8.変わってしまったということ










放課後の時間になり、乃梨子は鞄に持ってきた勉強道具を全て詰め込んで教室を後にした。
彼女は迷うことなく祐巳の待つ場所へと向かった。昨日、彼女が祐巳に連れられて訪れたあの部屋へ。
目的の場所に辿り着き、乃梨子は扉の前で一つ深呼吸をし、意を決して扉をノックした。
そして、扉は内側から開かれた。満面の笑顔を浮かべた福沢祐巳の手によって。

「こんにちは、乃梨子ちゃん」

「あ、こ、こんにちは」

祐巳の顔を見て、乃梨子は思わず顔に熱を帯びてしまう。昨日の一件を思い出したからだ。
――そうだ。昨日、自分はこの人にキスされたんだ。昨日、この場所で。
先ほどまで全く意識していなかったのに、本人に会うとどうしても思い出してしまうのだ。
それも仕方の無いことだろう。乃梨子にとって、昨日の事はそれほどまでに衝撃的なことだったのだから。
そんな乃梨子の様子に気付いているのかいないのか、祐巳は何も言わずに乃梨子を室内に入るように告げた。
乃梨子をソファーに座らせ、祐巳もまたその隣に座る。それは昨日と全く同じ光景だった。

「来てくれたね」

「え・・・」

「乃梨子ちゃんはこの場所にまた来てくれた。私に会いに来てくれた。そうだよね」

乃梨子は視線を祐巳の方へと向けた。
そこには先ほどと同じように笑みを浮かべたままの祐巳の姿があった。
――否。先ほどと同じではない。確かに笑ってはいるものの、それは先ほどと笑顔の質が違う。
何が違うかは分からない。だが、乃梨子は何故かそんな風に感じてしまった。
そして乃梨子が感じたもう一つの事。その笑みはどこかで見たことがある、と。そう、何処かで。

「・・・祐巳さん、もしかして何かありました?」

「あったように見える?」

「あ、いえ・・・ただ、何となくそう感じただけで」

乃梨子の言葉に祐巳は『何それ』と楽しそうに笑った。
その笑みは、先ほどまでと同じ昨日と同じ微笑で。先ほどのように違和感を感じることは無かった。

「ちょっと今年卒業した先輩の言葉を思い出してただけ。・・・成る程、確かに私は弱くなってるかもしれないね。
 正直、乃梨子ちゃんがこの場所にまた来てくれたことに私は凄く安堵したよ。
 喜びを感じる前に乃梨子ちゃんが来てくれたことにホッとしてる自分がいた。
 以前ならきっとこうは思わなかっただろうね・・・きっと以前の私なら」

瞳を閉じて呟く祐巳の言葉が乃梨子には全く理解出来なかった。
ただ、祐巳の言葉に口を挟む気にはなれなかった。今の自分にはまだ、きっとその資格はないような気がしたから。

「まあ、そんなことはどうでもいいの。
 今は乃梨子ちゃんがまた私に会いに来てくれた、その事が大事だもん。
 あんなことされてもまた会いに来てくれたってことは私の気持ちを受け入れてくれるってことだよねっ!
 つまり私の告白の返事を聞かせてくれるってことだよねっ!」

満面の笑みで告げる祐巳に乃梨子は少し言葉を詰まらせる。
何て直球な人だろう。乃梨子は祐巳に想いを告げようと覚悟を決めてきたのだが、まさか向こうから催促されるとは。
そんな祐巳に乃梨子は苦笑した。否、祐巳にだけではなく、昨日の自分に対してもだ。
ああ、あんな風に彼是と悩む必要など無かったのだ。それはとても簡単なことで。
ただ自分にどこまでも素直になれば良かったのだ。目の前で笑う少女のように、どこまでも自由に。
自分の本当の心に従って、想いを口にすれば良かったのだ。たった二文字の言葉に想いを乗せてしまえば。
昨日辿り着いた答えに今日導いた答え。その二つのおかげだろうか。こんなにも簡単に口に出せたのは。

「祐巳さん、私、祐巳さんの事が好きみたい」

「・・・乃梨子ちゃん」

「多分、出会った頃から祐巳さんに一目惚れだったんだと思う。
 その時からずっと祐巳さんのことを追いかけて・・・でも、この気持ちがなんなのか分からなくて。
 だけど、ようやくこの気持ちが何なのか分かったから。ようやく見つけることが出来たから。だから」

だから、告げるのだ。
初めて好きになった少女へ、自分の想いを伝える為に。
抑えきれない自分の気持ちを、カタチにする為に。
だから何度でも彼女に告げよう。二文字の言葉に自分の全ての想いを乗せて。

「――私は祐巳さんのことが好き。これからも祐巳さんの傍にいたい」

想いを言葉に変えて彼女へと。
その想いはどこまでも愚直なまでに真っ直ぐで。だけど、どこまでも純粋で。
乃梨子の言葉を受け、祐巳は一度瞳を閉じた。さきほどまでの乃梨子を茶化していたような空気はもう無い。
そして、祐巳はゆっくりと瞳を開いた。そして微笑を浮かべて乃梨子を抱きしめた。

「・・・綺麗だね。乃梨子ちゃんは、本当に綺麗だ。
 乃梨子ちゃんだけじゃない、みんな綺麗だよ。どこまでも真っ直ぐで輝いていて・・・
 以前の私そのキラキラした正体が何なのか分からなかったよ。だから、追い求めたんだ。
 女の子達の持っていたキラキラしたモノ、私だけが持っていなかったモノ。そんな宝石を手に入れたくて、ずっと」

「祐巳さん・・・?っ!?」

突如、乃梨子は強い力で押されるようにソファーに倒れこんだ。
そして、倒れた後でその力の正体に気付く。祐巳が乃梨子を押し倒したのだ。
乃梨子の両手首を手で押さえつけ、祐巳が乃梨子の上に覆いかぶさっていた。

「ごめん・・・今日の私、ちょっと駄目みたい。自分で自分が抑えられない。
 乃梨子ちゃんの言葉が、挙動が、吐息が全部どうしようもないくらい愛おしいの。どうしても止まらないの。
 乃梨子ちゃんは受け入れてくれる?こんなドロドロな私でも受け入れてくれるのかな?好きでいてくれるのかな?」

「祐巳さん・・・」

――泣いている。笑っているのに泣いている。何故か乃梨子には、祐巳の姿がそんな風に感じられた。
どうしてこの人は泣いているんだろう。泣く理由なんか無い筈なのに。
沢山の人に囲まれて、沢山の人に愛されて、沢山の人に慕われて。それなのにどうして。
分からない。分からない。けれど、祐巳さんは間違っている。だからそれを教えてあげなければいけない。
祐巳さんは私の居場所になってくれると言ってくれたのだから。だから、今度は私の番。

「好きだと言ってくれた女の子にこんなことを無理矢理しようとしてる私でも、乃梨子ちゃんは・・・」

「・・・いいよ」

「え・・・」

その言葉は、考えるよりも早く発せられて。
言葉を失う祐巳に、乃梨子は微笑んで答えた。考える必要など無い。感じるままに声に出せばいい。
飾りなど必要ない。勇気を出して一歩踏み出すこと、ありのままの言葉を伝えること。
それが志摩子さんに教えてもらった大切なことだから。

「例え祐巳さんがどんな姿でも、私は祐巳さんが好きだよ。
 祐巳さんは私の居場所になってくれるって言ってくれたんだから、今度は私の番。
 どんな祐巳さんでも、私は絶対に逃げたりしない。離れたりしない。私は祐巳さんを受け入れるから」

そして、乃梨子は微笑んだ。この学園に来て、彼女がみせた最高の笑顔で。
例え祐巳がどんな祐巳であっても関係ない。自分は彼女に惹かれたのだ。彼女自身に、福沢祐巳に。
きっと自分は祐巳さんの事を全然知らない。自分が見たことも無い祐巳さんは沢山ある筈だ。
けれど、それはこれから見ていけばいい。傍にいて、どんどん知っていけばいい。それが二条乃梨子の答えだ。

「・・・ずるいなあ。乃梨子ちゃんは本当にずるい」

「祐巳さん・・・」

気付けば、乃梨子の手首を締め付けていた祐巳の手の力が抜けていた。
そして、祐巳は困ったような笑みを浮かべている。それは本当に困ったというような、そんな笑顔で。

「同じ事を言うんだね・・・乃梨子ちゃんも同じ事を言って、私を受け入れてくれるんだ。
 本当、嫌になっちゃう・・・そんなことを言われちゃ、私はもう何も出来ないじゃない」

そう言って祐巳は押し倒していた乃梨子を抱き起こした。
向かい合った乃梨子に、祐巳は微笑んだままで言葉を続ける。

「・・・ごめんね、乃梨子ちゃん。昨日から散々試すような真似をして。
 でも安心して。もうそんなことはしないから。乃梨子ちゃんの気持ちは充分に伝わったから。
 ・・・ありがとう、こんな私を受け入れてくれて」

「・・・そんな言葉必要ないよ。私だって、祐巳さんに受け入れてもらったもの」

「そっか。それじゃおあいこだね。
 ふふっ、それにしても私をここまで本気にさせるなんて乃梨子ちゃんってば年上キラーだね。
 もしかして今までもそんな風に多くの先輩を泣かせてきたのかなあ?」

「え・・・えええ!?」

乃梨子の反応に祐巳は楽しそうに笑みを浮かべる。
それは今までのような陰りのある笑みではない。昨日のように、いつもの祐巳の笑顔。太陽のような祐巳の。

「もしかして私、このまま乃梨子ちゃんに食べられちゃうのかなあ?
 ううん・・・食べられるっていうのは初めてだけど、乃梨子ちゃんが望むのなら・・・」

「ちょ、ちょっと祐巳さん!?私そんな事言ってな・・・」

「きゃー!!乃梨子ちゃんに食べられるー!!
 こんな密室に連れ込んで先輩を襲うなんて乃梨子ちゃんってば大胆過ぎだよ!」

「ひ、人の話を聞けーーー!!!!」

きゃっきゃとはしゃぐ祐巳に乃梨子は全力で突っ込みをしながら思うのだ。
やっぱり祐巳さんは笑っているほうが良いと。こんな風に、太陽のようにどこまでも輝いて。

















 ・・・
















「志摩子、帰る前に祐巳のところへ寄っていきなさい」

日も落ち始めた頃、山百合会の仕事を終えて返ろうとする志摩子に祥子は声をかける。
突然の祥子の言葉に、志摩子と一緒に帰ろうとしていた由乃は首を捻っていたが、
志摩子は何の躊躇うこともなく笑顔で『分かりました』と答えて由乃と共に薔薇の館を後にした。

「祐巳ちゃんのところへ志摩子を向かわせたのは何か考えがあってのこと?」

祥子と共に部屋に残っている女生徒――蟹名静の言葉に、祥子は『ええ』と言葉を返した。
二年生たちを帰した後も、三年生たちはまだ薔薇の館に残って仕事をしていた。もうすぐ開かれるマリア祭についてだ。
これは三年生である薔薇達がメインで行う為、二年生はサポートに過ぎない。
よって、三年生だけでも充分に仕事が進められるのだ。令が部活でいない今、二人が頑張らなければならない。

「あの娘、お姉様達が卒業してからずっと不安定でしょう。
 昨日私に会いにきた時ももそうだったし、志摩子があの娘の傍についてないと気が気じゃないのよ」

「昨日祐巳ちゃん来てたの?」

「ええ。私のところに数日の間、山百合会を休むって言いにきたわ。
 毎朝私のところに来て会議内容や仕事の内容をちゃんと聞くという条件付で了承したのだけれど」

「相変わらず祐巳ちゃんに甘いわね。
 ・・・まあ、それよりも先ほどの話に戻るのだけど、祐巳ちゃんが不安定と言うのは?」

興味津々とばかりに問いかける静の様子にしまったとばかりに表情を歪める祥子。
しかし時既に遅し。話すまでは帰さないという様子の静に、祥子は軽く溜息をついて話を続ける。

「言葉通りの意味よ。最近のあの娘は無理に明るく振舞おうとしているの。
 瞳子ちゃんに対する過剰な行動なんか良い証拠だわ」

「そうなの?私にはいつも通りの祐巳ちゃんだとしか映らないのだけれど」

「そう見えるでしょうね。きっと他の人達にもそう見えると思うわ」

「自分は違うと?」

「当然でしょう。私は祐巳の姉なのよ。それくらい分からないであの娘の姉なんて言えないわよ」

祥子の言葉に、静はへえと唇の端を緩ませる。
ただ妹に振り回されてばかりの姉馬鹿かと思っていたら、なかなかどうして。
そうなると静の好奇心は止まらない。もっと知りたい。自分が侮っていたこの女性がどれだけのことを見えているのか。

「もし、それが本当だとして、祐巳ちゃんはどうして不安定なのか分かるのかしら?」

「なんとなくは、ね。ただ、私には大よそしか言えないわ。
 だってきっと、あの娘自身も自分が不安定になってるその理由に気付いていないのだから」

「その推測、聞いてもいい?」

「・・・あの娘は今、初めて味わっているんだと思うわ。
 お姉様達が卒業されて、自分が心を許した大切な人達と離れ離れになる痛みを。
 そして怖がっているのよ。再び誰かとこんな風に別れを経験することを」

祥子の言葉を聞いて、静は思わず笑ってしまった。
冗談。そのような弱さはあの福沢祐巳とは程遠いではないか。あの娘はそんなことは気にしない。
例えどんな人と別れがあっても、新しいモノで代替するような強さを持っている女の子の筈だ。
誰も寄せ付けないほどに孤高な心の強さ。誰もを惹きつける強さ。それが福沢祐巳の筈だ。

「笑うのは勝手だけど、一つだけ言わせて頂戴。
 祐巳は誰よりも強いわ。きっとあの娘の心の強さには私達を含めて誰も敵わない。
 ・・・だけど、それと同時にあの娘は誰よりも弱いのよ。深く触れば簡単に壊れてしまう程に」

静は笑うのを止めた。否、止めざるを得なかった。
祥子の瞳が何処までも真剣だったから。そして感じてしまった。彼女の言っている事は、恐らく本当だろうと。

「・・・成る程ね。祐巳ちゃんがどうして貴女を姉に選んだのか不思議で仕方なかったのだけど、
 外見だけで選んだ訳ではなかったのね。単に姉馬鹿なお嬢様とばかり思っていたわ」

「・・・静、貴女は私にケンカを売っているのかしら」

「とんでもない、賞賛しているのよ。そして悔いているわ。
 私としたことが貴女という人間を完全に見誤っていた。・・・本当、山百合会に入ることが出来て良かったわ。
 私の知っている世界が如何に矮小だったかを幾度と無く教えられるもの」

「見直したなら見直したとハッキリ言いなさい。
 これを機会に少しは私の話をちゃんと聞いてくれると嬉しいのだけど」

『無茶を言うわね』と静は楽しそうに笑う。
その提案が受け入れられないだろうと諦めたのか、呆れたように祥子は溜息をついて、話を戻した。

「そういう訳で、今の祐巳には傍に志摩子を常に置いておきたいの。
 きっと祐巳の違和感に志摩子は気付いていないだろうけれど、あの娘なら祐巳の心を癒せる筈だから」

「あら、それなら志摩子を向かわせずに直接自分が行けばいいじゃない。
 貴女は祐巳ちゃんの不安定さに気付いているんでしょう?
 それなのにワザワザそのことに気付いていない志摩子を向かわせるなんて変な話だわ」

静のもっともな言葉に、祥子は軽く息をついた。
そして、少し考える間をおいて、再度口を開いた。このことを他人に話すのは初めてだったから。

「静。貴女は祐巳と志摩子の関係について知っているでしょう」

「恋人よね。私達も祐巳ちゃんには抱かれたけど、志摩子は祐巳ちゃんの中でも特別な存在よね。
 その事を初めて知ったときは驚いたものよ。よくもまあシスコンの貴女がそんなことを許したものね、と」

「・・・シスコンで悪かったわね。ええそうよ、私は祐巳が可愛くて仕方が無い姉馬鹿だわ。
 それで、そのシスコンである私がどうして志摩子と祐巳のことをこんなにも簡単に受け入れていると思う?」

拗ねたように言う祥子に苦笑しながら、静ははてと首を傾げる。
確かに変な話だ。志摩子の祐巳へのベッタリ度と祥子の祐巳への溺愛度を考えれば
祐巳を取り合って日夜喧騒が起こっても何らおかしくはない筈だ。むしろその姿の方が普通だと言える。
なのに、祥子と志摩子の関係はどうだ。お互いにお互いを認め合い、祐巳を取り合う姿なんて一度も見たことがない。
答えの出せない静に、祥子は時間切れとばかりに口を開いた。

「簡単な答えよ。私と志摩子では祐巳に対して見えているモノが違うから。
 そして祐巳に与えられるモノが違うと分かっているから、私も志摩子も互いを受け入れているのよ」

「見えているモノと与えられるモノ?」

「・・・例えばの話よ。今回で言えば、きっと祐巳の不安定さは志摩子には見えない。
 だけど、祐巳の心の不安定を癒してあげられるのは志摩子なの。祐巳に安心を与えられるのは志摩子だけ。
 志摩子には祐巳の不安定は分からないし、私には祐巳の心を癒してあげられない」

「・・・分からないわね。どうしてそんなことが分かるの?」

「分かるのよ。祐巳の事が大好きだから、私は祐巳の姉だから分かるのよ。
 大切な妹の事だからこそ、祐巳にとって私が何をするのが一番なのか自然と分かってしまうのよ」

毅然と言い放つ祥子に、静は成る程とばかりに微笑んだ。
絶対的な自信に満ち溢れ、自分の答えを疑うことも無い。
普段の姉馬鹿な姿からは想像だに出来ないが、彼女こそが小笠原祥子。
あの福沢祐巳の姉たりえる、彼女の本当の姿なのだろうと。

「・・・何笑ってるのよ、気持ち悪いわね」

「気にしないで頂戴、嬉しさが抑えられないだけだから。
 貴女がどうして福沢祐巳の姉たりえるのか、ようやく分かった気がするわ。
 確かにあの娘の姉は貴女以外考えられないわね」

「逆よ。私の妹があの娘以外考えられないのよ。
 ・・・それに、偉そうな事を言っているけど、ここまで辿り着くのに色々あったのよ」

「色々というと?」

「色々は色々よ。・・・そうね、静の言う通りだったわ。
 祐巳が妹になったばかりの頃はそれこそ毎日のように志摩子と祐巳の取り合いをしてたのよ。
 お互いがお互いを嫉妬して・・・そのことをお姉様達に笑われて、本当に馬鹿みたいだったわ」

「ふふっ、恥ずべきことではないわ。
 むしろ今の貴女の姿を知れば、それこそ誇るべき傷痕だと思うけれど」

「人の恥話を勝手に勲章にしないで頂戴」

顔を真っ赤にしてツンケンと言い放つ祥子に、静はまた一つ大きな笑みを浮かべる。
目の前で照れている友人の新たな一面を知ることが出来たことに対しての喜びの意味も込めて。

「・・・本当、随分と変わったわ」

「それは貴女自身のこと?」

「それもあるけど、ね・・・一番変わったのは私ではなく、きっと祐巳自身よ。
 あの娘は私が出会った時からは考えられないくらい優しい娘になったわ。本当に変わったのよ。
 以前まではあの娘の優しさには必ず己の損得勘定や欲望がついて回った。でも、今のあの娘にはそれが無い。
 志摩子に対してのみ見せていたあの娘の優しさを、誰に対しても見せられるようになった。今回の一年生が良い例よ。
 以前の祐巳なら、一度あっただけの一年生なんてきっと適当に遊んで捨てた筈よ。それくらいはする娘だったもの。
 ・・・ただ、その変化に祐巳はもしかしたら戸惑っているのかもしれないわ。気付いてさえいないのかもしれない。
 あの娘、ああ見えてそういう自分自身に関して鈍い所があるから」

「ふふっ、貴女の口から祐巳ちゃんのことを聞くとまるで別人のように聞こえるわ」

「茶化さないで。真面目に言っているんだから。
 どんなに考えが大人びて、完璧に見えても、結局あの娘はまだ高校二年生の女の子なのよ。
 人の成長は止められない。出会った頃のように泰然自若を飾るのはもう今の祐巳には出来ない筈だわ。
 そう、あの娘はもう他人に対して冷然でいることなんて出来ない。きっとあの娘は他人を簡単に切り捨てられない。
 そのことに祐巳は気付いていないみたいだけど・・・ね」

そう告げる祥子の表情を、静はこの先忘れることはないかもしれない。
まさか自分と同じ歳の少女から、母親というものが感じられるとは思ってもいなかったのだから。

















 ・・・

















昇降口で下履きに履き替え、由乃と別れて志摩子は一人中庭を歩いていた。無論、祐巳を探す為だ。
祐巳の下駄箱には靴が無かった為、帰った可能性もあるのだが、志摩子はそうは思わなかった。
他ならぬ祥子が『祐巳に会いにいけ』と言ったのだ。ならば、この学園に残っている可能性は高い。
口に履き替えて祐巳が向かう場所、それは志摩子の中でいくつか思い当たる場所があった。
その場所を虱潰しに探していけば、いずれ見つかるだろうと考えて最初に中庭に訪れてみたのだが、
探し物はどうやら存外簡単に見つかったようだ。ベンチに寝転んでいる少女を見つけ、志摩子は傍へと歩いていく。

「祐巳さん、探したわ」

「・・・志摩子さん?どうして」

志摩子の姿に気付き、祐巳はむくりと身体をベンチから起き上がらせる。
そして志摩子はその隣に座り、微笑んで祐巳に告げる。

「祥子様に言われたの。帰る前に祐巳さんの所へ行きなさいって」

「・・・そっか。お姉様にはバレバレかあ。
 あはは、やっぱりお姉様と志摩子さんには敵わないや」

祐巳の微笑みに、志摩子は酷く違和感を覚えた。
そして、すぐにその違和感が何なのか感じ取った。祐巳さんは無理して笑っている、と。

「・・・祐巳さん、何かあったの?」

「・・・やだな。志摩子さんまで同じこと言うんだ。
 もう分からなくなってきちゃったよ。志摩子さんがあの娘に似ているのか、あの娘が志摩子さんに似ているのか・・・」

ポツリと零す祐巳に、志摩子はただ何も話さずにじっと待っていた。
無理に聞き出すことはしない。何があったのか、それは祐巳が自分から話してくれるのを待つだけ。

「・・・今日ね、下級生の女の子に言われたんだ。
 『どんな祐巳さんでも、私は絶対に逃げたりしない。離れたりしない。私は祐巳さんを受け入れるから』って」

「それは・・・」

それは以前、自分が祐巳に告げた台詞と全く同じで。
自分の居場所になってくれた祐巳が、初めて自分に晒してくれた全て。その時、自分が彼女に言った言葉。
もうどれくらい前になるだろう。だけど、その光景はしっかりと覚えている。
あのどこまでも強いと思っていた少女が、初めてポロポロと自分の前で涙を流して子供のように泣いたあの日のことを。

「・・・どうしちゃったのかな、私。
 以前はこんな風じゃなかった。こんな風に簡単に心を乱されることもなかった。
 その娘の事だって、以前の私だったら無理矢理モノにした筈なのに・・・
 相手の気持ちなんかどうでも良かった筈なのに・・・自分を受け入れようが受け入れまいが、どうでも良かった筈なのに・・・」

志摩子は何も言わずに、そっと祐巳を優しく抱きしめた。
分かってしまったから。祐巳の身体が小さく震えていることに。それはまるで、見えない何かに恐怖しているようで。
何に怯えているかは志摩子には分からない。だけど、今はこうしてあげることが一番だと思った。

「志摩子さん・・・」

「・・・私には祐巳さんが何を怖がっているのかは分からないわ。
 だけど、そんな風に一人で抱え込もうとしないで。私は何があっても祐巳さんの傍にいるから」

志摩子の言葉に、祐巳は志摩子を強く抱きしめた。
それはまるで迷子の子供が親を見つけたように。その温もりを失わないように、強く。

「志摩子さんは・・・何処にも行かないよね。
 ずっと私の傍にいてくれるよね・・・何処かに消えたりなんかしないよね」

「勿論よ。私はずっと祐巳さんの傍にいるわ。
 祐巳さんが望む限り、いつまでも祐巳さんの傍にいるから」

何が彼女をここまで責め立てるのかは分からない。彼女が何に怯えているのかは分からない。
けれど、自分が出来ることはこうやって祐巳さんを包み込んであげることだけ。彼女の震えが止まるまで、こうやって。
祐巳を撫でながら、志摩子は先ほどの祐巳の言葉を思い出す。

『・・・今日ね、下級生の女の子に言われたんだ。
 『どんな祐巳さんでも、私は絶対に逃げたりしない。離れたりしない。私は祐巳さんを受け入れるから』って』

そのような言葉を告げられる少女に、志摩子は心当たりがあった。
自分と似ている少女。彼女は本当に自分に似ていた。この学園に居場所を探している点も、物事の感じ方も。
その少女は言っていた。会いたい人がいると。そして、この祐巳の反応。

「一年生・・・もしかして」

志摩子は小さくその一年生の名前を呟いた。その声は余りに小さくて、祐巳には届かなかった。
乃梨子・・・その呟きは誰の耳に入ることも無く闇夜に溶けていった。誰にも聞こえることなく、静かに。












戻る

inserted by FC2 system