1.レイニーブルー










降りしきる雨の中、祐巳は周囲の視線を気にすることなく駆け出した。



違う。気にしなかった訳ではない。出来なかっただけだ。そんな余裕なんて無かったから。
違う。駆け出したのではない。ただ逃げ出しただけだ。祥子様と瞳子ちゃんから。
自分の居場所だった人、そしてその居場所を奪った人から。

祐巳の背後からは、もう二人の声は聞こえなくなった。
それでも祐巳は立ち止まることが出来ず、只管に走った。そうしないと、絶対に泣いてしまいそうだったから。
きっと立ち止まってしまえば、私は脇目も振らず大声でわんわんと泣いてしまう。
でも、あの二人の前でそんな惨めな真似をすることだけは絶対に嫌だった。

気付けば祐巳は自分の家まで辿り着いていた。
笑ってしまう。どんなに心が掻き乱れていても、帰巣本能だけはしっかり発揮されるらしい。
玄関の扉を開け、濡れた身体を気にすることもなく自分の部屋へと真っ直ぐ向かった。
途中、すれ違った祐麒に何か言われた気がするが、頭に上手く入ってこなかった。
自分の部屋に鍵をかけ、部屋に置いてある置き鏡に写った自分の姿を覗き見て嘲笑する。
全身は濡れ鼠のように水浸しで、制服は一目見ただけではリリアン女学園の生徒だとは思えない程に乱れていた。
そして、走っていた時にでもリボンを落としたのか、髪はいつものツインテールではなく真っ直ぐに落ちていた。

惨め。ああ惨めだ。格好悪い。これが今の私の姿なのか。これが小笠原祥子様、紅薔薇の妹の姿か。

祐巳は笑った。理由なんて無い。ただ笑いたかったから。
あえて無理矢理にでも理由をつけるなら、狸が演じる似非シンデレラの終幕に対して、だ。
無様に縋って、拒絶されて。悲劇のヒロインぶって。もう駄目だと。
祥子様の妹として自分は駄目なんだと言い訳をして真意を糺そうともせずに、ただ只管に目と耳を塞いで逃げて。
そのくせ本当は助けてほしくて。祥子様に手を差し伸べて欲しくて。本当はこんなの嘘だと言って欲しくて。

そんな弱い自分自身が重ねた故の終局だった。
否、最初から分かっていたことだった。自分のような身分不相応な人間がシンデレラを演じればどうなるのかなんてことは。
何てことはない。ただ、魔法がようやく解けただけ。いつもの日常に戻るだけ。
幸せなお話も終わり、これからは主役から以前のようにただの脇役に戻るだけだ。
作法も知らない田舎狸がこんな華やかな社交場にいたこと自体が奇跡だったのだ。
そんな不相応な場所よりも故郷の山を走り回る方がずっとお似合いなのに。

祐巳はひとしきり笑った後、倒れるようにベットの上へと寝転んだ。身体は濡れたままだが、そんなことはどうでもよかった。
もう眠ってしまおう。そして、現実の世界に戻ろう。いくらなんでも、この夢の世界は幸せ過ぎた。
私なんかが祥子様の妹に――紅薔薇の蕾になるだなんて、山百合会の一員だなんて、
あまりにも甘く、そして酷い夢だ。もう目覚めないと、きっと私は壊れてしまう。
そんな無茶苦茶な設定を求めてしまったからこそ、物語はこんな風に破綻してしまったんだ。
夢の中だからとはいえ、私はあまりにも自分勝手な幸せを求めすぎた。
祥子様を憎むことなんて出来ない。全ては私が悪かったのだから。私の身分不相応な行動が招いた結果なのだから。
ただ、許されるのなら。もう一度過去に戻れるとしたら、祥子様に謝りたい。
そして告げよう。祥子様の妹で、私は本当に幸せ者でしたと。
今度は祥子様と瞳子ちゃんを笑って祝福しよう。二人が寄り添いあっても泣かないように、心からおめでとうが言えるように。
だから、もう眠ろう。そして、起きて開口一番、鏡に写った自分自身に言ってあげよう。
『おはよう。そしてお帰りなさい。魔法の解けたシンデレラ』って。



































どんなに嫌なことがあっても、どんなに願っても、必ず朝はやってくる。
目覚ましのアラーム音に朝を告げられ、祐巳は虚ろな頭をゆっくりと覚醒させる。
そして、現在の時間がいつもの起床時間であることを確認し、自分は昨日あのまま朝まで眠ってしまったのだと気付く。
しかし、おかしなことに自分がいつの間にか制服からパジャマへと着替えていることに気付く。
昨日は濡れた制服のままベットに横たわったのだから、着替えているのはおかしい。
一瞬、お母さんだろうかと思ったものの、部屋には鍵をかけていた筈。不思議に思いつつも、祐巳は階下へと降りていった。



正直、学校へは行きたくなかった。



昨日の今日だ、祥子様や瞳子ちゃんにどんな顔をして会えばいいのか分からない。でも、休むわけにはいかなかった。
どんなに惨めでも、どんなに無様でも、休むわけにはいかなかった。
あの場所には、学園には大切な人達がまだ残っている。つけるべきケジメが残っている。
こんな何の取り柄もないような自分を好きになってくれた親友二人が、きっと今も私のことを待ってくれている。だから、伝えないと。ちゃんと、自分の口で伝えないと。
『途中リタイアでごめんね。情けない私で本当にごめんね』、と。そして祥子様にロザリオを返し、この物語に終焉を告げよう。
それが、祐巳にとっての、逃げることしか出来なかった情けない子狸の最後のやるべきことだった。

リビングでは既に父と祐麒が席に座り、母が朝食の準備をしていた。
祐巳はおはよう、とだけ挨拶を交わし、いつもの通り祐麒の隣に座るが、そこで少し違和感を覚えた。
祐麒と祐巳の席がいつもとは反対なのだ。

「・・・ねえ、祐麒。なんで今日はそっちに座ってるの?」

そう尋ねると、祐麒は『はぁ?』とでも言いたそうな、いや、今既に口にしたのだが、
とにかく何を言ってるんだとでもいうような視線を向けてきた。

「いや、あのさ。俺には祐巳の言ってることがイマイチよく分かんないんだけど・・・」

「いや、だから・・・えーと・・・いや、別に私もあんまり気にしてはなかったんだけど、
 ほら、小さい頃から私がそっちの席に座ってたじゃない。だから、今日は何で祐麒はそっちに座ってるのかなあって」

「あのなあ祐巳・・・朝から開口一番、いやおはようは言ったから二番目か。
 とにかく朝一でそんな意味の分からないこと言われると流石に俺も反応に困る」

「いや、だから・・・私も何でそんなこと急に気にしたのか分からないけど・・・まあいっか」

「変な祐巳ちゃんだなあ」

「親父、祐巳が変なのは前からだよ」

祐麒の一言で笑う家族に、祐巳はムッとしながらも、少し嬉しく思う。
そう、自分の居場所は祥子様の傍だけじゃない。どんなことがあっても、
家族の皆は私を温かく守ってくれているんだ。そう思うだけで祐巳の心は温かくなった。
そして同時に心の底から沸き上がる、どうしようもなく泣きたくなる感情を押さえ込むのに必死だった。
どうして、この温かさをちゃんと祥子様と分け合えなかったのだろう、と。

「それにしても、祐巳ちゃんも今日で高校生かあ。少し前に祐麒が高校生になったと思ったんだが」

「は・・・?」

お父さんの一言に、一瞬何を言っているのか上手く理解できなかった。
今日で高校生も何も、今はもう二年生なのだから、お父さんの言ってることはかなり訳が分からない発言だった。

「えっと、お父さん、何言ってるのかよく分かんないんだけど・・・
 ていうかそもそも私二年生だし・・・そういう分かりにくい冗談はちょっと」

「おいおい、一年飛び級していきなり二年になるつもりかよ祐巳。
 ていうか、リリアンにそんなシステムあったか?」

「ん〜・・・お母さん、リリアン行ってたけどそんな話聞いたこと無いわねえ。
 祐巳ちゃん、流石にいきなり二年生は無理よ。海外の学校じゃないんだから」

祐巳の言葉に家族は次々にワイワイと騒ぎ出す。その様子に、祐巳は益々頭を掻き乱された。
何だろうこれは。一体何が起こってるのだろう。家族全員でのドッキリを企画するほどに昨日の私は落ち込んでいたのだろうか。

「しかしもう四月か。時間が流れるのは早いものだなあ」

「親父、さっきから言ってることがt「四月!?」へ?」

お父さんの何気なくいった言葉に驚き、祐巳はまた反応してしまった。
今は確かに六月の筈。だけど、今口にされた言葉は四月だった。先程のことといい、冗談なのだろうか。

「ああ、ほら、今日の新聞の日付だ。しっかり四月って書いてある」

お父さんから渡された新聞にはしっかりと四月の文字が書かれていた。そんな馬鹿な。これは一体どういうことだろう。
気付けば祐巳は食卓を立ち、テレビの電源を入れてニュースを見ていた。
テレビ画面にはしっかりと四月と表示され、六月ではないことを示している。
祐巳の記憶から二ヶ月近くも前の日付を表したテレビの日付に、祐巳は全身の血の気が引いていく感覚に襲われた。

「祐巳、お前さっきから変だぞ?いくら今日から新しい生活が始まるとはいえ、ちょっと変過ぎる」

呆れた表情を浮かべ、祐巳の傍にきた祐麒の両肩をガッチリ掴み、混乱を抑えるように言葉をぶつけた。

「祐麒!貴方何年生!?いえ、そうじゃなくて私は何年生!?」

「な、何だよ唐突に・・・わ、分かった!分かったから両手を離せって!ていうか今の祐巳は怖いから普通に!」

「あ、ご、ごめん・・・」

怯える弟に謝り、祐巳は少しだけ距離をとって祐麒と向かい合う。
そして、祐麒の口から聞こえた言葉に祐巳は頭が真っ白になってしまった。

「俺は今年から花寺の二年生、そして祐巳は今年からリリアンの一年生だろ?
 それに俺は祐巳の一応兄貴なんだから、もう少しくらい兄を大切に扱ってくれよ」

瞬間、祐巳の世界は暗転しそうになった。
どういうことだ。祐巳は倒れそうになる身体を自分自身で必死に支えて自問する。
この世界、現実は余りにも祐巳の知っているモノとはかけ離れている。
祐巳は二年生の筈が、一年生で、祐麒は弟じゃなくて兄になっていて。

――何が、どうして。

震える身体を己が手で抱きとめ、祐巳はしっかりと思考を落ち着かせようとする。
祐巳の知っている記憶では昨日、確かに六月だった。そして、姉である祥子様との繋がりを完全に失った、そんな日だった筈だ。
心配する家族に空返事をしつつ、祐巳はあることに気付き、慌てて自分の部屋へと駆け戻る。
自分の机の中にしまった、祥子様との絆。本当なら、今日祥子様に返すことで、
全てに終わりを告げようと思っていた、祐巳が紅薔薇の蕾であることを証明するもの。それを祐巳は探していた。

「・・・ない・・・どこにも無い・・・そんな・・・」

普通平凡だった祐巳の人生を全て変えてしまった、祥子様との姉妹の絆の証明、ロザリオ。
祥子様に渡す前に、ロザリオは祐巳の元から消えたのだ。否、本当は元からそんなものは無かったのかもしれない。
もしかすると、自分は夢を見ていたのかもしれない。
祥子様との絆なんて夢で、本当は小笠原祥子様なんて人はいないのかもしれない。
中学の時より、スールに憧れた祐巳が見た、長い長い夢物語だったのかもしれない。
でも、それは。その仮定だけは認められなかった。
それを認めてしまえば、祐巳の経験してきたこと全てが嘘になってしまう。
祥子様に恋焦がれたことも、山百合会の一員として頑張ってきたことも、
二人の親友と笑いあって過ごした日々も、昨日流した涙も、全てが嘘になってしまう。それだけは嫌だった。

混濁する思考を振り切り、祐巳は一度学校へ行ってみようと考えた。
答えは恐らくもう出ているのだろう。祐麒達が言っていたこと、それが現実。
それでも、自分の目で、自分の耳で全てを確認しなければ。そうしないと、きっと自分は流されてしまう。
祥子様との、瞳子ちゃんとのことが無い、そんな世界ではきっと私は溺れてしまう。自分自身の弱さに。
だから、学校へ行こう。物語の終焉を告げるのは、他ならぬ、自分自身の手でと、昨日誓ったのだから。














祐巳がリリアン女学園に辿り着くと、
そこには真新しい制服に包まれた沢山の女の子達が和気藹々と学園の門を潜り抜けていた。
彼女達の中には、何人か見覚えのある顔があった。それは、祐巳のことを紅薔薇の蕾と慕ってくれた下級生達だった。
祐巳を見ても、挨拶をしない。それだけで祐巳が確認するべきことは充分だった。
最早、自分は紅薔薇の蕾でも、小笠原祥子の妹でもないのだ。
そして、悟る。自分の居場所はこの学園に無くなってしまったのだと。自分が築いてきたモノ全てが幻に消えてしまったのだと。
途中、祐巳の視界にマリア像が入った。それは、祐巳にとって忘れられない出会いの場所でもあった。
ここで、祥子様と初めてお話したんだった。祐巳はマリア像に近づき、他の生徒と同じように軽く目を閉じた。
全ては、ここから始まった。祥子様と出会い、蔦子さんに写真を取られ、気付けば自分は紅薔薇の蕾。
嗚呼、自分はなんて幸運なシンデレラガールだったのだろう。本当に、幸せだった。
あんな慌しくも楽しい非日常な生活、もう二度と過ごすことは無いだろう。全ては夢物語と消えたのだから。
祥子様や瞳子ちゃんのことで悩むことも、心乱されることも、もう無い。
だって、祐巳にとっての祥子様や瞳子ちゃんはこの世界に存在しないのだから。
二人だけではない、祐巳にとっての全て、山百合会の皆とはもう会えないのだ。この世界では、もう二度と。
こんな馬鹿げた現実をすんなり自分自身が受け入れていることに驚きを覚えるが、
それと同時に祐巳は思う。これは、『私が望んだ世界』なのかもしれないと。
この世界では、もう祥子様に振り回されることは無い。それどころか、山百合会に触れることも無い。
ただ、祥子様の一人のファンとして、山百合会のファンとして、平凡な日常に埋没するだけだ。
それこそ、まさに本来の福沢祐巳の生き方ではなかったのか。
山百合会に、祥子様に触れ過ぎて今では変わってしまったが、それこそが本当の福沢祐巳ではなかったか。
そうだ。だから、もう割り切ってしまえ。あの非日常な生活は全て夢だったのだと。これが現実。
山百合会とは無関係。祥子様とも無関係。瞳子ちゃんとも無関係。志摩子さんや由乃さんとも・・・

「・・・そんなの、割り切れる訳、ないよ・・・」

気付けば祐巳は泣いていた。押し留めようとしても涙が止まらなかった。
こんな残酷な現実、耐えられるわけが無い。祥子様や志摩子さん、由乃さんに他人として見られる自分。
それに比べれば、昨日までの自分は何て幸せだったのだろう。
祥子様と仲違いしていても、祥子様に嫌われていても、きっと祥子様は自分を見てくれた。
どんなに祥子様に嫌われても、きっと志摩子さんや由乃さんは私を助けてくれた。私を励ましてくれた。
けれど、今は誰もいない。いないのだ。誰も祐巳を見てくれない。誰も祐巳との絆を持っていない。世界に一人ぼっち。
恐怖に耐えられず、祐巳はその場でうずくまって泣きじゃくった。
余りに長い間目を閉じていたのか、最早周囲に人はいなかった。皆入学式に参加しているのだろう。
マリア像の前で、祐巳は一人泣いた。それは、まるで世界に自分しかいないみたいで。
世界に一人取り残された迷子。誰でも良いから助けて欲しかった。怖い。嫌だ。一人は嫌。一人は嫌。一人は――

「ちょっと貴女!どうしたのよ、そんなところで泣いてるなんて!」

突如、頭上からかけられた声に、祐巳は思わず顔を上げた。
否、上げたのではない。上げさせられたのだ。だって、その声が、自分の大好きだった人の声に似ていたのだから――

「よし・・・の・・・さん・・・」

祐巳に声をかけた少女は、彼女にとってかけがえの無い親友だった女の子。
意志の強さを表すように真っ直ぐな目は、祐巳にとって、この世界で初めて見た希望だった。

「私の事、知ってるの?いえ、そんなことはどうでもいいのよ。
 貴女、どうしてこんなところで一人で泣いているのよ。貴女、新入生でしょ?もう入学式は始まってるわよ?
 もしかして、どこか体調でも悪いの?もしそうなら保健室に連れて行くけど」

心配そうな表情で祐巳の顔を覗き込む由乃を見て、祐巳は己の衝動を抑えきれなくなった。
その場から立ち上がったかと思うと、祐巳は倒れこむようにして、由乃に抱きついたのだ。

「ええええっ!??ちょ、ちょっと貴女!?一体何を!?」

突然のことに慌てふためく由乃だったが、自分の胸の中で泣いている少女を見て、落ち着きを取り戻した。
祐巳は赤子のように由乃を強く抱きしめ、安心感を求めるように、縋りつくように泣いていた。
そんな様子を見て、由乃は何故かは分からないが、この娘を突き放すような真似はしてはいけないと思った。

「ほら・・・大丈夫だから・・・好きなだけ泣いていいから・・・」

泣きじゃくる祐巳を優しく撫でながら、由乃は祐巳が落ち着くまでじっとしてあげることにした。
『今日の山百合会の集会には遅刻決定かな』などと由乃は他人事のように思っていた。











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