15.嘘つき










大学のカフェテラスで、祐巳はようやく聖を直視出来るくらいに落ち着くことが出来た。
校門前で聖に出会い、余りの衝撃に祐巳は自分を忘れてしまった。
こちらの世界では聖とは入れ替わりにリリアンに入学した為、きっと二度と逢う事はないと思っていたから。
だが、今は祐巳の前に聖がいる。例え向こうの世界の聖ではなくとも、確かに聖がそこにいるのだ。
祐巳は嬉しかった。嬉しくて、嬉しくて、少しでも気を緩ませると本当に泣いてしまいそうだった。
そんな祐巳の様子を気にした風も無く、聖はただ笑って祐巳の手を引っ張って、
現在祐巳達がいる場所――リリアン女子大学内にある人の居ないカフェテラスへと連れてきたのだ。
その間、祐巳と聖は一言も言葉を交わすことはなかった。
聖の顔を見ただけで頭が真っ白になり、思わず泣きそうになってしまったその時の祐巳には、それが精一杯だった。

「さて、そろそろ落ち着いた?」

「・・・ええ、大分落ち着きました。ご心配をおかけして申し訳ありません」

「そっか。それは良かった。
 流石にあのままじゃ、ゆっくり話も出来そうになかったしね。というか何か泣きそうな雰囲気だったし。
 出会っていきなり後輩を泣かせたなんていったら流石に志摩子に怒られちゃうからさ」

「あ・・・それでは、志摩子様から頼まれたプリントをお渡しする方というのは」

「ピンポーン、私でーす。
 ちなみに私は去年まで志摩子の姉だった佐藤聖って言うんだけど・・・私の事、知ってるみたいね。
 流石の私も初めて会ったばかりの娘に自分の名前を呼ばれるなんて思わなかったけど」

「・・・聖様は、去年の白薔薇様ということで有名ですから。
 当時、中等部だった私でもそのくらいは」

そういやそうかもね、と聖は笑って納得した。
聖の笑顔に、祐巳は少し心に痛みを感じた。聖に嘘をついてる自分自身に何故か嫌悪感を感じてしまうのだ。
この聖は自分の事なんか知らないけれど、それでも自分を大好きだと言ってくれた佐藤聖に変わりはないのだから。

「それでは早速、こちらのプリントを」

「ん、ありがと。ほいっと」

次の瞬間、祐巳は視界に映った光景に思いっきり目を丸くした。
聖は祐巳から受け取ったプリントを笑顔でグチャグチャに丸め、近くのゴミ箱に投げ捨てたのだ。
呆然とする祐巳に、聖は更に楽しそうな表情を浮かべて笑っている。それこそ、悪戯に成功した子供のように。

「何で?って顔してるね」

「え、ええ?だ、だって、今のプリントは志摩子様が・・・」

「あはは、いいのいいの。だってあれ、ただの方便だもん。
 こういう理由でもないと、大学生の私が話したこともない祐巳ちゃんと逢引する理由がないでしょ。
 そういう訳でちょっと志摩子に頼んで祐巳ちゃんを呼び出すよう手回しして貰った訳」

あっけらかんと言い放つ聖に、祐巳はただただ言葉を失うだけだった。
そういえば聖様はこういう人だったと、今更思い出したことに祐巳は少しだけ後悔する。

「あの・・・それではプリントが必要ないなら、どうして」

「言ったでしょ。全ては貴女、福沢祐巳ちゃんと逢引する為だって。
 貴女の話は志摩子から色々と聞いてるよ。勿論、由乃ちゃんのことも含めて、ね。
 その話を聞いてるうちに、何だか君に興味が沸いちゃったって訳。
 最初は志摩子の考えすぎだと思ってたんだけど・・・成る程、祐巳ちゃんを見て確かに納得がいったよ。
 通りで志摩子があんなにも狼狽する訳だ」

聖の言葉に、祐巳は全てが一つの線につながった気がした。
事の全ては志摩子だ。彼女が由乃を変えた祐巳に対し、何かしらを抱いてることは祐巳も薄々と感じていた。
そして、その結果志摩子は姉である聖に相談したのだろう。その相談に応えたからこそ、聖は祐巳の前に現れたのだ。
結局、そういうことか。私はそんなに志摩子さんに嫌われているのか。だから、あの志摩子さんがこんな真似をする。
聖様も結局、志摩子さんに言われたから来ただけで私の為じゃない。やっぱり、あの聖様はもういない。

「ありゃ、何か急に暗くなっちゃったね。何か嫌なことでもあった?」

「いえ、そういう訳では・・・」

「ふーん・・・まあ、いいけど。
 それより祐巳ちゃんさ、あんまり志摩子の事怒らないでやってよ。
 あの娘は怖いんだよ。そして、その怖さが一体何からくるものか自分でもよく分からない。
 上手く説明できないから祐巳ちゃんを避けるような行動にでちゃうんだ。他の人ならともかく、志摩子にはね」

聖の言葉を、祐巳は少しも理解できなかった。
志摩子さんが怯えている。それも祐巳自身に。それが祐巳には全く分からなかった。
確かに志摩子からは何か探られるような視線を送られる時があるが、
祐巳はその原因が恐怖心からくるものだとは全く考えていなかった。では一体志摩子は何に怯えているのだろう。

「分からないって顔してるね。まあ・・・それも当たり前か。
 祐巳ちゃんを見て、志摩子の気持ちに共感出来るのは恐らく私や蓉子くらいだと思うよ。
 とにかく祐巳ちゃん、志摩子を嫌わないであげてよ。あの娘が怖がっているのは決して祐巳ちゃんをじゃないから。
 それだけは分かってあげて。志摩子、私に相談してきたとき泣いてたんだよ。どうしたらいいか分からないって。
 あの娘、私に似ているんだ。だから、今の貴女にどうしても惹かれちゃうんだ。それこそ、怖いくらいにね」

昔の私がそうだったように、と聖は苦笑して祐巳に告げる。
祐巳はただただ頭が混乱していた。一体聖は何を伝えたいのか、祐巳には分からないのだ。
だが、聖の言葉に少なくとも救いはあった。志摩子は祐巳の事を嫌ってなんかない。それに、祐巳は安堵した。
志摩子が祐巳の存在を怖がっている訳ではないという聖の言葉も、祐巳に心から安心を抱かせた。

「本当、今の祐巳ちゃんを見てると痛々しいくらい思い出すよ。
 祐巳ちゃんは綺麗だね。綺麗で、一部の曇りもなくて、神聖で・・・それでいて、危うい。
 志摩子に妹が出来ていて良かったよ。あの娘には私のようになって欲しくないからね」

「あの・・・私には何のことだか・・・」

「いいのいいの、今のは完全な独り言だから。志摩子の事は大丈夫だよって言いたかっただけ。
 それに、本題は今からだからね。祐巳ちゃんに聞きたいことがあるんだ」

聖は先程買ってきた缶コーヒーに一度口をつけ、軽く舌を湿らせる。
そして、缶をテーブルに置き、改めて笑顔で祐巳を見つめ直した。

「祐巳ちゃんさ、どうやって由乃ちゃんの心の傷を癒したの?」

聖の口から出た言葉に、祐巳は言葉を失う。
それもその筈で、祐巳は聖から由乃の傷について聞かれるなど思ってもいなかったからだ。

「由乃さんの傷、ですか・・・」

「そう。由乃ちゃんさ、心に傷を負ってたでしょ。
 目に映るもの全てを拒絶することで自分を保とうとする、そんな傷ついた野良猫みたいにね。
 あの娘の持っていた傷はそんな短期間で他人に癒せるようなものではないんだよね。あ、これ体験談なんだけど。
 それなのに、祐巳ちゃんは由乃ちゃんの傷を見事に塞いでしまった。少し、興味があるのよ」

「私は別に何もしていません・・・由乃さんが頑張っただけ、それではいけないんですか」

「よくないね。たった数ヶ月の間に自分の力だけで治るほどあの娘の負った傷は軽くない。
 由乃ちゃんの心の傷はもっとゆっくり治すべきモノだったんだ。それこそ遠回りしてでも、ね。
 心に空いた穴を他の何かで埋めるような真似だけは、絶対にしちゃいけない」

「それでは聖様は由乃さんにあのまま傷ついていればよかったとでも言うのですか!?
 あんな風に本当の自分を殺した由乃さんを放っておけとでも!?」

笑顔のままで語る聖に、祐巳は少し声を荒げて反論する。
許せなかった。あの聖が、誰よりも祐巳の味方でいてくれた聖が、こんな酷いことを言う。
由乃に対する聖の言葉が、祐巳には何より許せなかった。

「あれ?私、そんなこと言ってる?
 私、由乃ちゃんのこと大好きなのにそんな酷いこと言ってるように聞こえる?」

「ふざけないで下さいっ!
 私、絶対に認めません!由乃さんは、今の姿が本当の姿なんです!
 あんなにも傷つき、他人を遠ざけるような真似ばかりする由乃さんなんて、絶対に認めません!」

由乃さんは、いつも笑っていた。私の親友だった由乃さんは、いつも太陽のように笑っている人だった。
だから悲しかった。あんなにも傷つき、何事に対しても諦めきったような由乃さんを見ている事が。
そんな彼女に手を差し伸べることが、悪いことだと聖様は言う。何も知らないくせに、そんなことを言う。
ならば私は認めない。そんな酷いことを言う聖様を、私は決して認めてなんかあげない。
憤る祐巳に、聖はまいったなと苦笑し、ゆっくりと口を開く。

「あのさ、祐巳ちゃん。本当の由乃ちゃんって一体何?」

「え・・・」

「さっきから祐巳ちゃんの言ってること、何か違和感を感じるんだよね。
 本当の自分だとか、今の姿が本当の姿だとか、まるで今までの由乃ちゃんは由乃ちゃんじゃないみたい。
 ・・・福沢祐巳ちゃん、君は由乃ちゃんの中に一体誰を見ているのかなあ?」

聖の言葉に、祐巳は何故か自分の身体から冷たい汗が流れるような錯覚に陥った。
それでいて、鼓動は何故か激しく警鐘を鳴らしている。聖の言葉に、何一つ理解出来ないというのに。
それなのにどうして自分はこんなにも聖の言葉にどうようしているのか。祐巳は言葉を一つ発することすら出来ない。

「今はまだ良いかもしれないけど、それは後で致命的な結果を生むと私は思うよ。
 私さ、由乃ちゃんの味方なんだよね。だから、可愛い後輩が悲しむような真似はさせたくないの。
 今ならまだ間に合うから、ちゃんと由乃ちゃん自身を見てあげてよ。本当の由乃ちゃんって、一体何かを」

「・・・分かりません。聖様が一体何をおっしゃられているのか、私には全然分かりません。
 由乃さんは由乃さんです。由乃さんは私の大切な人。もう二度と失いたくない人。それだけでいいんです。
 心の傷だってそう。あのままでいいなんて、絶対に無かった筈です。
 私以外、由乃さんを理解してる人なんていなかった。そう・・・由乃さんには私しかいなかったもの」

「本当にそうかなあ。由乃ちゃんのこと、本当に理解してる人って祐巳ちゃんだけだったのかなあ。
 ・・・私、知ってるけどね。由乃ちゃんのこと、ちゃんと理解してた生徒が別にいることをさ。
 その娘は由乃ちゃんの傷をゆっくり治そうとしてたよ。君とは違う形でさ」

もう沢山だとばかりに祐巳はその場から立ち上がり、聖に一礼して踵を返した。
これ以上、聖の口から言葉を聞きたくなかったのだ。この聖は自分にとっての佐藤聖ではない。
何も知らないそのような人物の口から、由乃と自分のことをとやかく言われることが我慢ならなかった。

「あれ?帰っちゃうの?残念、もう少し話していたかったんだけど」

「私はもうお話することなんて何一つありません。
 ・・・私、今の聖様のことを好きになれそうにありません」

「あらら、振られちゃった。残念、私は祐巳ちゃんのこと大好きなんだけどな」

「私は大嫌いです・・・嘘つきな聖様なんか大嫌い。
 私の味方になってくれるって言ったのに・・・嘘つき」

立ち去ろうとする祐巳に、聖は最後に言葉を一つ投げかける。
それは、祐巳にとって聞きたくも無い言葉の続きだった。

「忘れないで。人との絆は、その人の本当の姿を見てる人同士しか築けないものなんだ。
 そんな風に祐巳ちゃんが由乃ちゃんの中に他の誰かを見ている限り、二人は決して幸せになんかなれないよ」

聖の言葉に耳を貸すことも無く、祐巳はそのままカフェテラスから出て行った。
祐巳が見えなくなった後で、聖は誰にも聞こえない声でそっと呟く。

「・・・そう、この世界の由乃ちゃんに君の知ってる由乃ちゃんを押し付けたりなんかしちゃいけない。
 それじゃ、きっとまた擦違いを繰り返すことになっちゃう。あの時の祐巳ちゃんと祥子のように・・・」

聖は軽く溜息をついて、飲み干したコーヒーの空き缶をゴミ箱に投げ入れた。
距離はあったものの、聖の投げた空き缶は美しく弧を描いて目的の場所へと収まっていった。

「嘘つき・・・か。嘘なんかいくらでもついてあげるよ。祐巳ちゃんを救う為なら、ね」

聖はその場から立ち上がり、一つ大きな背伸びをして聖もまたその場所を後にする。
そう、このような場所でいつまでもノンビリしている暇は無い。自分にはまだ沢山すべきことがあるのだから。
スーパーマンは年中無休。あの娘の笑顔という特別報酬が得られるのならそれくらい安いものだ。















戻る

inserted by FC2 system