3.祐巳と由乃










薔薇の館での喧騒から一日。
少し日の落ちかけた放課後の中庭を由乃は一人歩いていた。

島津由乃は、放課後になるや否や、薔薇の館へ向かおうともせずにただ只管に一人の少女を探していた。
無論、何も考えずに彼女が中庭で人探しをしている訳ではない。
授業が終わると同時に、一年菊組へと向かったのだが、どうやら一年は先に授業を終えていたらしく、
そこに彼女が探している人物、福沢祐巳の姿を確認することが出来なかったのだ。
帰宅したのかと思いつつ、由乃は一年菊組の教室に一人残っていた生徒に祐巳の話を聞くと、
鞄はまだ教室にあるので帰宅はしていないという情報を得ることが出来たのは彼女にとって幸いだった。
その生徒に礼と、自分が教室に来たことは秘密にするようにと念を押して伝え、
一年菊組の教室を後にして、その情報を頼りに、由乃は学園中を探し回っていた。
無論、リリアン女学園は広く、それがかなりの労力を必要とすることは言うまでもないのだが、
今の由乃にはそんなことは少しも気にならなかった。
それどころか、祐巳に会いたいという一念によって少しの疲れも由乃には感じられない。感じる筈も無かった。

会いたい。福沢祐巳に、会いたい。会って話をしてみたい。あの日、私の胸で子供のように泣いていた彼女にもう一度。

由乃がこんなにも誰かの傍にいたいと思ったのは、この学園に来て初めてだった。
その相手が、まともに会話も交わしたことも無い、お互い自己紹介すらしていない下級生だというのに、
よくよく考えれば、おかしな話なのに。今の由乃にはそんなことはどうでも良かった。
そんな『どうして』を考えるよりも、会ったほうが早い。『何故』を考えるよりも、行動した方が早い。
そう考える自分に軽く自嘲する。これはまるで高等部に入学する以前の島津由乃ではないか。
まだ山百合会も、薔薇も知らずに無邪気に無鉄砲で、そして何事にもすぐ熱した島津由乃そのものではないか。
そのような自分は、とうの昔に捨てた筈なのに、今の自分はどうだ。
まるで、明日の遠足を待ちわびる子供のようだ。ただ、胸中から響く心地良い高鳴り。
きっと、彼女なら。福沢祐巳なら、私を見てくれる。それはきっと確かな予感。
今はただ、自分だけの独りよがりな妄想でしかないかもしれないが、きっと――

「あ・・・」

由乃は歩みを止め、目の前のベンチに座っている少女に目を奪われた。
そこには彼女が探していた女性徒――福沢祐巳が座って由乃の方を見つめていた。
由乃は声を発することすら出来なかった。入学式とは、彼女は別物の雰囲気を纏っていたからだ。
入学式の日に結んでいた髪は、今はどちらも結んでおらず、両肩にかかるように真っ直ぐに伸びていた。
由乃から視線を逸らさない彼女に、瞬きすら出来ない。髪型一つでこうもイメージが変わるのか。
否、そうではない。彼女が纏う空気は由乃が知っている彼女とは確実に何かが違っていた。
それは、あの日由乃の胸で泣いていた少女とは明らかに違う――それはまるで、聖マリア様のようで。

「由乃・・・様?」

「え・・・」

「えっと、黄薔薇の蕾、島津由乃様ですよね」

祐巳に声をかけられ、由乃は自分の声帯がちゃんと働いていることをようやく確認出来た。
困惑したような由乃を他所に、祐巳は軽く笑みを浮かべて由乃に再び声をかける。

「初めまして、黄薔薇の蕾。一年菊組三十七番、福沢祐巳です」

「え・・・あ・・・し、知ってる」

突然の祐巳の挨拶に、由乃は困惑が感情を先回りし、つい適当な返事を返してしまった。
このように由乃がうろたえてる姿を晒すのは、恐らく彼女が高校に入学して初めてのことではないだろうか。

「そうですか。では、黄薔薇の蕾、何かご用でしょうか?
 ・・・あ、もしかして私に用ではなくて、ランチに用があったとか・・・」

「・・・ランチ?」

「え・・・あ!い、いえ!何でもないです!」

どこかで聞いたことがあるような名前を言った祐巳は、由乃の追求を振り払うように苦笑を浮かべる。
その時の祐巳の表情は、初めて由乃が彼女に会った時の、
祐巳が泣き止んで恥ずかしそうな表情を浮かべた時のものと似た表情だった。
そのおかげで、由乃は初めて真っ直ぐに祐巳を見ることが出来た。間違いない、この娘があの時の少女だと。

「それで、黄薔薇の蕾・・・」

「由乃」

「・・・え?」

「島津由乃よ。島根の島に津波の津、自由の由に・・・」

「あ!いえ、名前は知ってます!知ってるんです!そうではなくて・・・」

「だったら私のことをちゃんと名前で呼びなさい。
 ・・・初めて会った時のように、ね。髪型があの時と変わってるから別人かと思っちゃったじゃない」

「あ・・・」

由乃の言葉に、祐巳はみるみる顔を真っ赤に変えていく。
恐らく、入学式の時のことを思い出してしまったのだろう。初めて出会った由乃に、急に泣きついてしまったのだから。

「あの時は・・・その・・・お恥ずかしいところをお見せしてしまって・・・」

「フフッ、別に構わないわ。貴女が私に泣きついたからこそ、私は貴女に興味を持ったの。
 言ってしまえば、あのことがなければこうして私達が話すこともなかったかもしれないわ。
 そう考えると、全然恥ずかしいことも何でもないと思わない?」

「えっと、その、それってかなり無理矢理ですね・・・」

「そう?私はそうは思わないけど。どうせならプラスに考えた方が人生楽しいでしょ?
 ・・・フフ、私らしくないわね。こんな風に自分の良い様に物事を考えるの、久々かもしれないわ。
 こんな姿、令ちゃんにでも見られたらきっと驚かれちゃうかもね」

「?由乃様?」

由乃の言っている言葉の意味が判らないと表情に出ている祐巳に、
一言『なんでもないわ』と告げ、由乃は笑みを浮かべて答える。

「ところで祐巳さん、あの時貴女が一人泣いてた理由を聞くのはマナー違反かしら?」

「・・・怖かったんです。世界に私、唯一人取り残されたみたいで・・・誰かに助けて欲しくて。声が、聞きたくて」

由乃の言葉に、祐巳は少し言うのを躊躇ったが、やがて自嘲的な笑みと共に口を開いた。
言っていることの意味は理解できなかったが、
これ以上他人が深入りすべきではないと判断した由乃は軽く首を振って祐巳の言葉を遮った。

「そういえば祐巳さんにもう一つ聞きたいことがあるのだけれど。
 さっき貴女は私に向かって初めましてと言ったわね。それってどういうことかしら?
 入学式で出会った私のことは全く覚えてませんでしたってことかしら?」

「あ・・・い、いえ!違うんです!あの・・・その・・・」

「酷いわね、私はこんなにも貴女に会いたかったというのに。
 貴女にとって私は偶然その辺を歩いて都合良く胸を貸してくれた一人の上級生でしかなかったのかしら?」

意地悪そうな笑みを浮かべる由乃に、祐巳はボソボソと声のトーンをどんどん落としていく。
そして、観念したのか祐巳は小さい声で由乃に向かって話し始めた。

「だって・・・初めて会ったのが、その、泣いてるところだったなんて、恥ずかしいじゃないですか・・・
 それだったら、あの・・・今日を初めましてにして、少しでも格好良い出会いにしたいなあ・・・って」

「・・・・・・フフッ、アハハハハハッ!!!何それ!!アハハハハハッ!!」

「わ、笑わないで下さいよっ!!私は凄く本気だったんですからー!!」

「アハハッ!!ごめん、無理!!祐巳さん、それ面白すぎ!!アハハハハッ!!!」

「も、もぉ〜!!!笑わないでってば!!怒るよ由乃さん!!!」

怒る祐巳もそのままに、由乃は心の底から笑っていた。
楽しかった。今この瞬間まで、由乃がこんな風にこの学園で笑ったことなんて一度も無かったことだ。
面白くない毎日をただ表情を顰めて繰り返す。そんなことの繰り返しだった日々。つまらない日常。
それが今はこんなにも自然に心の底から笑えている。そんな些細なことが由乃には嬉しかった。



だから――



「よ、由乃さん、どうしたの!?何で泣いてるの!?」

「え・・・あ、あれ・・・」

涙が、止まらなかった。
どんなに拭っても拭っても、由乃の瞳から止め処なく涙が溢れ出る。そして彼女の頬を撫でるように伝っていく。

「私・・・何で泣いているんだろ・・・
 悲しくなんかないのに・・・全然悲しくなんか、ないのに・・・」

「由乃さん・・・」

「やだ・・・私、馬鹿みたい・・・これじゃ、私、祐巳さんのこと、笑えない・・・
 やめてよ・・・私、黄薔薇の蕾なんだから・・・こんな風に、泣いちゃ、駄目なんだってば・・・」

祐巳は、由乃が求めていた日常そのものだった。

本当は他の人達のように過ごしたかった。
普通の女学生のように、友達と笑い合い、特別扱いなんかされることなく、毎日を過ごしたかった。
自分が失ったもの。自分が捨てたもの。自分が手に入れられなかったもの。自分が逃げたもの。
手に入らないと決め付け、侮蔑し、見下し、卑下してきた。そんな諦めていたモノ全てを祐巳は由乃に与えてくれた。
こんな些細な会話、詰まらない話をしている今がどんなに心地よいことだろう。どんなに愛おしいことだろう。

「大丈夫だよ、由乃さん。泣いていいから・・・」

「・・・でも、私は・・・」

「黄薔薇の蕾なんか、関係ないよ。由乃さん、さっき自分で言ってたじゃない。
 由乃さんは由乃さん。他の何でもない、島津由乃さんでしょ?薔薇の蕾だから泣いちゃ駄目なんて、おかしいよ。
 泣きたい時には私が傍にいるから。だから、いっぱい泣いていいんだよ。
 辛い時には私がいるから。ちゃんと、私が支えてあげるから。ね?だから、もう無理なんかしないで。
 いっぱい泣いて、その後で沢山笑っていようよ。私、由乃さんの太陽みたいな笑顔、大好きなんだよ」

優しく由乃を抱きしめ、祐巳はそっと由乃の頭を撫でる。それは、入学式に由乃が祐巳にやったことだった。
祐巳の胸の中で、由乃は泣いた。それは学園にきて初めての涙。ずっと表に出すことすら出来なかった、由乃の弱さ。
入学したときから山百合会であることを決められ、周囲に特別扱いされ、誰にも見せられなかった本当の島津由乃。
一人で居続け、閉ざし凍てついてしまっていた由乃の心を、祐巳の声はこんなにも簡単に溶かしていく。
どうして、この少女は、こんなにも簡単に自分の心を暖めてくれるのだろう。どうして、こんなにも。













 ・・・











由乃が泣き止み、落ち着きを取り戻したのは数分の時が過ぎた後のことだった。
だが、それが由乃にとっては永遠にも感じられるほどに長く感じられた。
自分が子供のように癇癪を起こして泣いている姿をずっと見られていたのだから、それも仕方のないことだが。

「さて・・・とんだ醜態を見せちゃったわね・・・どうしたものかしら」

「由乃さん、凄く顔が真っ赤だけど」

「う、うるさいわね!!そういうところは普通見て見ぬ振りをするのが気遣いってもんでしょうが!」

「そんなあ・・・」

声を荒げる由乃に、祐巳はただただ困った表情を浮かべた。
先程まで泣いていたのは何だったのかと思える程の有様に、祐巳は内心喜んではいたのだが。

「まあ・・・この前は貴女が泣いていた訳だし、これでプラスマイナスゼロってことにしておきましょう」

「別に貸し借りだなんて思ってないんだけど・・・」

「もう、さっきから一々突っかかるわねえ。私、こう見えても貴女より年上なのよ?
 リリアンの生徒なら年上である私の事を敬うべきじゃないの?
 さっきから敬語も使わないし、私の事『由乃さん』って呼んでるし・・・私は同級生かっつーの」

「え・・・あああ!!?そういえばっ!?すすす、すいませんでしたっ!!」

突然顔を蒼くして謝る祐巳に、由乃は思わずベンチから立ち上がってしまう程驚きをみせた。
由乃が驚くのは無理もない。それこそ、先程の由乃の顔とは正反対と言える程に祐巳は顔を真っ青にしていたのだ。

「何、もしかして祐巳さん、さっきから自分が敬語使ってないことに気がつかなかったの?」

「え・・・あ・・・あう・・・も、申し訳ありません・・・由乃様・・・お許しを・・・」

ここ、リリアン女学園は上下関係がかなり厳しいことで有名である。
当然、祐巳が上級生である由乃に向かって先程までのような口調で話をするなど問題外であることを付け加えておく。

「フフッ・・・そうねえ、上級生に対してそんな口の聞き方は駄目よね。
 それじゃあ二つ言うコトを聞いてくれるなら、許してあげる」

「ふ、二つもですか!?そ、そんなあ・・・」

「大丈夫、大丈夫。そんな難しいことじゃないから。
 まず一つ。これから私と会話するときはさっきまでと同じように話すこと」

「え・・・それって・・・」

「私の事は由乃さん、敬語も要らないわ。
 あ、ちなみに出来ませんなんて言わせないわよ?貴女、さっきまで私とそうやって自然に会話出来てたんだから」

「で、でも・・・由乃さんは上級生で、黄薔薇の蕾で・・・」

「ストップ。さっき貴女が言ったんでしょうが、私は私、島津由乃だって。・・・あ、最初に言ったのは私だっけ。
 ともかく、上級生だとか薔薇だとかはどうでもいいの。私は貴女と対等でありたいの。
 私がこんな風に話せるのは、学園で貴女が初めてだから・・・だから、お願い」

「・・・うん、分かったよ、由乃さん」

「そう、いい返事ね。それじゃもう一つ」

こほん、と軽く咳払いを一つ。
由乃は数瞬言うのと躊躇ったが、意を決してその言葉は放った。

「・・・私の友達になって下さい。私、祐巳さんの友達になりたい」

顔を真っ赤にした由乃の言葉に、一瞬祐巳は言葉の意味が分からなかったというような表情を浮かべたものの、
由乃のはにかんだ笑顔を見て、祐巳も満面の笑みで返す。そして、由乃の手をそっと両手で包み込んで――

「こちらこそ、私の友達になって下さい。私も、由乃さんの友達になりたい」

同じ台詞を返してくれた少女の笑顔を見て、由乃は自分が思っていたことが間違いではなかったと強く確信した。
この娘なら、私の心を埋めてくれる。・・・いいえ、私の心を暖めてくれる。手を取り合って、一緒に笑ってくれる。
他の誰でもない、福沢祐巳ならば、と。











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