それは舞い散る桜のように
〜another story〜



6月5日(水)


ドクターノンストップ












生徒達を束縛から解放する音――テスト終了のチャイムが鳴り響き、彼らの地獄の三日間はとうとう閉幕を告げた。
教室中には手応えを感じて笑みを浮かべる者、まあまあの感触でほっとするもの、泣いて神に祈る者等、
その様子は多種多様だ。そんな様子を舞人はさも他人事のように眺めていた。

「テストが終わって騒ぐなど愚かな愚民共だ。
 やはり王というものは何事にも動じず、常に胸を張っているのが相応しいと思わんかね?相良君よ」

「おおっ、そのいつになく大きく出る態度・・・もしかして今回は自信ありですか舞人大先生!」

「ククク・・・何、朕とていつまでも曹操ごときに追いやられ、こんな辺境の地に甘んじてはおられぬのでな。
 少しばかり今回は実力とやらを披露させていただこうではないか。無論、全て私の力によるものだが」

胸を張って机の上にドンと足を乗せ、高らかに笑い出す舞人を見て、山彦はへえ、と感心したように目を丸める。
昨年までは赤点大魔王の異名を取っていた舞人だが『今年は違う、今年はもう受験生だから本気を出せば
俺は一人でも勉強が出来る、加えて言うなら山彦よりも点数が高い』という姿を親友の山彦に見せつけ、
今後の二人の立場において少しでも優位に立とうというのが今回の舞人の作戦だった。
しかしそれは見事に失敗に終わる。何故なら、

「あんたテストもう終わったんだから私の数学のノート近いうちに返しなさいよ。
 あと朋絵が英語のノート返せって言ってたわよ」

「さくっち〜!私の国語と世界史のノート返して欲しいんだけど明日までによろしくね〜」

「あ、私の化学と物理も忘れないでよね」

彼の横を通り過ぎていくクラスメート達(順にはるか、希望、つばさ)の一言によって
彼が多大に他人の力を借りていることが暴露されてしまったからだ。
しかもその友人達は彼の作戦など知らないと言わんばかり(実際知る由もないが)に一言残した後
颯爽と各々帰路へとついている。残された二人の間に気まずい空気が流れる。

「お前は一体何人の孔明に依存してんだよ・・・」

「言うな・・・劉備だって一人じゃ何も出来ないんだ・・・」

「ま、でもお前人のノート借りてでもちゃんと勉強するようになってるじゃんか。少しは進歩してる証拠じゃん」

「お前らが元来勤勉家な俺を貶めるかのように毎日毎日『勉強しろ勉強しろ』と言うからだろーが!!!
 特に眼鏡!!あの眼鏡!!お前は俺のお袋かっつーの!!」

思わずダンっ、と机を強く叩いて力説する舞人に山彦は彼に合わせるような乾いた笑みを浮かべた。
確かに一年前の彼ならば他人のノートを借りて必死に勉強、というのは少し考えられなかっただろう。
だが今年より同じクラスとなった前部長の妹である結城はるかを中心として、
友人達から舞人はことあるごとに勉強しろと説教されるようになった。
無論、舞人とて初めはその言葉を冗談かと一蹴していたものの、最近気づけば本当に勉強している自分に
気づいたりするようになってしまっていたりする。
ただ、根本的なところは彼自身が気づいていないだけで、単に舞人自身が勉強に力を入れ始めたというものが
大きい理由なのだが。人に言われて勉強する気になるなど舞人には絶対にありえないのだから。

「文芸部の前部長があの結城ひかり先輩だったんだろ?常に学年トップスリーの成績に入ってたあの。
 だったら後任のお前も少しは勉強できないと文芸部の面目立たないだろうからなあ。
 ましてその優秀な自分の妹を差し置いて駄目駄目なお前を部長にしてるんだから
 結城さんだって文句の一つも言いたくなるのが普通じゃないか?」

「なりたくてなったんじゃねーっつーの!!ああ、もう腹が立つっていうかむしろ減った!!
 余は空腹じゃ!!今から昼飯を食いにいくぞ!山彦よ!我に続け!!
 今日は何だか若者嗜好を通り越した絶妙な味付けをする定食屋、『なんでやねん』のネッシー定食を完食するぞ!
 なお味の保障は出来ない故、各々の責任でご賞味あれ!!」

「いや、わりい、俺いまから用事があるんだわ。ちょっと待ち合わせがあってな」

「な、何!?貴様は女と洒落た店でいちゃつきながら軽食を嗜む方が
 俺と萎びた定食屋でマズイ飯を食うよりも良いというのか!!この非国民!」

「その選択肢なら誰だって普通にそうだろう・・・ま、今度埋め合わせはするから。じゃーな」

「あああ!!お前みたいな奴がにわかフェミニズムを主張するから関白宣言をリリースされたサダ先生が
 全国の女性からバッシングの嵐に!!」

舞人の叫び声は彼以外もはや誰も存在していない教室の中でこだまするだけだった。














「いよーーう、誰かと桜井クンじゃねえかあ!奇遇だねェ!くっくっく・・・」

「すいません失礼します」

帰宅の為に下駄箱へと向かう途中、舞人は偶然ばったり会った教師にあらん限り平然を装って会釈を交わし、
その場を去ろうとした。が・・・

「待あてコラ!顔を合わせた瞬間逃げるタァ連れねーんじゃねえか〜?」

その教師に後ろから羽交い絞めされ、舞人の逃走計画はあえなく失敗に終わってしまう。
その教師――谷河浩輝が相手の時点で彼の逃走は成功するはずもなかったのだが。
ドクターイエローの異名を持つ(主に舞人が心の中でそう呼んでいるのだが)桜坂学園の養護教諭、それが彼、谷河浩輝だ。
舞人が学園の中で数えるほどしかいない恐れている人間の一人だ。

「ひいいいい!!!僕急いでるんです!!今すぐ帰って今日のテストの自己採点とやり直しをしないと
 受験に間に合わないんです!!受験生は一日一日が勝負なんです!!」

「はん!!勉強なんかテメエは二の次、いや、三の次でいいんだよ!それよりお前と会うのは久しぶりだからな・・・
 部活でも俺とは何故かすれ違いになってたんだが・・会えて嬉しいゼェ?
 他の奴らはどうでもいいがテメエはちゃんと文芸部に毎日顔出せや」

谷河の言う通り、新学期が始まって以来舞人と谷河は今この瞬間まで一度も顔を合わせたことがなかった。
この学園のそこまでない広さと谷河の保健室勤務を考えるとその確率はかなり凄いことになるかもしれない。

「え、いや、ちょっと!!おっしゃる意味が全く分からないんですが!!
 僕と谷河先生との間には生徒と教師という接点以外の繋がりはないんです!
 更に言うなら谷河先生と文芸部はもっと関係ないと思われます!!あ、いや、これは一般的な意見でして
 俺が別に谷河先生に口答えしようとは微塵も!!」

「あ?何だ?俺と繋がりが欲しかったんか?
 いいぜェ・・・ただし俺との繋がりは深いところまで繋がってもらうがな・・・最高の悦楽を教えてやんぜ・・・」

「けけけけけけけけけけけけけけ結構です!!!ほんと僕もう帰らないと駄目なんです!!
 うちでお腹を空かせたお母さんと愛犬のチワワが僕の帰りを待ってるんです!!」

無意識のうちに両手で尻を押さえる舞人を見て谷河はククッ、と怪しく笑う。
その中性的かつ官能的な笑みは普通の女の子が見れば一発で見惚れてしまうだろう。

「まあ待てっつってんだろうが。今日は用件を言うだけにしてやるよ。
 楽しみは最後までとっておいた方が美味しくなるからなァ・・・
 今日の用件は部活の夏合宿の話だよ。テメエ企画書もう書き終わってんだろ?出せや」

「はあ?部活の夏合宿の企画書ですか?いや、まあ確かに数週間前に結城の奴に渡されましたが
 それをどうして一介の養護教諭である谷河先生に出さなければいけないんですか・・?
 というかその書類って文芸部の顧問に出すものだと俺は記憶してますが・・・」

「アァ?だから出せっつってんだろうがクソジャリ。文芸部顧問によ」

谷河との言葉の擦違いに疑問符を隠せない舞人だったが、ふとある一つの考えに辿りついた。
この答えが正しいのならば全ての辻褄があってしまうもの。舞人はそれを認めるのを必死に拒んだが、
口にすることにした。今から自分が見当外れな意見を言うということを願って。

「ま・・・まさか文芸部の新顧問って・・・・た、谷河先生であられますか!?」

「おぅ、俺だ。・・・何だそのおもしれえツラは。他の部員の奴らから何も聞いてねーんか?」

期待は常に失望を二乗する。彼の口から返ってきたものは舞人が一番望んでいない答えだった。
谷河が書の知識、博学、全ての資質において文芸部の顧問としては申し分ない。否、前顧問以上とも言えるだろう。
実際彼は去年文芸部の部員に指導している姿も舞人は自分の目で見ている。
だが、そんな理由を抜きにして舞人は絶対にこの男が顧問になることは危険だと本能で感知しているのだ。

「ま・・・全く耳にしたこともございませんが・・・
 そもそも養護教諭が部活動の顧問などされて学校側としては問題ないんでしょうか・・・」

「ヴァーカ。普通なら駄目に決まってんだろ。今回は特例なんだよ。
 何かの手違いでこの学園に保健室の教師が間違って赴任してきて俺に空き時間が出来たっつーだけだ。
 それで丁度文芸部の顧問が誰もいなかったから俺が暇つぶしに顧問になったってこった。
 ま、俺も多少細工させてもらったけどな・・・ククク」

多少、の部分をワザと強調する谷河を見て舞人は確信した。
『この男は確実に表では言えないことを多大にして顧問になったのだ』ということを。

「終わってる・・・この学園は本当にどうにかしている・・・」

「まあそんなことはどうでもいいんだよ。それより企画書出せや。
 まさか出来てませんとか忘れましたとか言う気はねえだろうなぁ?」

その後今日こんな再会があるとは露知らなかった舞人はかなり婉曲的に『持ってきてません』と伝えたところ、
問答無用で保健室へ連れて行かれたという。ちなみに実際は舞人は企画書を書いてすらなく、
そのことがバレて舞人はテスト明けの午後の時間を全て谷河の保健室で過ごすはめになった。
勿論彼が死なない程度、傷が外目に確認できない程度に痛めつけられたのは言うまでもない。









6月8日(土)


晴れ時々瞬殺ナックル





土曜ということもあり、学校を半ドンで終えた舞人は帰路につくために学校の校門を通り過ぎようとしていた。
午後から何をして過ごそうかということをのんびり考えながら。
しかし校門の傍で見知った後輩が立っているのに気づき、その後輩に気づかれないようにその場所へと近づいていく。
その後輩は何やらブックカバーの付いた本を読んでいる様で全く舞人に気づく様子もない。そして――

「こらあ!!学校が終わったんならさっさと帰らんかあああ!!!!!!」

「・・・こんにちは」

あまりの後輩――橋崎なつきの変わることの無い表情を見て舞人はガックリと肩を落とした。
舞人の『小学生なら誰もが体験済み放課後の教師に怒鳴られて超ビックリ大作戦』は見事に失敗に終わってしまったようだ。

「あのな、橋崎。お前はもう少しあれだ。先輩に花を持たせるというか、顔を立てるといった類の言葉を覚えるべきだ。
 今の社会はお前が考えているほど甘くは無い。もし俺がお前の上司だったならば今頃お前は
 気がきかない社員として真っ先にリストラリストに名を載せるところだぞ・・・って無視かよ!!」

気づいたときには彼女は既に視線を再び手に持った本の方へと戻していた。
舞人の大声に気づき、再び視線を舞人のほうへと送る。
ただ、彼女の視線には『何か用ですか?』という遠まわしの意味が込められていたが。

「いや、用って訳でもないんだがお前こんなところで何してんだ?今日は土曜だから良い子はもうゴーホームの時間だ。
 この時間帯にこんな場所で佇んでていいのは待ち合わせの約束をしてるカップル共だけだ。
 いいか、奴らは学生という勤勉に勤しむべき時間を無為無策に惰性の時間に使っている・・・」

「待ち合わせ」

「・・・・は?」

「私待ち合わせしてますから」

なつきから返ってきた言葉があまりに予想外だったものだった為か、舞人は数秒程度思考が停止する。
そんな様子の舞人に対し、なつきは表情を変えることもなく舞人の顔を見つめている。
遠くからこの状況を見ればある意味見つめ合っているカップルにも見えなくも無い。

「・・・・はああああああ!!!!!????お、お前が待ち合わせ!?
 あの睡眠以外興味が無い、他人のことはどうでもいい、無気力無関心無意識の無三冠王と言われるお前が!?
 や、やっぱりあれか!?待ち合わせの相手は、そ、その・・・お、お前のたたたたたた大切な人なのかっ!?」

先ほどの話題――カップルの待ち合わせの流れのままに、舞人は焦る気持ちを抑えきれずにストレートに尋ねる。
そう、彼女が異性に興味を持つなど文芸部員にとって本当に信じられないくらいの衝撃的なことなのだ。
元来無口な上、他人に我関せずな性格ゆえ、彼女は人付き合いというものが極端に少ない。
文芸部員の他に彼女の友人と言える人は何人いるのか。
それくらい他人に興味を示さない彼女に彼氏が出来たなどと文芸部員の誰が信じようか。
彼の言葉を受け、少し時間をかけて考えた後でなつきは多少顔を赤らめて小さく首を縦に振った。
それは即ちイエスということ。肯定の証。そして何より――彼女のそんな表情を見るのは舞人は初めてだった。
不意打ちの連続で更に舞人の思考が停止する。そんな彼をなつきは再びただ彼の顔を見つめている。
そして、何かに気づいたのか、抑揚の無い声を上げる。

「きました」

彼女の言葉に舞人はびくりと体を跳ね上げる。
今振り向けば彼女の大切な人――この誰よりも人に興味を示さない彼女の恋人がいる。それはどんな奴なのか。
好奇心と何か見てはいけないものを見てしまうかのようで後ろめたい気持ちと色んな意味での恐怖が舞人の心を締め付ける。

「ま、待て!!!まだ心の準備が!!!もう少し舞台袖で待ってもらえ!!登場が早すぎるって伝えてこい!!!」

「・・・何訳の分かんないこと言ってるんですか、さくっち先輩」

「せ、先輩こんにちはです・・・」

聞きなれた声を感じ取り、振り向いた先には彼の部活の後輩二人――遠野智里と平塚香奈が立っていた。
智里の表情は呆れ顔、香奈の表情は困惑と言ったどちらもプラスとは形容し難い表情を浮かべていた。

「と、遠野に香奈ちゃん?あれ?この真・眠り姫の王子様は?
 もしかしてドッキリとか?二人がフュージョンして男になる何てお約束なオチとか?」

「何さっきから本当に馬鹿なことばっか言ってるんですか?私たちこれから『なが沢』に行くんですけど・・・」

「え・・・じゃあ橋崎の待ち合わせの相手って、キミタチ二人?」

「はい。私と智里となつきで学校終わり次第ここに集合して『なが沢』に行こうって約束してたんです」

前から楽しみにしてたんです、と香奈は笑顔を浮かべて付け加える。
つまり要約するとなつきが待ち合わせしていたのは舞人の考えたような異性とではなく、
同性の友人と遊びに行くものだったということになる。

「お、お前紛らわしいだろうが!!
 大体さっきお前顔赤らめて待ち合わせしてる奴が大切な奴って・・・げふぅっ!!!?」

舞人が言葉を全て言い終える前になつきのナックルが彼の鳩尾へと見事に決まり、悶絶させた。
言葉も発せずただただ舞人は地面を転がりまわってもだえ苦しんでいる。
そんな彼に目もくれず、なつきはスタスタと校門の外へと出て行った。
後ろを向いているため、その顔が現在赤く染まっていることにこの場の誰も気づくことはなかったが。

「あ、なつき先に行かないでよ〜!!じゃあ私も先に『なが沢』行ってるから香奈はさくっち先輩のこと宜しくね〜!
 あ、なが沢には先輩もちゃんと連れてきてね!先輩に奢らせるから!」

「え、ええええ!?」

それじゃまた後で、と付け加え智里は走ってなつきを追いかけた。
結局舞人が普通に動けるようになるまでに数十分ほどかかり、舞人と香奈が遅れて到着した『なが沢』で
再び文芸部の嵐が巻き起こることになる。
次の日舞人は希望から店内でのマナーという名の説教を一身に受けることとなった。









6月11日(火)


赤い空の下で





「桜井、ちょっといい?」

終礼のホームルームが終わり、颯爽と鞄を片手に教室から出て行こうとした舞人をはるかが呼び止めた。
今日は早く帰って睡眠でも取ろうかと考えていた舞人は渋々と彼女の方へ視線を送る。

「藪から棒に俺様に何の用だ結城。
 生憎俺はこれから過密スケジュール過ぎて地方の過疎化を懸念しなければならない状態なんだが」

「あんたの生産社会ヒエラルキーの底辺にも掛からないスケジュールなんかどうでもいいわよ。
 ちょっと私これから私用があって帰るからあんた部活に顔出しといて。
 流石に部活動中に三年が一人もいない状況だけは作りたくないからね」

「はああ?馬鹿かお前は。さっき俺が総理大臣並みの予定スケジュールだって
 言ったばかりなのに部活へ行けだと?人の話も少しは聞きなさい。
 大体俺とお前がいなくても三年にはあと一人超天然素材女がいるだろうが。あいつはどうしたんだ?」

「その朋絵がいないからあんたに残れっつってんでしょーが。
 でなきゃあんたなんかに私が頭下げるわけないでしょう」

「今も全然下げてねーよ!!!!!しかし長原もやるもんだな、おい。
 部長副部長に何の連絡もなく部活をサボりか。とんだ不良女だ。
 あいつもいい加減お前との腐れ縁が嫌になってきたんじゃな「ぶぇぷ!!?」」

舞人が言葉を紡ぎ終える前にはるかのビンタが見事に彼の頬へと決まる。
クラスに残っていた他の生徒達はまたか、といった表情で驚くこともなくなっていた。
それほどまでに彼が日常的にはるかからビンタを貰っているという事なのだ。
まあ全般的に間違いなく舞人に非があるのだが。

「それじゃあ部活頼んだわよ。ちゃんとあんたが来たかどうか後で智里に聞くからね」

「なっ!?おいまてこら!!
 俺のビューティフルフェイスにビンタ張っておいて何事もなかったかのように去るな!!眼鏡!!アマゾネスジュニア!!鬼!!

去り行くはるかに小さい声で暴言を吐き続ける舞人を見て、クラスの人々は誰もがこう思っていた。『情けない』と。











結局部室に向かったものの舞人はすぐに部室から締め出され、学校中を散策しまわっていた。
現在行方不明中の長原朋絵を探し出すために。
先ほどはるかから言われたことを一部始終(部分部分において誇張表現を交えつつ)すると、
智里が舞人に朋絵探索を命じたのだ。
当初舞人は『監督者がいないことが理由で結城が俺をよこしたのに俺が長原を探しに出てどうする』と
反論したのだが、智里の一言(だってさくっち先輩いてもいなくても変わんないし)で一蹴された。
結局何も言い返すことが出来ずに、現在に至るという訳である。ちなみにもうかれこれ三十分は構内を探し回っただろうか。

「ああ、もう何で俺がこんな目に・・・どれもこれもみんなクソ眼鏡と馬鹿遠野のせいだ・・・一番の原因は長原だが」

嘆息をつきながら廊下を歩いていると、窓から見える屋上に小さな人影が立っていることにふと舞人は気づいた。
他の人ならば放課後のこんな時間に屋上にいるという不思議な点で目に止まったのかもしれないが、
舞人が気づいた理由は『彼女の知り合い』だったからだ。

「あれは・・・あの馬鹿」

文句を零しながら屋上へと続く階段を彼は急いで駆け上がっていく。そう、そこに彼が探し回っていた少女がいるから。
別に走る必要はなかったのかも知れない。けれど、舞人はひたすら急いで走っていた。
一秒でも早く文句が言いたかったのかもしれない。毛頭、彼自身そんなことを考える余裕は現時点ではなかったが。
息を切らして屋上の扉を開けると、そこには先ほどと同じ姿勢で彼女――長原朋絵は立っていた。
屋上のベンチに腰掛けることもなく。ただ、金網越しに『外』を見つめていた。
沈みそうな夕焼けに照らし出される彼女。後姿ゆえ舞人からは分からない筈なのに
彼女がどんな表情をしてるのか何故か舞人には分かってしまう。――とても、悲しい表情だと。
互いの時の流れが緩やかに感じさせるようにゆっくりと赤みがかった雲が流れていく。
そんな静寂を打ち破るため、躊躇いがちに舞人は声をかけることにした。

「いつまでそこにいる気だ不良女」

「えっ?わっ!さ、桜井君!?いつからそこに!」

突然の声に狼狽する朋絵を見て、何故か舞人はほっとする。いつもの彼女であることが確認できたことに。
そして今まで溜まってた鬱憤のはけ口を見つけたかのように目を光らせ、早速猛攻(口撃とも言う)をかけることを決意した。

「いつから、じゃねーよ!!部活を休むなら結城か俺に・・・というか結城に連絡しろっつーの!!
 何で俺がお前の為に学校中を駆け回らないといけないんだ!
 あ、いや、待て!別に学校中駆け回ってないぞ!?お前なんかの為に俺が無駄な体力使うか馬鹿。
 自惚れるのもそれくらいにしておけよ?」

「えっと・・・私、まだ何も言ってないんだけど・・・」

「・・・すまん、被害妄想だ。それでお前は何でこんなところで一人夕焼け拝見なんぞ
 洒落込んだことをやってるんだ?むしろグラウンド見学か?
 別にグラウンドなんぞ見ても運動部の男どもが青春の汗を流してるだけで何も面白くはなかろう。
 知り合いでもいるのか?」

「あはは、私夕焼けを見て時間を過ごすほどロマンチストじゃないし
 運動部の男の子に知り合いなんてほとんどいないよ〜。ちょっと・・・嫌なことがあったっていうか・・・それで・・・その・・・」

押し黙る彼女を見て、舞人は過去にこんな彼女を何度か見たことがあることに気づいた。
そう、それはいつもテストが終わったときに見せていた表情。
そして舞人は全ての疑問を一つの線に繋ぐことが出来た。何故彼女が今日部活をサボったのか。
何故彼女が悲しそうな顔をしてるのか。何故彼女がこんなところにきてるのか。

「数学のテストか」

「ええ!?なななな何で知って・・・あ!や!ち、違!!全然違うよ〜!
 そんな、だって私最上級生だしそんな、テストが悪かったから部活サボって落ち込むだなんて!」

慌てふためく彼女に舞人は更にギロリと視線を強めて、追い討ちをかける。
今回一人で彼女の捜索に当たらされたこと上に嘘を付かれては堪らないとでもいうように。

「数学のテストだろうが。お前が部活サボるときはそれ以外考えられないし」

「あう・・・ち、違わない・・・こともないよ・・・」

掻き消えそうな声で告げた後に朋絵はしゅん、とうつむいてしまう。
そんな彼女の様子に舞人は先ほどまでの怒りが無くなっていく自分に気づき、
様々な意味を含めているような嘆息をついた。

「・・・お前ね、いい加減もう数学のテストで度々そんな奇行に及ぶの止めろっつーの。
 数学悪くてもお前なら他の教科で十分取り返せるだろ。
 で、数学のテスト何点なんだ?言ってみ?」

「え、えええええええ〜〜!?や、やだよそんなの〜!駄目駄目!絶〜っ対駄目!」

「む、なんと強情な娘さんだ。大丈夫だって。どうせ後で嫌でも結城には点数教えるっていうか
 教えさせられるんだろ?じゃあ部長の俺にも教えないといけないだろ?
 世の中は常に縦社会、カースト制を築いているんだ。
 部長といえば部活の長、副部長に点数教える前に部長に教えるのが筋ってもんだろう」

「い、言ってることが滅茶苦茶だよ〜・・・」

「ほ〜う?そうかそうか。長原は自分を見つける為に頑張ってくれた人間に対してそういう態度を示すのか。
 RPGで言えばお前が姫で助けに来てくれた勇者に
 向かってドロップキックかまして『ゲラウドヒア』って言うようなもんだよな。長原ってある意味凄いよな」

「ううう・・・ぜ、絶対誰にも言わない・・・?」

「勿論。俺の口は山より硬く海より硬く、冬にも夏の暑さにも硬くって有名ですことよ?レディ、ナガハラ」

「う〜・・・じゃあ、耳貸してね・・・」

舞人の近くにより、耳打ちで自分の点数を舞人に告げる。
そして告げられた時の舞人の表情が見事に朋絵の点数を物語っていた。

「・・・・うわあ」

「そ、そんな人を哀れむような目で見ないでよ〜・・・酷いよ桜井君・・・」

「・・・酷いのはお前の点数だろう。お前、本当に何で数学だけこうなんだ?」

「うう・・・それが分かったら苦労なんかしないよお・・・」

我慢の限界だったのか突如朋絵の目からぽろぽろと涙が溢れ出した。
彼女の突然の涙に舞人はただ驚き以外の感情が見つからなかった。

「なっ!?泣く程のことかよ!?ちょ、ちょっと落ち着け!!
 年頃の娘さんがこんな小さなことで泣くんじゃありません!」

「だって・・・だって・・・」

舞人の前で未だ嗚咽を漏らす彼女に舞人はふと気づいたことがあった。
何故彼女が一人でこんな人気のない場所にいたのか。それはこの涙を人に見られたくなかったからじゃないのか。
そして更に彼の思考は続く。毎回毎回テストの結果が返ってくる度に脱走していたのはこれが原因だったのではないか、と。

「・・・お前さ、もしかして定期テストが終わる度に数学の結果見ては
 毎回こうやってどこか一人で隠れては泣いてたわけ?」

未だ嗚咽を漏らしつつ朋絵はコクンとだけ首を縦に振った。
顔が真っ赤なのはただ泣いてるからという理由だけではないだろう。純粋に恥ずかしさも感じているのだろう。
そんな彼女を見て舞人はただただ呆然とするしかなかった。
普段の彼女からは想像だに出来ないくらいの幼い理由での涙。その意外性にただ舞人は驚き呆れるばかりだった。

「ば・・・馬鹿だ・・・本物の大馬鹿者がいる・・・
 悪いが俺の中の馬鹿ランキング首位の雪村を抜いてお前がトップに躍り出たぞ。
 しかも喜べ、雪村とは7.5ゲーム差ついててもはやマジック点灯してる勢いだ」

「う、嬉しくないよそんなの・・・」

場を和まそうとした冗談も今となっては何の緩衝材にすらならない。
それが分かっていたから彼女はいつも一人でこのような場所で泣いていたのだろう。
舞人はそんな彼女を見て思う。もしかして彼女にとってテストの結果――数学の結果は特別なものなのではないだろうか。
彼女をこうまでさせる何かがあるのではないだろうか、と。
彼女の嗚咽は止まったもののこのままでは部活に行っても間違いなく泣いていたことがばれるだろう。
だから彼女は部活に顔が出せないのだろう。だからこの場から動かなかったのだろう。

「・・・・ったく・・・」

何か覚悟を決めたのか、舞人は近くのベンチに寝転がり、目をつぶった。
突然の彼の行動に戸惑いを隠せず、朋絵は彼のいるところへと近づいていく。

「さ、桜井君・・・?」

「俺は今日は疲れてるんだから本来部活は休んで家でスリーピングヘヴンに突入する予定だったんだよ。
 それなのにお前のせいでそんな些細な願いすら叶わなくて不愉快だ。よって今寝る。
 長原には適当な時間になったら俺を起こすという崇高な任務を与える。んじゃ任せた。
 起こす時間はお前が問題なく部活に参加できるようになってからだ」

そうぶっきらぼうに言って、舞人は本当にそのまま寝入ってしまった。
最初舞人の言葉の意味が飲み込めず、ぼーっとしていた朋絵だが、
理解できたのか舞人の寝ている横に座り、笑顔で彼のほうを見つめて

「桜井君・・・ありがとう」

一言――大切な言葉を送った。朋絵の言葉は果てしない夕焼け空へと吸い込まれていく。
きっと寝ている舞人には届かないだろうが。










6月14日(金)


active girl




「さくっち〜、智里ちゃんが来てるよー」

放課後の教室で掃除当番の仕事をしていた舞人に、
同じく掃除当番である希望がトコトコと彼の元へ近づいて用件を告げる。
箒を持ったまま視線を入り口のほうに送るとそこには彼の部活の後輩――遠野智里がこんにちわ〜、とでも
言うように笑顔で舞人のほうを向いて立っていた。

「はあ?馬鹿モノ、そんな捨て犬みたいなものを拾ってくるな。
 ウチではそんな馬鹿を飼ってるほど金銭的精神的余裕はないのよ?さっさと元の場所へ返してらっしゃい!
 大体折角の放課後なのに掃除当番に使役されている先輩様の教室へ来るなんて
 当て付けがましい態度が気に入らない。手伝いきたのなら取り合ってやっても構わないって伝えとけ」

「うっわ〜・・・今時の小学生でも使わないような照れ隠し発言しなくても・・・
 まあこんな可愛い後輩が教室に来て照れる気持ちは分からなくもないですけどね」

しっしっと野良犬を追い払うような仕草を見せている舞人の目の前に何時の間に希望と入れ替わったのか、
先ほどまで教室の入り口にいた智里がやれやれといった表情を浮かべていた。
ちなみに先ほどまでいた希望はもう既に廊下のほうへ掃除へと戻っていた。

「ぐっ・・・お、お前何時の間に・・・つーか今の言葉をどう受け取れば照れ隠しになるんだ」

「普通に受け取りましたけど。まあそれはいいとして今日はちょっーっと先輩に用がありまして」

「用?お前が?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・帰れ」

「わっ!!私の話を聞く前から突っぱねないで下さいよ!まだ内容も話してないんですよ?
 もしかしたら可愛い後輩が実は先輩のことが大好きで今日告白に来たのかもしれないんですよ?
 そんなドキドキな展開が待ってるのかもしれませんよ?」

「星崎床の方は大体終わったから先に帰るからなー!・・・で、何だって?」

「へええ〜・・・そういう態度に出るんですか〜・・・まあ、別に?私も無理にとは言いませんよ。
 別にさくっち先輩にとって私がその程度ってだけですから〜。
 だからその程度の相手がこのクラスでちょっとさくっち先輩の話を先輩方としても全然平気ですよね〜。
 例えば〜!!この前屋上で〜ともちゃん先輩を〜!!」

「おわああああああああああ!!!!!!!!!待てえええええええ!!!!!!!!!!!」

慌てて智里の口を手で押さえつける舞人にクラスに残っている彼以外の掃除当番たちの視線が集まる。
そんなクラスメート達を誤魔化すかのように舞人はジェスチャーで何でもない、という意思を込めて彼らに送った。

「お・・・お前・・・見てたのか・・・」

上ずった声で彼女の言葉の意味を確認する焦りきった舞人の表情を見て、智里はにんまりと最高の笑顔を浮かべた。

「いえいえいえ。ほら〜、あの時ああは言ったものの
 さくっち先輩だけじゃ見つからないかもって思って私も図書館飛び出て探し回ってたんですよね。
 そしてふと屋上に行ってみたら〜何ということでしょう!さくっち先輩がともちゃん先輩を泣かしてムググっ!」

彼女の口から決して他人から出る筈の無い情報が出たのを聞いて舞人は本格的に背中の筋が凍る感覚に襲われた。
自分が直接泣かせた訳ではないとはいえ三日前泣いた少女――長原朋絵の親友である結城はるかに
このことが知れたら自分の命はないことは明白だ。
唯でさえここ二日間部活をサボっているのだから下手をすれば骨一つ残らない状況だって考えうるのだ。

「??どうかしたのさくっち」

「あ〜、い、いや!何でもない!じゃあ俺今から帰るからな!」

様子のおかしな舞人に声をかけた希望を他所に、舞人は智里を引き連れて慌てて教室を飛び出してしまった。
彼らの背後から希望の『掃除当番終わってないでしょー!』という声が響いたのだが
今の舞人にそんなことを聞き取る余裕なんてある筈もなかった。


















「・・・ったく、結局はこういうことかよおい」

智里が舞人に出した屋上での件を他人に口外しない条件は
『今日は部活まで時間があるので暇つぶしに遊ぶ&クレープを奢って欲しい』というものだった。
今月あまり余裕が無い舞人にとってクレープは正直予想外の大出費以外の何者でもなかったが、
背に腹は変えられないということで止むを得ずOKをだした。
そして二人で桜通りのクレープ屋に至るという訳だ。平日のクレープ屋のオープンテラスでは
学生も少なくはなく、桜坂学園の生徒が彼ら以外に何人も席に座っていた。
そこでまだ部活までには時間があるということもあり、先ほどの約束通り舞人は智里と一緒に
桜通りをぶらつく羽目になった。彼に反対意見を唱える権利などないのだから。

「まあまあ!いいじゃないですか〜。これでさくっち先輩とともちゃん先輩の色事情を知る人間がゼロになったんですから。
 それにさくっち先輩は何もすることがない時間を私みたいな可愛い女の子と過ごせてラッキー、
 私はクレープが食べられてラッキー、まさにギブアンドテイクじゃないですか!」

「どこがだっ!!それに何が長原との色事情だっつーの。あいつは女以前の問題すら覚えるぞ」

「はいはい、そういうことにしておいてあげますよ。
 全く先輩は香奈とかぐらちゃん以外には毒舌なんだからね〜差別的ですよ」

「その二人しかまともな娘がいないからだ馬鹿者。
 俺だって普通の女の子には優しく接するハンサム&フェミニズムだからな」

「まあさくっち先輩がまともじゃないことは知ってますけどね。あ、これ前より甘くなくなってる・・・あ〜あ」

先ほど買った(舞人が)クレープを一かじりして、智里はがっくりと肩を落として舞人のほうを見た。

「何故俺の方を見て溜息をつくんだ。大体クレープ屋なんて味はいつも変わらんものだろうが」

「あ〜!今の発言はちょっとひっかかりますよ!
 クレープだってその日その日でちゃんと味が変わるものなんですよ!時に甘く、時に切なく、時に激しく・・・」

「変わるか馬鹿」

「馬鹿馬鹿言わないで下さいよ!私が本当に馬鹿になっちゃったらどうするんですか、もう!」

「お前自覚症状無かったのか・・・うむ、それを加えて合わせ技で一本だな。
 今のお前の馬鹿さ加減ならメダルも充分射程範囲内・・・」

商店街のとある店の前。そこで舞人は思わず足を止めた。いや、止まってしまった。
その店は宮川書店。普通の人にとってはどこにでもあるようなごく普通の本屋でしかない。
だが、彼にとってはそこはあまり触れたくない場所でもあった。
そこは彼の――彼の大切だった人が働いていた場所。まだ働いているかもしれない場所。
様々なことが脳裏を駆け巡る――とても悲しい場所。

「せーんぱいっ」

店をただ眺めていた舞人に後ろから誰かが背中に抱きつく感覚が彼の止まっていた意識を覚醒させた。
後ろから手を回して彼に抱きついた女の子は先ほどまで一緒に騒いでいた智里だった。

「おわあっ!!?な、何やってんだよお前は!!!??あわわわわわ・・・・・は、離れろ!!」

「あれ、小町の物真似してみたんですけど似てませんでした?自信あったんだけどな〜」

慌てふためく舞人を他所に一人残念そうな顔をする智里。未だ彼女は舞人に抱きついたままだ。

「ばばばばばばばばば馬鹿者!!それどころじゃない!!
 雪村なんぞより今は巨大な問題が!!せせせせせ背中!!!」

彼が指摘するように今彼の背中には彼女が女性であると認識しなおすには充分過ぎる感覚――胸の膨らみが
背中に押し当たる感覚があった。
そんな彼の様子を知ってか知らずか、彼女は以前として離れる気配を見せない。
傍から見れば仲の良い恋人同士がジャレあっている姿そのものでもある。

「さ〜て!んじゃクレープも奢ってもらったことだし今から部活に行きましょうか!
 今日遅刻した責任は全部さくっち先輩に押し付けるので張り切ってはる先輩に怒られてくださいね!」

「はああ?ぷ、ぷじゃけるな!!お前が俺を半脅迫気味につれだしたんだろーが!遅刻はお前が一人で怒られて来い!!
 それに俺はこのまま帰宅してスーパーに切れたカップ麺の買出しという使命がっ!!」

「はいはいそれじゃあレッツゴー!・・・ったくもう、こだま先輩のことになると本当にらしくなくなるんだから・・・」

舞人を抱きしめていた手を離し――たかと思うと今度は舞人の制服の襟元を掴んで学園の方へと彼を引っ張っていく。
無論彼に拒否権などある筈も無い。

「ぐがががが!!!!て、手を離せーーーーー!!!!!!!」

思いっきり首が絞まってもがいている今の彼には当然彼女の呟きは聞こえなかったが。









6月17日(月)


傷痕





「こらこらキミタチ。こんな学校が終わったばかりだといわんばかりの時間にバカップルぶりを発揮されては
 常日頃ラブを追及する愛の詩人こと桜井ビューティー舞人も真っ青だよ」

「舞人お兄様、こんにちわです」

「舞人兄・・・絶対勘違いしてるでしょ」

桜通りを仲良く歩くお子様カップル――佐伯和人と川原瑞音の二人を発見し、舞人は意気揚々と声をかけた。
舞人の顔を見て一方は少しゲンナリとした表情(この場合舞人の発言を聞いて、なのだが)を浮かべ、
一方ではとても柔らかな笑顔を浮かべてくれた。

「いやいや、こんな平日の夕刻時に男女でイチャついてる時点で俺は全てを悟ることが出来るぞ。
 流石は呪われし佐伯の血を引いているといったところか。
 それで式はいつに決めてるんだ?高校卒業と同時か?大学卒業後か?
 和観さんは今すぐにでも入籍して欲しいとか言うんだろうけどな」

「舞人兄、やっぱり勘違いしてるよ・・・それに舞人兄だって人のこと言えないじゃないか」

「はあ?馬鹿かお前は。俺は硬派だからお前と違ってこんな明るいときに女を連れて回ったりしないぞ。
 いや、本当は女なら腐るほどいるのですよ?ホントですよ?」

「?でも後ろの方で舞人兄の名前を叫んでるお姉さんって舞人兄の友達じゃないの?
 しかも遠目で分かるくらい負のオーラみたいなものを出してるんだけど・・・」

和人が指を指した方向には舞人と同じ学園の制服を着た女の子が
制服着用時とは思えない程のスピードで舞人達の元へ走ってきていた。
その姿を確認した舞人は突き抜ける青空のような笑顔を浮かべ、和人に向かって力強くサムズアップをした。

「はっはっは。馬鹿だなあ和人は。あれは女じゃないよ。
 あれはね、はっきり言って暴力の塊としか定義出来ない生き物なんだ。
 なお今から俺は逃避の旅に出るから引き続きデートを楽しんでくれたまえ。若者達よ、しっかりと大志を抱けよ!」

言い終わるや否や、舞人は彼らの方へ向かってくる女学生とは全く反対の方向へと走り去ってしまった。

「さーーーくーーーーらーーーいーーー!!!!!!!」

そして彼を追うように名門桜坂学園の女学生――結城はるかも二人の目の前を走り抜けていった。

「舞人お兄様、行ってしまわれましたね」

「うん・・・僕、数年後あんな風になるのだけは嫌だな・・・」

明日は我が身と震える和人だが今より数年後、彼が舞人と同じ道を辿る羽目になることを彼はまだ知らない。













一時間以上にも及ぶ舞人の逃走劇は結局はるかの勝ちに終わった。
彼の必死の力走もあえなく、駅前プロムナードで首根っこをはるかに捕まれてしまい、現在に至る。

「あーんーたーはーどーしてそう部長としての誇りとかそういうのが無いのっ!?
 部活堂々とサボる部長が何処の世界にいるっていうのよ!!」

「お、落ち着け結城!俺だってサボりたくてサボってる訳じゃないんだよ!
 そう、これには山より高く、海より深い理由があるんだっつーの!!」

「じゃあ何で部活サボるのよ。言ってみなさいよ、聞いてあげるから」

「ふむ、それは簡単な理由だよ。俺の気が向かなかったからだ。それ以外の理由が要るのかね?」

「何どこぞの弓兵みたいに格好つけてフザけたコト言ってんのよ!!!!
 しかも全然山よりも高くも海よりも深くもないじゃない!!あんた私のこと舐めてる訳!!?」

「お、おいこんな公共の面前で俺を殴るのはどうかと思いますよ!?
 大体お前だって俺を追っかけてきてるから部活サボってるじゃないか」

「あたしはいいのよ!!!あーもー今日という今日は許さない!!絶対許さない!!
 あんたの性根を一から叩きなおさないと気がすまないわよ!!」

「む、まるで人の性根が腐ってるみたいな言い草だ。
 長寿で有名な『桜』井なのに若くして根が腐ってるとはこれ如何に。
 こいつは一本取られましたな・・・って、わー!!結城ストップ!!ストップ!!!」

舞人のくだらない冗談にとうとう怒りが限界点に達したはるかの拳を舞人は必死に受け止める。
少しでも手の力を緩めれば彼の頬を彼女の鉄拳が見事捕らえてしまうだろう。
二人の命をかけた(主に舞人が)一進一退の攻防が駅前プロムナード――恋人達がよく待ち合わせで使う場所で
繰り広げられているのだから回りの人間にとっては迷惑この上ない。
しかしそんな永遠に続くとさえ思われた状態も意外な人物によって解かれることとなった。

「・・・はるに桜井、何こんなトコで夫婦漫才してるわけ?」

「「え・・・?さ、佐竹先輩?」」

彼らの小戦争を終結へと向かわせた人物は去年まで文芸部に在籍していた先輩――佐竹だった。
彼女は文芸部で舞人が色々な意味でお世話になった女性の一人で、舞人にとってもはるかにとっても顔見知りの人であった。

「こんちわっ!しかしあんたら仲良いね〜!
 まさか桜井がはるに手を出す甲斐性があっただなんて私もびっくりだよ!やる〜!」

「んなっ!?それは誤解どころか十階ですよ佐竹先輩!
 いくら俺が世界一のフェミニストとは言え、女ですらない生き物を娶るような性癖は持ってませんよ!!」

「さ・く・ら・い〜・・・あんたもう明日から学校にこれなくしてあげるわ・・・」

「あがががががが!!!く、ぐびがじまってる!!ぎぶ、ぎぶ・・・」

徐に首を絞められる舞人はジタバタと彼女の手から逃れるために悪あがきをする。
佐竹の登場で一度は冷静さを取り戻したはるかではあったが、
それに気づかず余計な一言を入れる舞人はある意味本物の天然バカなのかもしれない。

「あらら、普段冷静なはるがここまでなるなんて。
 この姿を部長が見たら喜ぶだろうね〜。今から連絡してあげよっか?」

「だ、だだだ駄目です!!!お姉ちゃんにだけは内緒にしてくださいっ!!お願いですから!!」

「わ、分かってるから!分かってるからそんなマジにならないで!
 それよりはる、いい加減手を離してあげたら?桜井もう顔色が紫っぽくなってるよ?」

「え、あ・・・」

視線を舞人の方へ向けると、佐竹の指摘通り舞人の顔色は正直見るに耐えないほどに紫色に染まっていた。
先ほどから彼の首を絞めっぱなしだったことを失念していた彼女は今になって彼から手を離すが時既に遅し。
彼は見事に『オチ』ていた。

「あ〜あ・・・まあ、いいんじゃないの?
 これから桜井にとってもはるにとっても一番会いたくない人がこの場所にくるんだから」

佐竹の言葉に先ほどまで慌てふためいていたはるかの顔が真剣なものへと変わる。
彼女の言葉――舞人にとってもはるかにとっても『一番会いたくない人』。

「・・・こだま先輩と待ち合わせだったんですか?」

「うん、まあね。はるはまだ、こだまのこと許してないんでしょ?」

先ほどとは明らかに声質が違う彼女だが佐竹は気にする様子も無く答えた。
佐竹の質問を受け、はるかの表情は更に強張る。それは親しい者にしか分からない程度の変化ではあったが。

「・・・・・別に許すとか許さないとかじゃありません。私はただあの人が・・・」

「はる」

佐竹の呼びかけに、はるかは言いかけた言葉を飲み込む。それは決して口にしてはならないことだったから。

「・・・・すいません」

「終わったことを言ってもしょうがないよ。桜井とこだまは愛し合ってた。
 それだけははるだって分かってた事だし、何よりあの人だってそれを分かった上で二人を応援したんでしょ。
 だったらそのことをはるがどうこう言ってもしょうがないじゃん?」

「佐竹先輩はそうかもしれません。でも私はやはり認めたくありません」

「でしょうねえ。ま、それがアンタのいい所だよ。
 アンタは未だに思い込んでるのかもしれないけど『はる』の良い所ってちゃんとあるんだから」

瞬間――彼女の表情が少し崩れた。
それは事情を知ってる者にしか触れさせてはいない傷。その傷に触れられた為の反応。
その表情は普段の彼女からは想像だに出来ないような儚げな、そしてヒトの弱さを秘めた悲しい表情だった。

「それじゃさっさと行った行った。私はこれからこだまとミヤでカラオケ大会なんだから。
 アンタのお姉ちゃん最近大学が忙しいからって全然遊んでくれないのよ〜?
 今日佐竹先輩が寂しがってたってちゃんと伝えてよね」

「・・・そのようにちゃんと伝えておきますよ。では、失礼します」

気絶したままの舞人の腕を肩に回して、はるかは学園の方へと踵を返し去っていった。
彼女達の姿が見えなくなり、佐竹は誰にでもなく一人大きな溜息をつく。

「・・・相変わらず根が深いわ・・・まあ、それもそうかな。
 あんな終わり方したんじゃ、こだまのことを一番恨むのは当然はるだもんね・・・」

事情を知ってる者――傍観者は腕時計で時間を確認しながら
今か今かと親友が待ち合わせ場所に早く来ることを祈っていた。
彼女の溜息を作った原因でもある親友――里見こだまが早くこの場所に来ることを。












6月20日(木)


resolution




放課後の図書室では日々文芸部が活動に勤しんでいる。それはこの桜坂学園で今年度より常識化されたことである。
昨年までは週三日のみ文芸部が放課後を貸切状態で使っていたのだが、
今年からは毎日部活が出来る代わりに他の図書室利用者と共用することとなったのだ。
そして彼ら文芸部は多大な部活数を誇るこの桜坂学園において、
それほど時間帯拘束がない部活――簡単に言うと早めに帰宅できる部活だ。
だから本来ならば彼らは放課後の六時半には既に解散となっているのが通常なのだが・・・



「それでだ。つまりシマウマ、パンダは白地に黒なのか黒地に白なのかという問題は人類の永久の問題としてだな」

「ええー!それだけ前振りしておいて結局『理由は分からない』オチですか!?うっわ・・・面白くないなあ・・・」

「ええい!!だまらっしゃい!!お前と違って香奈ちゃんやかぐらちゃんは楽しそうに聞いてたではないか!!
 貴様は後輩らしさをもっと二人から学べっつーの!
 いいか遠野、貴様は星崎や八重樫から余計なことばかり学んでばかりで人生の在り方が見えていない。
 偉大な先輩が何か言えば後輩は有無を言わずに敬う振りをしろ」

「で、でも本当に面白かったです。ね、かぐらちゃん」

「はい!もう舞人さんの溢れる知識の泉はまさにトリ○アの泉が如しですよ!
 それだけ無駄知識が無意味に溢れるなんて尊敬しちゃいます!!」

「む・・・無駄・・・・無意味・・・・」

「あーー!!う、嘘です冗談ですー!!もう凄く有意義かつ有用な知識過ぎて私感動しましたから!!
 凄いです!流石文芸部って感じですよね!部長ですよね!」








「朋絵、何見て笑ってんの?ちょっと何も無いところで笑ったりするなんてアンタ変な奴みたいよ」

「わ!ひ、酷いよはるか〜!ちょっと桜井君達の方を見てたんだけだよ。でも、本当にみんな面白いよね」

「まあ、個性派人間の集まりだから傍から見れば確かに面白いでしょうね。
 ったく、もう少しあの気力を部活に回して欲しいんだけどね・・・
 なつきなんかあのうるさい中で寝っぱなしじゃないの。ある意味尊敬するわよ」

「あ、あはは・・・ご、ごめんね」

「あんたが謝ってどーすんのよ。それに他人事みたいに言ってるけどアンタだって傍から見てて充分面白い人よ。
 むしろ個性派集団で桜井と並んでツートップってところかしら」

「それって何か全然嬉しくないよ・・・」






そんな訳でこの部活は解散時間になってもなかなか解散しない。理由は色々あるのだが最たる原因は舞人だろう。
舞人と智里の変な張り合いが始まり、智里が帰らないので香奈も一緒に残り、
気付けば何故かかぐらまで残り、まだ部室が開いているという理由でなつきは睡眠を継続し始める。
それらを見てはるかと朋絵は先に帰ったり鍵をかけたりすることも出来ず、本の整理を初めとした作業に回る。
それがこの部活の舞人が来たときの定例となっていた。
ただ、舞人が来ない日はちゃんと時間には解散となる為、原因は舞人と断言できるのである。
ただ、部員の全員がこの空気のことが嫌いではなく、むしろ好ましいと思っていた。そして、

「そろそろ本当に帰らないと校門に鍵かけられそうだから出るわよ」

このようにはるかの一声がこの部活の本当の終了の合図となる。
各々図書室の椅子の整理、消灯、鍵かけ等の作業をして部活を終える。
ちなみに文芸部としての活動――文章を書いたりの作業は舞人が来たときは全然進まないという現状に
はるかだけが頭を痛めていた。









「それじゃ私たちはこっちだから寄り道せずに帰るのよ」

「香奈ちゃん、智里ちゃん、桜井君、また明日だよ〜」

「先輩方失礼します〜!」

「・・・さよなら」

学園から少々歩いた交差点で文芸部の集団ははるか、朋絵、かぐら、なつきの四人と別れる。
帰宅方向を大きく分けるとこの二つのグループになるからだ。
香奈と智里の家は隣同士に隣接している為、帰る方向が全く同じなのだ。
舞人も方角的には同じ方向である。ただ、舞人の住むさくら荘の方が多少学園に近い。

「それじゃ、私はこの辺でー!
 さくっち先輩二人っきりだからって香奈に変なことしたら毎晩無言電話かけますからねー!」

三人となり、学園から交差点ほどの距離を更に歩いたところで智里は笑顔で爆弾のような言霊を放つ。
こういう言葉の一つ一つが彼女らしさなのだろうが。

「ち、智里!」

「何気に陰湿だなオイ!!っつーかお前今日家に帰らないのか?香奈ちゃん家の隣だろお前ん家」

「そうなんですけど今日はお婆ちゃんの家に遊びに行くことになってまして!
 お婆ちゃん家には電車に乗らないといけないのでここでお別れなんですよ」

ふーん、と興味がなさそうに相槌を打つ舞人に対して香奈は疑問符を浮かべたような表情を見せた。

「でも智里のおばあちゃんって確か実家は・・・はうっ」

先ほど頭に浮かんだ疑問を口にしようとした香奈の頭を智里は軽く叩き、
何事も無かったかのようにあはは、と誤魔化し笑いを浮かべた。
そんなやり取りを気に留める様子も無く、舞人はしっしっと野良犬を追い払うような仕草を智里へ送る。

「ならばさっさと行った行った。むしろ急いで行ったほうがいいな。
 出来れば三秒以内に視界から消えてくれるとありがたい」

「はいはいお邪魔虫は消えますよーだ。それじゃあ香奈、また明日ねー!
 先輩、明日はる先輩にさくっち先輩がこの前図書館の辞書破いちゃったこと報告しておきますからー!」

「ま、待てええええ!!!!!お前その件はこの前『なが沢』で
 俺が寂しい懐を必死で我慢して奢ってやったアンコ・ド・カンテーヌでチャラじゃねえのかよ!!!」

舞人の叫びも虚しく智里は彼の言葉通り三秒かかるかかからないかのスピードで二人から遠ざかっていった。
彼らの会話を聞いていた香奈はいつものことながらどうすればいいのかただただ困惑するだけだった。









香奈と夜二人きりで帰ったりすることに舞人は何の抵抗もなかった。
それは勿論異性として全く意識せずに会話をすることが出来ていると言い換えてもいい。
元々、彼女と二人で帰るのはこれが初めてではなかった。何度か帰ったこともあるし、休日二人で遊んだこともある。
彼にとって香奈はそういう存在だった。
二年のある時期に本格的に部活をはじめた舞人はその頃から香奈とは交友していた。
言葉数は少なかったけれど後輩の中で初めて舞人を慕い、頼ってくれたのが香奈だった。
そんな香奈は舞人にとってある種特別な後輩だった。だから舞人は彼女に対して苗字ではなく名前で呼ぶ。
かぐらとは別の意味での特別な意味を込めて。
しかし裏を返せば極めて近く、そして限りなく遠い距離。それが二人の距離なのかもしれない。
舞人にとって香奈の存在、香奈にとって舞人の存在は大きく異なるものなのだから。

「あの、先輩・・・少しお聞きしてもいいですか?」

「ん?まあ答えれる範囲ならいくらでもいいよ。まあ俺の答えれる範囲はイ○ローも真っ青なほどの守備範囲だからね。
 とりあえず現在の預金通帳の残高以外ならなんでも聞いて」

「え、えっと・・・それじゃ聞きますけど、先輩、部活は楽しいですか?」

彼女の口から出た一言はとても意外な一言だった。部活は楽しいか。
その質問の意味を舞人は香奈から汲み取ることが出来なかった。
ジョークを言おうかと舞人は一瞬考えたものの彼女――香奈の表情を見て、それは今してはいけないことだと感じた。
それは、彼女の表情があまりにも真剣なものだったから。
数刻二人の間に無言の時が流れ、舞人は多少恥ずかしさがあるものの、意を決して自分の本音を言うことにした。

「正直人を殴る眼鏡はいるわ先輩を敬わないやかましい後輩はいるわ
 超天然素材で人に迷惑ばっかかける奴はいるわ寝てばかりの奴はいるわロクな部活じゃないけど・・・
 俺は、楽しいと思う。出来るなら、こんな時がいつまでも続けばいいかなって思うよ。ははっ、何かキャラが違うね俺」

「いえ、そんなことないです!・・・本当に、良かったです」

彼のおどけた言葉に香奈は必死に否定をする。
その様子はまるで自分自身を舞人の言葉で無理矢理安心させているような様子であった。
ただ、舞人には彼女の質問の意味合いが心に引っかかり、聞いていいものかどうか考えたが、結局聞くことにした。

「でもどうしたの急にそんなこと聞いたりして。もしかして俺がつまんないって答えると思ってた?」

「あ・・・う・・・い、いえ」

「あはは、まあしょうがないよな。部長のくせにサボったりしてるんだからそう思われてても仕方がない。
 部長としては俺よりも遥かに結城の方が適に・・・」

「ち、違いますっ!!!」

普段の彼女からは考えられないくらいの声量で力いっぱい否定の意思を示す香奈に舞人は驚きを隠せなかった。
舞人が彼女と知り合って以来、彼女が声を張り上げることなんて以前に一度としてあっただろうか。
彼女の普段とは違う様子に舞人は恐る恐る声をかける。

「か・・・かな、ちゃん?」

「あ・・・・ご、ごめんなさい・・・」

自分が声を張り上げたことに今気付いたように、香奈は顔を真っ赤に染め上げる。
普段から声を出すことに慣れていないことに加え、舞人の前でいきなり大声を出したことに対する羞恥心が
今になってこみ上げてきたようだ。

「いや、ちょっとびっくりしたけど全然気にしてないから構わないから。
 でもまさか香奈ちゃんが大きな声を上げる瞬間を目撃することが出来たなんて俺くらいじゃない?
 むしろこれは歴史的瞬間に立ち会えたってことを喜ぶべきなのかな?
 ふっふっふ・・・明日遠野の馬鹿に自慢してやろうかな」

「うう・・・せ、先輩酷いです・・・」

「あ、いや当然嘘ですよ!?というかさっきの質問の繰り返しになるけどどうしてそんな質問したのかな?」

言葉を受け、香奈は先ほど彼に質問したときの表情――否、それ以上に深刻そうな表情を浮かべた。
それは何かを必死で塞き止めてるような、そんな辛さを感じさせる表情。そして、香奈はぽつり、と話し始めた。

「・・・不安だったんです・・・私たち、勝手に先輩を部長に決めちゃって・・・
 それで先輩を拘束してるんじゃないかって・・・それに・・・」

「それに・・・?」

「あの場所は・・・先輩にとって苦痛じゃないのかなって・・・辛くないのかなって・・・前からそう思って・・・だから・・・」

もはや香奈の言葉の切っ先には力が全く込められていなかった。
それはまるで独り言を呟くような、何かに懺悔する様なそんな独白。
舞人の部長任命――それは去年文芸部全員、いや、里見こだま以外の全員で決めたことだった。
発案者は前部長の結城ひかり。
彼、桜井舞人を部長にすることは全く事情を知らない人間から見ればおかしなことだ。
部活は来ない、二年のときから参加、本への興味が無い、そんな者を誰が部長に出来るだろう。
けれど文芸部員全員は舞人を部長にすることを承諾した。彼女達にとって『彼』は特別だったから。
彼が部活の在り方を、どれだけ雰囲気を変えてくれたかを知っていたから。
だから彼女達は舞人に図書室をこのまま悲しい思い出だけの場所に、二度と訪れないような場所にして欲しくはなかった。

だが、それとは一方で香奈は思い悩んでいた。それは一方的な私達の考えの押し付けではないかと。
部長任命で強制的に部活に参加させることは舞人を縛り付けることではないか。
私達が先輩を必要とするだけの為に先輩を辛い場所に押し込めてるのではないか。
そんな考えの呪縛がいつも彼女を締め付けていた。舞人が笑う度に、舞人が楽しそうにする度に
彼女は不安になった。先輩は無理をしてるのではないか、と。
ただ、それをなかなか口にすることは出来なかった。そのことを口にすると言うことは
すわなち彼の傷口――こだまに触れるということ。それだけはしてはならないこと。
だからこそ今の彼女は震えが止まらなかった。自分の勘違いじみた不安の為に彼の傷口に触れたから。
そのことで彼に嫌われたりするかもしれないことが怖かった。

そしてお互い無言の時間が過ぎたとき、うつむいたままの香奈の頭に優しく手が添えられた。

「せ、先輩・・・?」

顔を上げた香奈の視線の先には舞人がいつか見た表情――とても優しげな表情で不器用に微笑んでいた。
香奈の頭をそっと撫でながら舞人は目を閉じて言葉を紡ぎ出す。
何も見ずに、真っ向から自分の心からの思いと対峙しあうために。

「苦痛なんかじゃないさ。弱音を吐くわけじゃないけど確かにあの場所で辛い事はあった。
 けどね、それから目を背けたり、忘れたりしちゃ逃げるのと一緒なんだ。
 忘れることが救いになることなんて何もないんだ・・・少なくとも俺はそう思いたい。
 悲しい記憶であってもそれを抱いて歩いていきたい。
 それにさ、さっきも言ったけど俺はあの場所が本当に楽しいと思う。
 馬鹿な奴ばかりだし馬鹿なことばかりしてるけど、それでもこんな時がいつまでも続けばいいと思ってる」

「先輩・・・」

舞人はゆっくりと目を開けていつもの表情に戻り、香奈に笑いかける。

「だからさ、もうそんな風に思わなくていいんだよ。俺は大丈夫。俺は好きだからあの場所にいるんだから。
 おっと、この話はここだけの話ってことにしといてね。人に聞かすには恥過ぎて俺が首くくることになるし
 こういう台詞は俺のようないぶし銀のキャラじゃないしね。さあ、帰ろうか。今夜はもう遅いからね」

「はい・・・先輩は、本当に強い人です・・・」

香奈の呟きを舞人は聞こえない振りをして、月明かりの下で二人並んで歩いて家路へとついた。
舞人にとって誰よりも自分が弱い人間だということは自覚していたから。だから香奈の言葉には答えられなかった。













戻る

inserted by FC2 system