21.自分らしく










聖と別れ、由乃は再び保健室へと戻ってきた。祐巳の様子を確認する為だ。
室内にはいつの間にか保健医の姿はなく、ベッドで眠る祐巳の姿だけがあった。
由乃は手をそっと祐巳の頬に触れ、優しく撫でる。よほど疲れているのか、祐巳は由乃の手に少しも反応しない。
少女の寝顔は、それこそどこにでもいる歳相応の普通の少女の寝顔だった。
目を覚ませば、祐巳はきっとまた由乃に笑いかけてくれるのだろう。太陽に向かって咲く向日葵のように。

――そう。自分の心にあんなにも大きな傷を負いながら。

由乃が知った祐巳の過去は、それこそ気が狂いたくなるほどに重いものだった。
彼女が別世界から来た、などという夢物語など普通誰が信じるだろう。
由乃だって言葉で説明されただけなら全く取り合わなかった筈だ。それこそ一笑に付したかもしれない。
だが、由乃は実際に『視た』のだ。祐巳の過去を、彼女の世界を、そして彼女の負った心の傷を。
向こうの世界で祐巳は、どこまでも普通な少女だった。ツインテールが良く似合う、可愛い少女。
それが、山百合会に入ったことで・・・小笠原祥子の妹になったことで世界が180度変わった。
祐巳がどんなに祥子の事が好きなのか、由乃には痛いほどに伝わってきた。それこそ嫉妬すら感じてしまうほどに。
彼女の、祥子に向ける笑顔。祥子に見せる表情。祥子への想い。その全てが、由乃の求めていたモノだったから。
祐巳は幸せだったのだろう。山百合会にいることが、そして祥子の傍に居ることが。
だから向こうの祐巳は、あんなにも歳相応の少女らしく無邪気に笑っていたのだ。どこまでも楽しそうに。

そして、その愛する姉との擦違いにより、祐巳はボロボロになってしまった。
誰が悪かった訳ではない。何が悪かった訳ではない。ただ、擦違ってしまっただけ。
少し運命が変わっていたなら、少し何かが違っていたならきっと起こらなかっただろう悲劇。
その上、彼女はたった一人でこの世界に来てしまったのだ。自分の知る世界とは異なるこの世界に。
それはどれ程までに孤独を感じたのだろう。周りの人間全てが自分を否定する。彼女の『福沢祐巳』を否定するのだ。
愛する姉も、親友も、祐巳は全てを失ってしまったのだ。普通なら、心が壊れてもおかしくないくらいの過酷。

それなのに、祐巳は由乃を救ってくれたのだ。
例え自分の中に向こうの世界の島津由乃を見ていたとしても、彼女は自分を救ってくれた。
自分自身がどうしようもないくらい傷ついているくせに、それでも祐巳は自分を変えてくれたのだ。
心の傷を必死に隠し、無理にでも笑顔を作って、祐巳は由乃に笑ってくれたのだ。

「馬鹿・・・祐巳さんの馬鹿・・・どうして貴女はそうなのよ・・・」

由乃の頬を、一滴の雫がそっと伝う。由乃は、自分の涙を抑えることが出来なかった。
祐巳を助けてあげたい。祐巳を救ってあげたい。否、この娘が救われないなんて、そんなのは嘘だ。
こんなにも優しく、誰よりもツライ思いをした少女が幸せになれないなんてそんな馬鹿な話があるものか。
そうだ、祐巳は誰よりも幸せにならなければいけないのだ。そうなる義務があるのだから。
彼女の記憶を、過去を見て、由乃はそう強く思った。祐巳が泣いているような未来なんて絶対に認めない。

「見ていて祐巳さん・・・私は貴女に救われた。だから今度は私の番」

涙を拭い、由乃は己に言い聞かせるように呟いた。
祐巳を救う為に自分は何をすべきなのか。何が出来るのか。それは未だに分からない。
けれど、祐巳だけは必ず幸せにしてみせる。必ず救ってみせる。祐巳にもう一度本当の笑顔を取り戻させてみせる。
そしてその時が訪れたなら、再び祐巳に自分の想いを伝えよう。今度こそ、祐巳と一緒に歩いていく為に。















 ・・・













保健室を後にし、薔薇の館に訪れた由乃を見て、山百合会のメンバーは真っ二つの表情を浮かべた。
由乃が訪れたことに驚いている瞳子、乃梨子、笙子。それとは対照的にいつものように微笑んでいる志摩子、令。
そんな周囲の様子に気にすることもなく、由乃は一礼して自分の席へと座る。

「・・・今日は用事があるのではありませんでしたの?」

「終わったから来たのよ。何、私はそのままサボった方が良かった?」

突っぱねる由乃に、瞳子はその返答が明らかに不満だといわんばかりに表情をしかめる。
由乃の様子に首を傾げる令と志摩子に対し、笙子と乃梨子は由乃の方をじっと見つめていた。
笙子は今にも泣きそうな、乃梨子は解せないといわんばかりの表情で。
みなの様子に軽く溜息をついて、由乃は祐巳とのことを話すことにした。別段隠すようなことでもないのだから。

「振られたわ。残念だけど、ね」

由乃の言葉に、笙子と乃梨子が身体を反応させる。
そして、由乃の言葉の意味を理解できなかった令が彼女に尋ねかける。

「振られたって・・・どういうこと?」

「どういうことも何もないわ。今日、祐巳さんに妹になってって告白したの。
 そして見事に玉砕したって訳。ただそれだけよ」

「・・・嘘」

「あのね、志摩子さん・・・流石に私もこんな面白くも無い冗談なんか言わないわよ。
 まあ、遅刻したのはそういう訳よ。事情は理解して頂けたかしら?」

由乃の言葉に、瞳子は一切口を開かない。まるで事情が上手く飲み込めていないかのように。

「分からないよ・・・由乃、祐巳ちゃんに振られたんでしょ?」

「そうよ」

「だったら何でそんなに落ち着いているのさ。
 もっとこう・・・ショック受けてたり落ち込んだりしてもおかしくないと思うんだけど」

令の言葉に、由乃は何故か驚いたような表情を見せる。
そして、ようやく令の言葉の意味が理解できたのか、さぞ楽しそうに笑みを浮かべた。
その様子に、令達は困惑するばかりだ。そして、由乃はハッキリと言い放った。

「そんなの当然じゃない。落ち込む必要なんて何一つ無いもの。
 一度振られたからって私と祐巳さんの絆が失われた訳じゃない。祐巳さんがいなくなった訳じゃない。
 私と祐巳さんが生きている限り、チャンスはまだ幾らでも残っている。違う?」

その言葉に、一同はそれこそ豆鉄砲をくらったかのように驚きの表情をみせる。
そして、その沈黙を解くように令が口を開く。

「その・・・由乃はまだ祐巳ちゃんにアタックするの?」

「当たり前じゃない。この学校には一度振られた相手はスールにしちゃいけないなんて決まりはないもの。
 私は絶対に諦めないわ。何があっても諦めない。私は祐巳さんの姉になるって決めたもの」

そう。決して負けない。自分にも、祥子にも。
祐巳の心を救った後、自分は必ず祐巳の傍を歩いていきたいから。一緒に笑いあいたいから。

「一度拒否された相手にロザリオを受け取ってもらうのは難しいことだよ」

「上等。それくらいじゃないと張り合いがないわ」

祐巳の過去に触れた記憶の中で、確かに祥子はやり遂げた。祐巳へのロザリオの享受を。
祥子だって条件は同じだった。あの人に出来て、私に出来ない筈がない。出来ずして祐巳の姉たる資格は無い。
どこまでも大胆不敵な由乃に、志摩子はクスリと表情を崩した。そして、令もつられて苦笑する。

「本当・・・由乃さんらしいわね」

「・・・一応褒め言葉として受け取っておくわ。
 そういう訳で私は全然気落ちなんてしてないから。だからそんなに泣きそうな顔しないの」

由乃は笑って笙子の下まで歩み寄り、そっと笙子を抱きしめる。
必死に涙を堪える笙子を見て、乃梨子もつられて涙腺が緩みそうになったが、耐えた。
今、自分までそんな情けない表情を見せるわけにはいかないと思ったから。

「でも残念だね・・・祐巳ちゃんなら由乃の良い妹になってくれると思ったんだけど」

「過去形で言わないでよ。私は今でも祐巳さんの良き姉になるつもりなんだから」

「あはは、ゴメンゴメン。そうなることを期待してるよ。
 でも、明日からは祥子も復帰することだし、孫を祥子に自慢できなくて残念だ」

令の言葉に、由乃は一瞬衝撃の余り我を忘れそうになった。
今、令はなんと言った。その言葉は由乃にとって余りに突然の言葉だった。

「・・・祥子様が、復帰?」

「え?ああ、瞳子ちゃんから報告があってね。とうとう祥子も明日から学校に来るらしいんだ。
 休んでた理由だけど、何でも祥子のお祖母さんが亡くなったらしくて、それで色々あったみたいなんだ」

そんなことは知っている。自分は実際に『その記憶』に触れたのだから。
だが、問題は祥子が明日からここに来るということだ。この場所、薔薇の館に。
それはつまり、祐巳と祥子が顔を合わせてしまうということだ。

それだけは、絶対に避けなければならない。

由乃は心で強くそう思った。
どうして聖が祐巳と祥子が出会うとき、全てが終わるといったのか。祐巳の過去に触れた今なら痛いほどに分かる。
今の祐巳に祥子を会わせる訳にはいかない。祐巳の傷を知れば誰にだって分かることだ。
きっと祐巳は耐えられない。祥子と出会った瞬間、必死に隠していた心の傷が切開されてしまう。
その上、もし何かの拍子で祐巳が祥子の休んでいた理由を知ってしまったら。
祥子が休んでいた理由が祐巳を嫌った訳ではなく、祖母の為だと知ってしまったら。きっと祐巳は自分を責めるだろう。
もしかしたら、今度こそ祐巳は壊れてしまうかもしれない。そんなことはさせない。絶対にさせてはならない。
まだ祐巳を救う為の方法が分かっていないのに、見つかっていないのに、祥子に会わせる訳にはいかないのだ。

「祐巳さんと山百合会で一緒にいるのもここまで、か・・・」

「由乃様・・・祐巳さんは・・・」

「ん。大丈夫よ笙子ちゃん。
 きっと祐巳さんはこの場所に戻ってくる。私が戻らせてみせるから」

紅薔薇が戻ってくるまで――それが祐巳の山百合会の手伝いの条件だった。
由乃にとってそれはある種好都合だった。これで祐巳に何の躊躇もなく手伝いを止める様に伝えられる。
祐巳が手伝いに来なくなることに令や志摩子は驚くだろうが、祐巳が山百合会を辞めるわけではないのだ。
そう、今は少しだけ休むだけ。祐巳は必ず帰ってくる。何故なら薔薇の館は彼女が愛した場所なのだから。
笙子を安心させるように抱きしめる由乃を、瞳子は一度も口を開かず黙って見つめていた。















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