7.変わる世界、広がる世界










――不意打ちだった。
既に太陽が赤く染まり、夕日が差し込む閑散とした昇降口で、
乃梨子は下靴に履き替えながらも、頭の中は先ほどの『コト』で恐ろしいほどに掻き回されていた。
いつものように外面上こそ冷静な彼女だが、よくよく観察してみれば顔が恐ろしいくらいに真っ赤に染まっている。
その理由は学園を染め上げる夕焼けのせいなどではなく、先ほど別れたばかりの少女、福沢祐巳に理由があった。






『鍵閉めるけど、忘れ物とかは無い?』

『はい』と答える乃梨子を見て、祐巳は部屋に鍵をかける。
日も暮れ始め、そろそろ乃梨子も帰宅しなければいけない時間となった為、二人は部屋から出たのだ。

『私はこれから用事があるけど、乃梨子ちゃんはそのまま帰宅?』

『はい。私は部活に入っている訳ではないですから・・・』

だから、このまま帰る。祐巳と別れる。そのことが乃梨子は少し寂しかった。
祐巳と別れることに寂しさを感じた乃梨子の胸のウチを見透かしたのか、
祐巳は乃梨子の頭を優しく撫でながら優しく微笑んだ。

『ちゃんと放課後、この場所で貴女を待ってるから。乃梨子ちゃんがこの場所に来るのをね。
 だからそんな捨てられそうな子犬みたいな顔しないの。本当、我慢出来なくなっちゃうじゃない。
 もう、ここが学園じゃなかったら乃梨子ちゃん危なかったよ?』

『えっと・・・よく分からないのですが、祐巳さんにまた明日会えるということですよね』

『そういうこと。言ったでしょ?私は乃梨子ちゃんが気に入ったって。好きになっちゃったって。
 乃梨子ちゃん望むなら明日でも、明後日でも、いつだってここに居るよ。
 乃梨子ちゃんが望むなら、いつでも乃梨子ちゃんを受け止めてあげる』

祐巳の言葉が乃梨子の胸を温かくする。
そうだ。これで二度と逢えないわけじゃない。もう自分は触れたのだ。彼女、福沢祐巳に。
会おうと思えばいつでも会える。だから、大丈夫。だから、悲しむことなんて無い。
だから、伝えよう。ちゃんと言葉にして目の前の少女に。自分を受け入れてくれた少女に、感謝を。

『ありがとう・・・私、祐巳さんに出会えて本当に良かった』

『あはは、それはまだ早いよ乃梨子ちゃん。私が乃梨子ちゃんに何かをしてあげるのはこれからだもん。
 そうだね・・・その言葉は私がこの学校を卒業するときまでとっておいてよ』

『うん・・・でも、今でもそう思ってるから、だから』

乃梨子の言葉に『大袈裟だよ』と苦笑する祐巳だが、何か思いついたのか楽しそうに微笑を浮かべる。
付き合いの浅い乃梨子には気付けなかったが、もしこの場に由乃でもいたらこう言うだろう。
『祐巳さんのあの微笑みは、絶対何か良からぬコトを思いついた時の微笑だ』と。

『そうだね・・・まあ、感謝の前料金ぐらいは貰ってもバチは当たらないよね。
 乃梨子ちゃん、ちょっと良い?少しだけ耳貸してくれる』

『え?あ、はい』

おいでおいでと手招きする祐巳に誘われるままに、乃梨子は何の疑いも無く祐巳の顔に耳を近づける。
その刹那、乃梨子の首に突然不可思議な荷重が襲い掛かった。
自分の意思ではなく、無理矢理外力によって首が90度回転させられたのだ。
一体何が、そのような思考に至った時には、既に目の前に祐巳の子悪魔のような微笑があった。
そして、ゆっくりと乃梨子と祐巳の距離がゼロへと縮まっていく。その現状を乃梨子は全く把握出来ていない。
また、この現状を理解出来るほど乃梨子の頭には解答の断片が存在していないのだ。
何だこの状況は。今は一体何が起こっている。祐巳さんは一体何をしている。自分は一体何をされている。
そう、女同士のキスなど乃梨子にとっては考えにすら及ばないことだった。同性同士でキスなど――

『んぅ・・・!?』

乃梨子の思考の全ては、祐巳の唇によって全て蕩けさせられた。
それは彼女が今まで一度として味わったことの無い感覚だった。祐巳の唇の柔らかさが、彼女の全身を伝っていく。
絶対に抗えない強制的な外力、それを脳に直接打ち込まれたような、そんな錯覚。
最早乃梨子は抵抗するということすら忘れてしまっていた。
キスという行為が乃梨子にとって初めてだったからなのか、同性同士による背徳感からくるものかは分からない。
ただ祐巳とのキスは乃梨子の身体の力を全て奪っていった。最早一人で立つ事すら叶わないほどに。
奪う側と奪われる側。搾取する側とされる側。もしかしたら、その表現こそが今の二人に一番似つかわしいのかもしれない。
身体に力が入らず、その場に腰を落としそうになる乃梨子を祐巳は良しとしない。
乃梨子の身体を抱きとめ、更に深く口付けを交わす。それはどこまでも貪欲に、どこまでも強欲に。
唇が重なってから一体どれほどの時間が経ったのだろう。一秒、一分、それとも一時間。
ぐちゃぐちゃに掻き回された乃梨子の思考では、最早その確認すらおぼつかない。
気付いた時には、祐巳が乃梨子からそっと唇を離していた。

『あ・・・』

祐巳という身体の支えを失い、乃梨子は力無くその場に腰を落とした。
脳は焼け付いたように痺れ、顔はどこまでも熱を帯びていて。そして身体には力が少しも入らない。
彼女が出来るのはただ呆然と眺めること。乃梨子の目の前で妖艶に笑い、唇を舌で舐めている少女の姿を。

『ふふ、ご馳走様でした。初めての相手は久しぶりだから、ちょっと力加減間違っちゃったかも。
 それじゃ乃梨子ちゃん、明日を楽しみにしてるよ。また明日、乃梨子ちゃんがこんな私と会ってくれることを、ね』

右手の人差し指を軽く舐め、祐巳は楽しそうに微笑みを浮かべてその場から去っていった。
残された乃梨子が自分一人で立ち上がれるようになったのは、それから数分経ってからのことだった。








先ほどの光景を思い出し、乃梨子は己の思考を振り払うように力強く首を振る。

「落ち着け・・・落ち着け二条乃梨子・・・冷静に、冷静に」

必死に自分自身に言い聞かせながら、乃梨子は先ほどの出来事を振り返る。
先ほど、祐巳からされた接吻。あれは一体何だというのだ。どうして同性である自分相手にキスをする。

『だって、乃梨子ちゃんは可愛いんだよ?私は乃梨子ちゃんの事好きになっちゃったんだよ?
 だったらキスする流れじゃないかな』

「・・・ッ!!」

好きになった。確かに彼女はそう言った。部室内でそのようなことを言っていた。
だがあの会話はあくまで冗談の一環で。自分をからかう為の一つで。
だがもしも、もしも自惚れとは分かっていても彼女の言っている言葉が全て真実だと考えたならば。

「うあ・・・」

己の顔がどんどん熱くなっていくのがどうしようもないほどに分かってしまった。
それはつまり、祐巳さんは本当に『二条乃梨子が好き』だと言っていた訳で。だから当然キスもした訳で。
つまり、彼女は自分を求めてくれている訳で。自分の事を本当の意味で好きだと言ってくれた訳で。

「いやいやいやいやいや!!おかしいよ!?だって私、女だよ!?祐巳さんも女だよ!?
 ていうか何で私こんなにドキドキしてるの!?おかしいよこれ!!」

顔を真っ赤にして乃梨子はガンガンと見知らぬ他人の靴箱を叩く。
独り言を叫びながら、乃梨子の取った行動は本当に異様なものだった。それはもう、色んな意味で。
もしこの光景が他の人間に見られていたら乃梨子は本気で可哀想な人扱いされたかもしれない。
そんなことを気にする余裕も、今の乃梨子には微塵も無かった。それも仕方ないのかもしれないが。

「いやでも、あれだよね。同性同士のキスはノーカウントだよ・・・ファ、ファーストキスにはならないよね。
 あれは欧米的なスキンシップっていうか、なんていうか、そういうのっていうか・・・」

では先ほどのキスに何も感じなかったのか、そう問えば何も言えなくなる。
抵抗だって出来たはずだ。拒絶する事だって出来た筈だ。なのに自分は受け入れた。
抵抗することも無く、祐巳さんの唇を受け入れた。それどころか、そのことに喜びすら感じているではないか。
そうだ。驚き以外の感情を表すなら嬉しさだ。自分は祐巳さんにされたことに少なからず嬉しさを感じているのだ。

「変だよ・・・何これ、私変だよ・・・女同士なのに」

混濁したままの頭と鼓動が止まらない胸を抱えながら、乃梨子は昇降口を後にする。
祐巳がどうしてキスをしたのか、それを考えれば考えるほど乃梨子の思考は深みに嵌まっていく。
何故、喜んでいる。同性に、祐巳さんにキスをされて自分はどうして。どうして――

『?それっておかしなことかしら?』

「あ・・・」

乃梨子の脳裏に蘇った言葉。それは、あの桜の木の下で出会ったもう一人のマリア様の言葉だった。
それを皮切りに、乃梨子の中で何かが小さく弾けたようにあの時の会話が思い出されていく。

『いや、おかしいですよどう考えても。
 ですからさっきも言ったように私は一度しかその人に会ったことがないのに好きだなんて・・・
 そもそも私はただその人にもう一度会いたいと思ってるだけで・・・』

『その方と一度お会いしたのよね?』

『はい・・・』

『話もしたのよね?』

『はあ・・・』

『その方にまた会いたいとずっと思っていたのよね?』

『えっと、はい・・・』

『・・・?つまり乃梨子さんはその方の事が好きだということではないのかしら?』

――そうだ。あの人は、志摩子さんは私にそう言っていた。
優しく笑って、私にそんなことを言ってくれた。つまり私は恋をしているのか。
たったニ度しか会っていないあの人に、だけど私の居場所になってくれると言ってくれたあの人に。

『人を好きになるのに会った回数なんて問題ではないと思うわ。少なくとも私はそうだったもの』

「あ・・・」

乃梨子はふと足を止めた。
視線の先、校門の近くで二人の少女が下校している姿が見えた。
一人は志摩子。そしてもう一人は黒髪を三つ編みに束ねている少女。――確か、黄薔薇の蕾だろうか。
先ほど山百合会の活動を終えたのだろうか、二人は楽しそうに会話しながら校門を潜り抜けていた。
その二人を見て、乃梨子は志摩子の言葉を再び思い出す。

『ええ。昨日、お話したと思うけれど私に大切なコトを教えてくれた人、その人が私の好きな人よ。
 その人がいてくれたから、今の私が存在するの。とても大切で、誰よりも大好きな人』

乃梨子は視線を上げ、再び二人の姿を視界に納めた。
笑いあっている二人はとても綺麗で。志摩子さんのあの笑顔は、自分が憧れた笑顔で。

「そっか・・・あの人が、きっと志摩子さんの・・・」

微笑む志摩子を見て、乃梨子は知らずのウチに拳に力を込めた。
志摩子さんは、きっと乗り越えた。自分と同じ想いを乗り越えて、あの人と一緒にいるんだ。
だからこそああやって綺麗に笑えるんだ。ああなりたいと願った、ああ在りたいと感じた志摩子さんの笑顔。
きっと、自分が悩んでいる地点など何の問題では無いのだろう。
この感情の答えが分かっているくせに、解答用紙に答えを記入することを怖がっているだけなのだから。
前回は志摩子さんが背中を押してくれた。でも、今回はちゃんと一人で歩き出さないと。ちゃんと自分で伝えないと。
そうじゃないと、きっと駄目だと思うから。そうしないと、きっと祐巳さんに失礼だ。
私の居場所になってくれるといってくれた祐巳さんに、しっかりと自分の気持ちを伝えないと。

思い出せ。どうして自分があんなにも福沢祐巳との再会を渇望したのか。
思い出せ。初めて福沢祐巳に会った時に感じた気持ちを。再会したときに感じた想いを。
ああ、答えなんて最初から出ていたのだ。ただ、自分が目を背け続けただけ。逃げ続けただけだ。
自分が祐巳さんのことをどう想っているかなんて、そんなことは出会った時に目を奪われた瞬間から分かっていたというのに。
志摩子さんと黄薔薇の蕾の関係のように、自分もまた祐巳さんとあんな風に笑っていたい。傍にいたい。祐巳さんの傍に――

「まさか、初恋の相手が同性になるなんて思わなかったなあ・・・私、好きなんだ。祐巳さんの事が」

それは、乃梨子が今まで生きてきた世界ではかなりの禁忌とされているモノ。
乃梨子の心に歯止めをかけ続けたモノの正体。常識の枠内、普通であろうとする心。
それを認めたとき、乃梨子は何故か笑ってしまった。ああ、何と言うことはない。思ったほど辛くない。
初めて好きになった人が、ちょっと変わった女の子だった。ただ、それだけなのだから。
認めてしまえばなんて楽なことか。胸の重りが全て消えてしまったような、軽い浮揚感すらある。

『頑張ってね、乃梨子。きっとその人は、貴女にとってかけがえのない人になる筈だから。
 だから勇気を出して、しっかり一歩目を踏み出すの。そうすれば、そこからきっと世界が変わり始めるわ。
 以前の私と同じように、きっと貴女も』

「・・・志摩子さん。何となくだけど、志摩子さんの言ってたことが分かり始めた気がするよ」

少女の世界は確実に変わりつつある。乃梨子の中で閉じられていた世界が一つ、また一つ。



















 ・・・



















次の日の朝、乃梨子はこの学園において福沢祐巳という存在の大きさを改めて知ることになる。
登校して自分の教室に入った乃梨子を待っていたのは、クラスメイト達の質問の嵐だった。

「乃梨子さん、少しお話があるのだけどいいかしら」

「へ?あ、えっと・・・うん」

席に座っていた乃梨子の元に訪れた三人のクラスメイト達(乃梨子は名前を思い出せなかった)の質問に、
乃梨子は思いっきり目を丸くすることになる。

「昨日、乃梨子さんが二年生の教室に訪れ、紅薔薇の蕾と一緒に何処かへ行ったという噂が流れてるのだけど・・・」

「紅薔薇の蕾・・・ああ、祐巳さんのこと」

「祐巳さん!?」

乃梨子の一言に、教室中が喧騒に包まれる。
一体何が起こったのか全く理解出来ない乃梨子に構うことも無く、三人はヒソヒソと話し合う。

「上級生を『さん』づけでお呼びになるなんて」

「そんなに親密なご関係なの?」

気付けば、その三人どころか教室にいたほとんどの生徒が乃梨子の机を取り囲んでいた。

「あ、あの、ちょっと待って。私には一体何がなんだか・・・」

乃梨子の言葉に、最初に声をかけてきた女性徒が代表して喋り始めた。
何でも山百合会の人間は高等部のみならず、中等部の生徒達からも大変慕われていたらしい。
そして、その中でも一番人気のある紅薔薇の蕾、福沢祐巳と乃梨子が接触したという話を聞けば
誰だって気になって当然だという。その言葉を聞いて、乃梨子は軽く溜息をついた。
祐巳さんが有名だということは知っていたが、まさかこんなにとは。

「福沢祐巳様は、あのような立場にも関わらず、沢山お話をして下さいましたわ。
 それに祐巳様はお優しいですし、何より私達一年生と唯一つながりのある山百合会の方なんですの。
 祐巳様が中等部の頃に、お世話をして頂いた方も何人かいらっしゃいますし」

「それに、部活動の先輩方から祐巳様のお話は沢山伺っていますの。
 私の部活の部長がおっしゃってましたわ。祐巳様は将来のこの学園を担うお方だと」

「私の部活の部長も言ってましたわ。祐巳様はきっと素晴らしい薔薇になると」

私のところも、私もと連鎖反応のようにきゃいきゃいと騒ぎ出す女生徒達に、乃梨子は本気で頭を痛め始めた。
何だこれは。一体これは何の罰ゲームだ。そう思わずにはいられなかった。

「それで乃梨子さん、まさかもう姉妹の契りを結ばれたなんてこと・・・」

「姉妹の契り?」

「もう、ロザリオを頂いてしまわれました!?」

詰め寄る生徒達に乃梨子は思わず気圧されてしまう。
こんな状況は想定外だ。一体彼女達が何を言っているのかサッパリ理解出来ない。
どうしたものかと悩み始めた乃梨子だが、救いの手は思わぬところから降ってきた。

「失礼。乃梨子さん、少々よろしいかしら」

「・・・瞳子さん?」

生徒達の輪を割り込んで、乃梨子の前に立っていたのは松平瞳子。
この学園において、乃梨子が唯一名前をしっかりと覚えている一年生だ。
これまた厄介な人間が来たと溜息をつこうとした乃梨子だが、瞳子の言葉を聞いてそれを止めることになる。

「先生が乃梨子さんを呼んでいますの。何でも手伝ってもらいたいことがあるとか。
 私もお手伝いしますから、一緒に職員室に伺いましょう」

「え、あ、うん」

乃梨子の曖昧な返事を聞いて、瞳子は乃梨子の手を掴んで生徒の輪を乱すように扉へと歩いていった。
それに引っ張られるようにして、現状を理解出来ない乃梨子はただただ瞳子について行くだけだった。
階段を下り、職員室の前に辿り着いても瞳子は足を止めようとはしない。

「え?あれ?瞳子さん、職員室はそこじゃ」

「別に構いませんわよ。先生が呼んでいるなんてただの嘘ですもの。
 乃梨子さんは用も無いのに職員室で過ごしたいのかしら」

「はあっ!?」

笑って言う瞳子に、乃梨子は思わず思いっきり声に出してしまった。
それが面白かったのか、瞳子は我慢することも無く声を漏らして笑っていた。それが乃梨子にはたまらなく悔しかった。
結局、乃梨子が瞳子から解放されたのは誰もいない自販機の前だった。

「イチイチまともに相手をしていては身が持ちませんわよ。ああいう手合は無視するか受け流すに限りますわ。
 貴女、仮にも紅薔薇の蕾の福沢祐巳様の教室に乗り込んだのでしょう。ああなるのは当然ですわ」

「・・・瞳子さんも知ってるの?」

「当たり前でしょう。昨日の放課後には演劇部全員が知ってましたわよ。
 全く、祐巳様の教室で貴女と祐巳様のやりとりを見ていた先輩方が一体何人いたと思ってますの」

そういえば、昨日祐巳さんの教室には沢山の人が残っていた。
その中で、自分は祐巳さんを連れ出したのだから広まって当然と言えば当然か。
むしろ瞳子さんからしてみれば自分の方が何を言っているんだという感じだろう。それに気付き、乃梨子は苦笑を浮かべる。

「そっか、それでかあ・・・あの時、余裕無かったからそんな所まで気が回らなかった」

「全くもう・・・昨日、祐巳様のことや教室は何処かなんて聞いてくるから不思議に思っていれば。
 乃梨子さんはもう少し考えて行動をすべきですわ」

何故か怒ったように言う目の前の少女を、乃梨子は不思議そうな瞳で見つめる。
この少女はこんな女の子だっただろうか。こんな自分と自然な会話をするような、違和感を感じないような。
乃梨子の視線に気付いた瞳子は、不満そうな瞳で乃梨子を見つめ返した。

「・・・何ですの、その目は」

「あ、いや、ごめん。でも、瞳子さんってこんな人だったかなあって思って。
 何か以前と違うような・・・」

「・・・貴女、前から失礼な人だとは思ってましたけど、今のは失礼にも程がありますわよ。
 大体、貴女とクラスで一番話していたのは他ならぬ私でしょう。それなのに私の事を見ていなかったなんて」

ああ、そうか。ひとつの事に気付いて乃梨子は納得したような表情を浮かべた。
彼女の一人称が『瞳子』ではなく『私』になっている。それを皮切りに次々と以前と違う点が見え始める。
彼女はこんなにも身近に感じる表情を見せる人ではなかった。
自分とは違う生き物、そんな感じにすら以前は見えていたのに、今では中学の頃の友達のようにすら見える。
そして彼女が取った先ほどの言動。ああ、つまり瞳子は助けてくれたのだ。
クラスメイト達によってあっぷあっぷしている自分を、この場所まで連れてくることによって。

「それにしても、よりによって福沢祐巳様だなんて・・・薔薇様なら他にも沢山いらっしゃるでしょうに」

「え・・・?あ、いや、別に私は薔薇だとか山百合会だとかの理由で祐巳さんに会いに行った訳じゃないから。
 私は祐巳さんに会いたかったから会いに行っただけで」

「その理由は私にとってはもっと考えられない理由ですわね。
 祐巳様に自分から会いに行きたいだなんて正気の沙汰とは思えませんわ。自殺願望でもおありですの?
 まあ・・・他人の趣味にあれこれ言うつもりはありませんから、これくらいにしておきますけど」

「はあ・・・さいですか」

瞳子の言葉の意味が良く理解出来ないが、彼女の苦虫を噛み潰したような表情から一つだけ分かることがある。
どうやら彼女は他のクラスメイトとは違い、福沢祐巳の事をあまり良く思ってはいないらしい。
だからかもしれない。彼女がこんなにも歯に衣を着せぬ、ありのままの言葉をぶつけてくれるのは。

「瞳子さんは祐巳さんと私のことについて彼是聞かないんだね」

「聞きたいと思いませんもの。
 私はあの方が貴女を妹にしようが何にしようがどうでもいいですし。
 ただまあ・・・私は一応忠告はしましたわよ。薔薇なら他にもいるでしょうに、と」

「瞳子さん、祐巳さんの事嫌いなの?」

「大っっっっ嫌いですわ!!」

イーっとお嬢様らしからぬ表情を見せる瞳子に、乃梨子は思わず笑みを零した。
何だ。結局のところ、自分が見えていなかっただけなのだ。友人はいた。こんなにも身近なところにちゃんと。
自分とは世界が違う訳ではない。ちゃんと同じような表情をする人がここにいるのだから。

「ありがとうね、瞳子さん」

「?何がですの?」

首を捻る瞳子に、乃梨子は笑って告げる。
ああ、確かに私は今、ちゃんと笑うことが出来ているだろう。あの人が私の世界を変えてくれたから。

「私の心配をしてくれたことと、さっき助けてくれたこと」

「なっ・・・べ、別にそんなつもりで私は・・・」

「あははっ、それじゃ教室に戻ろうか、瞳子さん」

「ちょ、ちょっと待ちなさい!貴女、人の話をっ!!」

世界はどんどん広がっていく。
志摩子の言う通り、最初の一歩を踏み出すことが出来た乃梨子の世界がまた一つ。















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