9.大好きな人と大好きな人










休み時間、お手水から教室に戻ってきた由乃が見たのは志摩子の姿だった。
昼休みならともかく、通常の休み時間に彼女がこの教室にいるのは珍しい。
祐巳と何か話していたらしいが、用は済んだようで祐巳に挨拶をして教室から去っていった。
丁度入れ違いのように志摩子は教室の前の扉から出、由乃は後ろの扉から入ってきた為、
志摩子は最後まで由乃の事には気がつかなかったようだが。

『志摩子さん、何の用だったの?』

先ほどまで志摩子が会話していた相手、祐巳の方へそのように尋ねかけようとして由乃は大きな溜息をついた。
昼休みでもないのに目の前の少女は何故か弁当を開き、思いっきり食事タイムを楽しんでいたからだ。

「・・・祐巳さん、一応言っておくけれど、まだ昼休みにはなっていないわよ」

「ふぇ?ほんはほひっへるよ」

口におにぎりを詰めながら、祐巳は幸せそうな表情を浮かべて由乃に言葉を返した。
こんな幸せそうな表情をされては何も言えない。由乃はもう一度大きな溜息をついて祐巳の前の席に腰を下ろした。

「紅薔薇の蕾が早弁ねえ・・・この姿、一年生達がみたら絶対に泣くわよ」

「んぐっ・・・ああ、やっぱり志摩子さんの卵焼きは絶品だよねえ。これだけはどうやっても勝てないや。
 由乃さん、私は改めてここに誓うよ。私、絶対志摩子さんをお嫁に貰うからね」

「はいはい、お嫁にでもお婿にでも貰って頂戴。結婚式にはちゃんと友人代表でスピーチしてあげるから。
 ・・・で、さっきの志摩子さんの用事は祐巳さんに早弁を届ける為だった訳?」

呆れたような視線を向ける由乃に、祐巳は違う違うと笑って否定する。
ただ、モノを食べながら会話をするのはいかがなものか。そんな風にふと思った由乃だが、
祐巳に話を始めたのは自分だったので、何も言わないことにした。

「志摩子さん、今日の昼休みに用事があるから私達と昼食取れないって。
 それを伝えに来たついでに、私とお弁当も先に交換しておこうって」

祐巳の言葉に由乃は納得の表情を浮かべる。
祐巳と志摩子は弁当を毎日のように交換している。そして祐巳の気分次第ではそのシャッフルに由乃が加わるのだ。

「ああ、成る程ね。つまりそれは志摩子さんから貰った今日の昼食な訳ね。
 ・・・って、もう既にかなりの量が減っているんだけど。祐巳さん、お昼の分を残しておかなくても大丈夫なの?」

由乃の指摘通り、祐巳の持っている弁当箱の中身はかなり量が減っていた。
言われて初めて気付いたのか、祐巳は一瞬『しまった』というような表情を浮かべたものの、
すぐに由乃の方を見てこれ以上ないくらいの微笑を浮かべた。

「えへへっ、私、将来由乃さんをお嫁に貰うことも夢なんだよね。由乃さんの手料理食べたいなあ」

「あら、多重婚約は日本では許されていない筈だけど。
 というか、そもそも女同士では結婚なんて許されていないしね」

「大丈夫。愛があればどんな壁も乗り越えられるんだよ?」

「・・・ったく、本当に調子良いんだから。おかずを少し分けてあげるだけだからね」

はーい、と嬉しそうに返事する祐巳に、仕方がないとばかりに由乃は苦笑した。
だが、彼女には分かっていた。本当に仕方がないのは、他ならぬ自分自身だと。
――全くもう、どうして私は祐巳さんにこんなにも甘いのだろう。
祐巳と知り合って、何度目となるか数えるのも億劫になった彼女の溜息がまた一つ、この教室に生まれていた。

















 ・・・















「そろそろかもしれませんわね」

昼休み。目の前の席に座っている友人――松平瞳子の呟きに、乃梨子は弁当の包みにかけた手を止める。
弁当の包み袋を開こうとした姿勢のままで、乃梨子は視線で『何が?』と瞳子に尋ねかける。
その視線に気付いた瞳子は、少し呆れたように言葉を続ける。

「そんなの決まっていますわ。貴女が山百合会の方々に呼び出されることが、ですわ」

「へ?・・・えっと、何で?」

乃梨子の言葉に、瞳子は思わず大きく溜息をついた。
やっぱりこの娘、何も分かっていない。言葉に出さずとも、乃梨子はそんな風に言われているような気がした。

「貴女が今現在、親しくしていらっしゃる上級生はどなたか忘れましたの?」

「私が親しくしてる上級生・・・ああ、祐巳さんのこと」

「そう、福沢祐巳様。そしてその福沢祐巳様の立場をお忘れになった訳ではないでしょう?」

紅薔薇の蕾――そこに思い至って、乃梨子はようやく答えに辿り着いた。
そうだった。あの人はこの学園の女の子達の憧れの存在だったのだ。
出会った時ならまだしも、今の祐巳の飄々とした姿から、乃梨子はそのことを少し失念していたらしい。

「確かに祐巳さんは生徒会・・・じゃない、山百合会の一員だよね。
 でもそれと私の呼び出されるのとどういう関係が?私、別に山百合会に呼び出されるようなことは何も・・・」

「別に貴女がいけないことをしたから呼び出されると言っているのではありませんわ。
 将来、同じ山百合会で仕事をする人間を見てみたいと思うのは当然の事でしょう?
 きっと山百合会の皆様はそう思っていらっしゃると思うのだけれど」

「・・・ごめん。私、瞳子さんの言ってることが全然分からない。
 その口ぶりだとまるで私が将来山百合会に入るみたいな言い方じゃない。
 私、生徒会・・・じゃなくて山百合会に立候補するつもりなんて全然無いんだけど・・・」

乃梨子の言葉に、瞳子がやっぱりとばかりに溜息をついた。
少し大袈裟なまでの身振りに乃梨子はムッとしたものの、何も言わなかった。話を聞く為だ。

「乃梨子さん、貴女もしかして山百合会に入るには生徒投票だとでも思っているのではないかしら?」

「違うの?私の中学・・・というか、大体のところではそうだと思うけれど」

「それだけでは半分正解・・・と言ったところですわね。生徒投票をするのはあくまで薔薇様達だけのこと。
 貴女の言う生徒会長に当たる三人以外のメンバーはあくまでその三人の妹達ですのよ」

まあ今年は例外がありますけど、と瞳子は付け足した。
乃梨子は全く理解していないが、それが白薔薇のことだというのは学園中の生徒が知っていることである。

「えっと、つまりこの学園では生徒会役員は選挙や自薦で選ぶ訳ではなく、生徒会長の意思で決めるってこと?」

「そういうことですわ。まあ・・・今年はさて置き、例年はまず間違いなくその方の妹達がその任についてますの。
 どうせ一緒に仕事をするなら気心の知れた人間、つまり妹を選ぶに決まっているでしょう?」

「・・・あのさ、前から聞きたかったことがあるんだけど。
 そのさっきから言ってる妹って何?この学園でよく聞くけど、そんなにこの学園の人には姉妹が多いの?」

「・・・呆れた。スールのシステムも知らない生徒がリリアン高等部にいるなんて普通誰も思いませんわよ?」

瞳子の言葉に乃梨子は『悪かったわね』とツンケンに返す。
知らないものは知らないのだから仕方が無いではないか。そもそも少し前までこの学園に少しも興味を持てなかったのだ。
祐巳さんや志摩子さんに会えただけ、今の自分はマシなほうだ。そんな風に乃梨子は考えていた。

「では説明しますわ。そもそもスールというシステムは・・・」

瞳子の説明を乃梨子はしっかりと聞いていた。
始めは瞳子のことを何かとお節介で説明好きで鬱陶しい女の子と思っていた乃梨子であったが、
こうやって親しくなってみればそれらが全て長所にひっくり返る。
何も知らない乃梨子にとって瞳子がこうやって色々と説明してくれるのは本当に助かることだった。
瞳子の説明を一通り聞いて、乃梨子は納得いったような表情を浮かべる。

「なるほどねえ・・・それで、私とその姉妹システムが何の関係があるの?」

「はあ・・・もう埒が明きませんから率直に言いますわよ。
 近い将来、乃梨子さんが祐巳様の妹になって山百合会に入るであろう。
 貴女以外はみんなそう思ってますのよ。少なからずこのクラスの人達はみんな、ね」

「ああ、そういうことか・・・って、はああ!?何でそうnむぐう!!?」

驚きのあまり、思いっきり声を上げる乃梨子に瞳子は慌てて口元を押さえつける。
何事かと二人のもとにクラス中の目が集ったものの、それを瞳子は優雅に微笑んで何でもないとアピールする。
友人の機転に感謝しつつも、乃梨子は未だ納得がいかないとばかりの視線を瞳子に投げつける。

「別に私は貴女に山百合会に入れとも祐巳様の妹になれとも言っているつもりはありませんわ。
 そもそも貴女と祐巳様が姉妹になろうがなるまいが私はどうでもいいと思ってますもの。
 ただ、可能性を示唆してるだけですわよ。もし私が山百合会の一員なら、祐巳様と噂になってる貴女を
 このまま放っておくつもりはありませんし。どんな娘か興味を持たない筈がありませんものね」

「・・・つまり、近いうちに山百合会の方から接触があると?」

「もしくは祐巳様が直接貴女を薔薇の館に連れて行くか、でしょうね。
 そうですわね・・・祥子お姉様の性格からして、恐らくマリア祭明けには動くと思いますわよ」

「へえ・・・前から思ってたんだけど、瞳子さんって山百合会に本当に詳しいよね」

「それはそうですわ。山百合会といえば私達リリアンの生徒なら誰もが憧れるモノですから。
 それこそ入学したときは山百合会の方々は私達とは違う世界の住人なのではと思ったこともある程ですわ。
 ・・・ただ、最近は何処かの誰か様のおかげで少しもそうは思えなくなってしまいましたけど」

忌々しいとばかりに吐き捨てる瞳子を見て、乃梨子は苦笑する。
どうやらその相手は自分が慕っている大好きな先輩の事を示していると理解しているからだ。
まあ確かにそうかもしれないと乃梨子は少しばかり同意する。祐巳さんは確かに異世界の人かと思う時が多々ある。

「ともかくっ!もし貴女のところに山百合会の方が来ても驚く必要は無いということですわ。
 私の言いたかったことはそれだけですのよ」

「ん〜・・・よく分からないけど、分かった。誰が来ても驚かないよう努力するよ。
 まあ・・・別に私は山百合会に入りたくて祐巳さんと仲良くなった訳じゃないし」

「当たり前ですわ。山百合会に入る為だけにあの方と付き合っていこうなんて考える人は一度病院に行くべきよ」

きっついなあと笑う乃梨子だが、ふと教室の外が騒がしいことに気付いた。
廊下から聞こえてくる嬌声に瞳子と顔を見合わせ、何事かと思案する。
だが、その疑問はすぐに解凍される事になる。一人のクラスメイトが教室に入り、乃梨子の傍まで歩いてきた。

「の、乃梨子さん・・・えっと、山百合会の方がいらしてまして」

「・・・山百合会?え?本当に?っていうか、さっきの今で?」

「・・・瓢箪から駒というか。案外早かったですわね」

首を傾げる乃梨子に、瞳子はいってらっしゃいなとばかりに背を押した。
知らない先輩と会話するのは腰が引ける。ましてや相手が学園の有名人ならば。
そんな祐巳の教室に乗り込んだ時からは考えられないような思考で、乃梨子は教室の外へと向かった。
だが、彼女の心配は簡単に杞憂に終わることになる。廊下で待っていた人物は乃梨子の知っている人物だったからだ。

「ごきげんよう、乃梨子」

「・・・し、志摩子さん?」

そこに立っていたのは、彼女の良く知っている人物――白薔薇の蕾、藤堂志摩子その人だったからだ。
さきほど、彼女の誰が来ても驚かないという誓いはものの数分で破られることになってしまった。
















 ・・・















彼女、藤堂志摩子に連れられて乃梨子が訪れた場所は桜の木の下。
あの日、乃梨子が初めて祐巳と、そして志摩子と出会ったあの染井吉野の下だった。

「ごめんなさいね。約束もしていなかったのに急に呼び出したりして」

「え、あ!いえ!全然そんなことないよ!
 その・・・私も志摩子さんに色々と言わなきゃならないことがあったのに浮かれて忘れてて・・・」

「言わなければならないこと?」

乃梨子の言葉に首を傾げる志摩子。
そうだ。自分はまだ彼女に言っていなかった。どうして忘れていたのか。
乃梨子は理解出来ていないといった表情を浮かべる志摩子に力強く頭を下げた。

「志摩子さん、本当にありがとう。
 志摩子さんが背中を押してくれたから・・・志摩子さんのおかげで、私は変わることが出来た。
 だから、本当にありがとう」

乃梨子の言葉の意味がようやく分かったのか、志摩子は嬉しそうに微笑を浮かべた。
それはまるで我が子が初めて歩くのを成功したのを見届けた母親のように。

「乃梨子の好きな人にちゃんと想いが通じたのね。おめでとう、乃梨子。
 あの後どうなったのか気になっていたのよ。本当に、良かった」

「え、あ、あう・・・ありがとう」

乃梨子は思わず顔を真っ赤にする。
祝福されるのは嬉しいことだが、流石に面と向かって言われると照れてしまう。
そうだ。自分は手に入れたのだ。大好きな人を。自分の居場所を、この学園で。

「これから先、何があっても絶対にその人の手を離しちゃ駄目よ。
 きっとその人は、貴女にとって掛け替えのない人になる筈だから」

「えっと・・・うん」

乃梨子の話を聞いて、それこそ我が事のように喜んでいる志摩子。
彼女の反応にはにかむ乃梨子だが、ふと志摩子の様子が少しだけおかしいことに気付いた。
確かに志摩子は微笑んでいる。だが、その微笑に少しだけ何故か違和感を感じずにはいられないのだ。
――そう。それはまるで昨日の祐巳に対して乃梨子が感じたような違和感だった。何かを無理して抑えているような、そんな。

「・・・志摩子さん?」

乃梨子の呼びかけにも、志摩子は返事を返さなかった。
乃梨子には分からなかったが、志摩子は悩んでいた。当初の目的を果たすべきか、否か。
当然、自分の予想が外れている可能性もある。彼女の好きになった人は、あの人ではないのかもしれない。
第一、乃梨子の好きな人があの人だったからといって、自分は何をするつもりなのだろうか。

昨日、志摩子の胸の中で泣いていた少女。涙こそ流していなかったものの、彼女はきっと泣いていた。
その理由が分からない。だからこそ、自分は乃梨子を呼び出したのだろう。行動したのだろう。
だが、そこからが続かない。自分は一体何がしたかったのか。この少女に理由があるとでも思ったのだろうか。
――否。きっとこの少女は関係ない。あの人の心の傷は、もっと別の何かにある筈だ。
だって、こんなにも真っ直ぐにあの人を――祐巳さんを想ってくれる少女が祐巳さんを傷つける訳がないのだから。
この少女はあくまで祐巳さんの心を動かしただけ。あの焦燥しきった祐巳さんの理由は他にある。きっと他の何かが。
考えがまとまったのか、志摩子は苦笑を浮かべ、乃梨子の頭に手をおいてそっと優しく撫でる。

「志摩子さん?」

「・・・ごめんなさいね。私、ちょっと戸惑ってたみたい。
 貴女が傷つけたりする訳ないのに・・・悪い癖ね。あの人のことになると、すぐに周りが見えなくなるの。
 最近は大分改善されてきたと自分では思っていたのだけれど・・・まだまだみたい」

優しく微笑む志摩子に、乃梨子は見惚れそうになる。
祐巳とは違う魅力、それを乃梨子は志摩子に感じていた。
そして思うのだ。祐巳さんより先に志摩子さんに出会っていたら、本当に今とは変わっていたのかもしれないなと。

「それじゃ、教室に戻りましょうか。
 私の都合で乃梨子を振り回して、昼食が食べられなかったなんてことになったら大変だものね」

「え・・・あ、あれ?志摩子さん、えっと・・・何か私に用事があったんじゃ」

桜の木の下から歩き出そうとした志摩子に、乃梨子は不思議そうな表情を浮かべて口にする。
乃梨子の言葉に、志摩子は『そうね』と少し考えるような仕草を見せた後で尋ねかけた。

「乃梨子の好きな人の名前、教えて貰ってもいいかしら?・・・そうね、それが私が聞きたかったことなの」

「え・・・」

志摩子の言葉に乃梨子は驚きを浮かべる。そういえば、まだ志摩子さんに言っていなかった。
一瞬、乃梨子は躊躇ったものの少し観念したように口を開いた。
あの人が志摩子さんの友達だということは知っているし、何より同じ山百合会の一員だ。
自分が言わなくても知られるのは時間の問題だろうし、何より志摩子さんには隠し事なんかしたくなかった。
他の人ならまだしも、この人にだけは。自分の背中を押してくれた、志摩子さんにだけは。

「・・・祐巳さん。志摩子さんの友人で、紅薔薇の蕾を務めている、福沢祐巳さん。
 それが私の大好きな人の名前だよ・・・私の居場所になってくれると、好きだと言ってくれた人」

顔を真っ赤にしながら告げた乃梨子の言葉に、志摩子は困ったような微笑を浮かべたままで何も言わなかった。
それはまるで、全てを見通していたかのような、とても優しい微笑だった。















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