11.紅薔薇の蕾の妹、黄薔薇の蕾の妹










「ちょっと乃梨子ちゃん、待ちなさ・・・っ!?」

部屋を出た乃梨子を追って、扉の向こうに飛び出した由乃が見たのはその場に立ち尽くした祐巳の姿だった。
乃梨子はというと、祐巳の真横を通り過ぎ、真っ直ぐにそのまま駆け出して行った。
遠ざかって行く乃梨子の背中を、祐巳は振り返ろうともしない。そのことに気付き、由乃は慌てて祐巳に声を発した。

「祐巳さんっ、乃梨子ちゃんが・・・」

「・・・いいよ」

「・・・へ?」

「追わなくていいよ。乃梨子ちゃん、帰ったんでしょう?」

由乃と視線を合わせることも無く、祐巳はそのまま部屋の中へと歩いていった。
祐巳の言葉に困惑した由乃は、自分の隣を通り過ぎようとする祐巳の肩を掴んだ。

「ちょ、ちょっと祐巳さん!?このままで良い訳ないでしょう!?
 乃梨子ちゃんの様子、ちょっと尋常じゃなかったわよ!?もしかしたら、私が何がいけないこと言っちゃったのかも・・・」

「・・・由乃さんは悪くないよ。何となく、いつかはこうなる気がしてたし」

困ったね、と苦笑する祐巳に由乃はますます訳が分からなくなった。
一体何が起こったのか、今回の件で常に枠の外に居た由乃にはこの時点では当然理解出来る筈もなかったのだが。
















 ・・・

















「成る程ね・・・そういうこと」

祐巳から全ての話を聞き終え、由乃は軽く溜息をついた。
これまでの乃梨子との事、どのように接してきたか、そして自分との会話。
その全てから、由乃は今回の件の原因をようやく見つけ出すことが出来た。そして、そのことに強く呆れていた。
そして内心、久々にかなり苛立っていた。自分の目の前で苦笑を浮かべている友人に対して。

「はっきり言うわ。今回の件、全面的に祐巳さんが悪いわね。
 という訳で今から乃梨子ちゃんにさっさと謝ってきなさい。ほら早く」

「いきなり滅茶苦茶言わないでよ・・・というか、どうして私が悪いことになるの。
 そもそも、乃梨子ちゃんをあんな風にしたのは他ならぬ由乃さんじゃない。一体何をしたの」

「何って、少し話をしてただけよ。祐巳さんが好きなら、志摩子さんに勝たないといけないわねって。
 確かに切欠は私かもしれない。それは謝るわ。だけど、今回の問題を引き起こした最大の原因は祐巳さんでしょう」

ビシッと指摘する由乃に、祐巳は視線を合わせずそっと一人息を吐いた。
――そんな事は言われずとも分かっている。分かっているだけに、祐巳は何も言えなかった。
そんな祐巳の仕草に更に苛立ったのか、由乃は遠慮なく言葉を続ける。

「どうして乃梨子ちゃんに志摩子さんの存在を・・・ううん、私達の事を言っておかなかったのよ。
 そんな風に言われちゃ、誰だって祐巳さんは自分の事だけが好きなんだって思うに決まってるじゃない。
 それとも何、祐巳さんはもしかして志摩子さんに隠れて乃梨子ちゃんに乗り換えるつもりだった訳?」

「ッ・・・由乃さん、冗談でもそんなこと言わないで。そんなつもりが無いことくらい、由乃さんなら分かるでしょ」

「分からないから言ってるのよ。そもそも、さっきも話したけど、乃梨子ちゃんは志摩子さんと知り合いだったのよ?
 それどころか、志摩子さんは乃梨子ちゃんに協力すらしてるの。それこそ、心から信頼した相手よ。
 その人が、自分の想い人と恋人同士だったなんて悪夢以外の何物でもないじゃない」

由乃の言葉に、祐巳は口を閉ざした。
乃梨子と志摩子がそんな関係だったことは、祐巳は全く知らなかったことだ。
だからこそ、この結果は乃梨子にとって最悪以外の何物でもないことくらい、祐巳には分かっていた。

「だから、今ならまだ間に合うでしょう。早く乃梨子ちゃんを追いかけなさい」

「嫌だってば。それに、乃梨子ちゃんなら明日またここで待っていれば会えるじゃない」

「・・・祐巳さん、貴女本当にそう思ってるの?
 乃梨子ちゃんがまた祐巳さんに会いに来ると、本気で思ってるの?」

そんなの分かっている。きっともう、乃梨子ちゃんはこの場所には来ない。もう二度と、この場所には。
再び口を堅く閉ざした祐巳に、由乃は『ああもう』と声を荒げて言葉を続ける。

「正直言って、今回の件に関して祐巳さんは全てが中途半端よ。
 乃梨子ちゃんに手を出してるかと思えば、肝心のところは触れずにこんな檻に閉じ込めてる。
 相手を好きにさせるだけさせて、後はただ甘いモノを与え続けるだけ。本当の意味で乃梨子ちゃんに触れていない。
 こんな事、私の知ってる限り今までなかったわ。祐巳さんは一体何を怖がっているのよ」

その言葉に、祐巳の動悸が大きく跳ね上がった。
怯えている。私が。何に。――そんなものは分かっている。だけど、認める訳にはいかない。
認めてしまうと、私そのものが壊れてしまうから。『福沢祐巳』という、存在そのものが。

「別に何も怖がってないよ。ただ、今回は手法を変えて女の子を陥としてみようと思っただけ」

「その割には陥としきれなかったわね。
 不思議な話ね。私の知っている祐巳さんなら下級生の一人や二人、陥とすことくらい容易にやってみせる筈だけど。
 ・・・中等部の頃、幾人もの女の子を手中に収めた福沢祐巳も落ちたものね。
 たった一人の女の子相手に、そんな風に今にも泣きそうな顔をしちゃって」

「・・・そろそろ本当に止めて。いくら由乃さんでも、これ以上は許さないよ」

祐巳の言葉に、由乃は嗤う。それがまた大きく祐巳の苛立ちを増幅させた。
そして、由乃は止めと言わんばかりに口を開いた。

「それはこっちの台詞よ。いい加減にしなさいよ臆病者。
 さっきからずっとウジウジしちゃって・・・ハッキリ言って、今の貴女は誰よりも格好悪いのよ」

それが限界だった。祐巳は立ち上がり、由乃の制服を鷲掴みにして全力で引き寄せる。
小さい頃から武道を習っていた祐巳に、由乃が力で敵うはずも無く、由乃は引っ張られるがままにその場に押し倒される。
倒れた由乃に馬乗りになったままで、祐巳は由乃を殺しかねない程の憎悪を込めて睨みつけた。

「・・・何よ。少しはマシな表情が出来るんじゃない。
 怖いわね。祐巳さんのそんな視線、久々に見たわ。
 あの時と同じ、志摩子さんや祥子様以外の人間をモノとしか思っていないような、そんな視線だわ」

狂気を含んだ視線を向ける祐巳に、由乃はにべも無く言い放った。
そんな由乃の態度に、祐巳はとうとう押さえ切れなかった感情を爆発させた。

「散々好き放題言ってくれちゃって・・・何よそれ。
 その言葉、その態度、その視線。その何もかもが気に食わない。
 自分が特別だとでも思ってるの?私が友達だからって・・・何も出来ないとでも思ってるの?
 私は今すぐにでも由乃さんを滅茶苦茶にすることが出来るんだよ?それこそ貴女をこの場で壊す事だって・・・」

「やってみなさいよ。出来るものならね」

ハッキリと言い放つ由乃に、祐巳は制服を掴んだ手の力を緩めてしまう。
祐巳の動揺に気付いてる由乃は、笑うように言葉を続ける。

「気に食わないですって?・・・さっきからそれはこっちの台詞なのよ。
 何やってるのよ、たかが乃梨子ちゃん一人に振り回されて、こんな風に八つ当たりしか出来ないで・・・
 私はこんな格好悪い女に惚れたんじゃないわ!人を馬鹿にするものいい加減にしてよ!」

由乃の言葉に、祐巳の瞳にいつもの光が戻る。
そして現れた表情は困惑。どうしていいか分からないといった表情だ。
だが、由乃は言葉を止めようとしない。祐巳の制服の胸元を掴み、逆に祐巳を自分の顔の近くまで引き寄せた。

「私の好きな祐巳さんは迷わないわ!乃梨子ちゃんを欲しいと思ったら、こんな風に怯えたりなんかしない!
 それこそ、自分が欲しいと思ったモノはどんな手を使っても自分のモノにした筈よ!
 ただ真っ直ぐに、どこまでも自分の気持ちに正直に走り続けた!そんな祐巳さんだから私は好きになったのに・・・」

「由乃さん・・・」

その感情は一体なんだったのだろう。
それこそきっと、ただの八つ当たりなのかもしれない。自分がただ勝手に怒ってるだけ。それを否定することは出来ない。
ただ、押さえ切れなかった。胸に溜まっていた感情を、塞き止めることなど出来なかった。
この少女の、そんな泣きそうな顔なんて見たくなかった。この少女には、いつでも笑っていて欲しかった。
常に自由気ままに、常に自信に溢れて。可愛い女の子がいたら、どんな手を使っても自分のモノにしようとして。
そんな彼女の姿勢に呆れながらも、憧れていた。どこまでも真っ直ぐで、自分に正直な彼女の生き方が羨ましかった。
常に自分の作った檻の中で生きていた由乃にとって、彼女は希望だった。彼女と一緒なら、どんな自分にもなれると。
だから、だからこそ――

「お願いだから・・・お願いだからこれ以上失望させないでよ・・・
 私の大好きな祐巳さんは、誰よりも・・・世界中の誰よりも格好良い女の子なんだから・・・」

涙が止まらなかった。悔しくて、悔しくて仕方が無かったから。
嫌になる。苦しんでる祐巳さんに、こんな言葉しかかけられない不恰好な自分が。
嫌になる。志摩子さんのように優しく包み込んであげることも出来ず、
自分の言葉ばかりしか押し付けることしか出来ない自分自身が。キツイ言葉しか与えられない自分自身が。
だけど、そんなことは些細なことで。きっと自分が何よりも嫌だったのは、そんなことなんかじゃなくて。
――瞬間、渇いた音が室内に響き渡った。
それは勿論、由乃が祐巳に打たれた訳などでは決して無くて。祐巳が自らの両頬を己が両掌で打ちつけたのだ。

「祐巳さん・・・?」

「痛いね・・・凄く痛い。
 でもね、頬の痛みなんかはどうでも良い。そう思えるくらいに心が痛いよ・・・」

見上げた祐巳の表情は、先ほどのような狂気はもう一切感じることは無かった。
そこにあるのはいつもの祐巳で。常に飄々として、由乃の傍で笑っている破天荒な少女の姿。

「でもね・・・きっと、由乃さんの心の痛みはこんなものじゃないよね。
 そして、乃梨子ちゃんの心の傷はきっと言葉にも表せないくらい酷かったんだろうね・・・凄く、痛かったんだろうね。
 私の弱さが、私の半端な態度が、大切な親友を・・・大切な後輩を傷つけちゃったね」

「祐巳さん・・・」

祐巳は苦笑を浮かべながら、額を由乃の胸へと埋める。
そして両瞳をそっと閉じ、懺悔をするかのように呟いた。

「らしくなかったよね・・・こんなの、全然らしくない。こんなの、全然『福沢祐巳』らしくない」

――思い出せ。自分はこんなにも無様だったか。こんなにも臆病な人間だったか。
志摩子さんと恋人になった時、自分はこんな福沢祐巳だったか。
祥子様と姉妹になった時、自分はこんな福沢祐巳だったか。
中等部の頃から今の今まで歩んできた福沢祐巳という道は、決してこんな軟なモノではなかった筈だ。
らしくない。全然らしくない。こんな風に大切な人を傷つけて、未だウジウジとしているなんて福沢祐巳たりえない。
由乃さんを傷つけて。乃梨子ちゃんを傷つけて。そのまま終わりだなんてそんなことは許されない。自分自身が許せない。
乃梨子ちゃんに心惹かれたなら思いだせ。好きになった女の子に今まで自分はどうやって接してきた。
いつか来る別れを怖がって、こんな風に遠くから眺めるだけだったか。甘い餌を延々と与えるだけだったのか。
好きならば、心に素直に従えば良い。好きならば、本能のままに求めれば良い。
理屈など要らない。理由など要らない。ただ、自分の気持ちをそのまま乃梨子ちゃんにぶつければ良いだけだったのだ。
思い出せ、自分の本当の在り方を。何事にも縛られず、己が心に常に殉ずる事。それこそが――

「――それが、福沢祐巳だった筈だもんね。
 他人の事なんかお構いなし。自分の生きたい様に生きること。それが私、福沢祐巳だもん」

顔を上げ、祐巳は由乃に微笑みながら告げた。
その笑顔を見て、由乃は涙を拭いてつられるように笑顔を浮かべた。
そうだ。自分は嫌だったのだ。この自信に溢れた笑顔の輝きが失われることが何よりも。
彼女は常に笑っていて欲しかった。泣いてるなんて祐巳さんらしくない。この笑顔が消えること、それが何より嫌だったのだから。

「何よ・・・そんな顔が出来るなら最初からちゃんとそうしてなさいよね。
 泣いてる私が馬鹿みたいじゃない」

「ふふっ、ゴメンね由乃さん。本当にゴメンね・・・おかげでやっと目が覚めたよ」

「謝る相手は私じゃないでしょ。
 全くもう・・・これで乃梨子ちゃんを薔薇の館に連れてこなかったら本当に酷いからね」

「勿論。私、こう見えても狙った獲物は逃したことないんだよ?」

それは以前の祐巳の口癖だった言葉。
まだ、祐巳が山百合会に来たばかりの頃によく言っていたが、最近は全然聞くことが出来無かった言葉。
それはかつての自分を取り戻した証。別れの辛さの意味を知る前の、獲物を求めて常に牙を磨いていた頃の姿。

「だったら早く追いかけなさいよ。まあ・・・もっとも乃梨子ちゃんはもう帰宅していると思うけどね」

「大丈夫。多分、まだ学園内にいる筈だから」

「どうしてそう思うのよ」

「ん〜・・・女の勘?」

「狩猟者の勘の間違いでしょ」

違いないと祐巳はコロコロと笑いながら、由乃の上から身体を引いて立ち上がった。
そして、由乃に手を差し出して立ち上がらせる。床からようやく開放され、由乃は軽くスカートを手で払った。

「クリーニング代、請求しないことに感謝してよね」

「請求しても良いよ?お代はちゃんと利子をつけて身体で返すから。
 何なら今日から由乃さんの事ご主人様って呼んでもいいよ?」

「そんなのいらないわよ、ばか」

くすぐったくなる様な会話を応酬して、二人は微笑みあう。
そして、祐巳は由乃に背を向けて扉に手をかけた。

「いってらっしゃい。もし振られちゃってもちゃんと骨は拾ってあげるからね。
 頑張りなさい、『紅薔薇の蕾の妹』」

「冗談。私が女の子に振られるように思う?
 マリア祭明けには乃梨子ちゃんを薔薇の館に連れて行くから歓迎の準備をしててよ、『黄薔薇の蕾の妹』」

互いに以前の呼び名を言い合って、笑いあう。それは二人だけが楽しめる言葉のやり取り。
最後まで冗談を交わして、祐巳は廊下を駆けていった。
部屋に残った由乃は、祐巳の出て行った扉を見つめながら軽く溜息をついた。

「・・・本当に馬鹿ね。無理してるの、バレバレなのよ」

きっと、この場はこれで上手くいくだろう。だが、根本的な解決にはなりはしない。
何故なら自分は祐巳の心の傷の原因が未だに分からないのだから。祐巳は一体、何に怯えていたというのか。
その傷を根本から癒してあげられるのはきっと自分では役者不足。それを出来るのは、きっともう一人の親友だけ。

「分かっていたことだけど・・・やっぱり少し悔しいわね」

もし、あの娘より先に祐巳さんに出会っていたら私は――そこまで考えて、由乃は下らないとばかりに笑った。
そんなIFに意味などありはしない。きっと、何時出会ったとしても、祐巳さんはあの娘を・・・志摩子さんを選んだだろうから。
だけど今くらいは。今、この瞬間くらいは大切なもう一人の親友に少しだけ嫉妬してもいいだろう。

「・・・そういえば、結局祐巳さんにプリント渡すの忘れちゃったじゃない」

微笑みながらそう呟き、由乃はソファーの上に寝転んだ。
今はそんなプリントの事よりも、祐巳さんと乃梨子ちゃんが上手くいく事を祈ってあげよう。
二人が姉妹になるのか、そんなことは最早どうでもいい。今はただ、二人が笑って一緒に居る姿だけが見たかった。
そうして、乃梨子ちゃんに嫉妬している志摩子さんを私が茶化すのだ。ああ、きっとそれはそれで面白い光景だろう。
そんなことを考えながら、由乃はそっと瞳を閉じた。今は少しだけ、眠ることにしよう。
この後祥子様の所に戻ったとき、泣いていたことがばれない様に居眠りしてたと言い訳をする為に。












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