6.居場所になるから
放課後、HRが終わると同時に乃梨子は自分の教室を後にした。
彼女が向かう先は二年松組の教室。休み時間に瞳子から聞き出して知った、あの人がいるクラス。
――紅薔薇の蕾、福沢祐巳。乃梨子は彼女に会う為に、一人上級生の教室へと向かっていた。
その行動に、乃梨子は今、何の迷いも無かった。朝、志摩子に背中を押してもらった。勇気も貰った。
あとはしっかりと踏み出すだけ。あの人に、福沢祐巳に会いたい。会って話をしたい。
何を話したいかなんて考えていない。触れるだけで良い。きっとそれだけでこの胸の棘が一体何なのか分かる筈だから。
あの日、桜の木の下で彼女と会った時から胸に燻っている、この感情が一体何なのかが。
二年松組の教室に辿り着き、乃梨子は『失礼します』と一礼して教室に入室する。
その様子を教室中にいた生徒達が驚いたような表情を浮かべて乃梨子に視線を送る。
それも当然のことで、乃梨子が当たり前だと思ってとった行動、それがここリリアンにとっては別文化であるからだ。
通常、他のクラスに入室するときは同学年の人間なら何も言わずに入室するだろう。
そして乃梨子のように後輩や先輩といった学年の違う人間ならば、教室の入り口に一番近い人間に声をかけ、
用のある人物を呼んで貰い、それから入室する。無論、人がいない場合はそれの限りではないが。
すなわち乃梨子のとった『失礼します』と一礼して教室に入室するという行動は
リリアンの生徒達から視線を集めても仕方が無い行動なのだ。普通、彼女達がそうやって入室するのは職員室くらいか。
だが、それらの視線を乃梨子は少しも気にすることなく、教室中に視線をめぐらせた。
そして、目的の人物もまた机に座って驚いた様子でこちらを見ているのを発見し、乃梨子はその人物の元へと歩いていく。
そして、彼女の前に辿り着いて彼女の顔を見る。
髪型こそツインテールだが、その少女は間違いなくあの日桜の木の下で出会った少女。
乃梨子があの日から、再会を願い続けていた少女――福沢祐巳。
「・・・福沢祐巳さん、ですよね。私は一年椿組の二条乃梨子と言います。
あの時は自己紹介してませんでしたし、何より忘れられているかもしれませんが・・・」
「ふふっ、心配しなくても貴女の事はしっかりと覚えてるよ。
いつか会えるとは思っていたけど・・・うん、この再会はちょっと予想外だったかな」
笑って告げる祐巳の言葉に、乃梨子は少しだけ安堵した。
自分の事を覚えていてくれた。その事が乃梨子の胸の中を幾分か軽くしてくれた。
「祐巳さんにお話があるんです。・・・お時間の方、よろしいでしょうか」
祐巳は微笑を浮かべたままで、祐巳の後ろで固まっていた由乃の方を振り返る。
「由乃さん、私今日は用が出来ちゃったから山百合会休むね。お姉様によろしく言っておいて」
そして再び視線を乃梨子の方に戻し、祐巳は鞄を持って席を後にする。
祐巳が何をしているのか理解出来ていない乃梨子の隣を通り過ぎ、祐巳は乃梨子をからかうように口を開いた。
「私に何か話があるんでしょう?紅薔薇の蕾ではなく、福沢祐巳に対して。
それなら誰もいないところで二人っきりじゃないとね。デートの基本はムード作りが大事でしょ?」
『それじゃ行こうか』と告げ、祐巳は乃梨子の手を空いた右手で握り、彼女を引っ張るようにして教室を後にした。
彼女達が出て行った後で教室で大きなざわめきが起こる中、由乃は未だに現状を把握出来ずにいた。
・・・
放課後の薔薇の館。山百合会のメンバーが集うその場所の扉がゆっくりと開かれた。
扉の向こうから姿を表したのはそのメンバーの一員でもある島津由乃。
いつもなら彼女は同じクラスの福沢祐巳と一緒にこの場所に訪れるのだが、
今日はその相方の姿が見えなかった。そのことに気付いたのか、室内にいた祥子は軽く溜息をついて口を開く。
「また祐巳は遅刻する気?本当にしょうがない娘ね・・・先日叱ったばかりだというのに」
「あれって叱ってたの?私にはただ祐巳ちゃんとジャレあってるようにしか見えなかったんだけど・・・」
「叱ってたのよ!!全く・・・それで由乃ちゃん、今日の祐巳は何処に遊びに行っているの。
由乃ちゃんが無理矢理同行させられていないということは、大方保健室で眠っているのでしょう?」
隣に座っていた令を祥子はキッと一睨みし、視線を再び由乃の方へと向ける。
だが、彼女から返ってきた返事は祥子の予想から大きく外れたものだった。
いや、外れているどころか祥子には想像すら出来なかったことだった。
「えっと・・・祐巳さん、さっき教室に訪れた一年生と一緒にどこかに行っちゃいました」
「へ?」
由乃の言葉に一番に反応したのは令だった。
祥子は由乃の言葉の意味がよく伝わらなかったのかどうか分からない状態、つまり固まったままだ。
静は文庫本から視線を外し、由乃の方に向けて興味は示しているものの特に反応はしていない。
志摩子に至っては由乃の声が聞こえていなかったのか、視線は窓の外へ向けられたままだ。
「えっと・・・どういうこと、由乃。
祐巳ちゃんが一年生と・・・え?」
「だからっ、祐巳さんが一年生に何処かに行ったの!連れ出されたんだってば!!
放課後になって祐巳さんと二人でここに向かおうとしてたら、知らない一年生が教室に来て
祐巳さんに話があるみたいな感じだったのよ。それで祐巳さんはその一年生と一緒に何処かに行ったって訳」
「・・・祐巳ちゃんが一年生を呼び出したんじゃなくて?」
「だーかーらっ!!そうだって最初から言ってるじゃない!!人の話をちゃんと聞いてよ!令ちゃんの馬鹿!
もし祐巳さんが呼び出したんなら私だって驚いたりなんかしないわよ!!
その娘が突然ウチのクラスに入ってきて祐巳さんに話があるって言ったの!!」
由乃の言葉に令は困惑していた。信じられない。それくらい在りえないことを由乃が言っているのだから。
その一年生はたった一人で上級生のクラスに訪れ、山百合会の一員である祐巳を呼び出したと言うのだ。
この山百合会のメンバーの中でも、祐巳は一際異彩を放つ薔薇だ。それこそ人気や信者は他を圧倒する程に。
その祐巳をクラス中の視線という視線が集る中で、物怖じせずに呼び出したというのだ。なんたる度胸か。
「その娘、祐巳ちゃんの知り合いか何かかな。由乃、その娘の顔に見覚えは」
「私は無いわ。けど、祐巳さんは何だかその娘のことを全く知らない訳でもないって感じだったかな。
最初にその娘の顔を見たとき、驚いたような表情浮かべてたけど、その後凄く楽しそうに笑ってたもの」
「成る程・・・しかしその娘、一体祐巳ちゃんに何の用なのかな。
視線がある中で祐巳ちゃんを直接呼び出すってことは余程大事な話なのかな」
「呼び出した訳じゃないわ。
だってその娘、『失礼します』って言って直接祐巳さんのところまで乗り込んできたもの」
「・・・そっちの方が凄いことだよ。何?その娘は他の生徒を介さずに堂々と由乃の教室に入ってきたの?」
「別段驚くことでもないでしょう?その娘が外部受験組なら大いにありえる話よ。
礼儀を知らない訳ではなく、その娘が単にまだリリアンでの作法を分かっていないだけなのではないのかしら」
静の言葉に、令は成る程と納得をする。確かに高等部からリリアンの人間ならそれも仕方ないかもしれないと。
「しかし、本当にその娘は一体祐巳ちゃんに何の話があったんだろうね。
一年生が祐巳ちゃんに・・・」
ふと、令は一つの答えに辿り着いた。このリリアン高等部で上級生と下級生に関する用事。しかしそれは。
それは由乃も同じなのか、令の視線に『在り得ない』とばかりに首を振る。
しかし、普通に考えるなら『その答え』が一番説明がつく。二年生と一年生。祐巳に姉妹は姉の祥子だけ。ならば。
「そんな事考えるまでも無いわ」
思考の海に陥った二人を拾い上げたのは、その張本人の姉である小笠原祥子だった。
もし、一年生の用件が二人の考えた内容通りなのだとしたら、一番慌てなくてはならない筈の人間なのだが、
祥子は優雅に笑っている。不思議そうに顔を見合わせる二人に、祥子が再び口を開く。
「もうすぐマリア祭でしょう。マリア祭の後には私達が行う歓迎の式がある。
きっとその事を祐巳に尋ねに来たのでしょうね。あの娘、日頃から一年生達と触れ合う為にホールに行っていたもの。
山百合会の中で一年生にとって一番身近な存在は祐巳だわ。ならば祐巳が呼び出されるのも道理に適ってるもの」
「祥子。二人の前で必死に冷静を取り繕っているところ悪いのだけれど、それは私のティーカップよ。貴女のはそっち」
祥子がカップを口に運ぼうとする横で、静がニヤニヤと笑みを浮かべながら指摘する。
前言撤回。どうやら祥子の内心は大変余裕が失われているらしい。
指摘されたことが悔しかったのか自分自身に腹が立ったのかは分からないが、祥子はキッと静を睨みつける。
それを静は難なく受け流して笑っていた。
「祥子の無理がある説は置いておくとして・・・祐巳ちゃんに妹が出来る可能性もあるんだよね?
何だかイマイチ実感が持てないんだけど・・・」
「ちょ、ちょっと待ちなさい!!誰が無理のある説よ!
いえ、それよりも祐巳に妹ってどういうことよ!?祐巳は私の妹よ!?それなのにどうして妹なのよ!?」
「うわっ!?落ち着いてよ祥子!!まだそうと決まった訳じゃないってば!!」
「というか祐巳さんに妹が出来ることと祥子様の妹であることは何の関係も無いと思うんですけど」
フーッと猫のように息を荒くする祥子に、由乃は軽く溜息をついた。
本当、この光景を紅薔薇信者の人達が見たら絶対泣くと思う。そんなことを考えていた。
「でも、おかしな話ね。妹にするのならば祐巳ちゃんがその娘を呼び出すのでは無いかしら。
普通、スールというものは姉側から妹側にロザリオを渡すものなのでしょう?」
「そ、そうよ。静の言う通りだわ」
「まあ、下級生側から『ロザリオを下さい』とアタックをかけてはいけないという訳でもないのでしょうけれど」
「静っ!!」
「・・・静、楽しんでるね」
「・・・うん。静様、絶対祥子様をからかって楽しんでる」
祥子と静のやりとりを見て、二人は小さく溜息をついた。
そんな喧騒の中でも、唯一志摩子だけは唯一人窓の外をぼんやりと眺めていた。
それに気付いた由乃は、仕方が無いなとばかりに志摩子の方へと近づいていく。
「志摩子さん、志摩子さんってば!もしもーし!」
「・・・え?」
由乃に声をかけられ、傍に由乃がいることに気付いた志摩子は驚いたような表情を浮かべる。
昼休みに会った時からこの調子だった為、由乃はまだ治ってないのかとばかりに呆れたように口を開く。
「もう、しっかりしてよ志摩子さん。
だから祐巳さんに妹が出来そうだって話。志摩子さんは構わないの?」
「え、ええ。勿論構わないわ。
祐巳さんが妹を作るのはとても良いことだと思うし、そもそも私が口出しするのも変だと思うもの。
祥子様のときと同じ、決めるのはあくまで祐巳さん自身だわ」
確かに。例え祐巳がスールと作るとして、そのことに自分達がどうのこうの言う権利は一切無い。
スールを決めるのはあくまで本人同士の気持ちなのだ。考える由乃に、志摩子は微笑みかける。
「それにまだ祐巳さんの妹がその方に決まった訳ではないのでしょう?
それなら、私達は待つべきだと思うの。少なくとも、祐巳さんが私達に話してくれるまで、
その方と祐巳さんとの事に私達は関わるべきではないと思うわ。きっと祐巳さんも嫌がる筈だもの。
もし祐巳さんが妹を作ったなら、きっと近いうちにその娘の事を私達に紹介してくれる筈だと思うし」
「・・・だそうだよ祥子。まさしく志摩子の言う通りだね。
まだ祐巳ちゃんがその娘を妹にすると決めた訳でも無いんだし、
もしかしたらその娘は妹云々とは何の関係も無い娘かもしれない。だから余計なことはしちゃ駄目だからね」
「・・・令、貴女ね。どうして私に言うのよ。
それではまるで私が祐巳とその娘の間をどうこうしようと企んでるみたいに聞こえるじゃないの。失礼だわ」
祥子の一言に、隣で聞いていた静は微笑を浮かべる。
それを皮切りに再び祥子が静に食って掛かる。それを見て、令と由乃は顔を見合わせて再び小さな溜息をつくのだった。
・・・
祐巳に手を引かれて乃梨子が連れてこられた場所は文化部の部室が並ぶ廊下の一室だった。
現在は使われていない場所なのか、その部屋には他の部室とは違いネームプレートがかけられていない。
しかし、祐巳が鍵を使って開いた室内の光景は、放置された部室とは思えない内装だった。
「嘘・・・」
それが乃梨子の室内を見た第一声だった。
室内には机や椅子、本棚を初めとして、どこから持ち込んできたのかソファーやクッション。
挙句の果てには大きな熊のぬいぐるみやら、とてもじゃないが使われていない部室とは思えない品々が揃っていた。
否、使われていない部室などというレベルではない。普通の文化部の部室ですらこんな状態はありえないだろう。
「驚いた?なかなか面白いでしょ。
ここまで揃えるのに結構苦労したんだよね〜。あ、ちなみにこの場所は他の人には秘密にしておいてね。
何かの拍子でお姉様にバレちゃうと、多分全部没収になっちゃうと思うし」
「えっと・・・これ、どうしたんですか?」
「ん?どうもしないよ?空き部屋に私が好き勝手にモノを持ち込んだだけ。
と言っても、これは全部貰い物や拾い物なんだけどね。なかなか良いでしょ、秘密基地みたいで」
祐巳の言葉に、乃梨子は視線をソファーの方へと移す。一体誰がこんなものをくれるというのだ。
否、それ以前にどうやってここまで運んだというのか。こんな大きなものを運べば、教師達にばれそうなものだが。
「えっと・・・この部屋を使う許可とかは先生方に」
「どうして?使われていない部屋を有効活用してるだけだし、必要ないでしょ?掃除も私が代わりにしてるしね」
祐巳の見当違いの答えに乃梨子は頭を悩ませる。果たしてそういう問題なのだろうかと。
「ほらほら、座って座って。
薔薇の館だったらお茶でも出してもてなしてあげられるんだけどね。あ、茶道部に行ってお茶貰ってこようか?」
「け、結構です・・・というか、茶道部に行ってお茶を貰うって発想が凄いですね・・・」
「ええ?そうかなあ。私、一年生の頃はここに来る時は毎日のようにお茶とお菓子貰ってたけど・・・」
さあさあ、と乃梨子の背を押して、祐巳は乃梨子をソファーへと座らせた。
そして祐巳はその隣に腰を下ろし、楽しげに乃梨子の方に視線を送る。
「・・・さて、と。二条乃梨子ちゃん、だったよね。
まずは久しぶりと言うべきなのかな。それとも改めてはじめましてと言うべきなのかな」
笑って言う祐巳の姿が、乃梨子の瞳に映し出される。
彼女の姿は、乃梨子があの日見たイメージとは大きく異なっていた。
あの日見た祐巳は、乃梨子にとってまさしく神聖な存在だった。呼吸をすることも躊躇われるような存在感。
しかし、今の祐巳からはそのようなモノは一切感じられない。他を圧倒するような威圧感など一切皆無なのだ。
あるのは彼女の包み込むような温もり。他を惹きつける存在感ではなく、優しく包み込むような抱擁感。
「んん?どうしたの?そんなに人の顔をじっと見ちゃって」
「え、あ・・・えっと、すみません。
何だかその、初めてお会いしたときとイメージが違うなあと思いまして・・・あはは、変なこと言ってますね、私」
乃梨子の微笑を見て、祐巳は『へえ』と面白いといわんばかりの笑みを浮かべる。
ごめんなさいと謝る乃梨子に、気にしないでと祐巳は告げる。そして、微笑を浮かべたままで続ける。
「初めて会った時の私ってどんな感じだった?」
「えっと・・・その、なんていうか、近づくことも恐れ多いっていうか・・・呼吸することも忘れそうになったっていうか・・・
上手く説明出来ないんですが、その、まるでマリア様みたいだったというか・・・」
「あははっ、それは大袈裟だよ。私なんかにマリア様だなんて、それこそマリア様に怒られちゃうよ」
しどろもどろに説明する乃梨子に祐巳は耐えられなかったのか笑って指摘する。
笑われた乃梨子は顔を真っ赤にして俯く。だって仕方がないではないか。自分でも良く分からないのだから。
けれど、確かに今の祐巳と初めて出会った祐巳は違うと乃梨子は感じているのだ。
「でも出会った時と違う、かあ。
・・・ねえ、乃梨子ちゃん。今の私をどう思う?出会った頃と全然違うから失望しちゃった?
乃梨子ちゃんが会いたかったのは『ああいう私』だった?」
失望。
確かに今の祐巳は乃梨子の知っている出会った時の祐巳とは明らかに空気が違う。
けれどおかしなことに乃梨子はそのことに少しも嫌悪感を抱いていないのだ。むしろ、鼓動は依然高鳴ったままだ。
彼女から感じられるのは神聖さではなく優しさ。威圧ではなく抱擁。祐巳の微笑が今、自分に向けられていることが嬉しい。
自分が会いたかったのは福沢祐巳だ。ではどのような福沢祐巳か。自分が再会を望んだのは何時だったか。
『言ったでしょう?貴女が可愛いからだって。私は常に自分と可愛い女の子の味方だもん』
――思い出した。あの時だけ、最後にあの台詞をくれた時だけ、祐巳は『本当に』笑っていた。
それは悪戯を試みるような、それでいて無邪気な優しい笑顔。あの時、きっと自分は彼女に惹かれたのだろう。
そしてその笑顔は最初に出会った時の彼女のモノか。それとも今の彼女のモノか。そんなことは決まっている。
「私が会いたかったのは今の祐巳さんなんだと思います。
別れ際に笑ってた祐巳さんにまた会いたかった・・・ああ、そうなんだ。・・・私、そうだったんだ・・・」
口にしてみれば簡単なことだった。
祐巳に会って一体何がしたいのか。その答えは志摩子との会話でも最後まで答えは出なかった。
だけど、実際に会ってみて導かれた答えは今まで悩んでいた自分が呆れるほどに馬鹿馬鹿しく思えるもので。
あの日、別れ際に笑っていた少女。その少女に会いたかったのだ。だから福沢祐巳に会いたかったのだ。
福沢祐巳に会い、『本当の』福沢祐巳にもう一度会いたかった。ただ、それだけだったのだ。
「私、祐巳さんに会いたかった・・・本当の祐巳さんに」
乃梨子の言葉に、祐巳は初めて表情を崩した。
それは今までの微笑ではなく、何かを懐かしむような苦笑。
「・・・本当の私、か。
ふふっ、やっぱり乃梨子ちゃんは似過ぎだよ。まさかあの時と同じことを言われるなんて思わなかった。
あんなところはもう誰にも見せるつもりなんて無かったのに・・・油断したなあ」
祐巳はそっと掌を乃梨子の頭に乗せ、優しく撫でる。
きっと祐巳にしてみれば無意識の行動だったのだろう。ただ、目の前の少女に触れたかった。それだけのことだ。
それは初めて会った時の別れ際と同じで。だからかもしれない。乃梨子がそれに全く抵抗しなかったのは。
「・・・うん、私乃梨子ちゃんのこと気に入っちゃった。文句無く可愛いし。
という訳で乃梨子ちゃん、私とキスしよっか」
「はあ・・・って、ええええ!?ななな、何を言ってるんですか!?」
突然の祐巳のぶっ飛んだ発言に乃梨子は思いっきり声をあげる。
そんな乃梨子の様子に祐巳は何がおかしかったのかと言わんばかりに首を傾げた。
「え?だって、乃梨子ちゃんは可愛いんだよ?私は乃梨子ちゃんの事好きになっちゃったんだよ?
だったらキスする流れじゃないかな」
「どういう流れですか!!そもそも私と祐巳さんは女同士じゃないですか!!」
「女同士じゃ駄目?乃梨子ちゃん、私の事嫌い?」
「ッ!!!」
反則だ。乃梨子は顔を真っ赤にして心の中で絶叫した。
嫌いな訳がないではないか。初めて会ったときから、ずっと再会を願っていた女の子。
だが人として、乃梨子にとって超えてはいけないラインというものがある。同性でキスなど在り得ない。
祐巳を見ると胸が酷く高鳴って仕方が無い。それこそ心臓が壊れるかと思う程だ。
だがキスは。キスだけは。その一線を越えてしまうと、きっと戻れなくなる。色々な意味で、きっと。
ううう、と唸る乃梨子を見て、祐巳は楽しそうに微笑んで表情を崩した。
「まあ、純情な乃梨子ちゃんをからかうのはこれくらいにして」
「っ!!ゆ、祐巳さんっ!!!!」
「あははっ!ごめんごめん、だって乃梨子ちゃん可愛いんだもん。
それでなんだっけ?私のイメージの話だったっけ」
あっけらかんと笑う祐巳に乃梨子は自分が思いっきり遊ばれていたことに気付いた。
だが、不思議と悪い気分にはならなかった。確かに恥ずかしさは大きく残りはしたのだが。
「でも私に言わせれば乃梨子ちゃんだって出会った頃とイメージが変わってるよ」
「私が、ですか?」
「そうだよ。初めて会った時、乃梨子ちゃんは泣きそうな顔してたんだよ。
自分の居場所を見失って、本当はツライのに無理矢理感情を押さえ込んでて・・・
だから困った時は力になるから来てねって言ったんだよ。まあ・・・それも必要なかったみたいだけどね」
祐巳の言葉に乃梨子は軽く首を傾げる。祐巳の言っている言葉の意味が上手く把握できなかったからだ。
それを察してか、祐巳は楽しそうに笑って告げる。
「乃梨子ちゃん、今さっき凄く笑ってたよ。綺麗に笑えてた。今の乃梨子ちゃん、凄く魅力的だもん。
私が力になるまでも無く、乃梨子ちゃんは一人でちゃんと乗り越えちゃったんだね」
「私が・・笑えてる?」
「うん。今の乃梨子ちゃんはキラキラしてる。初めて出会った頃の乃梨子ちゃんからは想像出来なかったくらいにね」
笑えている。私が。
――ああ、笑えているのか。この人の前で私はちゃんと。この学園に来る以前の私のように。
小萬寺の帰り道、志摩子さんが見せてくれた微笑。自分が羨んで仕方が無かった微笑。
自分が求めてやまなかったもの。羨んで仕方なかったもの。きっとこの学園では、二度と手に入らないと思ったもの。
居場所がある人間にしか出来ない、心からの微笑み。志摩子さんが見せた、キラキラした輝き。
今の私は笑えているのか。志摩子さんのように、ちゃんと。祐巳さんの前でなら、私はちゃんと――
「乃梨子ちゃん・・・?」
「私、笑えてますか・・・私、私・・・」
「・・・勿論だよ。乃梨子ちゃん、さっき凄く綺麗に笑ってた」
祐巳は瞳を閉じて、乃梨子の頭を抱え込むようにしてそっと抱きしめた。
乃梨子は祐巳の胸の中で小さく嗚咽を漏らしていた。祐巳の温もりが一番感じられるその場所で。
涙が止まらなかった。志摩子に抱きしめられた時に我慢した分を取り戻すように、涙がとめどなく溢れてくるから。
「もう・・・困ったときは言えって言っておいたでしょ。どうしてこんなになるまで我慢してたかなあ・・・
一人で乗り越えたと思ってたら、溜め込んでただけだったんだね・・・もう、無茶苦茶だよ乃梨子ちゃん」
祐巳の温もりが乃梨子の心を満たしていく。
祐巳の声が、体温が、息遣いが、その全てが乃梨子の身体に浸透していく。
彼女は何の躊躇いも無く乃梨子を受け入れた。優しき抱きしめ、乃梨子にその温もりを惜しみなく分け与えてくれる。
きっと、これが志摩子の伝えたかったことなのだろう。しっかりと一歩目を踏み出せば、世界は確かに変わる。
その一歩目を踏み出さなければ、自分は決して知り得る事は出来なかった。この胸の中の温もりを。この場所を。
「・・・今までよく頑張ったね、乃梨子ちゃん。これからはもう我慢しなくて良いからね。
これからは私が一緒にいるから。私が乃梨子ちゃんの居場所になるから。だから、ね」
その一歩目を踏み出さなければ、自分は決して知り売る事は出来なかった。
彼女に対する自分の本当の気持ち――未だに鳴り止まないこの胸の高鳴りの正体を。