22.優しい世界の終わるとき










山百合会の活動を終え、その日の帰りに由乃は祐巳に祥子が復帰することを告げた。
言葉を失い、暗い表情を浮かべている祐巳の頭を優しく撫で、由乃は何も言わずに微笑みかける。
それはあたかも親とはぐれてしまった子供のように、祐巳は由乃から離れようとしなかった。
そんな祐巳の手を、由乃はしっかりと握り締めていた。この手の温もりを決して失わせたりしない。
私は決してこの手を離したりなんかしない。そう心に何度も誓いながら。















 ・・・















翌日の昼休み、由乃は弁当の入った袋を片手にいつものように祐巳達の教室へと向かっていた。
約束通り山百合会の手伝いは昨日までで終わりとなった祐巳ではあるが、由乃とのつながりが無くなった訳ではない。
そう、祐巳とのつながりは以前は山百合会無しだったのだ。だから、今は以前の時のように戻るだけ。
山百合会の時間を祐巳と過ごせないのは少し寂しいけれど、今は仕方が無いと由乃は割り切ることにした。
祐巳の心を救い、何時の日か祐巳の姉として胸を張れる日がくるまで。それまではしっかりと我慢しよう。

祐巳の教室に訪れた由乃だが、教室内に祐巳の姿がどこにも見当たらないことに気付いた。
そして、笙子の姿を発見し、由乃は微笑み挨拶をする。

「ごきげんよう、笙子ちゃん。祐巳さんがいないようだけど、学食?」

「ごきげんよう、由乃様。祐巳さんなら今日は昼食は一緒に食べられないそうです。
 なんでもこの昼休みを利用して今までお世話になった山百合会の皆様にお礼を言ってくるそうです」

「なるほど。別にそんな必要ないのに・・・祐巳さんたら妙なところで律儀なんだから」

祐巳が山百合会の手伝いを辞めることは、昨日のウチに山百合会メンバー全員に由乃から通達した。
みんな最初は驚いていたのだが、由乃が祐巳の手伝いの期間は今日までの約束だったと嘘をついた為、
渋々納得してくれた。流石に面と向かって『祥子が来るから手伝いを辞める』なんて言える訳が無いからだ。
ただ、最後の最後まで由乃の姉であり、黄薔薇でもある令は祐巳を手放すことに渋っていたが。
祐巳は将来、間違いなく山百合会をまとめる人間になるだろう。それが山百合会全員の意見だった。
仕事を処理する力、機転、そして何より多くの生徒から寄せられる人望。そのどれもが薔薇に相応しい。
だからこそ、令は一薔薇として祐巳になんとしても残って欲しかったのだが、
由乃の『私が祐巳さんを口説き落とせば無事解決じゃない。いいから令ちゃんは黙って待ってて』の一言に
納得せざるを得なかったのだ。薔薇としての意見よりも、結局令は一個人として由乃に逆らえなかった。
だから、祐巳が挨拶に回る必要も無かったのだが、やはり祐巳個人がそういうことを気にするのだろう。
どこまでも健気な祐巳を、由乃は本当に可愛いなあと心の中で一人呟くことにした。

だか、由乃は自分の心に妙な胸騒ぎが生じているのを感じた。
祐巳が皆に挨拶にいくのは別段おかしいことは何一つ無い。だが、何か見落としている。そんな気がする。
まるで解けないパズルに四苦八苦するかのように、由乃はこの胸騒ぎの理由が何なのか自問する。
そんな由乃の様子に、笙子が首を傾げて問いかける。

「あの、由乃様。どうかしましたか?」

「いえ、別になんでもないのよ。ただ、何か胸の引っ掛かりが消えなくて・・・
 祐巳さんがみんなに対して別れの挨拶に行くことに何も問題もないのよ。みんなにもすぐ会える筈だもの。
 令ちゃんは昼食は教室で友達と食べているだろうし、志摩子さんは乃梨子ちゃんと薔薇の館で、
 それに瞳子は・・・」

松平瞳子。その名を口にした瞬間、由乃はしまったとばかりに表情を歪めた。
今日、瞳子の姉である小笠原祥子は久しぶりの登校なのだ。その姉の傍に彼女がいない訳が無い。
それはつまり、祐巳が瞳子に会いに行く時に下手をすれば祥子との接触の可能性があるということ。
無論、祐巳とてリリアン学生の一人だ。今日会わずとも、この先祥子と出会う可能性が消えることなどありはしない。
だが、それでも由乃は何故か胸の中から湧き上がる衝動を抑えることが出来なかった。
不味いと。今日だけは、他ならぬ今日だけは祐巳と祥子を出会わせてはならないと。
そう誰かが胸の中で必死に叫んでいるのだ。そうしなければ、きっと最悪の結果を生むことになりかねないと。

「よ、由乃様・・・?」

突如椅子から立ち上がった由乃の様子に、笙子は再び疑問の声を投げかける。
しかし、今の由乃に笙子の言葉に返答を返す余裕などなかった。『ごめんね』と一言だけ残し、
由乃は周囲の目も気にすることなく一年の教室から飛び出した。












 ・・・










「・・・そう。祐巳さんがいなくなると寂しくなるわね」

「ううん、そんなことないよ志摩子さん。
 笙子ちゃんは残ることが出来るし、私だって二度と会えない訳じゃないんだから。
 その気になればすぐに会えるよ」

「ふふ、そうね。私達、親友だものね。
 祐巳さん、たった数週間にも満たなかったけれど、本当にお疲れ様」

薔薇の館で、祐巳は志摩子に手伝いとしての最後の挨拶を交わしていた。
祐巳の話は由乃との約束の期間が来てしまったこと、今までお世話になったことへの礼が主な内容だった。
今生の別れになるわけでもなく、会いたければいつでも会える。
その祐巳の言葉を、その場にいた乃梨子、そして瞳子は何も言わずに聞いていた。

「また、この場所で祐巳さんにお会いできることを楽しみにしているわ。
 勿論、その時は由乃さんの妹としてね」

「もう、志摩子さんったら・・・私と由乃さんは姉妹じゃなくて親友だっていつも言ってるのに」

全ての話を終え、志摩子達に最後の一礼をし、祐巳は部屋を出て行こうとした。
だが、それを今までずっと黙って祐巳の言葉を聞いていた瞳子が制止する。

「お待ちなさい、福沢祐巳」

「え・・・」

突然、名指しで呼ばれた祐巳は驚いて瞳子の方へ視線を送った。
このリリアン女学園では年下相手に多くの人が『ちゃん』づけで呼ぶ。
いくら上級生でも、下級生相手にそのように名前を呼び捨てることは滅多にないことだった。
驚く祐巳を他所に、瞳子は椅子から立ち上がり、祐巳の元へと歩み寄る。
そして祐巳の前に立ち、真っ直ぐに視線をぶつけて来た。それは、睨んでいるともとれる程の鋭さを含めて。

「少し、私に付き合って頂けないかしら。時間の方はまだ余裕がおありでしょう?」

瞳子の有無を言わさない態度に、祐巳は困ったような表情を浮かべてコクリとただ頷くだけだった。
薔薇の館から出て行く二人を、志摩子と乃梨子は互いに顔を合わせて首を傾げるしかなかった。



外に出て、薔薇の館の裏側に祐巳を連れ出し、瞳子は祐巳の方へ向き直った。
瞳子の様子に、祐巳はただただ困惑するしか出来なかった。――瞳子様は怒っている。
第三者が見れば、そのようには感じないかもしれない。
だが、その怒りのベクトルの矛先である祐巳には瞳子の怒りが肌に突き刺さる程に強く感じられたのだ。
戸惑う祐巳に、瞳子はゆっくりと口を開いた。今まで黙っていたのはこの時の為だったかのように。

「貴女、一体何がしたいんですの?はっきり言って、貴女の行動は迷惑よ」

瞳子の突き刺すような言葉に、祐巳は言葉を失った。
祐巳の様子に、瞳子は軽く溜息をついて、再び言葉を続ける。

「聞きましたわ。貴女、由乃さんのスールの誘いを断ったらしいですわね。
 まあ・・・それは構いませんわ。姉妹なんて本人同士の合意だけが尊重されるもの。
 そこに私が口出しをする権利なんてありませんもの。けれど・・・貴女はあまりに山百合会を掻き回し過ぎた」

「わ、私・・・別に山百合会を掻き回してなんて・・・」

「掻き回しましたのよ。貴女が来て、山百合会は確実に変わった。
 貴女が来る以前と、由乃さんも志摩子さんも今では別人のようだもの。・・・いえ、違いますわね。別人なのよ。
 特に由乃さんは、貴女がいなければどうしようもない程に貴女に依存しきってしまったわ」

瞳子の言葉は止まらない。彼女の一言一言が祐巳の心に突き刺さる。
どうして瞳子は怒っているのだろう。何故怒っているのだろう。それが上手く理解出来ないのに、心が痛くなる。

「でも、それは貴女が由乃さんの妹になるのだから仕方が無いのかもしれないと思っていたわ。
 けれど、貴女は由乃さんのスールの誘いを断っただけでなく、今山百合会の手伝いを辞めると言う。
 ・・・お姉様の居ない間、この山百合会を手伝ってくれたことには感謝しますわ。
 けれど、私は貴女にそれ以上に言いたいことがありますの」

軽く息をついて、瞳子は祐巳を強くにらみつけた。
その視線に、祐巳は背筋が震えるのを感じた。このような憎しみを篭もった瞳で誰かに
見つめられたことなど今まで一度もなかったからだ。

「これ以上、貴女の自分勝手で由乃さんを振り回さないで頂戴」

「そんな・・・私、由乃さんを振り回してなんかいません!どうしてそんな酷いこと言うんですか!!」

「ええ、貴女はそんなつもりはないでしょうね。由乃さんもそうでしょう。
 けれど、貴女は由乃さんの気持ちを知っていながら、自分の中の由乃さんを押し付けようとしているわ。
 親友ですって?ふざけないで頂戴。由乃さんを真っ直ぐに見ていない貴女にそんな資格があるとでも思っているの」

瞳子の言葉に祐巳は己の中で渦巻いていた感情が増幅していくの感じた。
拙い。これはイケナイ感情だ。この感情を誘発させてしまえば、もう二度と戻れなくなる。
折角今まで忘れていたのに。この瞳子は違うと。瞳子ちゃんではないのだと。そう思っていたのに。

「貴女はただ、自分に都合の良い人間を求めているだけ。そうでしょう?
 志摩子さんも、由乃さんも、貴女と出会って変わってしまった。それは良いことなのかもしれない。
 特に由乃さんに至っては山百合会と向き合うようにすらなった。私と話すようにもなってくれた。
 けれど、それは由乃さんの心の傷を貴女が無理矢理埋めただけでしょう。
 貴女は由乃さんの心の傷を利用して、ただ自分に都合の良い島津由乃を作り変えただけ。
 由乃さんは貴女が思ってるほど弱くはないわ。由乃さんは時間をかけてでも自分の力で立ち上がるべきでしたのに」

憎い。目の前の少女が憎い。
どうしてそんな知った風なことを言うのか。どの口がそんな台詞を私に告げるのか。
貴女に私の何が解かる。私から大切な人を奪った張本人である貴女に。

由乃さんの気持ちなんて解かってる。最早、由乃さんが私の知っている島津由乃と違うことも解かってる。
けれど、そうしなければ私は耐えられなかった。そうしなければ私は壊れていた。
この世界に一人ぼっちだった私にとってあの日、出会った由乃さんはマリア様のような存在だった。
助けに来てくれたのだと思った。由乃さんが私を追って助けにきてくれたのだと思った。
だが、違った。この世界の由乃さんは向こうの世界の由乃さんとは別人で。私の知ってる由乃さんとは違ってて。
怖かった。この世界に誰一人として私の知ってる人がいないことが。怖かった。世界にただ一人孤立することが。

だから私は由乃さんに縋った。いけないことだと分かっていても、由乃さんに私の偶像を押し付けずにはいられなかった。
私と由乃さんは親友。ずっとずっと親友。そうなれれば、向こうと同じ。向こうの世界と変わらない。
けれど、それはやっぱり私の一方的な感情で。由乃さんは私の知っている島津由乃さんとは違うのだ。
この世界の由乃さんに惹かれていく自分がいる。けれど、それを恐れる自分がいる。
変わることが怖かった。由乃さんに姉を求めることが怖かった。
だって、由乃さんとの関係を壊してしまえば、私は再び繰り返してしまうかもしれない。祥子様のときのように。
嫌だ。捨てられるのは嫌だ。姉妹なんてもう嫌。そんな絆は欲しくない。由乃さんに捨てられたら、私はどうすればいい。
だから、必死で抑えた。親友という枷で、私の心をつなぎ止めた。もう祥子様の時を繰り返したくはないから。
それなのに、たったそれだけなのに目の前の少女は私を責める。ふざけないで欲しい。
貴女にそんな資格は無いのに。私から、大切な人を奪った貴女にそんな資格はないくせに。

「・・・福沢祐巳、貴女にとって本当の島津由乃とは一体何ですの?
 それは貴女にとって都合の良い島津由乃でしかないんですの?」

ああ、もう駄目かも。まるで他人事のように祐巳はゆっくりと己の感情に全てを溶け込ませていく。
――頭にくる。どうして瞳子ちゃんはこんなにも酷いことを言うのだろう。
どうしてこんなにも・・・聖様と同じように、私を否定するようなことを言うのだろう。
私、そんなに悪いことをしてきたのだろうか。みんなに責められるような悪いことをこの世界で。
もういい。もう、どうでもいい。結局、私に救いなんてない。全て私が悪いのだろう。
ならば憎めばいい。嫌えばいい。つまるところ、やはり私にこの世界で居場所なんてなかったのだ。
ただ、目の前の少女には――瞳子ちゃんには私を責める資格なんて、ない。
貴女がいなければ、祥子様と一緒にいられることが出来た。貴女がいなければ、こんなことにはならなかった。





・・・ああ、何だ。凄く簡単なことだった。


瞳子ちゃんが・・・松平瞳子が全部悪いんじゃない。この娘さえいなければ、私はこんな風にならなかった。





「あはっ・・・あははは、あはははははは!!!!!」

「なっ・・・」

突如としてあたかも防波堤が壊れたように笑い出す祐巳に、瞳子は一瞬怯んだ。
一通り笑い終え、満足したのか祐巳は微笑を浮かべ、瞳子の方へと視線を向ける。
その笑みは、どこまでも美しく、どこまでも楽しそうで、どこまでも残忍なモノだった。

「私が悪いんだ。あはっ、全部私が悪いんだ。
 よくもまあそんなことを平然と言えるよね、瞳子ちゃん。私から全てを奪ったのは他ならぬ貴女じゃない。
 瞳子ちゃんがいなければ私だってこんなことする必要なんてなかったのに。貴女がお姉様を私から奪わなければ・・・」

「な、何を言ってますの・・・」

「私からお姉様を奪ったくせに、今度はこの世界から私の居場所を奪うつもりなんだ。
 瞳子ちゃん、そんなに私のことが嫌いなんだ?酷いなあ・・・私、これでも頑張ったんだよ?
 お姉様と瞳子ちゃんのことを祝福してあげようって・・・ちゃんと笑っておめでとうって言おうって、頑張ったのに。
 それなのに瞳子ちゃんは、まだ私を責めるんだ。まだ私から大切なモノを奪うつもりなんだ」

祐巳の変貌振りに瞳子は言葉を失う。
まるで金縛りにでもあっているかのように身体が動かない。動けない。
目の前の下級生から放たれる重圧に、自分が怯えているのだ。何故。どうして。

「瞳子ちゃんさ、さっき言ったよね。私の求めている由乃さんは私にとって都合の良い人間でしかないって。
 ・・・貴女に分かる訳ないよね。私にとって由乃さんがどれだけ大切な人か。どれだけ大好きなのか。
 だからこそ、由乃さんと私は親友でいないといけないんだよ。そうでしょう?
 だって、由乃さんと姉妹になったりしたら、また失っちゃうかもしれないもの。盗られちゃうかもしれないもの。
 貴女のような・・・瞳子ちゃんのような女の子にね」

祐巳はそっと手を瞳子の頬に当てる。
その手の冷たさに驚くと共に、瞳子は身体の震えが止まらなかった。
祐巳の瞳から目が離せない。離れない。祐巳の全てが、瞳子の心を恐怖で震わせる。

「どうしたの?震えてるの?やだなあ・・・これじゃ私が瞳子ちゃんを苛めてるみたいじゃない。
 泣きたいのはこっちだよ・・・どうしてこの世界でも貴女に大切なモノを奪われなきゃいけないの?
 嫌だなあ・・・私、ただ黙って大切なモノを奪われて泣き寝入りするのなんてもう嫌なの。どうしたらいいかな?」

子供のように無邪気に笑う祐巳に、瞳子は震える身体を必死に押さえようと試みることしか出来ない。
だが、その震えは止まらない。どうしてこんなことになった。祐巳の言ってる言葉の意味が解からない。
そして、祐巳は面白いことを思いついたとばかりに楽しそうに微笑む。

「そうだね。それじゃ、私も瞳子ちゃんから大切なモノを奪うっていうのはどうかなあ?
 うん・・・そうすれば瞳子ちゃんも解かってくれるよね?大切なモノを失うことがどんなに辛いことかをね。
 瞳子ちゃんの大切なモノって何かなあ。教えてくれないかなあ」

これが、あの福沢祐巳の姿なのか。これが、彼女の纏っていたモノの正体なのか。
怯える瞳子に、祐巳は顔を近づける。それこそ息のかかる距離にまで。

「瞳子ちゃんの大切なモノなんて私には分からないから・・・少しずつ大切なモノを奪っていこうか。
 手始めに唇なんてどうかな。瞳子ちゃん、ファーストキスはまだだよね。私もまだ何だけどね。
 瞳子ちゃんの初めては、貴女が世界で一番大嫌いな私に奪われるの。貴女の初めては、私の初めて」

恐怖のあまり、瞳子は強く瞳を閉じた。
その反応を見て、祐巳は満足いったかのように笑う。そして、顔を瞳子から離す。

「冗談だよ、瞳子ちゃん。嫌だなあ、そんなに怯えないでよ。
 それに、瞳子ちゃんの大切なモノは分かってるから。貴女の大切なモノって、由乃さんでしょう?」

島津由乃。その名前に瞳子は思わず祐巳に反応してしまう。何故、と。

「どうして、って顔してるね。それくらい分かるよ。瞳子ちゃん、さっきから由乃さんのことばかり気にかけてたもの。
 フフ・・・皮肉な話だよね。お姉様は瞳子ちゃんに奪われちゃったけど、由乃さんは私の傍にいる。
 ごめんね、瞳子ちゃん。貴女の大切な由乃さんを奪っちゃって。本当は由乃さんと親友になりたかったんだよね?
 貴女の言う通り、私って由乃さん無しでは生きていけないの。もう、由乃さんから離れられないよ」

「何を・・・」

「でも、そうなるとちょっとだけ瞳子ちゃんが可哀想。瞳子ちゃん、今はお姉様もいないんだものね。
 お姉様が学校をお休みされてるところを見ると、瞳子ちゃんも捨てられちゃったのかなあ。
 もし、お姉様と破局しても私を恨まないでね?私は瞳子ちゃんとお姉様のことには何も口出ししてないもの。
 私はもう、由乃さんさえ傍にいればそれでいい。私を捨てたお姉様なんて必要ない。
 ・・・そう、お姉様なんて・・・最初からいなければ、愛されなければ、求めなければこんなに傷つくこともなかった」

「私は・・・私はお姉様に捨てられてなんかいません!」

瞳子の言葉に、祐巳は表情をしかめた。
まだ、そんなことを言えるのか。現に祐巳は祥子と瞳子が一緒にいるところを見たことが無い。
それはつまり瞳子も祐巳と同じ道を辿ったのではないのか。祥子に捨てられたのではないのか。
祐巳は不機嫌そうな表情を浮かべて、瞳子へ再び視線を向ける。

「何言ってるの?瞳子ちゃんは捨てられたんでしょ?だから祥子様は来てないんでしょ?
 休んでいる理由も説明されなかったんでしょ?」

「お姉様がお休みされている理由も、お姉様のお気持ちも、私は知っているわ!
 私はお姉様をいつでも信じているわ!貴女の勝手な思い込みで私とお姉様の絆をみくびらないで!!」

瞳子の言葉に、祐巳は言葉を失った。
馬鹿な。どうして瞳子は祥子と擦違わないのか。この世界において、瞳子とは祐巳と同一の立場ではないのか。
この世界では祥子とその妹は擦違うこともなかったのか。祐巳だけが擦違ってしまったのか。
そして追い討ちをかけるように、瞳子が口を開く。

「お姉様が休まれていたのは、お祖母様が病気で伏せていらしたからよ。お見舞いにいっていたのよ。
 そのことを私は知っていたし、落ち込むお姉様の力になれたつもりよ。妹として、力になれた筈よ。
 私とお姉様は強い絆で結ばれてるわ。お姉様が私を捨てるなんて絶対に無いわ」

瞬間、祐巳の世界に大きなヒビが入る音が鳴り響いた。
それは、祐巳が知らなかった真実。祐巳の知りうることが出来なかった、現実。
先程までの憎悪が姿を潜め、祐巳は呆然と口を動かした。

「お祖母様の・・・お見舞い・・・?」

馬鹿な。祐巳は言葉の意味を未だに理解できなかったとばかりに反芻する。
祥子がどうしてあんなにも擦違ってしまったのか。どうして学校を休まれたのか。
その答えが今、一つの線につながった。否、つながってしまった。全ての辻褄があう答えが提供されたから。
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
だったらどうして自分は知らない。そのことを祥子から聞いていない。瞳子が聞いて、何故自分は聞いていない。
もしそれが本当だったら、今の自分は一体なんだ。
祥子に捨てられたと勝手に勘違いし、勝手に絶望し、勝手に悲劇のヒロインを演じ。
挙句の果てにはこの世界で何をした。たった今瞳子に何をしようとした。島津由乃に何をした。
ならばこの身はとんだ道化ではないか。あの時、少しでも祥子を問いただせば世界は変わっていたのか。
あの時、祥子に着いて行っていれば、その話を聞くことが出来たのか。

「うあああ・・・嘘だ・・・嘘だ・・・・そんなの嘘だよ・・・・ああああああ!!!」

「っ!!祐巳さんっ!!!」

膝から崩れ落ちる祐巳を、ギリギリのところで突然現れた一人の少女が抱きとめる。
その少女――島津由乃は祐巳を抱きしめ、何とか体勢を立て直した。













 ・・・












祐巳を抱きとめ、由乃は現状を把握することに努める。
先程、薔薇の館に訪れた時、裏側から誰かの話し声が聞こえた。
それを不審に思った由乃は、薔薇の館の裏側に回ってみると、そこには祐巳と瞳子が対峙していた。
二人の空気が明らかにおかしいことに気付き、二人の間に割って入ろうとした瞬間、突如として祐巳が倒れたのだ。
慌てて駆け出し、祐巳を抱きとめた由乃だったが、一体何が二人に起こったのか全く知らなかったのだ。

「祐巳さんどうしたの!?しっかりして!!瞳子、貴女祐巳さんに一体何をしたのよ!?」

「な、何もしてませんわよ!!瞳子はただ、祐巳さんにお姉様の休んでいた理由を話しただけで・・・」

「なっ・・・!?さ、最悪よ!この馬鹿瞳子!!!」

瞳子に一喝し、由乃は現状が最悪だというコトを理解した。
何故そうなったのかは分からないが、祐巳は祥子の休んでいた理由を知ってしまった。
それは祐巳が開いてはいけなかったパンドラの箱。彼女が知れば、きっと自分自身を責める。それこそ壊れるほどに。
由乃は祐巳を強く抱きしめ、しっかりと自分の元へ引き寄せる。

「祐巳さん、私よ!由乃よ!分かる!?」

「由乃さん・・・どうしよう・・・私、祥子様に・・・祥子様に・・・取り返しのつかないことを・・・」

「違う!!祐巳さんは悪くない!!祐巳さんは被害者じゃない!!
 それに祐巳さんには私がいるでしょ!?もう祥子様なんて関係ないわ!私がずっと傍にいるから!」

由乃の言葉が聞こえていないのか、祐巳は身体を震わせ、涙を流し始めた。
自分の今までの行動に、誤解し続けていたことに、押しつぶされるかのように。

「私が悪かったんだ・・・私なんかが妹だったから、祥子様は一人で苦しんでたんだ・・・
 私なんかがいたから・・・私なんかいなければ、祥子様は悩むこともなかったんだ・・・私なんかいなければ・・・」

「祐巳さん・・・とにかく、今は保健室に連れて行くわ。
 その後でどうしてこうなったのか事情を聞かせてもらうわよ。いいわね、瞳子」

祐巳の背に手を回し、由乃は瞳子を責めるように告げる。
突然崩れた祐巳に、瞳子は現状についていけないものの、頷くしか出来なかった。
ともかく今の状況は拙い。くしくも由乃の嫌な胸騒ぎは的中してしまったのだ。
今はとにかく祐巳を落ち着かせるしかない。それほどに祐巳の精神状態は乱れてしまっている。
しかし、それも仕方の無いことだろう。祐巳は知ってしまったのだ。祥子の事情を。
由乃からしてみれば、祥子と瞳子の事で祐巳が気を病む必要など一切無い。
彼女達はワザと祐巳に事情を話さなかったのだ。それの何が妹だと言うのか。それのどこが祐巳を想っているというのか。
頭にくる。祥子も、瞳子も。みな自分勝手なことばかりで、誰も祐巳の気持ちを考えていなかったのだから。
だが、祐巳はそれでも自分を責めるだろう。全て悪いのは自分だと、どこまでも自分自身を責めるだろう。
そんなことはさせない。祐巳は何一つ悪くないのだから。自分がいる限り、決して。




祐巳を保健室まで連れて行こうと一歩目を踏み出そうとした瞬間、由乃はその足を止めざるを得なくなった。
――馬鹿な。どうして、よりによってこの時に。由乃は運命を呪いたくなった。
この世界はそんなにも祐巳を苦しめたいのか。どこまでも祐巳を絶望に落としたいのか。
由乃達の目の前には、紅薔薇――小笠原祥子が悠然と立ち、ゆっくりと由乃達の方へ近づいていた。

「ごきげんよう、瞳子。それに由乃ちゃん。お久しぶりね」

「紅薔薇・・・どうして」

由乃の呟きに、祥子は苦笑して『どうしたもこうしたもないわよ』と答える。
その振る舞いはどこまでも上品で、彼女が薔薇の中でも特別な存在であることを認識させられる。

「久しぶりに瞳子とお昼を過ごせると思っていたのに、どこにもいないんですもの。随分探したのよ。
 ・・・えっと、そちらの娘は?もしかして瞳子の言っていたお手伝いの娘かしら?」

ゆっくりと祐巳の方に祥子は歩み寄る。
来るな。こっちに来るな。由乃はそう叫びたかった。祐巳に触れるな、そう叫びたかった。
だが、最早言葉を発する事が出来なかった。その瞬間、由乃は悟ってしまった。
――ああ、これは終わりの始まりなのだと。

「貴女、お名前は?」

「・・・ゆみ・・・ふくざわ・・・ゆみ・・・」

名前を尋ねる祥子に、祐巳は言葉を覚えたばかりの子供のように返答を返す。
瞬間、由乃の視界が真っ白に染まっていく。世界が変わっていく。大きく塗り替えられていく。
祐巳にとって優しい世界。彼女が望むままに不自然を塗り替えられていく世界。
ならば、祐巳が真実を知ってしまえば、今のままでいられる筈がなかった。

「そう・・・祐巳ちゃんって言うのね。素敵な名前ね」

「・・・さちこさま・・・ごめんなさい・・・」

駄目だ。由乃は必死に祐巳を止めようとするが、最早身体の感覚さえままならない。
約束した。祐巳を守ってみせると。約束した。祐巳の心を癒してみせると。
それなのに、自分はまだ何一つ出来ていない。祐巳を救えていないのだ。
このまま世界が塗り替えられるなんて嫌だ。祐巳の事を想う気持ちが失われるなんて嫌だ。
貴女を失うなんて、絶対に嫌――

『今まで勝手なことばかりしてごめんね・・・由乃さん、今まで私何かに付き合ってくれてありがとう』

最後に祐巳の、そんな声が聞こえた気がした。
それを最後に、由乃の意識はテレビの電源を切ったように強制的に閉じられた。















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