とある親子の物語










紅魔館。幻想卿に住むものならば、知らぬものはいない程に有名な悪魔の棲む家である。
その館の主で人々からはスカーレットデビルと恐れられる吸血鬼、レミリア・スカーレット。
彼女の容貌は幾多幾重に人々の間で語り継がれているが、実際に見たことのある人間に私は会ったことがない。
何故なら、彼女に会うためには紅魔館の門を潜り抜け、彼女に謁見をしなければならないからだ。
この『紅魔館の門を潜り抜ける』ということ、それがどれだけ難しいかを知りたければ、
一度三途の川を渡って地獄に行く方が手っ取り早いかもしれない。
そこにいる、愚かにも紅魔館に襲撃をかけた妖怪達の亡霊に話を聞けば、その理由は教えてくれるだろう。

曰く、紅魔館は恐ろしい番犬を門番に飼っている。
曰く、紅魔館に近づいてはならぬ。吸血鬼の門前を守護する紅髪鬼に出会わぬ為にも。

そう。悪魔の棲む館、紅魔館の門を潜り抜ける為には、その館を守護する門番を倒さねばならぬ。
だが、その門番の鬼神の如き強さに愚者共は震え上がる。
己を知らぬ愚か者共は、命を散らせて初めて己の弱さを知ることになる。
否、彼等が弱かったのではない。彼等とて紅魔館の主、レミリア・スカーレットを屠ろうと考える程の強者。
腕にはそれ相応の自負が在り、それに見合うだけの力があったのだろう。
だが。それでもなお、紅の悪魔はおろか、紅の番犬を相手にするにも力が足りぬ。それは決して恥ずべきことではない。
ただ、住む世界が違い過ぎたのだ。巨象と蟻の強さを比べる人間など何処にもいないように。
彼等が命を屠らんと目指した紅の悪魔、レミリア・スカーレットを護るケルベロス。
かつて大陸中で人々に恐れられ、中国史の暗部とまで言われた恐怖と狂気を司る紅髪鬼。
それが彼等の命を奪った門番――紅美鈴なのだから。












「…それが今ではこの有様なのね」

「はにゅ〜…」

魔理沙のマスタースパークに吹っ飛ばされ、思いっきり頭から門壁にぶつかって目を回して気絶している美鈴を見て、
咲夜は大きく溜息をついた。きっと、あの書物を書いた歴史家は今頃泣いているに違いないと思う。


「ほら、美鈴。早く起きなさい」

咲夜はべしべしと頬を叩いて美鈴を起こす。
以前はナイフを投げて気付(常人なら即死なのだが)をしていたのだが、今はもうそんな気力すら残っていない。

「う〜ん…あ、あれ…咲夜さん?」

「おはよう美鈴。よく眠れたかしら?」

「え、えっと…あはは」

皮肉を言う咲夜に、美鈴は返す言葉がないとばかりに笑って誤魔化すしかなかった。
結局、今日も彼女は魔理沙に負けてしまい、門番としての役割を全うすることが出来なかったのだ。

「紅髪鬼、ねえ…あの本、置いておくだけ無駄だから廃棄するようにパチュリー様に進言しようかしら」

「?何のことですか?」

「何でもないわよ。それより大丈夫なの?頭を思いっきりぶつけたようだけど」

「ええまあ、身体が丈夫なことだけが取り柄ですから」

「本当、それだけよね貴女」

「ううう…お嬢様、最近咲夜さんが私に冷たいですよう・・・」

「冷たくされなかったら仕事を全うしなさい。ったく…本当にしっかりしてよ、母さん」

呆れながら仕事に戻る咲夜の耳に、背後から美鈴の『咲夜、ごめんねえ』と情けない声が聞こえてきた。
その言葉に、咲夜は再び大きな溜息をついた。どうせまた明日も、きっと彼女は同じ台詞を繰り返すのだろうな、と。


























十六夜咲夜。彼女は人間でありながら物心ついた頃から紅魔館に住んでいた。
親に捨てられ、森の中に放置されていた赤子であった彼女はこの館の主、レミリア・スカーレットに拾われた。
そして、その時から咲夜の親代わりとして彼女を育ててきたのが当時から門番長を務めていた紅美鈴なのである。
まだ生きることのイロハも知らぬ咲夜を、美鈴は我が娘のように大切に育てた。
時に優しく、時に優しく、時に優しく。優しくしかしてないような気もするが、締める時はしっかり締めて、
己の持てる愛情を全て出し惜しむことなく咲夜を可愛がった。
そんな美鈴の愛情に、咲夜は予想を遥かに超える程に応えてみせた。
元々才能があった上に、彼女は努力を惜しむということをしなかった。美鈴の愛情と、弛まぬ努力を持って、
今では彼女は人間の身でありながら、紅魔館のメイド長という地位まで上り詰めたのだから。
メイド長となり、美鈴の上司となっても彼女と美鈴の関係は変わらない。
仕事の上でこそ上司と部下の関係だが、プライベートになると以前と同じ親子の関係で。
そんな美鈴の娘として、咲夜は今、ある一つの現状を憂いでいた。

「どうしたのよ咲夜。そんな疲れたような表情をして」

「え…あ、もっ、申し訳ありません」

「珍しいわね、咲夜がそんな表情を表に出すなんて。明日は槍でも降ってくるのかしら。
 でも、表情を表に出すって言い方も変な話ね。裏情を表に出すとでも表現した方がいいのかしら」

「パチェ、話がずれてるわ。
 咲夜、何かあるのなら話してみなさい。部下の精神面をケアするのも立派な主の務めだわ」

とある昼下がりの時間。
お茶の時間を楽しんでいたレミリアとパチュリーに給仕をしていた咲夜に、レミリアは問いかける。
咲夜は話すべきかどうか悩んでいたものの、レミリア相手に隠し事をしたところで自白を強要されるのは目に見えている。
ならば機嫌を損ねることなく、自分から話した方がいいだろうと考え、口を開いた。

「美鈴…門番長、紅美鈴のことについてなのですが」

「あら、私達の前では美鈴なんて他人行儀な言い方をせずに『お母さん』と呼んでいいのよ?
 美鈴を貴女の教育係につけたのは他ならぬ私だもの。貴女達の関係なんてそれこそ一から十まで知っているわ」

「懐かしい話ね。そういえばまだ咲夜が小さい頃、美鈴は常に咲夜の手をつないで門番をしてたわね。
 子供連れの門番なんて今考えると面白い光景よね。何で妖怪を追い払う傍らで子供をあやしているのかって」

「そうそう、私を倒しにきた愚かな妖怪を美鈴が殴り飛ばした時に、咲夜は泣いてたのよね。
 『どうしてお母さんはあの人を怒るの?』って。それに困り果てた美鈴のあの今にも泣きそうな顔といったらもう」

「ゴホン!!門番長、紅美鈴のことについてなのですが!!」

咲夜の過去話を肴に盛り上がる二人に、咲夜は声を大きくして二人を押し黙らせる。
心の中で、咲夜は己の迂闊さに呆れた。二人に美鈴のことを話せば、こうなることは分かっていたことだったのに、と。
咲夜がここまで成長した過程を、この二人は美鈴と同じように暖かく見守ってきたのだ。
いわば、咲夜はこの二人にとっても娘のような存在であった。だからこそ、咲夜の過去話をするのが楽しくて仕方が無いのだ。
無論、その話題にされている本人からしてみれば堪ったものではない。
いくら完全で瀟洒な従者を振舞っていても、己の恥ずかしい過去話をされては体裁も何もあったものではないのだから。

「分かった、分かったからそんなに睨まないで頂戴。可愛い顔が台無しよ。
 それで、門番長の美鈴がどうかしたの?」

「はい。彼女の上司として意見を述べさせて頂きます。
 最近の彼女の門番としての働きは、正直とても褒められたものではありません」

咲夜の言葉に、レミリアとパチュリーは紅茶を口に運ぼうとする手を止め、互いに視線を交錯させた。
そして、レミリアは軽く息をついて口に運ぼうとしたカップをソーサーへと置き、視線を咲夜へと移した。

「確かに、最近…というより、魔理沙がウチに来るようになってからは
 正直褒められた戦果は上げられていないみたいね」

「最もウチに乗り込もうなんて考えて本気で実行するヤツなんて
 魔理沙以外はもう幻想郷にはいないでしょうけど。…それで?」

「いえ…だからどうだ、というつもりはありません。
 ですが、果たしてこのままで良いものかと」

言葉を濁す咲夜に、レミリアとパチュリーは再び顔を見合わせる。
咲夜らしからぬ台詞に、少し驚いたからだ。こういう場合、彼女はこんな風に考える間もなく
ナイフの一つや二つを美鈴に投げて罰を与えて終わりにする筈なのに、と。

「別に侵入を許しているのは魔理沙だけなのでしょう?
 紅魔館に被害が出ている訳でもなし、別段問題はないと思うのだけど」

「あら酷いわね。レミィは私の図書館の本が日々無くなっていくことが被害では無いと言い切るのね」

「いいじゃない。魔理沙は自分が死んだら回収していいって言ってるんでしょう」

「馬鹿ね。どうせ数年後には魔法使いになって歳を取らないようになるわよ魔理沙は。
 無期限レンタルに付き合うほど私は寛容ではいられないのよ」

それは違いないと笑うレミリアに、咲夜はこれ以上この話題を続けるのは無理だと感じて口を挟まなかった。
そして、新しい菓子を取りに咲夜が部屋の奥へと消えたところで、
レミリアとパチュリーは笑いあい、ひそひそと小声で話を始める。

「…どう思う、パチェ。咲夜にしては珍しい言葉だったわよ。
 愚痴を零すだけで解決案を呈する訳でも無し。どうしたのかしら」

「愚問ね。咲夜はきっと悔しいのよ。
 母親代わりである美鈴がいつもいつも魔理沙に負けてあんな風に格好悪い姿を晒すことが、ね。
 美鈴は咲夜にとって親であると同時に全てを教えてくれた師でもあるのよ。それが今や毎日毎日あの状態だし。
 自分の尊敬するモノが度々傷つけられているような、そんな感覚なんじゃないかしらね」

「ふふっ、世間では完全で瀟洒で悪魔の狗、なんて言われてもそういうところはまだまだね。
 でもそんなところが可愛いのだけれど。ああもう、美鈴に任せないでやっぱり私が自分で咲夜を育てるんだったわ」

「馬鹿言わないで。子供をあやす夜の王なんて聞いたことが無いわ。
 大体貴女が咲夜の手を引いて歩いてもどっちが子供だか他の人には分からないでしょう」

「…パチェって私に対して時々本当に容赦がないわよね」

「馬鹿ね、親友だと思ってるからこそよ」

友人の言葉に、レミリアは納得のいかないといった表情を浮かべながらカップに口付ける。
そんなレミリアを横目で見ながら、パチュリーは『でも』と前置きして言葉を続ける。

「私は今の美鈴のままでいてほしいわね。
 咲夜は知らなくて当然なのだけど、以前の美鈴相手だと息が詰まってしょうがないもの」

「パチェ、それは単に以前の美鈴に対して恐怖を覚えていただけでしょう」

パチュリーの言葉に、レミリアは苦笑しながら言葉を返した。
それを聞いて、パチュリーは『そうかもしれないわね』と笑って言葉を濁すだけだった。

























心の中に靄を抱えたまま、咲夜は美鈴の様子を見に門の方へと足を運ぶ。
本来なら彼女の仕事内に門前の見回りなど入ってはいないのだが、彼女がその行動を毎日欠かすことはない。
その理由は簡単なモノで、美鈴から目を離したくなかったからだ。
そう言うと親子愛のようなものが感じられ、聞こえはいいのだが実際の意味は多少異なる。
そういう側面も無くはないのだが、何より美鈴から少しでも気を緩めて目を離すと

「…こうなるのよね」

門を前にして、咲夜は大きく溜息をついた。
門前では美鈴が、チルノと大妖精、リグルを相手に雑談に興じていた。
今は雑談ではあるが、地面に書かれた文字から見るに、どうやら三人(主にチルノ。というかチルノ)に読み書きを
教えていたらしい。これもいつもの光景で、この光景を見ては咲夜は門番とは何かを考え直したくなるのだった。
そんな咲夜の存在に真っ先に気付いたのは、美鈴率いる門番隊の副長で、
彼女は咲夜の方へと歩み寄っていく。

「こんにちは、メイド長。本日も門番長を陰からストーキングですか?
 隊長ならあの通り…まあ、頑張ってお勤めに励んでますが」

「…あのね、物凄く嫌な言い方は止めて頂戴。というかいつからアレは美鈴の仕事の一部になったのよ。
 貴女も副長なら美鈴を止めなさいよ。むしろ殴ってでも止めなさいよ」

「う〜ん…いくらメイド長の頼みとはいえ、それはちょっと」

あはは、と苦笑する副長に咲夜はただただ呆れたようにじと目を送るだけだった。
彼女、副門番長は咲夜が小さい頃から美鈴の副長を務めており、彼女とは長い付き合いの為、
副長がこのような返事をすることくらい咲夜は痛いほど分かっていたからだ。

「いつもいつも貴女は美鈴に甘過ぎるのよ。こんなだから魔理沙にいつも門を突破されるんじゃないの?」

「まあまあ、そんなに怒らないで。怒ると折角の可愛い顔が台無しですよ。
 それより飴いりません?メイド長の大好きなオレンジ味ですよ」

「…貴女ね、私を一体幾つだと思ってるのよ」

「もう、そんなに怖い顔しないで下さいよう。
 私達普通の妖怪にとっては十数年なんて本当にあっという間なんですよ。人間の歳なんて関係ありません。
 私の中ではメイド長はこの屋敷に来た時と同じままなんです。メイド長は大きくなってもメイド長。
 あ、呼び方はメイド長に変わりましたけどね。そんな訳で飴、いりません?」

楽しそうに笑いながら飴を差し出す副長の手から、咲夜は少し乱暴に飴を受け取った。
完全で瀟洒なメイド。そんな彼女の仮面が外れる時が、先ほどのように彼女の昔を知っている人物の前だ。
咲夜の幼い頃の事を知っている人物は、当然のように咲夜の覚えていて欲しくないような過去を沢山知っている。
レミリア、パチュリー同様にこの副長も然り、だ。この副長はある意味、レミリア達よりも性質が悪い。
何故ならまだ咲夜が幼い頃、どうしても美鈴が忙しくて咲夜の面倒を見れなかった時に、
咲夜の面倒を代わりに見ていたのが他ならぬこの副長だったからだ。ある種、レミリア達より咲夜の過去を知っているのだ。

「隊長、ああいう性格ですから。小さい子供はすぐ懐いちゃうんしょうねえ」

「懐かれるだけなら私だって何も言わないわよ。
 私は門番の仕事を放棄してまで、ああやって遊んでいるのが問題だと言っているの」

「う〜ん…隊長はちゃんと門番やってると思いますけど。
 それに、ああやって子供の世話をしながら門番をするのは今に始まったことじゃないですし。
 誰かもよくあんな風に隊長の傍でそれはそれは花も嫉妬する程の可愛い笑顔を浮かべていたものですよ」

「…こっちを見てニヤニヤしないで頂戴。気持ち悪いわね。
 ともかく、それはそれ。これはこれなのよ」

「ははぁ…もしかしてメイド長、まさかあの子達に妬いてるんじゃ…痛ーーー!!!」

言い終える前に副長の額にナイフが突き刺さり、彼女は最後まで言葉を続けられなかった。
常人なら即死のところを『痛い』で済ませる辺り、やはり彼女が妖怪たる所以なのだろう。
ナイフを刺して満足したのか、咲夜は息をついて美鈴の下へと歩み寄る。
そんな咲夜の存在に気付いたのか、美鈴はヤバイとばかりに渇いた笑みを浮かべている。
その美鈴を見て、チルノ達も咲夜の存在に気付いたようで、視線を咲夜の方へと向けた。

「さ、咲夜さん!?あの、えっと、これは、その…」

「なかなか随分と熱心に授業していたわね。それこそ自分の本業すらも忘れるくらいに。
 いっそのこと上白沢のところにでも転職した方がいいんじゃないかしら?お嬢様に私から掛けあってあげるわよ?」

「ううう…お嬢様、咲夜さんが最近とても冷たいです…第二次反抗期です…」

「誰が反抗期よ!!」

「ちょっと!!そこの鬼メイド!!めーりんを虐めないでよ!!」

ガーッと一喝する咲夜と怒られる美鈴の間に、すかさずチルノが割って入る。
それを見てオロオロとする大妖精とリグル。これもまたいつもの光景であった。

「うるさいわねバカ氷精。今私は美鈴と話をしてるの。横から割り込まないで頂戴」

「めーりんが虐められてるのを放っておける訳ないでしょ!?
 それにバカって言うな!!アタイはさっき、めーりんに新しく字を習ったんだから!!アタイはバカじゃない!」

ほら、と地面に文字を書いて胸を張るチルノを咲夜は思い切りスルーする。
なお、地面に書かれた文字が『さるの』となっていたことを突っ込まないのは咲夜の優しさなどではなく、
単に相手をするのが面倒だったからに他ならないことを付け加えておく。

「貴女はお嬢様に門番という役職を命ぜられたのでしょう。それは何事にも勝る程に誉なことなのよ。
 それなのに貴女はそんなお嬢様の期待を裏切るかのように、いつもいつも黒白魔砲使いにはコテンパンにのされるし、
 魔理沙が来ない時はこんな風に小さい子供と遊んでるし…貴女、自分の役職を本当に分かっているの?」

「はうう…すみません…」

「こらー!!アタイを無視するなっ!!」

「うるさい!!アンタはこれでも食べて大人しくしてなさい!!」

咲夜は苛立たしげに、先ほど副門番長から貰った飴の封を開け、チルノの口の中へと押し込んだ。
もきゅ、と変な声を漏らした後、チルノは満面の笑みを浮かべて『おいしー!』と全身で表現する。
最早、今の彼女には美鈴の事など欠片も記憶にないだろう。そんなチルノを見て、
大妖精とリグルは揃って小さな溜息をつくだけだった。常に今この瞬間を生きる氷の妖精、それがチルノである。
喧しい氷精の口を封じた咲夜は、続けてギロリと大妖精とリグルを睨みつける。
咲夜に睨まれた二人は『ひうっ!』と声にならない悲鳴をあげて美鈴の後ろへと隠れた。

「大体貴女達は紅魔館の事を知らない訳ではないでしょう?
 悪魔の住む館なのよ?そして、貴女達が盾にしている『それ』は一応ウチの門番なのよ?」

「さ、咲夜さん…『それ』扱いなんて酷い…」

「うるさいわね。仕事もろくにこなせない門番なんて『それ』で充分よ。
 それよりも、貴方達は少しはここに来ることに恐怖を感じたりしない訳?」

かつて幻想卿の誰もが近づくことを恐れた紅魔館。
人も妖精も妖怪すらも恐怖の象徴として畏怖し続けたこの場所。それが紅魔館だった筈なのだ。
そして今、彼女達の話し相手をしている門番は、その地獄の番人だった人物なのだ。
歴史書曰く、出会ってしまえば誰もが死を覚悟した赤髪鬼。もう一人のスカーレット・デビル。それなのに――
咲夜の質問に、リグルと大妖精は顔を見合わせ、一度美鈴に視線を向けた後で恐る恐る口を開いた。

「で、でも…だって、ねえ?」

「その…美鈴さんは優しいから全然怖くないですし…」

「めーりんはこわくない!!だってアタイ最強だから!!」

二人に加え、飴を食べ終えたのかチルノまでそんな発言をする始末。
それを聞いた咲夜は俯き、下を向いてプルプルと小さく震え始めた。何かもう色々と限界がきてるらしい。

「あ、あの?咲夜さん?」

「…んたが…」

「へ?」

「アンタがいつもいつも門番をサボって遊んでばかりいるから
 こうやって魔理沙や妖精や虫如きにまで舐められるんでしょうがーーーー!!!!」

「ええええええーーーーーーーーーー!!!!?ななな何で怒ってるんですかーーーーー!!!?」

うがーと叫ぶ咲夜を見て、チルノ達はヤバイとばかりにその場から一目散に退散する。
無論、美鈴も逃げたかったが彼女は紅魔館の門番長であり、持ち場を離れる訳にはいかない。
あうあうと困り果てる美鈴に、色んな意味で限界突破しそうな咲夜がナイフを構えてにじり寄る。

「ちょ、ちょっとちょっとちょっと!?咲夜さん、落ち着いて!?
 だ、誰か助け…痛ーーー!!!咲夜さん、ナイフ!!ナイフが私の頭に刺さってる!!当たってる!!」

「当ててんのよ!!最近は呆れてナイフすら投げる気力すら無かったけどもう限界よ!!
 貴女には一度みっちり紅魔館の門番としての心構えを叩き込む必要がありそうね!!」

「そそそ、そんなああーー!!話が無茶苦茶過ぎますよおおお!!!
 大体紅魔館の住人としての心構えを貴女に教えたのは他ならぬ私…あいやーーー!!?」

「いい加減覚悟を決めなさい!!私のナイフから逃れられた者などあんまり無い!!」

「咲夜さん、それは白玉楼の娘のパクリ…ひえええ!?ナイフが!!ナイフが今お尻に刺さりましたよ!?」

「そんな無駄な脂肪は全部取れてしまえ!!あと胸も!!」

「嫌あああ!!!!そんな無理矢理なダイエットはお母さん絶対嫌あああああ!!!」

ギャーギャーと喚きながら二人はグルグルと門の前で追いかけっこを始めた。
それを見て、門番隊の妖精や妖怪達が楽しそうに笑う。これもまた、紅魔館での日常だった。
門番隊の連中にとって、二人の親子喧嘩(喧嘩と表現するには余りに一方的だが)は紅魔館の平和の証であり、
数少ない仕事中の楽しみの一つでもあった。
美鈴に咲夜。妖怪と人間の血のつながらない親子の事を、門番隊はみな大好きだったからだ。
常にこの紅魔館の門を彼等の先頭に立って守り抜いてきた美鈴と同じように、
赤子の頃から常に門番長に寄り添って育ってきた咲夜もまた、彼等にとっては愛すべき存在であった。
その光景を見て、副門番長もまた飴を舐めながら楽しそうに見守り続けていた。






























夕刻も過ぎた大図書館。咲夜は紅茶を持って、パチュリーの元へ訪れていた。
本来なら彼女の身の回りの世話は小悪魔が行うのだが、現在小悪魔は本の整理で手が離せないらしい。
よってパチュリーに頼まれた咲夜が紅茶のおかわりを持っていたという訳なのだが。

「はあ…」

「これでこの部屋に来て七回目の溜息ね。
 完全で瀟洒という巷での評判が台無しになってしまいそうよ」

「あ…申し訳ありません」

パチュリーに指摘され、咲夜は本当に申し訳なさそうに頭を下げる。
本人としては溜息などついているつもりなどなかったのだが、知らぬ間に行っていたらしい。
そんな咲夜を見て、パチュリーは困ったように笑いながら口を開く。

「何?まだ美鈴の事を気にしているの?
 レミィも言っていたと思うけど、気にしなくても構わないと私は思うわよ。
 弾幕勝負で魔理沙を止められる人間なんて、そうそういないもの。私も含めて、ね」

本を奪われるのは癪だけど、と付け足すパチュリーに咲夜は『そうはいきません』と否定する。
パチュリーの言葉を肯定してしまえば、門番である美鈴の存在を否定することにつながる。
だからこそ、咲夜は首を縦に振れなかった。門番は侵入者を排除してこそ門番だ。
それが『美鈴には無理だから諦めろ』なんて言われて認められる筈が無いのだ。

「ふう…本当、変なところで貴女は頑固ね。
 それで、その溜息の原因は『魔理沙を止められない美鈴』だけ?」

「それは…」

「別に誰にも話さないから素直に言いなさい。貴女の立場上、レミィや美鈴に言い難いこともあるでしょう。
 私だって、貴女がまだ赤子の頃から成長を見守ってきた一人なのよ。相談くらい乗ってあげられるわ」

優しく笑うパチュリーに、咲夜は少し悩んだものの、結局心のウチの全てを吐露することにした。
彼女の悩みは、大方パチュリーの予想通りであった。
美鈴が魔理沙に日々やられるのを見て、どうしようもないほどにイライラが募っているということ。
自分が子供の頃の美鈴は、そんな風じゃなかった。自分が子供の頃の美鈴は、それこそ英雄だった。
レミリアの命を狙う妖怪をその拳でブッ飛ばし、幼い彼女から見ればそれはそれは憧れの存在だった。
母であり、英雄であった美鈴が今ではこの姿だ。だからこそ、苛立ちが抑えられなかった。
自分の中の英雄が汚されていく感覚。美鈴がスペルカードルールに強くないことは解かっている。
だけど、それで仕方が無いと割り切れない。何故なら彼女は、咲夜にとっての憧れの存在なのだから。
美鈴が弱いと認めたくない。美鈴はどこまでも強く強くあって欲しかった。自分に取っての英雄でいてほしかった。
それが咲夜の、紅美鈴に育てられた娘としてのたった一つの願いだった。
全てを聞き終えた時、パチュリーは咲夜の頭を優しく撫でた。

「ぱ、パチュリー様…?」

「大丈夫よ。貴女の母親は、決して弱くない。
 きっとレミィだって、私と同じことを言う筈よ。貴女の母親は…紅美鈴は、いつまでも英雄のままよ」

「で、ですが…」

口篭る咲夜に、パチュリーは『納得出来ないなら良い方法がある』と告げ、
咲夜の耳元で小さく声をかける。パチュリーの話を聞いて、咲夜の表情から歳相応のあどけなさは消え、
幻想卿にその名を轟かせた悪魔の狗の表情が戻った。
それはある覚悟を決めた、誰よりも完全で、瀟洒なメイドの姿だった。


































日も落ち、夜を迎える時刻。
美鈴は小さな欠伸を一つ浮かべて、門前に立っていた。
彼女の中にあるのは夕食の時間のこと。もうすぐ勤務時間を終え、咲夜と夕食を取ることが出来るのだ。
勤務時間さえ終われば、彼女の門番長としての役割も終え、咲夜もメイド長の役割を終える。
つまり、これから先の時間は咲夜とはいつものように親子の関係でいられるのだ。
咲夜を溺愛している美鈴にとって、これ以上待ち遠しい時間が他にあるだろうか。
だからこそ、彼女は今か今かと勤務を終える時間を待っていた。そんな彼女の傍に、一人の少女が歩み寄る。
その気配に気付き、美鈴は視線をそちらへと向けて、表情を綻ばせる。
そこに現れたのは、彼女が今一番誰よりも会いたい人物――十六夜咲夜だったからだ。

「どうしたの、咲夜…じゃなくて咲夜さん。仕事ならもうすぐ終わるからそれまで待って…うひゃ!?」

美鈴は言葉を最後まで続けることが出来なかった。身体を瞬時に横にずらしたからだ。
何故そんなことをしたのか。理由は簡単だ。彼女の先ほどまでいた場所を三本のナイフが投擲されたからだ。

「ちょ、ちょっと咲夜さん!?一体何事ですか!?そもそも何で私ナイフで狙われてるんですか!?
 私何か悪いことしましたか!?ていうか何でまだ構えてるんですか!?どどど、どうしてそんな殺気を込めて…」

「黙りなさい」

「ひっ!?」

美鈴は迷わずその場から飛び上がった。
宙を走るナイフのうち、二本を上手く避けたが、残りの一本を右の腿に刺さってしまう。
しかし、そんな傷よりも、いつものお仕置きとは違う空気に、美鈴はあわあわと恐怖で震えていた。

「ななな、何でえええ!?わわわ私、何か咲夜さんの気に障るようなことをしましたか!?
 あ、いえ、心当たりがないのかと言われれば有ると言わざるを得ないようなそんな気がしないでも…ひゃあ!!」

「どうしたの。貴女は紅魔館の門番でしょう。お嬢様に選ばれ、幻想郷の誰もが恐れたもう一人の紅悪魔。
 まさか本当にこれが貴女の実力だとでも言うつもりじゃないでしょうね?」

「言うつもりも何もこれが実力なんですよおおおお!!誰か助けてえええええ!!!」

咲夜のナイフの連弾を美鈴は必死に避ける。
その様はハッキリ言って見苦しい以外の何物でもなかった。地面は転がる、這い蹲る。
それはもうハッキリ言ってしまうとまるでゴキブリのような動きだった。猫とすら表現することも厚かましいような。
やがて、門壁に追い詰められた美鈴は泣きそうな声で咲夜に話しかける。

「も、もしかして前のお休みの日に黙って咲夜のお菓子食べちゃったのを怒ってるの?
 謝るから!!お母さん本気で謝るから!!だから許して、ね!?明日代わりのお菓子買ってくるから!!」

最後の最後まで格好悪い母の姿に、咲夜は一つ大きな溜息をついた。
何が良い作戦だ。結局、自分が見ることが出来たのはいつものように格好悪い母の姿ではないか。
パチュリーが咲夜の耳元で提示してきた話とはこうだ。
『本気で美鈴に戦いを挑みなさい。そうすれば、きっと貴女の英雄は帰ってくる筈よ』
後でパチュリー様に文句を言おう。そう決めて、咲夜がナイフを振りかぶったその時だった。

「――何をしているの、紅美鈴。誰がそんな風に無様に負けて良いと許可したのかしら」

空中から響いてくる声に、咲夜は視線を上へと向ける。
そこには空に浮かぶ月に重なるように、彼女達の主――レミリア・スカーレットが羽を広げて悠然と飛んでいた。
その絶対的な存在感に、咲夜は思わず息を呑んだ。レミリアの威圧感に圧倒されたのだ。
普段、彼女の傍で身の回りの世話をしながらも、だ。こんなレミリアを咲夜は見たことがなかった。
あの紅白や黒白に館に乗り込まれた時も、レミリアはただ遊びを楽しんでいるかのような素振りを見せるだけだった。
永遠亭に乗り込んだ時だって、彼女はいつものように笑って咲夜と共に空を翔けていた。
だが、この威圧感は何だ。それこそ神すらも凌駕してしまいそうな、まさに悪魔の名に相応しい幻想。
この時、咲夜は初めて感じていたのだ。紅魔館の主、レミリア・スカーレットという生き物を。
咲夜の横を通り抜け、レミリアは地面へと降り立った。目の前に捕えるは、紅の門番。

「…成る程。何かおかしいと思ったら、お嬢様の差し金ですか」

「あら?正確にはパチェが計画犯よ。私はただ、パチェの話に乗っただけ。
 まあ、思うところもあったし」

「そうですか。だったら早く咲夜を止めて下さい。
 何が目的かは知りませんが、もう充分でしょう。私はこれ以上戦えません。誰が見ても咲夜の勝ちです。
 私なんかより咲夜が強いことくらい、この館…いえ、幻想郷の誰もが知っている事実じゃないですか」

「誰が見ても…ねえ。幻想郷の誰もが知ってる事実…ねえ。
 美鈴、あんまり巫山戯た事ばかり言っていると、本気で頭潰すわよ?」

瞬間、咲夜は目を見開いた。美鈴の首元にレミリアが光槍グングニルを突き出したからだ。
状況が全く理解出来ず、息を呑む咲夜を他所に、美鈴はレミリアから目を逸らさない。
レミリアの殺気にも、怯むこともなく動じることも無い。美鈴はただ、じっとレミリアを見つめていた。

「私、貴女に咲夜を任せたのは今でも正しいことだと思っているわ。
 現に咲夜はこんなにも立派に大きくなったし、メイド長としてよく私に尽くしてくれている。
 咲夜は私にとっても自分の娘のように大切な存在なのよ。それは貴女も知っているでしょう?」

そう言って、レミリアは咲夜の方を振り返り、微笑を浮かべた。
空気が変わったと感じ、咲夜はレミリアに制止の声を上げようとした。だが――それは行動に移すことが出来なかった。
レミリアが美鈴の顔を本気で蹴り飛ばしたからだ。それはただの蹴りではない。吸血鬼の全力での蹴りなのだ。
肉体的ポテンシャルが人間はおろか、妖怪すらも遥かに凌駕する吸血鬼の蹴り。それはまるで断罪の鎌だ。
その辺の妖怪クラスなら、間違いなく頭は飛び、潰されていただろう。だが、美鈴は耐え切った。
それどころか、蹴られた瞬間も一切瞬きすることも無くその場から動じず、ただただレミリアから視線を逸らさなかった。

「…それを美鈴、貴女は一体何をしているのよ。
 確かに私は貴女に『門を通して良い人間は自分で判断しろ』と言ったわ。その方法に負けの形を取るのは構わない。
 けれど、私は『自分の娘の心を傷つけ、失望させていい』と言った覚えはないわよ」

レミリアの言葉に、美鈴はその瞬間に初めて大きく反応し、強く瞳を見開いて咲夜の方を見つめた。
だが、この場での発言権を許されていない咲夜は、言葉を発することなく、ただ瞳を地面へと下ろした。
それが肯定の意だと示すには充分で、美鈴は初めて表情をゆがめた。

「貴女が門番としてをどうこう言うつもりはないわ。そんなもの言うだけ無駄だもの。
 私が言いたいのは唯一つ。美鈴、貴女はいつまで『本当の力』を咲夜に隠しておくつもりかしら。
 怖いのでしょう?咲夜に知られることが。貴女の本当の力を知られてしまい、咲夜に怖がられる事が」

レミリアの言葉に、美鈴は返事を返さない。ただ、唇を噛み締めるだけだ。

「咲夜が来てから貴女は全力で戦うことをしなくなった。いえ、それどころか妖怪を殺すことも止めた。
 私の命を狙って紅魔館に訪れる妖魔を、以前はそれこそ見るも無残な程に殺し尽くしたのにね。
 咲夜を預けてから貴女はただ殴って妖怪を追い払うだけ。
 怖かったんでしょう?咲夜に殺傷事を見せることが。そして、咲夜が大きくなった今では、
 本当の貴女の力を、貴女の過去を知って、咲夜が貴女の元から離れていくことが」

その言葉も美鈴は否定しない。ただ、黙っているだけだ。
呆れたように息をついて、レミリアは笑みを消した。

「…戯けるのもいい加減にしなさい、紅美鈴。
 貴女のそんな行動が咲夜を傷つけていたことにまだ気付かない程愚かではないでしょう。
 貴女の育てた娘は、そんなことで貴女から離れるほど下らない人間だと本気で思っているの?」

そして何より、とレミリアは言葉を一旦切り、手に持っていた光槍を美鈴の頬を掠めさせ、門壁へと突き刺した。
グングニルの突き刺さった壁は粘土細工のように溶解され、壁には大穴が刻まれた。
そしてレミリアは再び口を開く。

「――己の母を愚弄され、悔しいと感じない子供がいるとでも思っているの?」

躊躇することも無く、レミリアは血も凍るような視線を容赦なく美鈴に浴びせた。
言葉を間違えば今すぐにでもその首を刎ねる事すら厭わない。そんな空気を身に纏って。
張り詰めた空気の中で、美鈴はゆっくりと口を開いた。視線は愛する娘の方へと。

「咲夜は…」

「え…」

「咲夜は…悔しかったの?
 お母さんが…こんな風に弱いと言われることが」

美鈴の言葉に、咲夜は言葉を閉ざしたまま返事を返すことが出来なかった。それは即ち肯定の意だ。
悔しくない訳ないではないか。彼女が魔理沙に吹き飛ばされる度に、部下のメイド隊の妖精達が楽しそうに噂話をする。
やれ門番長は無能だ、やれ門番長は役立たずだ。そんな話を聞かされて平気でいられる訳ないではないか。
母は弱くなんかない。だけど、部下達に掴みかかってそれを訴える程自分は子供じゃない。そんな立場ではないのだ。
悔しい。それは自分の事を貶されるより悔しかった。何より心が痛かった。
小さい頃からずっと母の背中を見て生きてきた。母は雨の日も風の日もずっとこの門を守り抜いてきたのだ。
母は紅魔館の盾だ。母は誇り高き門番長だ。誰より強く、誰より誇り高く、誰より英雄だったのだ。

「…ごめんね…」

咲夜の沈黙に、美鈴は震える声で言葉を続けた。それは、ただ一言――謝罪の言葉。
その言葉に、顔を上げた咲夜の瞳に映った光景は想像していなかったものだった。

「ごめん…ごめんね咲夜…母さん、馬鹿だから…咲夜の気持ち、全然考えてなかった…
 咲夜が傷ついてたなんて全然気付かなくて…本当に私、馬鹿だよね…咲夜は、どうしたら許してくれる?
 嘘ばかりついて、怖がって…咲夜の前で本気を出すことから逃げ回っていた私を…」

美鈴の姿を見て、咲夜は言葉を返す事が出来なかった。
――泣いていた。いつもどんな時でも笑顔で、常に周りを明るくしていた母親が、泣いていた。
その時、咲夜はようやく悟ることが出来た。彼女は自分の為に、ワザと力を出していなかったのだと。
きっと妖怪達を殺すところを、娘に見せたくなかった。ただ血を見せたくなかったのだ。
そして、知られたくなかった。血塗られた自分の手を、姿を。
英雄を放棄し、一人の母として歩いていくことを選んだ美鈴。それは血のつながらない娘である自分の為。
自分が他人にどんなにバカにされても、舐められても構わない。娘がいれば、構わない。
親として、娘の為に全てを捧げた少女だからこそ、怯えた。その愛する娘を傷つけることを。
愛して、愛して、愛した結果、傷つけた。ただ、それだけ。それだけだったのだ。
もうそんなことする必要なんてないのに。自分が母を拒絶する筈がないのに。何て愚かで不器用な母なのだろう。
きっと門前でいつも自分に怒られているのも、紅魔館中の人間に咲夜の存在を知らしめる為で。何て馬鹿な母なのだろう。
妖怪のくせに、一人の人間の為に自分の今まで積み上げた全てを捨ててきた母。
ああ、本当に嫌になる。今までの自分が本当に馬鹿みたいだ。本当になんて…世界で誰より、誇らしい母なのだろう。

「許すも…許すも何もないわよ…」

「咲夜…」

「馬鹿よ…母さんは大馬鹿よ…私が母さんを怖がる訳無いじゃない…
 母さん、いつも駄目駄目でドジで門番の仕事サボってばかりで…この前だって魔理沙に吹き飛ばされて…
 母さんは私がいないといつも駄目駄目だもの…そんな母さんを私が怖がる訳ないでしょ…母さんの大馬鹿」

美鈴に抱きついて、涙を流す咲夜に、美鈴は驚きの表情を浮かべたものの、すぐに表情を崩して咲夜を優しく撫でる。

「ごめんね…母さん、馬鹿だから…本当にごめんね」

「全くよ…明日から、もっと厳しくしてやるんだから…」

美鈴の胸の中で涙を拭う咲夜を見て、レミリアはやれやれとばかりに肩を竦めて笑った。
そんなレミリアに、美鈴は申し訳なさそうに頭を下げる。それを見て、レミリアは意地悪そうに笑った。
美鈴に嫌な予感が走った時には既に遅し。レミリアは両手をパンパンと叩き、二人を注目させる。

「それじゃあ話もまとまったところで、戦闘再開といきましょうか」

「「え…」」

抱き合ったままで、二人は訳が解からないとばかりにレミリアの方を見つめる。
その表情を待っていたというような笑顔で、レミリアは言葉を続けた。

「当たり前でしょう?咲夜はまだ美鈴の実力を知った訳ではないでしょ。
 私はあくまで美鈴が咲夜に対して本気を出せるように配慮してあげただけ」

「そそそ、そんなあああ!!!お嬢様ーーー!!」

「何か文句があるのかしら美鈴。貴女、さっきの咲夜の台詞をちゃんと聞いていたの?
 咲夜は貴女の事を怖がらないと言ったのよ。だったら何も問題ないじゃない」

「ででで、ですが…」

「ああもう、いちいち五月蝿いわね。私は久々に貴女の本気で戦うところがみたいと言っているのよ。
 それに観客も来ているみたいだし…ねっ!!」

レミリアは掌に光弾を作り、容赦なく空へと撃ち放つ。
何もないと思われていた夜空の一空間に弾が衝突し、空間の亀裂からボトボトと二人の人物か降ってきた。
あいたたた…と零す人物に、レミリアはさも詰まらなさそうに言葉を投げつける。

「覗きなんて相変わらず良い趣味してるわね、スキマ妖怪」

「もう…レディは丁重に扱うように習わなかったのかしら、吸血鬼のお嬢さん」

レミリアの皮肉に、優雅に言葉を返した人物――八雲紫に、美鈴と咲夜は二人して目を丸くする。
レミリアはさぞ鬱陶しいと言わんばかりの視線を紫にぶつけるが、彼女はそんなものに動じる訳が無かった。

「さて、パーティーの招待はしたつもりはなかったのだけれど。何の御用かしら」

「人の睡眠を妨害するほどの殺気を出してよくもまあ抜け抜けと。
 しかも私にだけ察知出来るように方向性を向けている分、貴女の方がよっぽど性質が悪いと思うのだけど」

「あら、そうだったかしら。
 まあ、本当は霊夢でも良かったのだけど…貴女の方が、こういう『遊び事』には興味があるでしょう?
 久々にウチの門番が本気で戦い、その相手は今幻想郷で魔理沙に並ぶ実力を持つ期待の若手のメイド長よ」

「ふふ、分かってるじゃないお嬢さん。しかし勿体無いわねえ、こんな夜中に観客はこれだけだなんて。
 昼間にやったらお金が取れるカードなんじゃない?」

「馬鹿ね。昼間にやったら私も貴女も観戦出来ないじゃない。
 それにこれは弾幕合戦なんかじゃない、本当の戦いだもの。他の連中には刺激が少し強過ぎるでしょう?」

レミリアの言葉に、紫の横に尻餅をついていた藍がぴくりと反応する。
それに対し、紫は『まあまあ』と不敵に笑って美鈴達の方を楽しそうに見つめた。
あうあうと困惑しっぱなしの美鈴を放置し、レミリアは咲夜に声をかける。

「美鈴の本当の実力…知りたいのでしょう?いえ、貴女は知らなければならない。
 私が命じた紅魔館の門番が、貴女の母が一体どれだけの力を持つ存在なのかを。
 そして胸に誇りなさい。我が誇り高き血族、メイリン・スカーレットの娘である己の存在を」

レミリアの言葉を受け、咲夜は迷いはしたものの、主の言葉に首を縦に振って肯定する。
そうだ。自分は知りたい。本当の母の強さを。己が目指した存在の真実を。
お嬢様は、パチュリー様はきっとこのチャンスを作る為に、ここまでの流れを作ってくれたのだ。
ならばそれを裏切る訳にはいかない。自分の心に正直になるには、この機会を逃す訳にはいかない――

「母さん…いえ、紅美鈴。今一度お願いするわ。
 私に…紅魔館がメイド長にしてレミリア・スカーレットの従者、十六夜咲夜に貴女の力を感じさせて。
 私がずっと憧れ続けた門番長のその実力を…私がずっと追いかけ続けた貴女の本当の力を、私に」

立ち上がり、ナイフを構える咲夜を見て、美鈴はそっと瞳を閉じた。
そして、決意を込めた表情を浮かべ、美鈴もまたその場を立ち上がる。
その瞳を直視し、咲夜は背筋に戦慄が走るのを感じた。先ほどのレミリアから彼女が感じ取った絶対的な威圧感。
それを美鈴もまた身に纏っていたからだ。

「紫さん…スペルカードルールは」

「貴女はただの親子喧嘩にいちいち弾幕勝負のルールを持ち出すのかしら?
 そんな馬鹿げたことをイチイチ気にしないの。親子喧嘩に必要なモノは愛だけよ」

ね、と藍に笑いかける紫を見て、当人の藍は思いっきり呆れたような表情を浮かべた。
藍の言葉に、美鈴は分かりましたと頷いて、咲夜の方へと向き直る。

「咲夜…多分、貴女の前で本気で戦うのはこれが最初で最後になる。
 私の力は、今の幻想郷には必要の無い力。私はこの館のみんなと貴女を護る力だけあればそれでいい。
 だから…」

瞬間、美鈴の身体から空気が爆ぜた。
彼女を見て、咲夜は息を呑む。美鈴が全身に纏う虹色の光。生者のみに許された人間の力の終着点。

「…私を感じて。私の全てを受け入れて。
 私の生きた二千年余りの全てを…貴女に出会うまで積み重ねてきた血と屍の歴史を」

美鈴の言葉に、咲夜は呼吸を止めた。指一本動かせば、それがきっと開始の合図になることを分かっていたから。
呼吸を止めている間、咲夜は考える。果たして自分に支えきれるのか。母の歴史を、積み重ねてきたモノを。全てを。
少し考え、咲夜は思考を止めた。馬鹿げている。そのような問答に意味など無い。
――自分は誇り高き紅魔館の門番、紅美鈴の娘、十六夜咲夜。そのような覚悟など、彼女の娘となった時から出来ている。
咲夜が頷いた瞬間に見た光景――それは、美鈴の笑顔。きっと彼女は笑っていたのだろう。

「はああああああ!!!!!!」

「ああああああああ!!!!!!」

声と共に両者がその場から爆ぜた。
空気の壁を破裂させるような音を生み出すように拳とナイフが幾度も交錯する。
それは『スペルカードルール』において禁じられている近接戦闘を含めた命の奪い合い。
常人には捕えられるスピードを持って始められた闘いを、レミリアは楽しそうに笑みを浮かべながら眺めている。

「始まったわね、幻想郷の中でも数える程しか存在しない程に迷惑な親子喧嘩が」

「数える程しか存在しない程に迷惑な姉妹喧嘩なら日常茶飯事なのだけどね」

レミリアの言葉を聞いて、『それは確かに日常ね』と笑う。
そして紫は二人の舞い上がった夜空を見上げる。中空では演武とも思えるほどに美しい戦闘が繰り広げられていた。

「弾幕も綺麗だけど、こういうのも悪くないわね。やはり命の奪い合いほど美しい光景はないわ」

「あら、それは私や博麗の巫女に文句を言っているのかしら?」

「まさか。こうやって美しいものが見れるのは、舞の踊り手がこの世に存在しているからこそよ。
 日常的に生殺が繰り広げられては、折角の私の楽しみが減っちゃうじゃない。
 それも悪くはないけど、私は美しいものや自分の欲しいと思ったものは大切にとっておきたいタイプなの」

「それを妹さんに言ってあげればはた迷惑な姉妹喧嘩も少しは収まるんじゃないかしら?」

下らないとばかりに笑うレミリアに、紫は素直じゃないと内心思いながら笑った。
依然として夜空では平原に響き渡る程の怒号と剣戟の音、そして弾幕の嵐が繰り広げられていた。

「それにしてもあの門番がああやって戦う姿を見るのは何年ぶりかしら?」

「人の屈辱に塗れた過去を私の口から言わせる気?相変わらず性格が腐ってるわね」

紫に聞こえるように舌打ちをし、レミリアは憎憎しげに紫を睨みつける。
そう。美鈴が本気で戦ったのは今から数百年も遡る。彼女――レミリア・スカーレットと共に初めて幻想郷に来た時以来だ。

「あの時はよくもまあ、散々好き勝手に暴れてくれたわね。
 本当、私も藍も当時の博麗の巫女も貴女達には手を焼かせられたわ」

「人の従属を殺し尽くしておいてよくもまあ抜け抜けと言ってくれる。
 おかげで当時の生き残りは私と美鈴、地下室に隠しておいたフランだけになっちゃったのよ。
 あれから私達がどれだけ苦労したと思ってるのよ」

「いいじゃない。他の連中なんて貴女には必要なかったでしょ?
 スカーレット・デビルに必要なモノは狂気の妹に誇り高き門番、動かない大図書館。
 そして今、貴女の手の中には悪魔の狗という最後のピースが揃った。
 むしろ邪魔な連中を排除してあげたんだから感謝の一つでもして欲しいものね」

紫の言うことに、レミリアはふんと鼻を鳴らすだけで否定することは無かった。
当時、当主となったばかりのレミリアを取り巻いていたのは亡き両親の側近ばかりだった。
彼等は自己の事ばかりしか考えず、レミリアもどう処理すべきかを考えていたところだったのだ。
結局、結果だけを見ればこの幻想郷の管理者の一人にして、最強の妖怪、八雲紫に負けたことは
レミリアにとって都合が良い面もあったのだ。無論、彼女のプライドは激しく傷つきはしたのだが。

「でもまあ…本当は、私は『アレ』も殺させるつもりだったのよ。
 アレと貴女を一緒に置いておくことは、私達にとっては脅威だったわ。
 管理者でもない、ルールを守るとも限らない新参吸血鬼に力が集っているのは、正直マズイと思ったもの」

彼女が指摘するアレは何か、などとレミリアは問いただすことはしなかった。
そんなもの、答えを言われなくても分かっていたからだ。
彼女、レミリア・スカーレットが生まれた時から彼女に仕え、表情一つ変えることもなく妖怪や人間を殺し続けた悪魔。

「だからまあ、貴女は私が抑えるとして、アレには藍を向かわせたのだけど…甘く見てたわ。
 私の命令を受けた藍を退ける化物がいたなんて、今でも信じられないわね」

「紫様…確かに、私は彼女を倒すことは出来ませんでしたが、戦闘不能には…」

「あら、そうだったかしら。それじゃ相打ちということで訂正してあげるわ。
 本当、私の命令を受けた式神は私と同程度の能力まで引き上げられるというのに…滅茶苦茶ね、紅美鈴は」

悔しそうな表情を浮かべる藍に、紫はけらけらと笑いながら言葉を続ける。
そう。幻獣最強にして、最強の妖怪の式である八雲藍を当時の美鈴は退けたのである。
無論美鈴とて無事ではない。肢体は欠け、妖力は尽きてもなお、彼女は門前に立ち尽くしたのだ。

「紅美鈴。まさか私の藍とあそこまで対等に戦える存在なんて私は思ってもなかったわ。
 だから私も気になったからね。後々外の世界で色々と調べてみたら、まさかアレも藍と並ぶ程の名を残した化物とはね」

「当然よ。一流の部下は一流でなくてはならないの。
 私の美鈴が九尾の狐如きに簡単に遅れを取る訳ないじゃない」

紅美鈴。彼女もまた、外の世界で人々に恐怖を与えた存在だった。
かつて大陸中で人々に恐れられ、中国史の暗部とまで言われた恐怖と狂気を司る紅髪鬼。
その歴史は数千年前へと遡る。元は唯の人間として生まれた美鈴。彼女はしがない村娘の一人だった。
ただ、彼女は普通の人間と違ったのは彼女が忌み子だったこと。それも生半可の忌み子ではなかった。
一に、彼女が持つ真紅の髪。それは、何も知らない村人にとって恐怖の対象だった。
二に、彼女が生まれながらにして持つ能力。彼女は生まれながらに気とも呼べるべき虹色のオーラを纏っていた。
人間は自分が理解出来ないモノを見たときに取る行動は二つ。神として崇めるか、恐怖に陥るか。
彼女の不幸なところは、無知な人間達が揃って後者を選んだこと。もし、前者ならば人間として余生を過ごせただろう。
彼女は生まれてからずっと閉ざされた場所に鎖でつながれて生かされた。
人と関わることも許されず、太陽の日を浴びることも許されず、知識を与えられることもない。
そして彼女が十歳の時、運命の日がやってきた。彼女を忌み嫌う人間達が、彼女を処刑しようとやってきたのだ。
その時、動物としての本能か、彼女は初めて自分の『力』を解放した。
彼女の能力『気を使う程度の能力』により、全身をオーラで纏い、人間を軽く叩いた。そう、軽く叩いただけだった。
美鈴に叩かれた人間は簡単に四散した。それを見て、恐怖に震えた人間は次々と美鈴に襲い掛かった。
後は同じことの繰り返しだった。触れ、破壊し、触れ、破壊し、触れ・・・
そして彼女の周りには、彼女を襲う人間は誰一人いなくなった。全て彼女が殺し尽くしたのだ。
その血肉を見て、食事もロクに与えられていなかった彼女は、躊躇することなく貪りついた。
血が、肉が、彼女が殺した者の全てが彼女に潤いをもたらした。その時、彼女は生まれて初めて『学んだ』のだ。

――人を殺せば、お腹は減らない。
――人を殺せば、喉は渇かない。
――そうか。そうだったのか。
――人を殺すことが、自分の生きる為にすべきことだったのか。

その日から、彼女は人を殺す化物としてこの世に本当の意味で『生まれた』のだ。
山村に現れては、彼女は殺し尽くした。男も女も老人も子供も躊躇無く殺した。それが生きるということだと思っていたから。
やがて、中国全土で彼女の噂が流れることとなる。彼女の存在が大陸中に広がっていく。
噂は彼女を変えていく。彼女の存在そのものを変えていく。
そして彼女は、人ではなくなった。否、最初から彼女は人ではなかったのだ。人としての生など与えられていないのだから。
それが彼女――紅魔館の門番、紅美鈴が生まれた歴史である。

「でも、未だに分からないことがあるのよね。
 紅美鈴は疑いようも無く大妖怪だわ。それこそ、誰かとつるんだり協力したりするなんて考えられない程のね。
 それがどうして、貴女に仕えているの?今のあの性格ならまだしも、あのメイドが来る前は違ったのでしょう?」

紫の言葉に、レミリアは瞳を閉じて遠い過去に思考を馳せる。
――理由など無い。自分が生まれた時には、美鈴はそこにいたのだ。
紅魔館の門前に一人、誰と会話することも無く、誰と視線を合わせることも無く、
ただ館に訪れる人間や妖怪を屠るキリングマシーンとして彼女はそこに在ったのだ。
父は言った。あれはただの便利な道具だと。
母は言った。あれに決して近づいてはならないと。
けれど、レミリアはその言葉に納得することは出来なかった。幼いながらに、レミリアにはそう感じ取っていた。
だから近づいた。何度も何度も美鈴に話しかけた。だけど、彼女から返事は返ってこなくて。それが悔しくて。
だから毎日彼女に話しかけた。晴れの日も風の日も曇りの日も雨の日も。
けれど、やっぱり返事は返ってこなくて。それが何故か凄く悔しくて。それが何故か凄く悲しくて。
だから、泣いてしまった。彼女の前でわんわんと泣いてしまった。無視されるのが、凄く嫌だったから。
その時だった。ずっと嗚咽を漏らしているレミリアの前に美鈴はしゃがみこみ、そっと呟いた。

『なかないで』

それが、レミリアの初めて聞いた彼女の言葉だった。
鈴の音のように透き通った美しい声。それが彼女の聞いた初めての美鈴の声だった。
その日から、レミリアはやはり毎日のように美鈴の元へと通った。相変わらずの無口だが、彼女はレミリアの話を
真剣に聞いてくれた。親が生まれたばかりのフランにつきっきりだったため、レミリアはずっと美鈴と一緒に過ごした。
ある日、美鈴に名前を聞いてみると、彼女は名前を持っていなかった。
だから、レミリアは一日ずっと考えて美鈴に名前をあげた。

『あなたの名前はメイリン・スカーレット!今日から私のお姉さん!』

レミリアの言葉に、美鈴は相変わらず表情を崩さなかった。
けれど、彼女はずっとレミリアがあげた名前を小さく繰り返し呟いていた。
その日から、彼女は美鈴となり、レミリアが美鈴と呼ぶと振り向いてくれるようになった。
それからずっと、レミリアは美鈴と共に過ごしてきた。だから、分かる訳がないのだ。彼女が自分に尽くしてくれる理由など。
何故なら空気がこの世界に満ち溢れているように、
美鈴がレミリアの傍に仕えていることは彼女にとって当たり前のことだったのだから。
それは自分がこの館の主となった今でも変わらない。彼女にとって、美鈴が傍にいるのは当然のことなのだから。

「…そろそろ決着がつきそうね」

話を逸らすように、レミリアは上空を見上げてそっと呟いた。
その言葉に、紫は苦笑しながらも続けて空を見上げる。

「続きは次の宴会に期待してもいいのかしら?」

「そうね、人間の血のように紅く染まったワインでも持ってきてくれるなら考えてあげてもいいわ」

そう、と言葉を切って、紫はそれ以上何も言わなかった。
相変わらず上空では戦乙女達が美しく踊り続けているが、それももう終焉。
今はただ、じっと空を眺めていよう。終結の瞬間を、決して見逃さぬように。
































十六夜咲夜は笑っていた。

美鈴の拳を、蹴りを、衝撃波をナイフで弾き返し、捌ききれなかった攻撃を身体に受けてなお、彼女は笑っていた。
それはあまりの恐怖に気が触れたからなどという下賎な理由だからではない。
ただ、純粋に嬉しかった。自分と対峙する美鈴の、母の強さがあまりに圧倒的過ぎたから。
闘いを始めて一体どれくらいだったのだろう。数時間?数分?数秒?
時間を支配する咲夜にも関わらず、その事を把握することすら出来ずにいた。
それほどまでに美鈴と闘う時間は彼女にとって心を震わす時間だったのだ。
ナイフはもう数え切れなくなるほどに投擲した。弾幕は身体が熱暴走するかと思うほどに展開した。
時だって幾度と無く止めた。スペルカードだって一体何度使用しただろう。
彼女の持てる全ての力。この十数年間に蓄えた己の全て。その全てを持ってしても――美鈴は止められなかった。

「破ァァァっ!!!!!」

「ぐうううっ!!!」

美鈴のオーラが纏った蹴りを、咲夜は必死でナイフで受け止める。
投擲用とは違い、己の護身専用の為に作られたナイフだが、それでも美鈴の蹴りを受け止めるには足りない。
これ以上受け続ければ折れるというギリギリの点で咲夜は身を翻して蹴りを外へ流した。
だが、それを待っていたかのように美鈴は気弾を作り咲夜へと奔らせる。

「あぐっ!!!」

蹴りで体勢を崩された咲夜は、気弾の一つを回避しきれずに腹部にぶつけてしまう。
その衝撃に耐え切れる筈も無く、咲夜は地面へとそのまま激しい衝突音と共に叩きつけられる。
意識を失うかと思うほどの激痛だが、その場で眠っている訳にはいかない。
咲夜はすぐに身体を捻ってその場から低空飛行で跳ね飛んだ。
そして、その判断が正しかったことを証明するかのように、咲夜のいた場所に美鈴の拳が地に突き立てられる。

「あはっ、あはは、あははっ!!」

オーラを纏った拳はその地面を容赦なく抉り取る。その光景を見て、咲夜は笑いが止まらなくなった。
何て強さだろうか。レベルが違いすぎる。自分はただ、美鈴に狩られるだけの存在に過ぎないのだ。
だからこそ、だからこそ喜びが抑えきれない。そうだ。この姿こそ、これこそが自分が望んでいた光景ではないか。
門番長は、母は決して弱くなんか無い。母は強い。そうだ、この私なんか歯牙にすらかけない程にだ。
空中で体勢を立て直し、咲夜はスペルカードを詠唱する。弾幕ごっこなどではない、人を殺す為の本気のスペルを。

「幻符『殺人ドール』!!フルバースト!!!」

美鈴の周りを取り囲むように、ナイフが縦横無尽に展開され、射出される。
抜ける隙など作りはしない。この十数年間、ただただ一つの地点を目指して己を高め続けた技。
全ては母の背中に追いつく為に。母のように自分もなる為に。

『やあっ!!たあっ!!』

『ややや止めようよ咲夜ああ〜!!ナイフなんて危ないよお!咲夜が怪我しそうでお母さん怖いよおおお!!
 そんな危ないことなんか覚えなくても咲夜は充分強いよっ!!だから、ねっ!?』

『やだっ!!絶対やめない!!お嬢様は言ったもん!咲夜はこれを頑張ればお母さんをいつか超えられるって!!
 私もお母さんみたいにいつか強くなるもん!!』

『お、お嬢様の馬鹿ああああ!!・・・え、お、お嬢様!?いつからそこに!?
 ・・・へ?あああいやいやいや!!今のは嘘と申しますか軽い冗談と申しますかってうきゃああああああ!!!!』

息の根を止める為だけに放たれたナイフの嵐を、美鈴は全て迎撃した。
時に拳で、時に蹴りで、時にオーラで。刃と彼女の奏でる音楽はまるで幻想郷全ての住人の為に演奏されているようで。
なんと美しく、なんと優雅な舞か。最後の一本のナイフを二本の指で止め、無傷で佇む美鈴に咲夜は笑みを崩さない。
再び弾幕を展開し、咲夜はナイフを美鈴に投合する。無駄だとは分かっている。届かないとは分かっている。
それでも、だからといってこの時を自ら終わらせるなど考えられない。
今、この瞬間の全てが自分の生きてきた全てを感じられる瞬間だったからだ。
後でパチュリー様に謝らなければならないなと咲夜は笑う。あの人の言う通り、私の英雄は死んでなどいなかった。

『咲夜がメイド長に選ばれるなんて…ううう、お母さん、生きてて本当に良かった…』

『ちょ、ちょっと母さん泣かないでよ!?もう、大袈裟なんだから…
 他の妖精達や妖怪なんて当てにならないから私以外適役がいなかっただけじゃない。
 それにやる事だって今までと何ら変わりないんだから』

『そうだ!!お祝いしようよお祝い!!
 門番隊のみんなで今日は咲夜の昇進お祝いパーティーしよう!!善は急げ、母さん準備してくるっ!!』

『だから話を聞いてよ!?ちょっと母さん、母さんってばーー!!』

ナイフを弾き、弾幕を避けて真っ直ぐに咲夜の元へ掛けてくる美鈴。
近接戦闘に備え、咲夜は再び護身用ナイフをその手にかざす。もう小細工など必要は無い。
最早、美鈴の動きを封じることなど彼女には出来はしない。時間を止める力は使いきり、残っていない。
弾幕も駄目、スペルカードも意味を成しえず、投擲ナイフでも抑えられない。ならば残るは我が身のみ。
咲夜は笑い、怯むどころか逆に真っ直ぐに美鈴の元へと加速した。
後ろを見せれば、きっとすぐにこの時間は終わってしまうと思ったからだ。

『咲夜も随分大きくなったねえ…この調子だと、すぐにお母さんの身長なんか追い越しちゃいそう』

『身長だけ追い越しても…母さんは色々と卑怯』

『え、えええ!?何で!?というか母さん卑怯なこと何もしてないよ!?』

『…卑怯。母さんの馬鹿。おっぱい星人。母さんなんか嫌い』

『さ、咲夜が反抗期になっちゃったああーー!!うわあああん、お嬢様あああーー!!!』

誰よりも子供っぽくて、誰よりも優しくて、誰よりも大好きな母さん。
本当の娘じゃない私を、実の娘以上に大切に育ててくれた母さん。
館のお姫様を守る為に、毎日紅魔館の門を守り続けた母さん。
その全てが私の母さんであり、私の誇りだった。私だけの、自慢の母さん。
――私の母さん。私の、永遠の憧れであり、誰よりも愛してる母さん。
美鈴の加速のついた拳を、咲夜はナイフで受け止める。その瞬間、ナイフに今までに無い衝撃が走った。
その瞬間、咲夜は美鈴の行っている事に気付き、ナイフを引こうとするが既に遅かった。
美鈴の拳にオーラが一点集中し、美鈴はそれを暴発させた。己の右拳を爆弾代わりに使ったのだ。
その衝撃に耐え切れず、ナイフは美しいほどに四散し、宙へと舞う。

「華符――」

美鈴の声が聞こえた瞬間、咲夜は残念そうに笑った。――チェックメイト。その事を悟ったからだ。
彼女の詠唱を聞いた時、咲夜は記憶の奥底から一つの記憶を拾い上げた。
それは彼女がまだ五つにも満たない時に、紅魔館の門の前で母の腕の中に抱き抱えられた時の記憶。

『母さんはどうしていつも門の前にいるの?』

『ふふ、それはね…母さんは、みんなを護りたいからよ。
 お嬢様や妹様、パチュリー様に小悪魔ちゃん。それにこの館で働いてるみんな…そして何より』

『ふぇ…?』

『…咲夜。私は貴女を護りたいの。私の力は人を護る力。
 それだけの為に使うって、貴女をお嬢様から任された時に誓ったの。
 だから私はここに居るの。この館のみんなを…そして咲夜を護る為に、私はいつもここに居るのよ』

『…よく分かんない』

『あはは…そうだよね。咲夜はまだ小さいから分かんないよね。
 でも、いつか咲夜が大きくなって、この館のみんなを好きになった時、きっと分かるようになる筈だよ。
 みんなの笑顔を護ることはね、とっても誇らしくて、何より幸せなことなんだよ』

――そうか。そうだったんだ。
美鈴の言葉を思い出し、咲夜は苦笑する。何のことはない。
こんな風に美鈴の本気を見なくとも、分かっていたことだったのだ。こんなことする必要は無かったのだ。
彼女は誰よりも強い。その在り方が、考え方が、そして何よりその存在そのものが。
きっと彼女は最強だ。誰に弱いと馬鹿にされても、無能な門番だと馬鹿にされても、きっと彼女は最強なのだ。
だってそうだろう。現に彼女は今もこうして守り通しているではないか。紅魔館のみんなの笑顔を、彼女はこうして。

「――破山砲!!」

虹色に輝く光の渦の中で、咲夜はゆっくりと瞳を閉じて笑った。

お嬢様。貴女の言う通り、私は胸に誇ろうと思います。
誰よりも優しくて、誰よりも強くて、誰よりも大好きな母を私は誇ろう。もう二度と、不安になったりなんかしない。

――私は十六夜咲夜。誇り高き紅魔館の門番、紅美鈴の一人娘であることを何よりも誇りに思う。






































「だからチルノちゃん、何度も言ってるんだけどそれは『ち』じゃなくて『さ』なの。
 それだと『ちるの』じゃなくて『さるの』になっちゃうでしょ?」

「いいのよ!アタイほど最強になると『ち』も『さ』もどっちだって一緒なのよ!!」

よく晴れた空の下、今日も紅魔館の門の前では美鈴の青空教室が繰り広げられていた。
困ったような笑顔を浮かべてる美鈴に、チルノは何故か自慢気に胸を張っている。
それを見て、リグルと大妖精は小さく溜息をついた。これもまたいつもの光景だった。

「でもね、チルノちゃん。それじゃきっと日記も満足に書けないよ?せめて平仮名だけでも…」

「そうね。せめて門番の仕事くらいはきっちりして欲しいものよねえ」

「そうそう、せめて門番の仕事くらいは…って、ままままさか!?」

突然背後から聞こえた声に、美鈴は表情を固めたままでギギギと首を真後ろへと捻った。
そこには彼女の予想通り、満面の笑みで仁王立ちをしているメイド長、十六夜咲夜がいた。

「昨日は魔理沙に三秒KOされて少しは反省したかなと思ったら、今日は今日で懲りずに授業の時間ねえ…
 貴女、この前私が紅魔館の門番としての心構えを説いたばかりだと思うのだけど…まさかもう忘れたのかしら?」

「ひ、ひえええ…」

「出たな鬼メイドちょ…むぐっ!!」

チルノが吼える瞬間、咲夜は先手を打つようにチルノの口の中に手に持っていた飴玉を突っ込んだ。
無論、その時点でチルノの反撃は終わりだ。『おいしー!』と顔を綻ばせて美鈴の存在など既に記憶の遥か彼方だ。

「さて…と。今日は言い残すことはないわね?
 どうせこの後は仕事が出来ないようになるんだから、最後の言葉くらい聞いてあげるわよ?」

「あわわわわ…」

震える美鈴を他所に、咲夜はふと思いついたのか、リグルと大妖精の方へ向き笑顔を浮かべる。
ひぃっ!と震える二人に咲夜は笑顔のままで質問を投げかける。

「ねえ、貴女達。美鈴の事、怖くない?」

それは数日前に咲夜が二人に行った質問と全く同じ内容だった。
リグルと大妖精はお互い顔を見合わせて、恐る恐る言葉を紡ぐ。

「えっと…だから、その…」

「美鈴さんは…やっぱり優しいですし…全然怖くないです…」

二人の言葉を聞いて、咲夜は『そう』と返し、満足そうに笑った。
その笑顔を見て、リグルと大妖精は二人揃って首を傾げた。一体何の質問だったのだろう、と。

「さて…と。そろそろ覚悟は決まった?用事は済ませた?神様にお祈りは?
 部屋の隅でガタガタ震えて命乞いをする心の準備はOK?」

「そ、そんなの一生出来るわけありませえええええええん!!!」

「あ、こら!!逃げるなあああ!!!!」

脱兎の如く駆け出した美鈴を、咲夜はナイフを投擲しながら追いかける。
二人の追いかけっこを、紅魔館のバルコニーから咲夜とパチュリーはそっと眺めていた。

「いいの?なんだか以前と何も変わってないように思えるけど」

「いいのよ。あれは二人のコミュニケーションの一環なんだから。
 親子水入らずを邪魔しては無粋というものよ」

「ナイフを頭に突き立てられるコミュニケーションね…私は勘弁してもらいたいわね」

パチュリーの言葉に、『私だって御免だわ』とレミリアは笑いながら告げる。
結局、あれから二人の関係が変わる事は無かった。いつものように門番をサボる美鈴を咲夜が追いかけて、
門番隊の連中が大笑いしながら見守る。そして、美鈴に対する周囲の評価は何一つ変わらない。
変わったことは美鈴と咲夜の二人だけが知っていればそれでいい。二人だけが分かり合えれば、それだけで。

「結局のところ、美鈴もまだまだ経験不足なのよ。だから咲夜の心の傷にも気付けなかった。
 妖怪としては大妖怪だけど、彼女は人間としても母としてもまだまだこれからなの」

「数千年も生きた妖怪にまだまだこれからとはなかなか言うわねレミィは」

「あら?私はちゃんと前置きしたでしょう。妖怪としては大妖怪、とね。
 美鈴はまだ生まれたばかりなのよ。美鈴は、咲夜をその手に抱いた時、始めてこの世に人間としての生を受けたの」

ある日、気まぐれで森を散歩している時、レミリアは赤子を拾った。
その赤子――咲夜を抱き上げた瞬間、彼女には一つの運命が見えた。それは赤子が美鈴の笑顔を作り出す未来。
咲夜を抱いて紅魔館に返った時、レミリアは美鈴に咲夜を育てるように告げた。

「美鈴が始めて咲夜を抱いた時の表情、パチェも覚えているでしょう」

「ええ、忘れられる訳がないわ。きっと、私は死ぬまで忘れないわね」

「――そうね、私もきっと死ぬまで忘れないわ。忘れられる訳がないもの」

二人は微笑みながら、視線を再び門の方へと向けなおした。
そこには相変わらず追いかけっこを繰り広げる二人の姿があり、美鈴と咲夜の絶叫が大空に木霊していた。
レミリアは瞳をそっと閉じ、記憶の中の一枚のフォトグラフにそっと手をかけた。






――そう、私は忘れない。


――あの日、まだ赤子だった咲夜を初めてその腕に抱いた時の彼女の表情を。








「待ちなさああああああい!!!!!!」


「嫌あああああああ!!!これ以上ナイフは嫌ああああああ!!!って、痛ーーーーーー!!!!」










咲夜を初めて抱いた時、少女は初めて笑った。誰もが心惹かれるような、向日葵のような大輪の笑顔。

それは少女が――紅美鈴という心優しき一人の少女が本当の意味でこの世に生まれた瞬間だった。














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