を導くようなことを言って・・・結果、苦しめてしまった。
そんな私が今更何を言っても言い訳にしかならないというのは解かってる。でも、お願い・・・」
乃梨子から身体を離して、志摩子は乃梨子の瞳を見つめた。
その瞳はどこまでも真っ直ぐで。気を抜けば、思わず吸い込まれてしまいそうなほどに綺麗で。
「祐巳さんを・・・もう少しだけ、信じてあげて。
祐巳さんの心の中に乃梨子の居場所が無いなんて、そんなことは絶対に無いわ」
「志摩子さん・・・」
「私と祐巳さんがどうだとか、そんなことは関係ないの。
貴女が祐巳さんの事を好きであるように、祐巳さんもまた貴女の事が好きなのよ。それだけは信じてあげて」
「でも・・・」
乃梨子は言葉を続けることが出来なかった。
怖かった。志摩子の言葉を裏付けるモノを自分が持ち得なかったから。
祐巳と乃梨子の間には確かなモノが何一つない。だからこそ何も言えない。
一体、祐巳さんにとって自分はどんな存在なのだろう。
確かなつながりが何も無いままに、甘い言葉ばかり与えられただけの存在。それが今の自分なのだから。
言い淀む乃梨子に、志摩子は微笑みながら口を開いた。
「もう一度だけ・・・これが最後で構わないわ。だから、私の言葉を信じて」
「志摩子さん・・・でも私はもう・・・」
「だって、そうでしょう?
もし祐巳さんが乃梨子の事をどうでもいい、なんて思っているんだったら・・・こんなところまで追ってこないでしょう?」
ね、と乃梨子の後ろへと視線を投げかける志摩子につられ、乃梨子は視線を後ろへと振り返った。
――嘘。思わずそう呟きそうになってしまったのは仕方の無いことなのかもしれない。
何故ならそこには、乃梨子が考えてもいなかった人物が。何より会いたくて、会いたくなかった人物が目の前に立っていたのだから。
「祐巳さん・・・」
「ハァ・・・、どうにか間に合ったみたいだね・・・」
目の前に舞い降りた祐巳を見て、乃梨子は言葉を失った。
息を切らし、肩を上下させて笑う祐巳が、あまりにも彼女の中の福沢祐巳と違っていて。
きっとここまで走ってきたのだろう。それこそ、他の事に気を取られる余裕なんかなくて。
リリアンの生徒としての在り方、山百合会の一員としての自分なんか捨て去って、ただ乃梨子のことだけを考えて。
祐巳の靴は、上履きのままで。それを見て、志摩子はクスリと笑って祐巳に言葉を投げかけた。
「祥子様には内緒にしておかないと」
「もう手遅れだと思うよ。ここまで走ってくるのを何人かの生徒に見られちゃったし。
お姉様からの説教は自業自得だし、甘んじて受け入れるよ。それに、志摩子さんからの説教もね」
「・・・そう。それじゃ、後で私も祐巳さんに説教を受けないとね。乃梨子の心を傷つけた罪は私達二人の罪。
自分の事だけを考えて、乃梨子の気持ちなんて少しも考えていなかった愚かな私達の・・・」
「そうだね・・・だけど今は自分のしてしまった事を悔いてる場合じゃない。
今、私がすべきことはそんな事じゃない。今、私がやらなくちゃいけないことは逃げることじゃない。だから・・・」
今自分が為すべきこと。そんなことは今更考えるまでも無い。
情けない自分の背中を親友は見事に蹴り飛ばしてくれた。それは一体何の為だ。
自分の弱さが招いたこの結果、それに決着をつけるのもまた自分自身。
たった一人の自分を慕ってくれた女の子を傷つけるだけ傷つけて、そのまま自分は瞳を伏せるなど絶対にあってはならない。
思い出せ。福沢祐巳の在り方を。福沢祐巳は常に自分の味方であり、女の子の味方。
そんな自分が己の弱さのせいで、たった一人の女の子を悲しませるなど絶対にあってはならないのだ。
「乃梨子ちゃん、私は貴女に謝らなければいけない。
自分の弱さが、中途半端さが乃梨子ちゃんの心を沢山傷つけた。
乃梨子ちゃんが必死に手を差し伸べてる事に気付いていたのに、私はそれに気付かない振りを決め込んだ」
「・・・祐巳さん」
「私はただ逃げていた。乃梨子ちゃんの事を好きだと認めた時、私は自分でも理解出来ない程に心掻き乱された。
その気持ちが一体何なのか、全く分からなくて・・・怖くて仕方が無かった。だから乃梨子ちゃんに志摩子さんを重ねた。
『これは以前に経験したことだから』って、『だから何も怖がる必要は無い』って・・・只管自分に言い聞かせた。
・・・馬鹿だよね。そんな訳無いのに。乃梨子ちゃんは乃梨子ちゃん、志摩子さんは志摩子さんなのに・・・」
自嘲するように呟きながら、祐巳はゆっくりと足を進める。
一歩。また一歩。けれど、それは着実に。自分の弱さを、格好悪さを振り払うかのように力強く。
「傷つけちゃったよね・・・沢山痛い思いをさせちゃったよね・・・本当にゴメン。
結局、私はただ怖がっただけなんだ・・・乃梨子ちゃんに、嫌われることが。
だからあんなに試すような真似をして・・・乃梨子ちゃんは私を『受け入れる』って言ってくれたのに・・・最低だね」
祐巳の言葉に乃梨子は何も返せない。返さない。
何故なら分かっていたから。きっと祐巳さんは否定の言葉なんて望んでいない、と。
己の罪を認めること、背負うこと。それはきっと、他の人間が介入してはならぬ絶対の聖域。
自分で認めて初めて、人は次の一歩を踏み出すことが出来る。そう、祐巳は自分をただ自虐しているのではない。
前に進む為に、新たな一歩を踏み出す為に彼女は前を向こうとしているのだ。
その証明とも言うべきか、彼女の瞳には強い意志が。そうだ、これは次への一歩。祐巳が乃梨子と共に歩む為の、本当の。
「乃梨子ちゃん・・・私は貴女に許してくれなんて言わない。やってしまった事を今更許して欲しいとも思わない。
だけど、今貴女に一つだけ本当の気持ちを伝えさせて頂戴。私は貴女が好き。大好き。その絶対があればそれでいい。
もう色々とゴチャゴチャしたことを考えるのは止めたよ。そんなのはやっぱり私の性に合わないみたい。だから――」
そして、少女は微笑んだ。それは、乃梨子が憧憬して止まなかった太陽のような眩しい笑顔。
この笑顔の傍にいたくて。この笑顔に触れていたくて。乃梨子が何よりも大好きな、キラキラした表情。
「――今度は私が乃梨子ちゃんを追っかける番だよ。今度は私が乃梨子ちゃんを捕まえてみせる。
どんなに時間がかかっても、どんなに困難でも構わない。私は絶対に乃梨子ちゃんの心を奪ってみせるよ。
乃梨子ちゃんの気持ちなんか関係ない。私には乃梨子ちゃんが必要なの。欲しいの。傍にいたいの。
だから覚悟しててね。私が欲しいと言った以上、乃梨子ちゃんが私の手に堕ちるのは時間の問題なんだから」
「あ・・・」
無邪気に微笑みながら楽しそうに告げる祐巳の言葉が、乃梨子の心を完全に刺し貫いた。
今、祐巳さんは何といった。欲しいと、必要だと言ってくれた。傍にいたいと言ってくれた。
それは、乃梨子がどうしようもない程に欲していた言葉だった。
祐巳に必要とされているのか、求められているのか分からない不安に押し潰された乃梨子が、真に求めていた言葉。
――涙が溢れた。どうしようもなく涙が溢れた。祐巳さんの心の中に、自分の存在など小さいものだと思っていた。
きっと居場所なんてないと。結局のところ、祐巳さんは自分に同情してくれていただけで。ただそれだけなのだと。
本当、頭にくる。祐巳さんはいつもいつもこうだ。いつだって、自分が本当に欲しかった言葉を肝心なところで与えてくれる。
嫌い。祐巳さんなんか大嫌い。こんなに自分をおかしくさせる祐巳さんなんか、世界で一番大嫌いだ。
――そして、そんな祐巳さんが、私はきっと宇宙で一番大好きなんだ。
「馬鹿・・・祐巳さんの馬鹿馬鹿馬鹿っ・・・
私の気持ちなんかとうに知ってるくせに・・・祐巳さんは卑怯だよ・・・」
「そうだね、卑怯だね。だけど、それが私、福沢祐巳だもん。
好きになっちゃった女の子はね、どんな手を使ってでも自分の傍に置いておきたいんだよ。
そして大好きになっちゃった女の子にはね、意地悪なことまでしたくなっちゃう」
「私・・・祐巳さんの傍に居てもいいのかな・・・
志摩子さんが居るのに、祐巳さんのことを好きでいてもいいのかな・・・」
「何言ってるのよ。乃梨子ちゃんが言ってくれたんでしょ、『祐巳さんの居場所になってあげる』って。
乃梨子ちゃんは私の家なのに、傍に居なくてどうするのよ。私をあちこち転々とするような生活にしちゃう気?
それにさっきも言ったけれど、志摩子さんは志摩子さん。乃梨子ちゃんは乃梨子ちゃん。
好きって気持ちはね、他の人がどうこうなんて関係ないんだよ。常に自分の事を考えないと、楽しくないでしょ?」
「もう・・・最初に私の居場所になってくれるって言ったのは祐巳さんじゃない・・・」
感情をもう抑えることなんて出来なかった。乃梨子は祐巳の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
そんな乃梨子に、祐巳は微笑みながらも優しく抱きしめた。その温もりを、その存在をしっかりと確かめるように。
少女はただ只管に居場所を求めていた。それは一方的に与えられるだけのモノではなく、互いに分け合える場所。
自分の居場所になってくれると言ってくれた少女に、乃梨子はただ求められたかった。必要として欲しかった。
だけど、そんな事を悩む必要なんて少しも無くて。自分の想い人はどこまでも貪欲に自分の事を求めてくれていて。
「ありがとう・・・祐巳さん、ありがとう・・・」
「う〜ん・・・ありがとう、はまだ早いってば。私が乃梨子ちゃんに何かしてあげられるのはまだこれからだもん。
それに今は何かをしてあげるどころか、マイナススタートだからね。
これからはどんどん遠慮なくポイントを挽回していくつもりだから期待しててね。
これからの二年間、私となんか関わらなきゃ良かったって思わせるくらい乃梨子ちゃんを振り回してあげるんだから。
勿論、きっと乃梨子ちゃんを振り回すのは私だけじゃないだろうけど・・・ね」
悪戯染みた笑みを浮かべたままで、祐巳は視線を志摩子の方へと投げかける。
祐巳の視線に答えるかのように、志摩子もまた優しく微笑を浮かべたままだ。
晴れ渡る空の下、透き通るような春風が優しく少女達の髪を撫でる。
そうだ。確かあの日もこんな心地よい風が吹いていた。あの日、二人に初めて出会った時もこんな風に優しい風が。
もしかしたら、この風は私に幸せな時間を運んでくれているのかもしれない。だとしたら今は感謝しよう。
仏像でもマリア像にでもなく、穏やかな春風に今はただ心からの感謝を。
春風が紡いでくれた私の物語――祐巳さんと志摩子さんとの出会いに、心からの『ありがとう』を。