昼下がりのさくら通りを私――雪村小町は人の流れに逆らうように走っていた。
通り過ぎる人々は驚きの表情で私が走りすぎるのを見つめていた。いや、それはある意味当然なのかもしれない。
女の子が街中を走っているだけでも視線を集めるのに、今の私は『泣いていた』のだから。
止めどなく頬を伝う涙を止める方法が全く今の私には思い浮かばない。
頭が混乱、錯乱しているから。考えが全くまとまらないから。
でもそれは仕方のないことだと思う。未だに私は信じられないのだから。私が見てしまったあの光景が、
私にとってのパンドラの箱が。
例えいつか訪れると分かっていた現実だとしても、いつか私が償わなければいけなかった現実だと
分かっていても、私は受け入れることが出来ないのだ。

「せんぱい・・・うう・・・」

私の最愛の人――桜井舞人が浮気をしている現場だなんて――










それは舞い散る桜の物語









日曜日の今朝、私はいつもよりテンションが以上に高かった。
休みだから、ということもあるが何より今日はせんぱいとデートの約束をしていたからだ。
私――雪村小町とせんぱい――桜井舞人は数ヶ月前から『再び』正式に付き合うことになった。それは決して平坦な道のりではなかったと思う。
だけど、今その道の果てに私はずっと追いかけていたせんぱいの背中を捕まえた。
そしてその幼い頃からの想いは今、現実のモノとして結ばれたのだ。
私は今本当に幸せの中にいる。せんぱいの隣にいることが出来る、それだけで
私は幸せなんだと昔から思っていたように――。

「う〜ん・・・どんな服を着ていこうかな・・・。
 せんぱいって意外と服装とかに鈍感だから雰囲気変わってもあんまり気付いてくれないかなあ・・・」

自分の部屋の鏡の前で色々な服をとっかえひっかえする自分に苦笑しながらも、
そんな瞬間の自分が私は何よりも好きだった。
それはつまり、せんぱいの為に私はあれこれ悩んでいるってことだから。せんぱいに見てもらう為の
時間の浪費なんだから。
ああ、自分でも分かる。私は本当にせんぱいのことが『大好き』なんだ。
もう好意とか愛とかそんな難しい感情じゃなくてただ純粋に私はせんぱいに『恋』してる。
待ち合わせの時間までまだ一時間はある(といっても待ち合わせの場所はこの部屋の下、先輩の部屋なのだが)。
そんなことをふと考えていたとき、突然携帯の着信音が聞こえてきた。私は慌てて携帯を取ると、
電話先の相手は私の予想通りの人だった。

「はい!こちら生まれは雫内、育ちも雫内、いつもにこにこ現金払いの心がけを忘れない雪村です!」

『なんだそのいかにも受付のお姉さんと返済の取立てのお兄さんの笑顔のギャップが激しそうなフレーズは。
 思わず十万だけ・・・って気持ちになってしまいそうになったじゃないか』

私の冗談交じりの言葉に合わせるように返してくれた相手、せんぱいの苦笑が携帯から聞こえてくる。

「いいですよ〜!十万でも二十万でも遠慮なくどうぞ!
 あ、勿論返済時は借りた額の132パーセント返しでお願いします」

『ば!ぷじゃけるなよ、それって法律違反じゃねーか!
 いいか、そもそも日本の金利は・・・って、今はそんな話をしてる場合じゃないんだった』

少し焦った口調でせんぱいは話を一旦切った。
そして、数秒は間を空けたくらいで再び携帯からせんぱいの声が聞こえ出す。

『あのな、小町・・・その、悪い。今日行けなくなった』

「ええっ!?ど、どうしてですか!?」

驚きを隠せない私に再度『悪い』と繰り返しながらもせんぱいは理由を言い出せずにいた。

『・・・理由は言えないけど、本当に大事な用が出来てしまったんだ。
 勿論、小町との・・・その、で、デートが大事じゃないって訳じゃ無いぞ!ただ、その・・・』

「い、いえいえ!いいんですよ!ほら、やっぱりせんぱいにも
 せんぱいの都合ってものがありますし、急遽の事態ってことも!」

『あ、ああ・・・本当に悪い!この分は絶対近いうちに返すから!・・・それじゃあな』

切れた携帯を手に持ったまま、私は大きく肩を落とした。
それは当然だと思う。楽しみにしていたデートがドタキャンされちゃったのだから。
しかし、落ち込んでいても始まらないし、何より私らしくもない。
デートはまたせんぱいの都合のいいときに行けばいい、そのように自分に言い聞かせる。
大体せんぱいの部屋はこの部屋の真下なのだから逢いたいと思えばいつだって逢えるのだ。
そう考えると少しは気が楽になった気がした。
ただ・・・先ほどの電話で一つの疑問が頭を離れなかった。

「大事な用事って、せんぱいどうかしたのかな・・・」

そんな疑問を思い浮かべる度に私は何故か不思議な不安に刈られていた。
せんぱいが、何故かは分からないがせんぱいがまた遠くへ行ってしまうような。
思えばこの時に気付いておくべきだったのかも知れない。私の嫌な予感が後にリアルを帯びるという事に。












「もう本当に映画面白かった〜!
 ね、やっぱり一番の見所はヒロインの吸血鬼が学校の教室でお別れを言うところだよね!」

「そうかなあ。私としては最後に学校の前で再会して決め台詞の『私を殺した責任、取って貰うからね』って
 言って終わるところかな。ハッピーエンドが一番でしょ!」

昼を少し過ぎたさくら通りを私と一人の女の子が先ほど一緒に見た映画について語りながら歩いていた。
せんぱいと電話を終えた後、折角着替えたのだから何もしないのは勿体無いという考えに至り、
私はクラスメートとさくら通りに遊びに出かける事にしたのだ。
私の映画の感想を聞いてクラスメート――遠野智里はええ〜?っと納得のいかなそうな顔を向けた。
彼女は二年になって初めて同じクラスになり、何故か私と凄く気が合い、
気付けば時間に余裕があったりするときは大体彼女と遊んでいる事が多くなった。
智里の裏表のない性格(度を越えることも多々あり)が私は正直好ましく思っていた。
誰にでもそんな風に接する事が出来る、というのは簡単に出来る事ではないから。

「しっかし、あれだよね〜。こんな可愛い彼女を放っておいて小町の彼氏は何処をほっつき歩いてるのやら」

「ん〜・・・せんぱいも多忙だから仕方ないよ。大事な用があるって言ってたし」

「うっわ!小町なんだか夫の遅い帰りを待つ新妻みたい!やっる〜・・・」

「そ、そんなんじゃないってば!私はただ、せんぱいが、で、デートをドタキャンしたのって初めてだから・・・
 その、心配になったと言うか・・・」

「うんうん、青春青春!『もしかしたら私を放っておいて浮気をしているかもしれない!
 そんな考えが脳裏に少しあるのだけれど、私は彼を信じたい!』恋愛って難しいね〜」

智里の口からとんでもない発言が出た事に私は思わず驚愕した。
先輩が今浮気しているなんてこれっぽっちも考えてなかったからだ。

「う、浮気って!そ、そ、そんなことせんぱいがするはずないっしょや・・・」

「ええ〜?分かんないよ?だってその小町の彼氏さんって三年A組でしょ?
 A組って言ったらかの有名な星崎希望先輩がいるクラスじゃん。
 いくら彼氏さんに小町がいるからって、あの『桜坂プリンセス』に目がいかない訳がないしね」

「で、でも・・・」

「分かった、分かった。ほら、続きはしっかりとあそこで聞いてあげるからさ」

急に押し黙った私の背中を押すように、智里は目の前の建物を指差した。
そこには『2F・シャルルマーニュ』と書かれた看板が立っている雑貨ビルが建っていた。












中に入ると智里は即座にパフェを、その勢いにつられて私は紅茶を頼んだ。
店内は割かし広いつくりで、、出入り口の角から反対側のテーブルが見えないくらいの広さはあった。
私は友人と数回、この店に訪れた事はあるのだが、休日の昼間に友人と二人っきりでというシチュエーションは初めてだった。

「で。話を戻しちゃうんだけどその小町の彼氏さんのえっと・・・なんて名前?」

「桜井舞人。それがせんぱいの名前」

「さくらい・・・?う〜ん・・・どっかで聞いたことがあるような・・・まあ、いっか。
 それで桜井先輩とは何処までいっちゃったのかな?キスとか終わっちゃった?」

智里のとんでもない発言に思わず飲んでいた紅茶でむせてしまう。
そんな私を見て彼女はとても楽しげな笑みを浮かべる。

「ななな、なんでそんなこと訊くの!?」

「そんなの興味があるからに決まってるじゃん〜。
 私独り身、小町は彼氏持ち、これだけで聞きたくなるのは当たり前じゃない。
 さあさあ、遠慮はいらないからちょっとだけ語ってみようよ〜。手を繋いだとか?
 名前を呼ばせてもらえるようになったとか?」

ほらほら、と急かす智里の楽しそうな目は私は幾度も見たことがある。これは絶対に誘いに乗ってはいけない目だ。
彼女がこういう目をしたときは必ずと言っていいほど災難がこちらに降りかかる。
トラブル・メーカーとせんぱいから呼ばれてる私にさえも、だ。

「け、結構だよ〜!もう、智里に話したりなんかすると学校中に広まるのは目に見えてるんだからね」

「ええ〜?そんなことないって!ちょっと文芸部のみんなに話すだけじゃない。広めないって!」

「それが広めてるって自覚を少しは持ってよ〜・・・」

嘆息をつく私を他所に彼女はあははと誤魔化しめいた笑いをこぼす。
彼女の所属している文芸部といえば、数ある文化部でも一、二位を争うほどの女所帯の部だ。
そんなところに噂を流されては学校中に広まるなど至極容易だろう。
少し経ち、注文していたパフェと紅茶が届けられ、私達も会話を一時休めて各々の注文品の処理に努めた。









「・・・でさ〜!その後私は部長に言ってやったのよ!
 『はる先輩、さすがに辞書で叩いてもなつきは起きませんよ!』って!
 あ、ちなみになつきってのはDクラスにいる文芸部員の一人でね・・・」

注文の品を食べ終えたあと、私は智里の話し相手となっていた。
と、いっても彼女が一方的に話をしているってだけなのだが。
しかし、聞き手である私自身が彼女の話の内容をしっかりと聞いていない時点で
もはや話し相手とは成りえていないのかもしれない。

彼女の話を聞きながらも、私の頭の中は未だせんぱいのことが離れていなかった。今頃せんぱいはどうしているのだろう?
いや、私がせんぱいのことを考えているのはいつもの事なのかもしれない。
『雪村小町』の日常には常にせんぱいが存在していた。
せんぱいとの思い出はなんだって輝いている過去として私の記憶に在る。
幼い頃、中学生の頃の、そして、桜坂市での再会からの。
いつから私はこんなにもせんぱいしか見えなくなったのだろう。せんぱいの存在が、
言葉が、その全てが今の私の存在を支えている。
本当にいつからこんなにもせんぱいの事が好きになってしまったのだろう。それは幼い記憶を辿れば
簡単に答えを見つけることが出来た疑問。
今の私にとってせんぱいの存在は『空気』そのものだ。隣にいることが当たり前という私には
『非日常な日常』を手に入れてしまったことで彼がいないときの不安が倍化している。
私の持つ一抹の不安――いや、きっとその時が来るのはまだ近くは無い。きっとそう信じたかった。信じていたかった。
すがるものは何も無い。根拠もない。その日が訪れるという理由もないのに
私は時折その不安にどうしようもなく駆られることがある。そう――その不安とは――

「こ〜ま〜ちっ!人の話を聞け〜い!!」

突如頭にバシッと何かで叩かれたような軽い衝撃を受け、我に返るとそこには
メニューをもった智里が私のほうをジト目で見据えていた。
どうやら話を聞いておらず、物思いにふけっていたことが彼女にばれたらしい。

「もう!小町ってばさっきから呼んでるのに返事すらしないんだもん。人の話はちゃんと聞けー!」

「ご、ごめん・・・」

謝る私を見て智里は全く、と呆れたように首を振る。最近彼女のこんな様子を目にすることは少なくは無かった。
理由は簡単で私がいつも長話となると上の空状態となってしまっているためだ。
いつも話の途中で『ある一つのこと』だけを考えてしまう私の。

「あのねえ、小町。さっきの小町の彼氏が浮気しているかもってのは私の冗談だから気にしないでもいいんだよ。
 というか、するな!大体そんな簡単に浮気なんてするほど小町の彼氏は軽い男なの?」

「そ・・・そんなことないけど・・・」

「じゃあ前向きに行く!!小町だって学園内じゃランキングに入るほどの美少女なんだから元気出す!!!」

智里はそう言ってバシバシと私の肩を叩く。彼女流の励ましなのだろう。
彼女の言う事はもっともでせんぱいは浮気なんか簡単にする人じゃない。
でも、私だって一人の女の子だ。一抹の不安を感じないわけじゃない。
いつから私はここまで独占欲が強くなったのだろうか。昔はそんな感情はなかった。
せんぱいがどんな女の子といても、せんぱいの中に私が少しでもあればそれでいいと思ってた。
でも、この感情は嫌いじゃない。これは私がせんぱいを想っているということの一つの道しるべだから。
だから、そこまで嫌悪するものでもないのかもしれない。

「うん・・・ありがとね。なんかちょっと元気でたよ。いや、落ち込んでるって訳じゃなかったんだけど」

「はいはい。そういうことにしといてあげる。・・・っと、それより小町、ちょっとあれ見てよ!!」

智里が指差す方を見ると、そこには一つの二人用のテーブルに座っている見知った人の姿があった。
いや、私自身が知り合いと言うわけではないが、桜坂学園の生徒ならば
男女問わず誰でも知っているほどの有名人がそこにいたのだ。

「星崎・・・・先輩?」

「そうそう!あの有名な桜坂プリンセスの星崎先輩だよ!しかもプライベート!わああ!超ラッキーじゃん!!」

彼女の言う通り、少し離れた入口近くのテーブルに桜坂学園のプリンセスとまで言われる
星崎先輩が私服で座っていた。今はウェイトレスの人となにやら話し込んでいる。
私服の星崎先輩を見たのは初めてだが、相変わらず可愛くて、綺麗。
同性の私からもそう見えるのだから、やはり先輩は余程の美人なのだろう。

「なるほどなるほど・・・あれはズバリ恋人との待ち合わせだね!私にはピンときたよ!」

「へ!?ど、どうしてそう思うの?」

「も〜・・・変なところで小町はにぶちんなんだから!星崎先輩の格好や様子をよく見てみなさいって!」

智里に促されるままに私は星崎先輩の様子を観察する。
確かに学校の星崎先輩とは少し雰囲気が違う気がしないでもなかった。
服装は少し気にかけているのが同性の私からも分かるし、何より落ち着きが無い。
先ほどから出入り口に忙しなく視線を向けたりしている。恐らく待ち合わせなのだろう。
そして決定的なことにその様子は同性を待つような感じじゃなくて。恋人を待っているような・・・そんな感じがした。

「これってスクープじゃない!?星崎先輩に恋人がいるなんて話聞いたこと無いし・・・一体誰なんだろうね!」

「ううん〜、確かに興味はあるけどほら、あんまりじろじろ見ると向こうに失礼だってば」

「じゃあ小町は気にならないの?私はなるよ!だってあの星崎先輩だよ!桜坂プリンセスだよ!」

「な、なるけど〜!うう〜・・・」

結局智里の誘惑に負け、私は星崎先輩の様子を引き続き見ることにした。
やっぱり学園のアイドルの彼氏とはどんな人なのか見てみたいという気持ちがあったのだ。
星崎先輩に告白して、駄目だったって人は沢山いるのは知っているし、クラスの男の子にも何人かいるって聞いたことがある。
だから先輩は、星崎希望は恋愛に興味がないんじゃないかという噂までたっていたくらいで、
そんな先輩に恋人が出来たとなったら大変な騒ぎだろう。

「現時間は1時前3分!私が思うに相手はもうすぐ来るとみた!!」

「なるほど・・・待ち合わせは1時ジャストってことだね。でも、本当に待ち合わせの相手は来るかなあ・・・」

「彼氏だって!!間違いない!!・・・・ああ!!ほら!!来た!!!」

智里の声につられ、星崎先輩の方を向くと彼女は入口の方へ向けて手を振っていた。相手が来たらしい。
一体どんな人が来るのか。先輩を、学園のアイドルを熱中させるような男の人。私は視線を入口の方へ送った。
そして私の時は時計の針が綺麗に折れてしまったかのように時を刻むのを止めてしまった。








――どうして







――星崎先輩が笑顔を向けている相手が






――待ち合わせの相手が






――よりによって








――『せんぱい』なんだろう――







カウベルを鳴らしてドアの向こうから入ってきた男性――せんぱいは私を見て
驚きといったばかりの表情を浮かべている。それはきっと私も同じだろう。
お互いに目を合わせたまま視線を外す事が出来ない。時が未だ止まっているかのように身体が硬直して動かないのだ。
思考がはっきりとまとまらない。せんぱいはどうしてここにいるのか。
今日は大事な用があったのではないか。大事な用とはここに来る事だったのか。
私の硬直を解いたのは星崎先輩のせんぱいに向けられた一言だった。

「遅いよさくっち〜!今日は大事な用があるって呼び出したのはそっちなのに〜!」

星崎先輩の声が耳に入ってないのか、せんぱいは未だ固まったままだ。硬直が解けたのは私だけらしい。
でも今の先輩の一言が私の不安な考えを全て一つに繋ぎとめた。思考の数々の点が繋がり線へと変わる。
何てことは無かったんだ。せんぱいの大事な用とは星崎先輩に会うことで。星崎先輩が待っていたのはせんぱいな訳で。
崩れていく。自分でも分からない何かが音を立てて崩れていく。『分かっていた』はずの出来事に直面して。

「なんだあ・・・星崎先輩の彼氏って案外普通っぽい外見だね〜。結構いい感じではあるけど」

「ごめん・・・・・・智里、私帰る」

「うんうん・・・って、えええ!!!???な、なんで!!!??」

彼女の言葉も聞かず私はテーブルから立ち上がりフラフラと店の出口を目指す。
足元がおぼつかないのは自分でも感じ取れる。どうして自分が店から出ようとしているのかが分からない。
ただ、これ以上せんぱいが困るような顔を見たくなかった。ただ、それだけなのかもしれない。
一歩ずつ、確かに歩を進めてせんぱいの近くへと歩み寄る。せんぱいは未だに現状が掴めてない様子だった。
そして、私はせんぱいの目の前に立った。私の中の『ワタシ』が先輩に一言だけ伝える。
嫌なのに、いやなのに、イヤナノニ――






「せんぱい・・・・・私は・・・」






終わる。楽しかった日々が。私の全てだった日々が。せんぱいとの関係が。
いつまでも見ていたかった。いつまでも一緒にいたかった。いつまでも――





「私は馬鹿ですから・・・本当に今までごめんなさい・・・・」






――二人で歩いていきたかった――















時間が夕刻に指しかかろうとしている頃、私は公園のベンチで何をするでもなくただ座っていた。
せんぱいとシャルルマーニュで出会ってから私はただ走り続けた。
商店街の人通りを掻き分けてただひたすらに走り続け、その果てに辿り付いたのがこの公園だった。
ここに辿り付いたばかりの頃はまだ子供たちが無邪気に遊んでいたのだが、夕暮れ時と時間が移り、
子供たちは家へと帰宅し公園は閑散としていた。
空は先ほどの晴れ渡っていた空が嘘のように曇り、今にも雨が降りそうな気配を醸し出していた。

「しまったなあ・・・今日天気予報見るの忘れちゃってたんだ・・・」

誰に言うでもなく私は一人呟き、空を見上げる。雨がもうすぐ降るのは間違いない筈なのに
私はこの場所から一歩も動く気力すらなかった。
それは当然なのかもしれない。私の全てだったせんぱいと私の関係が終わりを迎えてしまった。
私の追いかけていた背中を私は見失ってしまった。
目的を失ったカモメは何処へ飛べばいいのか。無論何処へも飛べない。
行き場所を失ったカモメはただ朽ち果てるだけ。それは私も同じ。
せんぱいは星崎先輩という私なんかよりもずっと輝いている支えを見つけた。
それがあの人の幸せなのならば私は喜んで迎えないといけない。それが私の『想い』だから。
今年の冬、せんぱいは私が『せんぱいの事を忘れて』ても私のことを捕まえてくれた。
せんぱいの事を忘れ、牧島君に心惹かれ、せんぱいを裏切るようなマネをした私だったのに。
そのとき私の身に何が起こったのかは分からないけれど、確かにあの時の私はせんぱいを拒絶した。
それなのに、せんぱいは私を見つけてくれた。
だからこそ、私はせんぱいと二度と自分からは離れないように誓った。
罪の意識とか、贖罪とかじゃなく、ただせんぱいが好きだから。二度と忘れたくはないから。
でも、それは『私からの見解』であり、『先輩からの見解』ではない。
せんぱいには権利がある。『私を突き放すことが出来る』という絶対的な権利が。
せんぱいが私を失ったときどれだけ辛かったのか、自惚れは承知の上でその立場を
自分に当てはめてみると、考えるだけで怖くなった。
せんぱいが私のことを覚えていない。せんぱいが私を拒絶する。せんぱいが別の女の子と付き合いだす。それは私にとっては世界の終わりに等しいのではないか。
数日前まで心が通えた大切な人が今や他人となる。そんな過酷なコトを私はせんぱいに与えてしまったのだ。

私の記憶が蘇った日、私は泣きながら何度もせんぱいに謝った。
でもせんぱいは笑いながら「気にするな」とだけ言ってくれた。
せんぱいが『私』の記憶が戻るまでどのような状態だったのかは牧島君から後日聞かせてもらったのだけれど、
それは決して「気にするな」などで済ませられる内容ではなかった。
だから私は心のどこかで決めていたのかもしれない。もし先輩が他に好きな人が出来たら潔く身を引こう、と。
たとえその時を恐れている自分に気付いていると分かっていても。
けれど、その時が来るまでは私はせんぱいの側にいたかった。それが私の何よりも大切な願いだったのだから。でも――

「でも・・・やっぱりそんなの嫌ですよ・・・せんぱい・・・うう・・・」

思わず流れ落ちそうな涙をぐっと堪える。私の涙の代わりのように空から雨が降り出した。
何て欺瞞。私は未だにせんぱいを求めている。あんなに酷い事をしたのに。
頭では記憶が戻った頃からその時を受け入れることを決心していたつもりなのに
私はまだあの人の優しさにすがろうとしている。
もっと話していたい。もっと笑いあっていたい。もっと触れ合っていたい。もっと抱きしめて欲しい。私の中の想いが虚偽に固められた自分の殻を割ろうとする。
けれどそれは許されないから。もうせんぱいを支えるのは私じゃないのだから。
私にはそんな資格なんてありはしないから。そう自分に言い聞かせる。強く。
雨が強くなっていく。激しい雨が私を浸食していく。私の嗚咽を打ち消す為に降ってくれているのかとさえ思えるようなそんな雨が。
悲しみが包む空の中で今度こそ決断しよう。もうせんぱいの愛には触れないように。
せんぱいの優しさが私の全てだったと未来で思えるように。





「さようなら・・・大好きだったせんぱい・・・」




「勝手に終わらせるな馬鹿」





突然聞こえた声に私は落としていた視線を声の方に向ける。
それは私の大好きだった人。私の全てだった人。それは――

「せん・・・ぱい・・・?」

私の酷くおぼろげな声にせんぱいは不機嫌そうな顔で小さく頷く。その仕草は私の記憶の中にあるせんぱいそのものだった。
大雨の中をせんぱいも傘を差さずに私の前に立っている。今まで走っていたのだろうか、少し息を切らしていた。

「ど・・・どうして・・・星崎先輩は・・・?」

不思議そうな顔をしている私の言葉に、せんぱいは答えるでもなく私の元へと歩み寄る。そして――

「きゃう!!?」

せんぱいは無言で私の頭をぽかりとグーで叩いた。
頭を押さえる私に向かってせんぱいは呆れた顔を浮かべて私を見つめた。
そして、私が口を開こうとしたとき、せんぱいの体が近づいてきて――

「・・・え・・・?」

私を抱きしめてくれた。雨の中で冷え切った私に体温を分け与えてくれているのかと錯覚するくらいの温もりを伝えて。
言葉に詰まる私を他所にせんぱいは私の耳元でそっと囁いた。
それは、私のいつもせんぱいから言われ続けた思い出の言葉。

「小町の馬鹿。世界一の大馬鹿」

せんぱいのぶっきらぼうだけど優しい、いつもの笑顔を見て私の頬を塞き止めていた涙が伝う。
せんぱいの温もりが、せんぱいの優しさが、せんぱいの心が私を溶かしていく。
駄目なのに。私じゃ駄目なのに。そう誓ったのに。

「せん・・・ぱい・・・せんぱあい・・・うううう・・・」

けれど私の理性とは裏腹に私の心はせんぱいを求めてる。泣きながら、私はただせんぱいの胸に顔をうずめてる。
何を言うでもなくせんぱいは私を抱きとめてくれている。突然店から飛び出して勝手に雨に打たれてた私なのに。

「せんぱいがっ・・・わたし・・・ううう・・・星崎先輩と一緒だから・・・もう、もう私は要らないって・・・
 せんぱいに酷い事してきたからっ・・・
 わたしはもうせんぱいの側にいられないって・・・それで・・・ぐすっ・・・」

「おいおい・・・酷い事ってお前は俺の飯に毒でも盛ってたのか・・・?それなら確かに酷いけどなあ・・・」

せんぱいの言葉に私は強く首を振る。せんぱいに言わなくちゃいけない。せんぱいは私を捨てる権利があるんだって。
せんぱいは私を選ぶ義務なんかないんだって。言いたくない自分がいるのは分かってるけど・・・
それでも私は言わなくちゃいけない。

「わたしは・・・小町はせんぱいを忘れて牧島くんと付き合って・・・
 それでせんぱいに辛い思いをさせて・・・そう考えると・・・私は駄目だって・・・
 せんぱいは私を捨てる権利があるからっ・・・だからせんぱいは星崎先輩と付き合っても・・・わたしは・・・」

「それ以上言ったら本気で業務用洗濯機で叩くぞ、馬鹿小町」

強張った声と共にせんぱいは私を強く抱きしめる。私という今やおぼろげな存在を留めるかのように。
せんぱいの鼓動が私に届く。私の鼓動がせんぱいに届く。だからこそ分かることがある。
せんぱいは本当に怒っているのだということを。
私の顔を上げさせ、見つめあう形となってせんぱいは口を開く。

「いいか。一度しか言わないからよく聞けよ。
 お前が俺を忘れて麦兵衛のバカと付き合っただとか俺を傷つけたとかはどうでもいいんだ。
 俺が一番大切なのは今、お前と一緒にいられることなんだ。お前だって俺の過去の過ちを許してくれたのに
 お前は自分のことを許さないのか?そんなの誰が認めるか!
 俺は小町が必要なんだよ。俺はお前じゃないと歩いていけないんだ。他の女性なんか見えない。
 俺はただお前を愛したいんだ!分かったか!・・・ったく、言わせるなこんなこと・・・」

そう言ってせんぱいは顔を私から顔を背ける。いや、背けたのかもしれない。
もう私の視界は涙でふさがれてせんぱいの表情が読み取れなかった。もう限界だった。私はもう・・・。

「せんぱ・・・あい・・・せんぱあい!!うわあああん!!!」

私はせんぱいの胸に再び飛び込んだ。もう我慢なんて出来ない。せんぱいの言葉が私の心のダムを打ち壊したのだから。
泣きじゃくる私をせんぱいはもう一度力強く抱きしめてくれた。私の想いをしっかりと繋ぎとめてくれている。
私は馬鹿だ。一人で思い込んで、一人で悲観的になって、一人で悲しんで、
そしてまたせんぱいに悲しい思いをさせるところだった。
大事な事は素直になることだったんだ。せんぱいを想って、それが私の生き方なんだから。
人生の道しるべなのだから。胸を張って歩くことだったんだ。
せんぱいの優しさに溺れてしまっていると人から言われるかもしれない。でも、それは違う。
私の想いは決してそんなことで諦めちゃいけないんだ。
だってせんぱいも私を繋ぎとめてくれているのだから。私はせんぱいと一緒にどこまでも行きたいのだから。

「せんぱい・・・本当に・・・ありがとう」



















雨上がりの公園はすっかり暗くなり、空の雲は何処へ行ったのか星空が浮かんでいた。
私とせんぱいは未だずぶ濡れのままベンチの上に座っていた。お互い着ているものが台無しなのは少し悲しかったけれど。

「そういえばせんぱいはどうして今日星崎先輩と一緒にいたんですか?結局理由を私は聞いていないんですけど」

「ああ・・・言うの嫌なんだけど言わなきゃお前納得しないんだろ?」

「当たり前ですよ〜!私だってせんぱいを愛する一人のか弱い恋人さんなんですよ?
 それはもうせんぱいがあの桜坂プリンセスこと星崎先輩とご一緒にお茶しに来たとなると
 もう気になって気になって夜も眠れませんよ!?」

私の言葉にせんぱいは仕方ない、と嘆息をついて話し出す。
その様子が妙にせんぱいらしいな、と思えて私はふっと笑みをもらした。

「あのな。実は星崎に最終点検って言うか・・・アドバイスをしてもらおうとしたんだよ。
 あいつなら女の子が何を貰ったら喜ぶか知ってると思ってな。
 だから、お前が考えてたような星崎を彼女にとかそんなのじゃないぞ」

「そうだったんですかあ・・・。えっと・・・女の子が喜ぶものですか?」

「そうだよ。・・・ほれ」

私が疑問符を浮かべてる間にせんぱいはポケットに入れていたものを私に渡した。
それはポケットに入れていたおかげで幾分は防げてはいるが、雨に濡れてしまった小さなプレゼントケースだった。

「え?ええ?あの、せんぱい?私が貰っちゃってもいいんですか?」

「ええい!お前以外に誰にやるんだよ!!いちいち聞くなっつーの!」

せんぱいは声を荒げてそっぽを向いてしまった。
そのプレゼントケースのラッピングを解き、中身を確かめるとそこには小さなオルゴールがちょこんと入れられていた。

「せんぱい!せんぱい!これネジを回してもいいですか?」

「だああ!だからいちいち聞くな!お前のなんだからお前が好きなようにしろ!!」

せんぱいの言葉どおり、私はネジを回した。小刻みにネジを巻く音が聞こえ、数回転ほど巻いて私はそっと手を離した。
そうするとオルゴールから懐かしいような温かいような曲が夜空に向かって小さく鳴り響いた。

「わああ・・・せんぱい!とっても素敵な曲ですね!これ何という曲ですか!?」

「さあ・・・俺もよく分からん。店に行ってこのオルゴールの音色を聞いたらどうしてかお前にぴったりな気がしたんだ」

「えへへ・・・せんぱい!ありがとうございます!!私、一生どころか十回生まれ変わってもずっと宝物にしますね!!」

「おいおい、大袈裟すぎだっつーの・・・。まあ、喜んでもらえたならまあ・・・別にいいけどな」

「はい!もうせんぱいの事大好きです!これからもずっと私をよろしくお願いしますね!」

そう叫んで私はせんぱいに抱きつき、軽くキスを交わした。それは幼い子供同士が交わすような本当に淡いキス。
私はせんぱいを想い続ける。もう迷ったりなんかしない。私はせんぱいといっしょに未来を進んでいくのだから。
それは舞い散る桜のような物語。けれど桜が散っても物語は終わらない。私達は花びらではなく桜の木そのものなのだから。
また夏が訪れて、秋が来て、冬になっても私達は何度だって
花を咲かせるだろう。私達の桜はいつも満開に咲き乱れるだろう。

それが私達の――二人で綴る物語なのだから。










もしSSを楽しんで頂けたなら、押して頂けると嬉しいです。









戻る

inserted by FC2 system